近世チベット・ポロン地方の家分文書
「カンカル家文書」の保存と研究


 研究計画 


平成24年度(2012年度)挑戦的萌芽研究 研究計画調書平成23年11月4日/2012.8.10誤字・脱字のみ修正

研究目的(概要)
 申請者の研究課題は、近世チベットの法制史料の種類や所在を把握し、その内容の分析を通じ、近世における中国(清朝)とチベットの関係、近世チベットの権力構造などを解明することである。本研究は、西チベット・ポロン地方出身のカンカル一族が伝えてきた古文書(18世紀から20世紀前半にかけてゾン(=県)役所とチベット中央政府との間でやりとりされた公文書や書簡)のデジタル保存と公開、及びその全容を明らかにするための文書の翻訳・解読・分析を目的とする。文書固有の術語や地名の比定のために、デスクワークだけではなく海外調査を実施し、また本研究の一層の深化発展のために国際シンポジウムを実施する。研究期間は3年とする。目次へ
研究目的
 従来の近世チベット法制史研究で知られている史料は、チベットの中央政府が制定した刑法・民法・税法・行政など各分野の法令と、18世紀半ばにチベットを支配下においた清朝が制定した各種(チベットの行政府や軍隊の組織、清朝の駐チベット諸機関など)の規定といった、「法典」にあたるレベルに留まっている。そのため申請者を含めた従来の研究は、個々の史料の書誌学的分析(山口1983,手塚2003, 廖ほか2006)や、制度の概括的な考察(French1995 , 廖ほか2006)に留まり、実際の運用に関する検討はこれまでほとんどなされてこなかった。他方、チベットより1世紀ほど先んじて清朝の支配下に入ったモンゴルの場合、個別の裁判記録の分析などにより、法典の形成過程や運用の実態が詳細に解明されており(萩原2006)、チベットのそれと比較して極めて大きな差異があると言わざるを得ない。このような分析レベルの「浅さ」は、1959年のチベット動乱以前に持ち出された法制史料せよ、現在中国において公開・出版されるようになった法制史料にせよ、そのほとんどが「法典レベル」であり(次旦平措1989,1992)、またそれら以外の公文書においても、現在実見できるのは清朝とチベットとの密接性を示すものに偏っており(西藏自治区_案館1995)、さらに各地の_案(公文書)館に所蔵されていると推測される個別の具体的な記録は、現在閲覧は全くできない状況(山田2011調査)であることに起因している。
 本研究で取り扱う「カンカル家文書」は、西チベット・ポロン地方の有力者カンカル家が守り伝えてきたラサの中央政府とポロン・ゾン(県)庁の往復文書や公文書、書簡40数点で、同文書は一つの地域のまとまった公私の文書もんじょである点、また一つの家族に伝えられてきた「家分文書いえわけもんじょ 」である点において従来知られてきた史料とは質的に全く異なる。申請者と山田、日高、大西の4名は、研究会を開催し読解に着手しているが、その内容は集落単位の耕作地や徴税実績の詳細、寺院所有の耕作地の状況、役人任免の詳細など、近世チベットにおける末端レベルの地方統治及び社会の実状を示すものである。
 本研究では平成24〜26年度にかけて、@「カンカル家文書」のデジタル保存化、A公開に向け、各文書における発令者・受領者・発令年月日・内容・サイズ・書体・形状・紙質の確認、B本文書の目録・分類・注釈・索引の作成など文献学的な整理と、解読・翻訳などの文書の分析を行う。公文書独特の術語や文書に登場する地名の比定のために、デスクワークだけではなく、中国チベット自治区・ネパール・インドにおいて海外調査を実施する。また本研究の一層の深化発展のために海外から近世チベット法制史の専門家を招待して国際シンポジウムを実施する。
 本研究の推進により、単なる希少史料の保存だけに止まらず、これまで伺い知ることができなかった近世チベットの末端レベルの社会の実情が明らかにすることとなり、それによりモンゴルなど、清朝の支配下にあった他の民族や、その他の諸国・諸民族の近世社会との比較・対照を可能にすることが期待される。目次へ
研究の斬新性・チャレンジ性
 「カンカル家文書」は、カンカル家出身の白館戒雲(ツルティムケン・カンカル)大谷大学名誉教授が所蔵する40数点からなるカンカル家伝来の古文書約をいう。カンカル家は西チベット・ポロン地方において近世期に勃興した平民の富裕な一家で、19世紀後半以降、同地を中心に地方の官衙に奉職する者を輩出した。「チベット動乱」の際、一家はネパールに脱出し、本文書は当時の家長によって持ち出された。その後、長男サムドゥプ氏に受け継がれ、2007年、同氏の死去に伴い、京都市在住の白館氏にその管理が引き継がれた。同文書のうち、1点がチベット亡命政府が設立したLibrary of Tibetan Works and Archives(LTWA)に寄託され、ポロン地方に関する史料集 (Dawa Dhargye2009) にそのテキスト(pp.172-175)と写真(p.377)が掲載されている。またドイツ・ボン大学のCentral Asian Seminarにも10数点が寄託されたが、管見の限り公開は確認されていない。いずれにせよ白館氏の手元にある約35点はいまだ公開されておらず、ボン大学に寄託された10数点も含めた「カンカル家文書」40数点は、未研究の新出史料といってよい。今後、亡命社会もしくは中国統治下のチベット本土で本文書に比肩しうる家分文書が出現する可能性はあるが、学術的な分析・対象となるチベットの家分文書は、本文書が最初のものである。
 現在、白館氏の手もとにある約35点は一枚の風呂敷にくるまれた状態で保管され、全く整理・調査はなされていない。同文書の保存分析は白館氏1人では物理的・資金的に困難であり、また1942年うまれという氏の年齢を考慮すると散逸の可能性も否定できず、そのデジタル保存化が急務となっている。また、前頁でも述べたように、法制史料を用いた従来の研究は、法典の条文の文面の分析に基づく考察にとどまり、運用に関する個別具体的な材料をほとんど欠いた状態にあり、「カンカル家文書」はこの欠落を埋めるものである。すなわち、文書の現況、史料的価値を踏まえると、同文書のデジタル保存化、研究分析を行うこと自体、斬新なアイディアとチャレンジ性を有しているといえる。
 さらに「カンカル家文書」は、チベットの法制や地方統治、社会の実態をゾン(県)レベル、集落レベル、家レベルにおいて記されており、従来の法典史料では見出せない役職名、税目名が頻出する。従って、現在利用可能なチベット語文語の辞書で最も充実している張怡_(1978)でさえ、本文書の独特の語彙や言い回しには全く対応できず、訳者たちが新たな訳語を決めていく作業が多数必要となる。本研究では、このような公文書独特の書体の解読や語彙の翻訳に正確を期し、さらに地名の比定を行うため、1959年以前のポロン地方を知る人々や、チベットの伝統的な教育を受けた人々への聞き取り調査を行う予定である。こちらもインフォーマントが高齢に達していることから急務である。以上から、本研究で得られた知見は、今後、同種のチベット語公文書の読解を試みる人々にとって、その都度参照すべき規範的な役割を果たすと想定される。そればかりか、研究の現状と同文書の史料的価値を踏まえると、チベット歴史研究において空白ともいえる末端レベルの社会史の解明に貢献するものであり、モンゴルなど他の地域と比較することによって、清朝史研究の発展にも大いに寄与できる点、卓越した成果が期待される。

