Memory

 ガラスの破片〜失われた宝物〜
世間を騒がせる事件があった。
人質を取った立てこもり男が、持ち込んだガソリンに火をつけて、
人質や警察を巻き添えにして死んだというものだった。男が持ち込
んだ大量のガソリンは、引火すると同時に大爆発を起こして燃え上
がり、ビルの窓ガラスを一気に吹き飛ばした。
その映像が絶えずテレビ画面を覆っている。
ニュースは、野次馬の人々も飛び散ったガラスの破片で怪我をした
と伝えていた。
この悲惨極まりない事件を見ながら、私はふと、幼い頃に大切にし
ていた宝物を思い出したのだった。

子供の頃は宝物が沢山あった。
全ての宝物は、自分が特別に価値を与えたものばかりだ。
誰かに価値を見出してもらう必要なんかなかった。
テーブル用の紙ナプキンをクチャクチャに畳んだもの、抜けてし
まった乳歯、変わった色のおはじき、道端で拾った鳥の羽、川原
で拾ったツルツルの丸い石、小さな自分の引き出しに半年もしまっ
てある食べかけの燻製、ドングリ、そしてガラスの破片‥。

ガラスの破片が宝物だった記憶は、随分長いこと封印されていたの
で、思い出すと戸惑いを感じるほどだった。思い出すきっかけとなっ
たテレビ画面では、そのガラスの破片が状況を悲惨にする手助けを
している。
だから、一瞬「何であんなもの、宝物だったんだろう」と自分をせ
せら笑う気持ちになった。
ところが、一度封印を解かれた記憶は、私の頭の中を漂いながら、
この考えを覆しにかかったのである。

ガラスの破片という宝物の記憶。
まず思い出すのは、ガラスの破片が飛び散っているコンクリートの
階段だ。その階段はサイクリングロードにつながっており、その横
にはすぐ川がある。
その光景には、悲惨さや暴力の印象は微塵もない。
太陽は中天、風爽やか。
子供の頃からいつも家でうだうだしていた私も、陽気に誘われて川
原まで遊びに行ったのだ。
川原に向かって階段を降り始めると、太陽がガラスの破片をキラキ
ラと光らせているのが眼に入る。
その中にしゃがみ込んで、じっと見つめる。
見れば見るほど、キラキラと光っている。
茶色のガラスがある。
薄緑のガラスがある。
どうしてこんな綺麗な色のガラスがあるんだろう?と幼い私は考え
る。
でも、その綺麗なガラスの破片は、階段で人に踏まれて砂埃で汚れ
ている。
それでもその中から、比較的汚れていないガラスの破片を選って集
める。
ここにあるガラスの破片の、全部の色を持って帰ろうと思う。
新しい宝物に出会って、急に豊かな気持ちになる。
慎重にポケットに入れて持って帰る。
その後も何ヶ月か、私は、また宝物が増えないかと川原の階段に通っ
た。しばらくの間、ガラスの破片は増えもしなかったけれど無くな
りもしなかった。その間中、私は太陽を浴びてキラキラ光るその宝
物を堪能したのだった。

今思えば、あれはビール瓶の破片、コーラの瓶の破片、ジュースの
瓶の破片だった。ガラスとして殊更珍しい色でも何でもない。
それどころか、ビール瓶の破片だなんて思うと、返って汚らしく感
じそうなものである。しかも、サイクリングロード近くで瓶を割っ
てそのままにした人がいたと思うとけしからんし、いつまでも清掃
することのない地域の対応にもあっけにとられるばかりだ。

でも、幼い私は、そんなことは微塵も感じていなかった。
道に散らばる瓶の破片は、きれいな茶色いガラスだった。
太陽に透かすと黄色になる綺麗なガラス。
誰かが用意しておいた、道端の自分だけの宝物。
ただじーっとそれらを見つめている時間がとても楽しいものだった
ことを覚えている。
その純粋な宝物に対する喜びの記憶が、はちみつで出来た霧みたい
に私の頭を包んだ。
「くだらない物を宝物にしていたものだ」という一瞬浮かんだ考え
は、刹那の後、その宝物を二度と堪能できないという喪失感に変わっ
た。

