Essay


    世界共通語


それは、びびくんの何気ない言葉からはじまった。
「この世の中、言葉が一つだったら便利だよねぇ。英語なんか、世界共通語にすれば
いいんじゃないかなぁ」と。
「そうだね、便利だよね」と答えれば、何気ない会話になるはずだった。
それなのにあたしは、その話題をケンカ腰で受け止めた。
「絶対にそんなことするべきじゃない!」って。


ケンカ腰になってしまうなんて、自分でもバカみたいだとは思う。
でも、きっと近い将来そんなことを言い出す人が出てきて、実際にそうなってしまうと
思ってるし、またそれがすごくイヤだと思っていたから、やっきになって言い返してし
まったのだ。
それがまた、身近な人の口から出てきたのだから余計に驚いて必死になってしまった。
びびくんったら、なんとなく口にした言葉に噛み付かれて、キョトンとしていたっけ。



私たちの言葉は私たちの文化。
そう言ってもなんだかピンとこないと思うのだけど、日本語というのは日本人の頭の中
が集約されたものだと思う。言葉を失うということは、日本人の考え方を忘れるという
こと。日本人だけしかできない感じ方や考え方を失うということだと信じている。



アメリカ人は、言葉に冠詞や複数形などを使う。
リンゴを一個食べたのか、何個か食べたのかを、Sを付けただけでみんなに教えてしまう。
日本人はリンゴを食べたと言えば、リンゴを食べたこと以上の意味はなくって、どんくら
い食べたかなんて気にしない。敢えて「an apple なのか apples なのか」なんて気に
しない。変な例だけれど、そんな風にちょっとしたことから考え方や感じ方が変わってく
るはずだ。英語は詳しくないので他にどんな違いがあるのか知らないけれど、多分、共
通する表現のほうが少ないのだろうと思う。


「でもそんなに日本の考え方や感じ方、その日本の文化っていうのが大切なのか」
という人もいるだろう。
「失ってはいけないものなのか」と。

すっかり英語を話してしまうようになれば、別に不便はないんじゃないか、むしろ、言葉
が一緒になれば分かり合えるし便利じゃないかと言われるかもしれない。


確かにそうなのかもしれない。あたし自身、いったい日本の何をそんなに大事にしなく
ちゃいけないのかといえば思いつかない。ただ、日本は他と違っていなくちゃいけないと
思っているのだ。日本だけが、と言う意味じゃなくて、それぞれが違っているべきだと思う。
そういう意味で日本語を失ってはいけないと思っている。それに、あたしはこの頃、分か
り合うというのは、同じ価値観や言葉で生活することで生まれるものではないと思ってい
るのだ。
理解するということは、メインの中に取り込まれて、違和感なくすごすということでは生ま
れない。英語が話せるようになって、まるで欧米諸国と同じような生活をおくり、お互いに
違和感なく交わっていくことは、理解というよりも、むしろ口の中に入れられたものを、知
らずに飲み込んでしまったっていうだけにすぎない。


戦後の日本が民主主義をタナボタみたいに手に入れてしまって、実は民主主義がなん
なのかよく訳がわからないまま、何か得した気分になっているみたいなものかもしれな
い。
おっこちてきたボタモチは甘くて美味しかったけど、私たちは、ボタモチを食べてる間に
大切なものをたくさん置いてきたはずだ。でもそれがなんなのかも知らない。


そんな風に、訳もわからず何かをすててしまうこと。多数派に混じっていくと言うのは、
そんなふうなものだと思う。



私たちの世代、その下の世代は、日本を失うことに抵抗が少なくて、あっさり言葉を
捨てると思う。日本があんまりすきじゃないから。


私たちの周りには、生まれた時からヨーロッパやアメリカがたくさんあった。
生まれた時から洋服を着て、外国のキャラクター商品で遊び、大量生産のハンバー
ガーなんかを食べている。そして、その勢いは増す一方だ。
欧米に対しては受け入れ態勢が万全なのだ。

私たちは、英語が話せないけれど、それに対してコンプレックスさえ覚え、英語が話せ
るというだけで、何かその人が偉い人のようにさえ感じてしまう。

しかし、日本語が理解できないことにはあまり思いをかけない。
隣の友人とさえ話ができれば大丈夫なのだ。


私たちは、日本という国に甘やかされて育った世代だ。世界に出てみるとそんなに
偉くも大きくもない日本だけど、物が溢れていて、どんどん便利になっていって、常
に平和だった。
何もしないけれど、お金だけはいつもあるみたいで、大金を世界に流してきた。
そんな国に住み、思いっきり甘やかされながら、なぜか日本はダメだと思っている。
本当はもう、日本が動くためのお金を作り出していて日本そのものになっている世代
なのに、いつまでも子供で「日本はダメじゃん」などと言っている。
そして、ダメなままにしておいている。

