Memory

 あかりちゃんと12組
あかりちゃんと12組の皆に教えてもらったことがある。
それは当たり前のこと。
イジメはダメなんだということ。そして、「イジメはダメだ」ということに
説明なんかいらないということ。そして、私達は誰しもがイジメを見るのは
嫌で苦しいのことだと思っているということ。


あかりちゃんに出会ったのは中学一年生の時。
小学校の学区が4つくらい集まるマンモス中学校。
お互いにけん制し合うかのような第一学年の混沌の中、私はあかりちゃんを含
12組の皆と出会った。

あかりちゃんは女の子だったけれど、クラスの誰よりも背が高かった。
そして、ちょっぴり頭が悪くて、それになんだか振る舞いが女の子らしくなかっ
た。いつもオナラをしたり鼻をほじったりしていて、でもそれは、威勢がいい
女の子というのではなく、むしろ、あかりちゃん独特の無頓着さから起こるも
ののようだった。


本当はあかりちゃんのそんな振る舞いをイジメの理由にしてしまうのは間違い
なんだけれど、でもあかりちゃんはイジメられるようになった。あかりちゃん
は優しくて、いじめられても仕返しするような子じゃなかった。あかりちゃん
のそのおとなしさがイジメを助長させたのかもしれなかった。


イジメというのは理由があるようでないものだ。
唯一言えるとすれば、人の心に出来た「いじめ心」だと言えるかもしれない。
人というのはどうしてか、イジメ心というのを持っている。それはキライな人
にだけ向けられるものではなく、身近で可愛いものにも向けられるものだ。
私が過去にイジメたものといえば、弟(ごめんよ)と近所の子犬(ごめんね)
しか思い浮かばない。


イジメ心というのは実際説明のつかないものなのであるが、人というのは理屈
をつける習性があるため、理由を付けてしまう。

私が弟をイジメたことに「可愛いからついついイジメた」という理由をつけて
付けられないではない。けれど、果たしてそれが理由になるかどうかは疑問だ。
理由としては意味をなさない。


同様に、あかりちゃんがイジメられたことに、あかりちゃんの振る舞いが普通
じゃないからという理由は付けられないではないけれど、これも理由になるか
どうかは疑問だ。
振る舞いが普通じゃない人をいじめていいなら、私達はハンディキャップを持
つ全ての人々をイジメてもいいことになる。
そして、全ての人々の振る舞いには完璧が求められるわけだ。
なんてナンセンス。

実は、あかりちゃんに出会った当時、私にはこれが判らなかった。
あかりちゃんにはいじめれる理由があって(「だってさ、あかりちゃん変だも
ん」)だからあかりちゃんはそれをなおさないと一生いじめられても仕方が無
いと思っていたのだ。


実はその後、あかりちゃんがいじめられることはなくなる。
あかりちゃんの振る舞いは以前と変わりなかったけれど、誰もあかりちゃんを
いじめなくなったのだ。
12組では、ある日を境に、あかりちゃんも他のいじめもぴったりとなくなった
のである。


その日とは、当時の担任の先生になんとかしろといわれて、私があかりちゃん
をいじめるのを止めようと提案した日であった。
実際、その提案にどれほどの意味があったのかは判らないのだが。

私の提案はこうだった。

「あかりちゃんはいじめられてもしょうがないと思う。だって、あかりちゃん
は変でしょ。でもあかりちゃんだけに振る舞いを直せというのはオカシイよ。
だから、あたしたち全員が変なところを直そう。皆で、皆の悪口を言い合おう。
でもそれでうらみっこなしで、明日からそれを皆で直そう。
そして直ったらお互いにいじめるのを止めよう」


私はそれを休み時間に一人一人に提案して賛同してもらった。でも賛同しても
らったのは女の子だけだった。女の子だけの取り組みだった。

でも、次の日からぱったりと、12組にはイジメがなくなったのだった。
男子もいつの間にその取り組みを知ったのか、ぴったりとあかりちゃんも、そ
して他の誰をもイジメるのを止めたのである。


それで、皆が振る舞いを改めたのかというと、全然そんなことはなかった。
あかりちゃんも相変らずだった。相変らず、制服の背中からはシャツが覗いて
いた。とうとう中学を卒業するまでそのままだった。
何か変わったとすれば、
12組の皆の「誰もイジメない」という姿勢だ。
12組の皆は、中学卒業まで、とうとう誰も、誰かをイジメることをよしとし
なかったのである。
唯一、私だけはその感情が薄かったと言えるかもしれない。
何故なら、いつまでも自分の提案にしがみついていたからである。

「あかりちゃんはいじめられてもしょうがないと思う。だって、あかりちゃん
は変でしょ。‥」

私だけが、いつまでも「イジメの理由」という言葉を捧げ持っていた。



さて、やがて私は、後生大事にしていたイジメの理由には意味の無いことに気
付いていった。そんな理由にしがみついていた自分を本当に恥じていて、私は
今でも中学時代の友人に誰一人として会うことが出来ないでいる。
今となっては、あかりちゃんが無事に救われた奇跡に感謝するばかりである。

いや、奇跡なのではない。
12組の皆のイジメを拒否する力のお蔭だった。
皆は、イジメに理由をつけなかった。
ただ止めたのだ。
多分、イジメは嫌だったのだ。イジメを嫌う気持ちを、イジメ心に立ち向かわ
せたのだ。私は皆の正義の心に今でも尊敬の念を抱いている。



実は、自分のイジメをなくす提案を皆に話す前に、私は先生にこうするつもり
だという計画を話していた。すると先生は即座に

「いや、その考えは間違っている。イジメはただ、ダメだからダメなんだ。」
と答えたのだった。
その答えに真実を見出せなかった自分を、痛恨の気持ちで思い返す。
当時理解できなかった、そして半ば軽蔑していた「ダメだからダメなんだ」と
いう言葉に、今は計り知れない力を感じている。


今なら言える。「ダメなものはダメなんだ」という言葉。
ダメなものに理由はないのである。何故なら、ダメなことをしてしまう人の心
に理由が付けられないからだ。


私たちは、自分の行動に不用意に理由を付けてはいけない。
実はそれが理由になっていないことに気付くことはなかなかに難しいものなの
だ。
そして、「ダメなものはダメなのだ」という言葉の力を信じることが必要なの
である。

「ダメ」と言われたら「ダメ」なのだ。
「ダメ」に理由はないのだから、永遠に論破されることはない。
「ダメ」を論破されてしまう人間は、一生「ダメ」の力を知らないで終わる。


あかりちゃんと12組の皆に教えてもらったこと。
それは当たり前のこと。
イジメはダメなんだということ。
そして、「イジメはダメだ」ということに理由なんかいらないということ。

ダメは論破されることのない、理由のいらない、一つの正義だということ。
それは確かに知恵の一つだと言えるかもしれない。