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梅内 美華子 作品






光は万物に色を与える。
私たちはその色に無数の名前を付ける。
名前を付けてもなお、それをどう表現していいのか判らない。
おぼろに曇った月の光を、夕日に輝く海のきらめきを、雨に濡れた
若葉のつややかさを‥。

黄色と呼んでも、オレンジと呼んでも、緑色と呼んでもそれは違う
のだ。


色のハーモニーはそれだけで人の心を打つ。
心を波立たせ、心を鎮め、心を癒し、時には心を染め上げる。


一首目

ルーベンスは17世紀に活躍し、今に名作を残す大画家である。
日本では「フランダースの犬」でネロ少年をとりこにした画家として
よく知られている。

物語のラストで、ネロ少年がルーベンスの絵の真ん前で息を引き取り、
自らが絵の中の登場人物さながら天使に囲まれて空に召されていくシ
ーンは涙無しには語れない。


そのルーベンスは画家にしては珍しく、宮廷画家として恵まれた一生
を送った。宮廷画家だけあり、彼の絵は上品な格式のある絵が多い。
貧困と狂気に浸かり、取り付かれたように様々な黄色をキャンバスに
ぶつけて「ひまわり」を描き続けたゴッホとは対極にあると言っても
いいだろう。


薔薇色の雲を薔薇色の雲として描けるのはゴッホではなく、ルーベン
スだと思う。ゴッホが描いたら、太陽に焼ける雲になってしまうかも
しれない。

(あくまで想像です)

ルーベンスの薔薇色の雲〜
を読んだとき、ルーベンスの絵の前に佇む少女の姿が一幅の絵になっ
て私の頭の中に浮かんだ。


美術館はあまりデートには向かない場所だ。
おしゃべりはできないし、絵を見るペースが人と同じなんてことは滅
多にない。だから入り口を通り抜けた後は、「出口で会いましょう」
ということになる。

ただ、付き合い始めたばかりの、まだ恥じらいの残る二人にとっては
格好のデート場所になるかもしれない。


冬の美術館。
彼氏の重たい上着をしわにならないように腕にかけて持ち歩きながら
少女が絵を見て周っている。そして、ルーベンスの描いた薔薇色の雲
に感嘆して足をとめる。

絵を傷めないように、暗めに抑えられた照明の中で、その薔薇色の雲
はいかにも美しく浮きあがるように見えたに違いない。

きっとこの時、ルーベンスの薔薇色の雲に魅了された少女もご多分に
もれず、デートなのにもかかわらず独りで周っていたのだろう。彼は、
先に歩いていってしまったか、もっとゆっくり周っているのだ。
ただ、腕にずしりと彼の上着を感じていることが彼女を孤独にしてい
ない。その重みは、彼女の心を薔薇色に色付かせる素かもしれない。
彼女は頼まれもしないのに、彼の重い上着を「持ってあげる」と言っ
て受け取ったのかもしれない。一緒に横に並んで歩くのは恥ずかしい
けれど、目の端でお互いの姿を追いながらのデートは、二人にとって
等身大だったろう。
ルーベンスの薔薇色の雲を彼女は自分の心に浮かぶ雲のように感じ、
思わず足をとめたのだ。


悲劇的なネロ少年とは反対に、ルーベンスの絵の前で幸福にうち輝い
ている女の子の姿が思い浮かぶ。静かな落ち着いた美術館の中で、目
を輝かせながらルーベンスの薔薇色の雲に魅せられた横顔が目に浮か
ぶ。


彼女にとって、薔薇色はただの薔薇色ではない。

自分の浮き立つ心の薔薇色と同じなのだ。
これは、誰にも判ってもらえない、画家のルーベンスにさえ判らない
個人的な薔薇色なのである。

もし、私にオーラが見えるなら、きっと、彼女の内面から溢れ出す薔
薇色の光がルーベンスの描いた雲を染め上げているように見えること
だろう。



 二首目

金屏風にあやめの花。
そんな日本画があったと思う。
世界地図の歪み昏れゆく〜
を読んだ瞬間に頭にスッと思い浮かんだのはその絵だった。
(不勉強なもんで、何ていう絵か誰が描いた絵なのか判らない)

鮮やかだ。
色のハーモニーが人の心に風景以上の意味を持たせる。
この首は文字でその風景以上の意味を伝えるものだと思う。


あやめが夕映えの空につぼみを開く様を、大きな世界で捕らえている。
あまりに美しい光景を、小さな空間の出来事として収めるにはもった
いないからだ。

誰もがそうだ。
私たちは、心打たれる美しい場面に出くわすと、人知を超える大きな
世界に思いを巡らす。

今まで思いも留めなかったものと、この大きな世界でつながっている
のだと感じたりする。自分を小さく感じ、世界を有難く感じたりする。


私たちの世界の捉え方は正確なようでいていい加減である。
おなじみのメルカトル図法による世界地図は、わたしたちが都合のい
いように世界を捉えた代表たるものだ。

私が世界を頭に浮かべる時、ヨーロッパから「極東」と言われる日本
がほぼ中央に据えられている、お馴染みの長方形の地図が目に浮かぶ。

しかし、実際のところ地球は丸いし、傾いでいる。

地球の側面が太陽に別れを告げるとき、空は1日のグランドフィナー
レを飾るように美しく染め上げられる。

黄昏。
そのグランドフィナーレの隊列は、私たちの知る地図の世界をまっす
ぐに並ぶのではない。
地球の丸み、自転軸の歪み、大地の起伏、雲のカーテン。

それらがその隊列を美しく歪ませる。
いや、実際に歪んでいるのは地図の方なのだが。

あやめがその空に、閉じられた美しい花弁を開く時、命の不思議と尊
さと、世界の不思議を思う。

世界地図一つ、歪んだ形でしか捉えられない私たちの知ることなど無
に等しいと考える。


あやめ色と黄昏の空のコントラスト。
世界とはそういうものなのだと感じさせる風景である。


光は万物に色を与える。
人はその色に無数の名前を付けてきた。
それも人間の作った世界の捉え方の一つである。
そして、捉えてもなお、捉えらえきれない世界に胸を打たれ続けている。




今回の作品  出典

みかづきさい
  一首目  1999年発行  「若月祭」  (梅内 美華子 第二歌集)
春の鴨川  より


みかづきさい
  二首目  1999年発行  「若月祭」  (梅内 美華子 第二歌集)
吊鐘  より