ガラスの破片は今では、破壊の結果、怪我の原因、常に何物でもな
い欠片としか認識できない。光を反射しても、その単純極まりない
反射の様子に、キラキラしているなどという形容は思いもつかない。
綺麗というよりもゴミのような印象だ。
私はもう、ガラスの破片如きに、価値を与えることなど出来なくなっ
てしまったのだ。
つまり、ガラスの破片という宝物は、今では簡単に手に入るもので
あるのにもかかわらず、永遠に失ってしまったものなのである。

冒頭に挙げた、私の宝物。
テーブル用の紙ナプキンをクチャクチャに畳んだもの、抜けてしまっ
た乳歯、変わった色のおはじき、道端で拾った鳥の羽、川原で拾った
ツルツルの丸い石、小さな自分の引き出しに半年もしまってある食べ
かけの燻製、ドングリ‥。
これらも全て、当然もう私の手元にはない。
ガラスの破片同様に、ある日突然価値を見出せなくなって、捨ててし
まったのだ。
かつての宝物リストは、イコール永遠に失ってしまったものリストに
変わってしまったのである。


そうして今、私の宝物は何だろうかと考える。 子供のときのように、
誰にも価値を見出してもらわなくてもいい、自分だけが特別に価値を
与えているような宝物。
飽かず眺めて、純粋に素敵だと思える宝物は何だろうかと考える。
そして思うのは、自分が失ってしまった、何にでも先入観無く感動し、
それらを宝物にできる心こそが宝物だと感じる皮肉である。


かつての宝物に価値を見出せなくなるのと引き換えに、私は色々な知
識を得た。経験を得た。年月を過ごし、色々なものに背景を見るよう
になった。
だが、沢山の物事を知り、一つの物に沢山の情報を見出して理屈をつ
けたりすることに、果たしてどれほどの意味があるというのだろう?

人というのは知恵をつけても、実際にそれを役に立てることは少ない。
知っていると思っても、それが真実の1/100ほどのことなのだったら、
知らなくても一緒なのだ。理屈を捏ねても、その程度の人間の捏ねる
理屈には何ほどの意味も無い。

悲惨なニュースの背後に見え隠れする複雑な社会。
事件に理由はつけられるけれど、原因も結果も、知恵と経験を積んだ
人間が真剣に演じたものだと思うと、ひどく茶番に感じられる。


ついさっきまでガラスの破片をせせら笑おうとしていた私の頭は、は
ちみつ色の記憶にすっかり説き伏せられてしまった。
そして、宝物を失ってしまったのはこの世のどの境界でだったのだろ
うかと思う。
記憶の中に残る、ガラスの破片を宝物だと感じていたあの世界は、今
の世界と本当に地続きでつながっているのだろうか?
私は宝物と一緒に、あの世界を置いてきてしまったのではないだろう
か?
そう虚しく考える。


喪失感に苛まれながら、やはり、あの宝物は永遠に失われたのだと実
感せざるを得ない。
そして、自分が意味を見出し理屈をつけるこの世界が、なんだか急に、
魅力を失くし、輝きを失ってしまったように感じたのだ。
私が知恵と感じていたものは、実は私から宝を奪うだけものだった可能
性があることに、思わず目をギュッと閉じた。

30歳台の世の中を見る眼なんて、ほんと、くだらないし、取るに足らな
いものだってこと、ガラスの破片が過去からささやいてくれたみたい
だった。
30年経った後、わたしの眼が映す世界はどんな世界なのだろう。
ガラスの破片のような宝物を見出す眼を、また持つことが出来るといいな
と願うばかりだ。