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研究計画・方法(概要)
(1)「カンカル家文書」の保存 全件に対して写真撮影とテキスト入力を行い、公刊とインターネット上での公開を行う。
(2)「カンカル家文書」の書誌学的研究と活用 本文書に使用されている書体や用語は非常に独特であり、現地調査や1959年以前のチベットを知る世代の助力を得ての読解に取り組む。
(3)研究の成果発表及び発展のため国際シンポジウムを開く。
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研究方法
(1)保存と公開
・ 研究分担者で「カンカル家文書」の所有者である白館戒雲・大谷大学名誉教授の監督の下、文書の写真撮影を行い、デジタル保存を行う。
・MacintoshのPCを用い、チベット語ウチェン体(=活字体)およびローマ字転写にてテキスト化する。
・報告書を作成する。将来的には『研究成果公開促進費』に申請して研究成果の出版を目指す。他の研究者の便宜を図るため、デジタル化した文書をカラーで公開する。
・インターネット上で公開する。その際、上記同様デジタル化した文書をカラーで公開する。
(2)書誌学的研究
 「カンカル家文書」には、公文書としての独特の書体や語彙、慣用句が登場する文書や家族名・人名、集落レベルの地名などの固有名詞が多数みられる文書が多数含まれている。
 第一段階として、研究代表者・分担者・協力者で研究会を組織し、分担して内容の読解を進める。僧侶としてチベットの伝統的学問を修得した白館戒雲氏、チベット古典文学に造詣の深い三宅伸一郎・大谷大学講師が指導・監督の役割を担う。定期的に報告会を開き、古典文語の一般的知識だけでは解読できない書体・語彙・慣用句、固有名詞について情報を共有する。
 第一段階で解決できなかった問題個所の読解に正確を期すため、第二段階では、中央官・地方官として1959以前の伝統的公文書の読み書きの訓練を受けた者、1959年以前のポロン地方を知る者をインフォーマントとする聞き取り調査と現地調査を行う。インフォーマントはネパール在住のカンカル家の他のメンバーやインド・ダラムサラのチベット亡命政府の関係者、ポロン地方在住者などに求める。調査の実施地域はネパール・カトマンズ、インド・ダラムサラ、中国・チベット自治区ポロン地方、期間は2〜3週間の予定である。
(3)国際シンポジウムの開催
 研究の成果発表及び発展のため、海外の研究者を招いて国際シンポジウムを開催する。招聘者は青格力(チンゲル)氏(中国社会科学院歴史研究所助理研究員)を予定している。氏は「伝統文書の保存、活用、継承」プロジェクトの代表をつとめ(チンゲル2010)、また近世チベットに関連した法典や新出史料についての著作があり(チンゲル2001,2003)、本研究のより一層の深化、発展を促進してくれるものと考えられる。
(4)近世チベットの地方行政及び社会の解明 
 以上の作業を通じて「カンカル家文書」からみえる近世チベットの地方行政及び社会の実情を描出し、論文としてまとめて成果を発表する。

