Essay


臓器移植(私の考え)

先ほど、ニュースが伝えたこと。
20代の女性が脳死状態にあるということ。
臓器移植が行われるだろうということ。

わたしはドナーカードを持っている。
今にでもコトンと死んだら、このニュースの女の人のように報道されるはずだ。
20代女性、脳死が確認されました‥と。

ドナーカードには家族の承認を表す、家族の署名欄がある。
実は、わたしのカードにその署名はなされていない。
わたしが死んで、ドナーカードがお財布から見つかったら
お医者さんはわたしの家族に承認を得なければならないだろう。

果たして、わたしの家族は、わたしがわたしの臓器を誰かにあげる事を
許すのだろうか?


わたしは自分の臓器など、死んでしまった後に役に立つなら
役に立てて欲しいと思う。
しかし、自分の家族が死んでしまって、誰かが臓器を下さいと言ったら
大好きな人の体を切って、中身をカラッポにすることに同意できるだろうか?
また、わたしが臓器移植が必要な病気になったとき、
誰かが死ぬのを待って、その臓器をもらって生きることを選ぶだろうか?

考えるととても複雑だ。


今のわたしは、臓器移植に肯定的な意見を持っている。

誰かが、生命の危機にあり、家族が涙を流し
そして本人が恐怖を感じ、
細い丸木橋を渡るような危うい日々を送っているとする。
もし、助かるなら助けてあげたいと思う。
命があれば、あと一回だけでも余計に笑えるかもしれない。
あと一回だけでも余計に誰かの手を握れるかもしれない。
あと一回だけでも余計に自分の気持ちを
誰かに伝えることができるかもしれない。
そしてあと一回だけでも余計に嫌な思いをするかもしれない。
全て、生きていればこそのことであって、
死んでしまえば、絶対に、絶対に、起こり得ないことなのだ。


そして、わたしはドナーカードを持っている。
誰かに臓器をもらってまでも、是非生きたいという意志のある人のために。


ただ、臓器移植を奨励する気持ちはない。
そして、臓器を提供することを拒む家族を、非難する気持ちも全くない。
拒む気持ち、それが人間のあかしである気がするからだ。

わたしたち人類は、遺体を埋葬することをはじめた。
それは人類の昔からの儀式であり、人間であるということなのだと思う。
それは、死んでもその人を愛する気持ちだと思う。
死んでも幸せでいて欲しい気持ち、愛情の形だ。
それが、わたしたちの自然の形であると思う。

実際、死んでしまえば、日本では荼毘にふすのが決まっていて、
みんな灰になってしまう。
臓器があったろうがなかろうが灰になって、なんら支障はないように思う。

それでもこだわってしまうのが人という生き物で、それは大切なことだ。
人類の、当たり前の大事な部分だと思う。


臓器移植は人の命を助けるものだ。
だからわたしは賛成だし、自分も提供したいと思う。

でも奨励はしない。
家族が、臓器を提供することを拒むことを、身勝手だとは思わない。
拒む権利について、もっと議論されてもいいと思う。
そうじゃないと、どっかの外国みたいに、
日本もいつか、死んだら即、臓器を抜き取られてしまう日が来る気がする。
古代から身近な人の遺体に愛情を示してきた人類の大切な部分が
倫理観とかわけのわからない理論でごまかされるのは嫌なのだ。


でも、ほんとうに難しい。

自分の愛する人の遺体と、見知らぬ生命の危機にある人。
わたしならどちらを選ぶだろう。


わたしが産まれ、生活する現代。
本来、わたしたちが立ち入るべきじゃない問題が現実化する時代。
複雑で面倒な時代。
今は、そういう時代だ。


そしてわたしは、家族の署名のないドナーカードを持ち歩いている。


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