2度目の紹介です。 「見上げる」 2首です。
わが部屋の灯りのみ照り秋空にどこかひとつの星とつながれ
草笛にむせて見上げしその空に音なく球は放物線かく
思えば、「見上げる」って動作を、意識しないと出来ないようになってる。 冷たい三日月、秋の星座、夕焼けに染まるウロコ雲、 木の間をつきぬける日差しの交差。 この2首を読むと、あたしは「見上げる」って動作を思い浮かべるのだ。 あごを突き出して、空を振り仰ぐ動作を思い浮かべるのだ。 あたしたちは、どんな時 「見上げる」 のかなと思う。 子供の頃は、世界が上に展開しているから、 何をするにも上をみていないといけない。 (全て、目線より上にあるもの。親だって、棚のチョコレートだって) だから、子供のとき見たウロコ雲ならすぐ思い出せるのに 今ぐらいの背丈になって、世界が前に展開するようになってからの ウロコ雲の記憶はフシギとないように思う。 あたしは、心がけて空を見上げるようにはしてるのだけれど それでも、多分全然足りない。 1首目、― 秋空に〜 ― は 随分、人によって解釈が違いそうだなと思う。 哲学的でもあり、恋のウタでもありそうだし、感傷のウタでもありそうだ。 あたしはサン−テグジュペリをすぐ思い出した。 サン−テグジュペリは飛行機乗りでもあったから、彼の視点は逆。 空から家の灯火を見る。 そして、その灯火に人の心という奇跡を見る。 そして、そのひとつひとつの灯火と心を通わせて、自分という人間を 完成させていく決心をする。 ― 草笛に〜 ― は、すごく映像的だ。 あたしの高校には野球のグラウンド(ナイター設備完備!!)があって えらく熱心に野球部が練習していたのを昨日のことのように思い出すことができる。 だから、ほんとに目に浮かぶようだ 球の軌道が描く放物線。 そして、その光景がなんとも青春だ。 うっかりすると、「見上げる」という動作から隔絶の危機にある青春時代。 でも、空はついこの間まで馴染みの世界だった 子供の頃の上方に展開された世界の一部。 青春時代の見上げるって動作は、いかにも中間的だ。 あたしはもうおばさんになって、そして空を見上げようと努めてたりする。 なくしたものは戻らないのに。 なんとなく、見上げるって動作は、 子供に戻って、なくした何かをみつけるみたいな儀式だ。 と、それなりに結論つけてみた。 ミカコちゃんは、空を振り仰いでウタを生み出したんだね。
今回の作品
「短歌」1988年6月号(角川書店) 出典
角川短歌賞 候補作品 「放物線」より