Essay


   「学友消息」

消費が太らせた資本主義はその醜い体の居場所を探し、あらゆるものに
価値を付けてその勢力範囲を広げるのを止めようとしない。

サービス、時間、スペース、そして私達の個人情報までもが価値の付く
代物になっている。

私達がどこに住み、いつ生まれ、どこに勤め、家族が何人で、収入がど
のくらいで‥といったような情報。

価値がつくからには、私達の個人情報が何かを生み出すのに違いない。
その何かを生み出す為に、もちろん情報はあらゆることに利用される。

私達は、私達のプライベ−トな情報が露出して利用される危険性がある
ことを知っている。
しかし、シュレッダーを購入してあらゆる配達物を
読めないように切り刻む一方で、懸賞に応募したり、カラオケやレンタ
ルビデオの会員になるためには自分の情報を惜しげもなく公開する。

ある日、見たことも聞いたことも無い会社から自分宛てに広告が送りつ
けられても首をかしげてお終いだ。

私達は、会ったこともないゴミ漁りの悪者には怯えるけれど、どうか住
所を教えてくださいと正面きって言う人には、疑いも抱かずあっさりと
教えてしまうことが多いのだ。

実は、情報を預けた会社とその従業員全員が良い人かどうかなんて、誰
も知らない。

ただ信じているのだ。きっといい会社、いい人なのだと。きちんと管理
してくれているはずだと。
だからそういう場所で、
「情報を公開したくない。どうしても必要なら、どんな風に情報を保管
 しているのか知らせろ」

などとごねると、
「嫌だわ、あの人面倒を起こしている」
と思われる。
あのローソンでさえ、56万人の個人情報を流出させて世間を賑わせて
いるというのに。


さて、どうしてこんなことを殊更に書き立てているのかというと、私の
抱く悩みへの徹底的な(そして大げさな)自己弁護のためある。
その悩みとは‥。
それは、毎年配られる冊子の名簿に自分の名前を載せて欲しくないなぁ
という思いと、それを上手く担当者に伝えられないというものである。


その冊子というのは、出身学校の研究室が出しているもので、ご大層に
大先生の原稿と卒業者全員の名簿が載っている。これが毎年律儀に出る
ものだから、名簿は毎年更新される。結婚すれば新しい名前で掲載され、
亡くなるとそれも載る。
何年に学校を卒業し、どこに住み、電話番号は
何番で、どこに勤めて‥というのが書いてある。在学者の場合は、出身
高校までお披露目している。
亡くなった方など「ミン●ナオ島で戦死」
とまで書かれ、喪主名とその連絡先までが紹介されている。
一人一人に
番号が付いていて、連絡が取れない場合は尋ね人のように
「ご存知の方はこちらまでご連絡を!」
というページに掲載される。

一体いつから配っている冊子か判らないが、住所を載せて欲しいか否か
聞かれたことなど一度もない。その研究室の扉をくぐったからには、有
無を言わさず掲載されるのだ。


この冊子、毎年出されるからには、毎年去年の冊子をゴミに出す人がいる
に違いない。
ゴミに出してくれるといいけれど、価値に変える人もいるか
もしれない。
同じ学校の卒業生が、全員いい人だなんてどうして言えるの
だろう?
名門早稲田の学生さえもが女がらみでバカな事件を起こしたばかりだ。ど
この学校だろうと、なんだろうと悪い奴は悪い奴なのだ。

だから私は、例え同じ学校の門をくぐったとしても、私の知らない誰かに
無条件に情報を公開たくないと思っている。


実際のところ、卒業したての頃は、私はこの冊子を見るのが楽しかった。

憧れ(嘘)の先輩の消息を探したり、後輩の就職戦線に涙し(大げさ)、
同級生のその後を追った。名簿を最初からズラリと目で追うことが、なん
となく学校の歴史を追うようで楽しかった。
決して迷惑じゃなかった。
引越したらすぐに研究室宛てに移転先を知らせ、勤めたら勤め先も知らせ
た。
今も届くとついつい目を走らせる。一緒のキャンパスを歩いた友の消
息を目で追う。

