Memory

昔住んでた家のすぐ脇には川が流れていた。
小さくて汚い川だ。
あの頃、ヘドロという言葉が盛んに言われていて、
ご多分に漏れずその川もヘドロに黒く濁っていた。
それでもその川を思い出すとき、
わたしには何故か美しい光景が思い浮かぶ。
春の陽光の中、土手の草花がキラキラきらめきながら風に揺れていて
潮の満ち引きに水位をみるみる変える川は
ただそこだけ、何かを守るみたいに別空間だった。
そしてその川。
わたしはその川の片方の側しか知らない。


家の近くには公園なんておしゃれなものはなくて
歩いて行けて(わたしは自転車に上手く乗れない‥)、
しかも遊ぶだけの空間があるところといえば近くのお寺か川の周辺だった。
お寺の方がちょっと遠くて、
だから圧倒的に川の方へ行くことが多かったと思う。

小さい川だったし、橋のたもとくらいで遊んでいたのにも関わらず
わたしは橋を渡ることなくいつも同じ側で遊んでいた。
同じ川のあっち岸とこっち岸、何メートルと離れてないのに
わたしの中ではあの世とこの世くらいのイメージの違いがあった。
川を隔てたあっち岸はなんとなく怖かった。

春になるといつもその川に飛びこんで
「助けて」
と騒ぐ女の人がいたという話をきいても
こっち岸の話とは思わなかった。
実際、飛びこんだのはいつも遊んでる橋のたもとの上からだった。
それでも、あっち岸の話だと思っていた。
中学生が何かを燃やして土手に火事を起こしたことがあったが
それもあっち岸の話だった。
カッパが出るから危険だぞと訴える不気味な絵の看板も
あっち岸のものだった。
だからこっち岸はカッパとは無関係だった。
そしてあっち岸の橋を渡ってしばらくは建物がまばらでさみしかった。
太陽はあっち岸に落ちていった。
さみしいあっち岸は太陽が落ちて真っ暗に沈んでいった。

ただあっち岸というだけでそれが理由になった。
変な女の人も、火事も、カッパも、暗い道も
あっち岸だから仕方なくて、それにあたしには関係なかった。
だから
「家出してやる」
と勇んで家を出て、わずか30分あまりで行き詰まったその場所は
橋の手前だった。

わたしはこっち岸の人だったのだ。


川の向こうがすぐ学区の変更場所であったこともあると思う。
川を渡るということをあまりしなかったせいで
川の向こう側を随分長く知らなかった。
たった一本の小さい川があって、
渡りやすい橋がかかっている。
それでもわたしは川で区切りをつけてしまっていた。

その区切りが必要なものなのかちっともわからない。
ただ区切りだ。
わたしの範囲のおしまいのところ。
向こうのことは知らないでよかった。
関わらなくてもいいと勝手に区切っていた。
向こうに怖いカッパがいても
こっちに綺麗な草花が咲いていて風が気持ちよければそれでよかった。
あっちよりもいいところにいるみたいで
なんとなく心地よかった。


不思議だと思う。
川がなくて普通に住宅地が続いていたら
わたしはどこで区切りをつけたろう?
何にも知らない小さい頃から
自分の範囲に区切りをつけて、かかわり合う世界を狭めていた。
そして、こっちさえ良ければよかった。

実際、どこを見てもどこにも何の区切りもない。
誰かが決めた町内の終わりがある。
誰かが決めた市の終わりがある。
誰かが決めた県の終わりがある。
実際はないものに区切りをつけてしまう。
そしてなんとなく、区切りの外のことは関わらなくてもいいように
感じてしまいがちだ。
事件が起こっても、何の理由もない区切りを理由に安心したりする。
「あれは、知らない町の出来事だから‥。」

それは昔から同じ。
「あっち岸のこと」
という感覚だ。


こういう感覚はある程度誰でも持っている感覚ではないだろうか。
昔からの町の境目、県境、国境も
川や湖、山の頂きから向こう等、
心理的にあっち側とこっち側に分けられるところになっているからだ。
(今の時代には緯度や経度が用いられるかもしれないが‥)


人としてそれが楽なのかなと思う。
狭い範囲内だけ押さえておくこと。
小さな範囲だけを知っておけばいいということ。

ただ、そういう意識だけでは今はダメなのだと思う。


わたしはどうやらそういう人ではないようだが
こっち岸からあっち岸を熱く見つめる人たちがいる。
見えないあっち岸に憧れて、
あっち岸を知って世界を渡っていこうとする人がたくさんいる。
今の時代にあう人だ。
知らない道を喜んで選んでいく人だ。
知らない沢山の何かを抱え込んでいく人だ。
うらやましく思うが、わたしがそうなるのは難しいなぁと思う。


何故ならわたしは今でもあの川を思い出すとき
こっち岸ばかり思い出すからだ。
綺麗に輝く川も、真中から向こうはフェイドアウトして思い出せない。
わたしの川はいつもこっち岸。
どこかの誰かのようにあっち岸に憧れ、あっち岸を眺める
そんな人ではないのだ。

そして、自分の知っているこっち岸を
住みやすくていいところだとずっと信じている。
自分の決めた何の意味もない区切りに安心して
それに守ってもらっている。


わたしの今の「こっち岸」の境目はどこだろう?
あの川があった頃より遠いところにあるだろうか?
わたしの抱え込める範囲は広くなったんだろうか?
実際には汚いあの川を美しくイメージしてたように、
訳のわからない区切りを飾り立てていないだろうか?

区切り目が近付きすぎて見えないほどになっていないことを
願うばかりだ。
そして、
たまにはあっち岸を見つめ、渡っていかなくてはいけないなと思う