甘やかされて育った子供は、親をよくバカにする。そのくせ、何もかも親まかせで、
自分の失敗は親の失敗にするけれども、日本を嫌いな私たちは、まるでその親嫌い
のあまえっ子みたいだ。

いろんなことにナンクセをつけて、世を憂いている私たちは、実は甘やかされてスポ
イルされたオバカさんたちなのかもしれない。



さて、すこし脱線してしまったが、まぁそんなわけで、私たちの世代は英語を共通語
にするといえば「はい」って言ってしまうだろう。
それでも、常日ごろ日本語を話している私たちは、心の中は、まだちゃんと日本で
出来ているはずだ。



こんな世界を考えてみてほしい。

世界がぼんやりになるのだ。
言葉の壁がなくなると、人は移動することに躊躇を覚えなくなる。
いろんな人種がいろんな場所に気軽に出かけるようになる。経済も移動し始める。

言葉が一緒なので、面白いテレビ番組が放送されると、みんなが見るようになる。
そのコマーシャルの商品を買うようになる。
地球の裏側の人と、同じレトルト食品をコンビニで購入したりできるようになる。
やがて、どこに行っても同じ商品しか置いていないようになる。
どこに行っても同じ服が流行るようになる。
国をまたいで引越しをするようなことがあっても、前にすんでいた場所とあんまり変わ
らない風景を見ることになる。
同じ看板、同じ文句でお客さんを迎えるお店が立ち並ぶ街。
そこで、緊張感のないくつろいだ買い物、外食をする。

以前、遺伝子操作による自然淘汰について書いたけれど、この均一な世界で、ある同じ
価値観をもった人たちが遺伝子操作をしたら、より一層均一な世界になっていくだろう。
なんとなく似たような顔だち、なんとなく似たような身体バランスの人が溢れる世界にな
っていく。


同じ場所で育ち、同じ環境と言葉で育った人同士の中で生まれる議論も常識も、ある枠
の中に固定される。
1つの言語が生み出す概念の限界。
そこから外へ飛び出すことはできないのだ。


そんな世界と自分の存在になんとなく閉塞感を感じて、若者は旅に出るかもしれない。
あるものは電車に飛び乗って、またあるものはバイクを飛ばして‥。

でも、世界で見つけるものは近所で見つけるものとそう変わらないだろう。
違うものと言えば、環境によって生息域を制限される植物や動物ぐらいなものだ。

逃げられない、逃がれられない均一な世界が広がっている。

そんな中で、人はぼんやりとすごしていく。
同じ世界で、まるで夢みたいに均一なぼんやりした文化が生まれる。

いや、停滞していく‥。


本来、風土も言葉も文化も違っていて当たり前の世界が、均一なものになる。どこかに
ひずみが生じるが、生まれた時からそんな世界で、それが圧倒的に肯定されている。



ちょっと大げさに書いてみたけれど、言葉を均一にすると言うことは、それぐらい恐ろしく
人類の精神衛生上も、かなりよろしくないと思う。むしろ危険なことだと思うのだ。



世界は、違っていて当たり前。違うことを前提にしないときっとおかしくなってしまう。
私たちは違っていてはじめて、理解しようという気持ちが生まれ、考えはじめる。
同じになってしまうと、全てがナァナァになってぼんやりしてしまうのだ。

違うことは悪いことではなくて、むしろいいことだと思う。
そういう意味で、私たちは日本の文化を失ってはいけないと思うし、日本語を使っていく
ことが大切なのだと思う。それでなくとも、世界の景色は均一化していってるのだから。


違うことを前提に、違うことを尊重し合って生きていく。きっと、そのほうがより分かり合え
るだろう。
そして、違うことを攻撃の対象としてはならない。むしろ、尊重すべきことだと考
えて、違いを殺さないようにして、お互いのことを考えていくのだ。
自分たちの考え方に染めようとは思わずに。


もちろん、それは国レベルでも、個人のレベルでも一緒のことで‥。

さて、冒頭に、びびくんに噛み付いたと書いたけれど、結局あたしはびびくんの考えを
曲げることが出来なかった。やっぱり、世界共通語は必要なんじゃないかなというのだ。
そしてそのメリットが大きいことは認めざるを得ない。



あたしは、いつも考えすぎなんだけれど、今回もそうだろうか。
世界は共通の言語を持って、明るい未来に羽ばたくだろうか。

もし、世界共通語が生まれるのなら、私たちの子孫が、世界共通語を作った先祖を偉大
だと言えるような、そんな世の中になってほしいな。


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