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研究分担
研究内容
分担体制

 「カンカル家文書」の保存作業。
手塚利彰(代表者)、白館戒雲(分担者)、山田勅之(分担者)、日高俊(協力者)、大西啓司(協力者)、

書誌学的研究
・「カンカル家文書」の読解作業。
・「カンカル家文書」の公開作業(報告書作成、インターネット上での公開)。
・国際シンポジウムの開催。

手塚利彰(代表者)、白館戒雲(分担者)、三宅伸一郎(分担者)、山田勅之(分担者)、日高俊(協力者)、大西啓司(協力者)、伴真一郎(協力者)

現地調査(ネパール、インド、中国)。
近世チベットの地方行政及び社会の解明(論文執筆)。
手塚利彰(代表者)、山田勅之(分担者)、日高俊(協力者)、大西啓司(協力者)
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研究計画
 本研究の期間は3年とする。
 本研究課題開始に先立ち、2011年7月からポロン地方の史料集(Dhawa Dargye2009)に収録されている「カンカル家文書」を含むポロン関係の公文書の読解に取り組み、この種の文書の特性、内容を検討している。
 1年目前半まで文書の保存作業を行い、1年目後半〜2年目いっぱいにかけて、書誌学的研究のうち文書の読解に費やす。これらの作業にはチベット史を専門とする上記3名の協力研究者の協力を得る。2年目の適当な時期に国際シンポジウムを開くことで、研究成果の発表を行うとともに課題を抽出し不足する点を補う。3年目は現地調査と報告書作成と論文執筆に充てる。詳細は以下の通りである。

○平成24年度の計画
・白館戒雲・大谷大学名誉教授の監督の下、「カンカル家文書」を写真撮影しデジタル保存を行う。また、デジタル保存終了後、研究会を組織し文書の読解作業に入る。
○平成25年度の計画
・引き続き文書の読解作業を継続する。その際、解明できない用語、用例、文体、及び同定できない地名を整理し、現地調査の準備をしておく。
・国際シンポジウムを実施する。
○平成26年度の計画
・夏に現地調査を実施する。カンカル家関係者、チベット亡命政府関係者などをインフォーマントとして、文書中において解明できない用語、用例、文体、及び同定できない地名を解明する。そのうえで、チベット自治区ポロン地方へ赴き、地名の同定作業を行う。調査国はネパール、インド、中国チベット自治区で、調査期間は2〜3週間とする。
・報告書の作成。
・「カンカル家文書」からみえる近世チベットの地方行政及び社会の実情を描出し、論文としてまとめる。
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人権の保護及び法令等の遵守への対応
 本研究では、「佛教大学研究倫理指針」を踏まえて研究を実施する。
 平成26年度に実施するチベット、ネパール、インドでの現地調査では、チベット人亡命社会のカンカル家や亡命政府の関係者、チベット自治区ポロン地域の人々などをインフォーマントとした聞き取り調査を行う。
 個人情報の取り扱いや聞き取り調査の結果については、「佛教大学研究倫理指針」の第5条、第6条、第7条、第8条に基づき慎重にとりあつかい、研究目的以外では使用しない旨を事前に相手方に知らせて同意を得る。また、実名公表は、相手の同意を得たとしても、現地の政治情勢などに応じて行わない場合がある。
 また、調査に当たっては調査国の法令を順守し、現地の警察当局・公安当局の指示に従う。
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