Essay


   「脱力系」

江戸時代には盛んに「野暮」や「粋」という言葉が使われた。
今で言うところの「うざい」と「イケてる」になるだろうか?
この言葉ももう古いかもしれない。
流行は移り変わり、言葉も移り変わり、道具も常識も目まぐる
しく変わっていく世の中だ。
古くからの日本がグローバリゼーションとやらに切り捨てられ
ている昨今だけれど、私には、この「野暮」と「粋」の感覚が、
現在の日本に残っているように思える。
武士道やら大和魂やらを捨てて忘れてしまった日本に、どうし
てか残った日本らしい感覚。
でも、それは随分と変形してしまったみたいだ。


江戸時代、散髪したての髪をそのままに、いかにもさっき散髪
して来ましたっていうような手合いは「野暮」だと言われた。
服もおろしたてのサラッピンを着て平気でいるのは「野暮」だっ
た。反対に、古着でも上等な絹を使ったようなものをさりげな
く着たり、新品をわざと着慣らしたように着るのが「粋」と言
われた。
言い回しもしゃれめかして、人を笑わせるように言うのが粋で、
そのものズバリをなんの小細工もなく言うのは「野暮」だった。

その感覚はなんとなく理解できる。
同じように「わび」「さび」という言葉も理解できるような気
がする。
敢えて華美を避けた、何か物足りないくらいの質素な佇まい。
新品にして年季が入ったような落ち着きと、手慣れた感覚。
ゴージャスを嫌った感覚は「粋」に通じるような気がする。

私たちは、何故か、その感覚を何処かで持っている。
例えば、熱意を人に見せるのは恥ずかしいと思うような感覚。
一生懸命を見せるのは恥ずかしいとか、意気込んでるところを
見られたくないとか。

江戸時代ならきっとこうだ。
実際の努力を気取られるようなことをするのは「野暮」。
スッとしてるけど実際は猛烈な努力をしていて、それを気取ら
れないっていうのが「粋」。

でも現在、どうやらその度合いが行き過ぎてしまったようだ。
今の私達は、一生懸命そのものが恥ずかしいと思ったり、努力
するのはハリキリすぎてバカみたいと思ってしまう。
昔は努力していることが前提で、それをどう人に気取られない
かで「野暮」や「粋」が語られたのに、今では努力すること自
体が「野暮」でかっこ悪いに変わってしまったように思う。
今の日本人は、一生懸命がかっこ悪いのだ。
でも、その中で、ちょっと変わった粋の亜種を見つけた。


昨今よく言われる「脱力系」の人々。
私は、この人たちを日本が産んだ「粋」の亜種と考えている。

しばらく前のAERAに「今どき議員は脱力系です」という記
事が載っていた。

 無理しない。
 判らないことは判らないと言う。
 新聞を読んでない。
 頑張ったところで能力の限界があるし、肩の力が抜けたまま
 でいい。
 野心もコネもない。

という記事が並んでいる。
どれもこれも紛れも無い国会議員、若い議員の発言内容である。

この人たちこそ「粋」の亜種の典型だ。
一生懸命はカッコ悪いから、無理せずに出来ることやろうよっ
て人。でも、もちろん、議員になる時点で、かなりの行動力と
思いを持った熱い人たちなんだと思う。
(こういう判りきったことを言ってしまうのは「無粋」だ)

あたしは、この人たちに「粋」になって欲しいなと思う。
この中には、世の中ってバカだから、遊んでやったまでだと平
気で開きなおれる人もいそうだし、すぐにエリート面になって、
脱力系を隠れ蓑にして手を抜きそうな人もいる。
そもそも脱力系を勘違いして、何にもしないぞってスタンスに
なりかねないとも思う。人は楽な方に流れがちだ。
実際、選挙で当選したあとはパチスロにはまっていたと告白し
ている人もいる。

でも、どうか実績をあげて欲しいと思う。
実績をあげて、「粋」な人になって欲しい。
実績をあげるために見えない努力を沢山して、沢山勉強して、
お偉い人たちのバカさ加減をしゃれっけで突いてほしいと思う。
そいで、見えない努力の素晴らしさを「一生懸命が恥ずかしい」
と思う世代に伝えて欲しいのだ。

ほとんどの政治家がバカな失言を繰り返し、裏の金を巻き上げ
るために必死の努力をしているけれど、その努力に、脱力系の
努力が負けるだなんてことがないようにして欲しいもんだと思
う。


それにしても「粋」を価値観とする私たち日本人のなんと落ち
ぶれたことか‥。
そもそも、「わび」とか「さび」を表現出来たのは、その道の
名人だった。名人は真面目に、真摯に、ちょっと物足りないも
のをわざと作り続けた。手になじむような非対称を産み、虚栄
心を退ける地味さを漂わせ、だけれども手を抜くことなく長年
培った技術を作品に注ぎ込んだ。
出来ない人が、その下手さ加減を恥ずかしげもなく披露するの
とはわけが違うのである。
ヘタウマとかいう、実際、本当に上手には出来ない人の作った
ヘタクソな書なんかクソ食らえだ。
莫山先生の書は、書の名人の計算し尽くされたくずし字だから
こそ素晴らしいんである。

そんな当たり前が伝わらないことがある。
時代はそれを伝え忘れた。
現在、真面目や努力や積み重ねはちっとも評価されない。

人間、バカじゃないから、生きていくうちにやがて気付くはず
だ。一生懸命はかっこ悪いわけじゃないと。
誰にも「すごいね」と言ってもらえなくても続けていく価値が
あるものなのだと。
だのに、高度成長時代に生まれ育ち、見る間に日本が膨れ上がっ
ていくのを見て、社会に出るときはバブルを迎えていた世代は、
その嵐の中で、地味な努力や一生懸命よりも、物質的な物の価
値に魅了されざるを得なかった。

その世代の生み出す消費文化に、努力や真面目や一生懸命を評
価するメッセージはない。
大人向けにもキャラクターグッズがあふれているのだ。
英会話をする動機で重要なのは、ピンクのウサギなのだ。
携帯電話も「なんでそんなに必死なのか」と呟かれるのだ。

コマーシャルは商品情報じゃなくイメージを繰り返す。
商品には実態は何もなく、群雄割拠する他社製品との違いもあ
まり無い。
では違いは何かというと、作り出されたイメージだ。
そして、消費を支える世代の価値観は一生懸命をウザイと言っ
て嫌う。
その世代へのイメージ戦略。CM作りも遊んでないと嫌われる。


時代は怒涛のごとく流れていく。
今、日本を支え始めている世代は一生懸命をかっこ悪いと思う
世代だ。
この世代が作り出す日本が、どういう方向へ向かうのかまだわ
からない。
今から必死に取り組んでも、どうなるか判らないような環境問
題や資源の問題を既に持っているというのに。


さて、ここで、先ほどの脱力系の議員さんたちに期待する。
脱力系がこの社会になんらかの恩恵をもたらす事を証明して欲
しい。
展望が見えない問題でも、肩肘張らず、悲壮さのかけらもなく
取り掛かって欲しい。

でも
「他の人のためには議員なんかやらない。あくまでも自分の為」
なんていう彼らには鬱陶しい願いかもしれないな。

脱力系が評価されなければ、もう「粋」も「野暮」も絶滅しちゃ
うような気がして、ついつい彼らに期待してしまう私。