でも、今さら遅いけれど、善意の視点だけを持つのは利口では無いと知っ
たのだ。


国が私達全員に番号を付けてしばらく経つ。しかし、その管理体制がかな
り悪いことを私達は知っている。番号で一元管理された情報は、一元管理
の便利さ故に、一度扉を開いた者には際限ない情報を与え続けるだろう。

扉を開けるキーは、きっとどこかでうっかり公表した情報である。

私達の情報が危機にさらされているという暗黙の了解みたいなものがあっ
て、家庭用のシュレッダーが良く売れるようになったのはもう随分前だ。

皆判っている。皆、危険性は知っているのだ。
女子高生が卒業するや否や卒業アルバムをお金に換えることを。
メールマガジンに登録すると、それがお金と引き換えにたくさんの広告メ
ールになって戻ってくるということを。

打ち捨てられた名簿ばかりを売る業者がいるということを。
そんな中、まだ、私は堂々と
「皆に配る名簿に、私の分は載せないで下さい」
と言い出せずにいる。

それは、私が無意識のうちに向けた「同窓生への疑いの眼」に起因する罪
悪感のせいである。

「住所載せたくなぁい」と思う一方で「疑ってごめんね。そういうつもり
じゃないの。ごめんごめん。」などと謝ってしまうのだ。


冒頭で、
  「情報を公開したくない。どうしても必要なら、どんな風に情報を保管
  しているのか知らせろ」

  などとごねると、
  「嫌だ、あの人面倒を起こしている」
  と思われる。
と書いた。情報を公開したくないというのは、この世の中では当然の意見
であるにもかかわらず、何故「面倒を‥」という目で見られるかというと、
「疑いの眼」を持つ人を良く思わない良識のせいなのだ。


訳もなく人を疑うのは決して誉められたことではないし、誰も人を疑いた
くない。でも、私達の社会は、管理が整っていない一方で、犯罪に無縁の
国ではない。無条件に安全を信じることができない、そんな状況にある。

更に危険性を押し上げているのは「人を疑うのは良くないよ」という良識
と、「自分は大丈夫」という根拠のない信念である。


最近、私の住むマンションに2回泥棒が入った。泥棒は一度未遂に終わっ
た部屋にもう一度トライして、2回目に成功した(つまり盗んだ)のだ。

一度目未遂に終わった後、その部屋の人は何も手を講じてなかったのだろ
う。危険は知っていたけれど、また来るなんて思わなかったのだ。

「もう来ないだろう」というのは、どこから来たのでもない、自分で捏造
した安心だったのだ。

その部屋と私の部屋は直線距離で10mほどしか離れていない。
被害に合ったのが私ではなかったということも偶然に過ぎない。


私達は善意の視点を持っている。
無条件に人を信じられる心。

人を哀れむことができ、人を信じることができる。
悪い人も根っから悪いわけじゃないよ、などと思ったりする。
でも、検挙率の高い、安全で犯罪の少ない日本は、既に過去の物になって
いる。
疑うための悪意の視点を持つことは、知恵であり、身を守る術なの
だ。


それにしても、私は今もまだ迷っている。
自分の気持ちを正当化するエッセーを書きながらも、まだ迷っている。
名簿に名前を載せたくないのですがとは言えないままだ。
資源のことを考えても毎年冊子を送りつけるのはめちゃくちゃ紙がもった
いないし、大先生たちの原稿はネット上に公開して、冊子は希望した人だ
けに送ってみては?とも言えない。

あなたの住所を載せますかとアンケートを採ってみては?とも言ってない。
疑いの眼を持つ自分を恥ずかしいと思う一方で、大学という機関に身を置
く人々が、そんなことに心を配ることもできずにいるかと逆恨みのように
思うこともある。

印刷屋さんが困るかな‥とも。

案外、悪意と疑いの視点を持つというのは難しいものだし、評価されない
ものなのだ。



きっと今年も冊子を受け取って、去年の名簿を「めんどくさいよぅ」など
と思いながらシュレッダーにかけるのだろう。
どうか私が思うより悪い人の数が少なくありますように‥。