梅内 美華子 作品



8度目の紹介です。 「テレビ」 2首です。

シキリ、シキリ



暗闇のNHKの解説員着替えする吾に政治を話す



むきあいて雑誌をめくる二人へと手を振る画面のアントニオ猪木



最近、テレビを「見る」ためにテレビをつけること

ってなくなった。

テレビはBGV(Background Video)。

生活の中のシンとした空間をにぎやかにする何かだ。

テレビに「伝えるもの」という感覚を持たなくなって久しい。

ただ、眼の端で動く何かだ。

目に美しい熱帯魚みたいに。



あたしは、テレビで時間を過ごすことができなくなった。

拷問に近い形でプログラムが進んでいく。

テレビが伝えるものは

あたしにはグロテスクだし、悲しいし、居たたまれない。

気持ちが悪くて、ニュースも見たくない。



でも、必需品になっている。

きっと、誰もの‥。





1首目

自分でも、気がついてハッとしたのだけど

テレビを見て着替えする自分は、制服に着替えている吾だ。

社会人と考えても、スーツに着替えている吾だ。

そういう想像しかできない。

「着替えする吾(あ って読むと思うよ)」が、

これからくつろいだり、寝ようとしている人とは考えられないのだ。

パジャマや、なんかゆったりした服に着替えるって

どうしても考えられない。



早朝の真っ暗闇に、テレビを明かり代わりに着替えする吾。

急いでる吾に、NHKの解説員が語る声は遠く聞こえる。

政治も、もっと遠い何かだ。

ちらっと目にするテレビの中の解説員は

しごく落ち着いて真面目に話す。

自分はというと、

少し慌ててテレビの端の時報をチェックしながら

いつもどおりの着替えのタイミングに

自分のリズムを確認する。

本来、政治も自分の生活もリアルな現実なのに

テレビはそれを空虚にさせる。

なんとなく、政治はテレビの世界みたいに思ってしまうのだけれど、

自分たちを動かしてるのは政治なのだ。

でも、着替えする吾には遠い。

チラチラとテレビを動かす材料でしかない。



あたしの頭の中の吾が(自分でもミカコちゃんでも)

制服やスーツに着替えるのは、きっと「政治」って言葉が

あるからだろうなぁって思う。

外に出て、政治と対決‥っていうか。



う〜ん。



あたしの中に、何か立ち向かっていこうっていう

種があるからなのかもしれない。

あたしだって、まだ外が暗いうちから身支度して

何かに向かって出ていこうっていう種が

あるからなのかもしれない。



あなたは、何に着替えますか?

制服‥

スーツ‥

ドレス‥

パジャマ‥





2首目

この首で、テレビは伝える何かではなくて

眼の端で動くチラチラする何かだ。



これは真夜中(と思う)。

楽しい二人にアントニオ猪木はそっぽ向かれている。

猪木は、いるともしれない誰かに向かって

愛想良く手を振る。

このちぐはぐさがたまらない。



目に浮かぶ平和な光景は、まるで怖いみたいだ。

自分が別の人間と戦う場面をショーにするアントニオ猪木が

ニコニコ笑って画面で手を振る。

人が戦うことを、テレビの中という独特の世界であると

わりきっているのか、目もくれずに

友達か誰かと雑誌をくる楽しげな女の子達。



おかしい。



でも、なんとなくほほえましく思い浮かべてしまう

あたしがいる。





この首を読んで、テレビの異様な世界をちょっと考えた。

なんでも「テレビだ」といって許しているけれど

考えてみればおかしな世界だ。

プロレスも、程度は違うけれど

ローマ時代の奴隷を戦わせるショーの続きみたいだ。

誰かが現実に痛い思いをしているのだ。



テレビは現実に誰かが何かをしていることを

伝えているのに、

まるで手が届かないみたいな遠い存在みたいに

考えがちじゃないだろうか。

でも、手に届く何もかもが、

テレビの材料になりうる何かとしてリアルに存在している。





わたしたちのかたわらに、現実を伝える箱がある。

(ドラマだって、誰かが現実に演じているのだ)

そしてわたしたちはそれを

ただの日常をにぎやかにする何かとして軽んじる。

隣町の事件も、テレビを通すと

自分にはおこり得ない遠いものへと変貌する。







現実をショーに変えて

だのにテレビを必需品だと言う。





今回の作品  出典
一首目  「短歌」 1988年6月号 (角川書店) 
角川短歌賞 候補作品 「放物線」より
ゼブラ・ゾーン
二首目  1994年発行  「横断歩道」 (梅内 美華子第一歌集) 
横断歩道  より