チベット略史   1999.05.04公開/2000.02.05修正

チベットの建国とチベット民族の成立
氏族教団と活仏教団
グシハン王朝のチベット再統一
政治・宗教におけるダライラマの権威の確立
 (1)ダライラマの宗教的権威
 (2)俗権の再編
 (3)ダライラマの政治的権威
ダライラマ五世の死の波紋
 (1)ツァンヤンギャムツォの継承
 (2)サンギェギャムツォとグシハン一族の権力闘争
 (3)グシハン一族の内紛
 (4)ジュンガル部のチベット侵攻と清国の介入
 (5)ハン位継承者問題
清国の青海出兵とグシハン王朝のチベット支配体制の解体
清国の諸民族統治体制とチベット
清国再編の努力と辛亥革命
共和主義者による新国家「中国」の構想とチベット・モンゴルの対応
中国を巡る国際環境とチベット・モンゴルの選択
国民政府のモンゴル人民共和国承認と、人民政府による「西蔵和平解放」
 
このページの先頭へ //目次へ

チベットの建国とチベット民族の成立
 チベットの実質的な建国は、七世紀前半、ソンツェンガンポ王の時代である。チベット高原統一の後は、東アジア随一の大国であった唐王朝の中国と軍事面では互角に戦いながら、近隣地域に勢力を拡大した。
 八世紀の後半、仏教が国教とされ、仏典を正確に翻訳するためにチベット語の語彙や文法が整えられ、寺院の建立、僧侶の養成、仏典の翻訳などが国家事業として推進された。古代チベット王国は、仏典の翻訳事業が一段落してほどない842年、タルマ王が暗殺されたのを契機として分裂、崩壊し、これ以後各地に大小の領主が割拠する分裂状態が八世紀にわたり続くが、高原の住民たちは、古代王国による二世紀あまりの統合をへて一つの国民としての一体感を持つようになり、チベット王国の末裔としての意識と、文化遺産としてチベット語仏典を共有するチベット民族が成立した。
 
このページの先頭へ //目次へ

氏族教団と活仏教団
 古代王国の崩壊以後、仏教は、国家の保護を失っていったん衰退するが、その後の二世紀ほどの間にチベット人一般の間に浸透し、特定の宗派と領主一族が融合一体化した 「氏族教団」 が各地に成立した。13世紀から15世紀にかけて、中央チベットではコン氏と結んだサキャ派、ラン氏と結んだパクモドゥ派などの氏族教団が覇者となった。また、ヒマラヤ南麓のブータンは、チベット王国の末裔が樹立した諸国のうち唯一独立を完うして国連加盟国となった国であるが、ギャ氏の氏族教団ドゥク派の法主ガワンナムギャルによって1616年に建国されたものである。チベット語の国名「ドゥク=ユル」はこの宗派の名に由来している。
 十五世紀にはいると、宗派のトップや有力本山の座主の地位を、特定の血筋からではなく先代の「生まれ代わり」に継承させるという化身ラマ(活仏)制を取り入れたカルマ派、ゲルク派が勢力を拡大した。チベット国内ではカルマ派が優勢で、ゲルク派は活路を国外に求めて積極的にモンゴル人への布教を展開し、デプン寺の座主ソナムギャムツォは、1578年にモンゴルの実力者アルタン=ハーンと会見し、「ダライラマ」の称号を受けた。

このページの先頭へ //目次へ

グシハン王朝のチベット再統一
 イリ河畔を本拠地とするオイラト族の指導者のひとりグシハンは、1636年、直属のホショト部族を主体とするオイラト諸族を率い、チベット遠征に出発した。グシハン麾下のオイラト軍は1637-42年にかけて各地の非ゲルク派の施主である大領主を滅ぼし、中小領主を服属させて、チベットの中核部分を制圧した。
 グシハンはチベット平定が一段落した1642年、今日のシガツェで 自ら「チベット三州のハーン」に即位した。そしてダライラマ五世にはチベットで最も肥沃で人口稠密なヤンルンツァンポ河流域を寄進し、ダライラマの俗務係ソナムラプテンに、歴代の中央チベットの覇者たちが継承してきた「デシー」の称号を与え、ダライラマ領の統治をゆだねた。残る各地は一族の直轄領または貢納民として、自分の十子に分属させた。
 グシハンによる併合を免れた主なチベット人の諸国としては、ヒマラヤ山脈南麓にラダック、ブータン、シッキムなどがあり、また麗江を本拠とするナキ族のジャン王国もカム地方の南半部を領有していた。第三代ダライハン=グンチュックは、ジャン王国を攻撃してチベット人地区を没収したり(1669)、ラダックを攻撃して国境を西方に拡張するなど(1680-83) 、さらなる拡大を続け、チベットの国土の大部分がグシハン王朝の征服下に入ることとなった。
 そして今日,結果的には、チベット人の国土のうちグシハン王朝に征服された地域が中国の統治下に置かれ、グシハン王朝の征服を免れた地域がブータン国や、インド・ネパール領となっている。

このページの先頭へ //目次へ

政治・宗教におけるダライラマの権威の確立
   (1)ダライラマの宗教的権威
 ダライラマの属する宗派・ゲルク派は、宗祖ツォンカパがガンデン寺を建立してその座主となった1409年を立宗の年とする。この寺の座主の地位はゲルク派の碩学たちが任期制で継承した。ダライラマ位は、ツォンカパの二大弟子ゲンドゥンドゥプを第一世とし、ある時期以降デプン寺の座主を担当するようになった化身ラマの名跡であるが、1642年以前は必ずしも常にゲルク派の頂点に位置する地位ではなかった。また、ゲルク派自体、チベットにいくつかある有力宗派のひとつにしか過ぎなかった。
 しかし1642年以降この状況は一変する。ゲルク派はダライラマを頂点とする形で系列化され、グシハンの熱烈な庇護をうけてチベット最大の宗派となった。ダライラマは他宗派に対する指導権もこの頃に獲得したらしく、1747年に執筆された史書「パクサムジョンサン」には、ダライラマ五世が「宗教の長」あるいは「全ての宗派の大ラマ」になったと記されている。オイラト本国やハルハ、内モンゴルなど、モンゴル人の諸国・地域ではこれ以前よりゲルク派が優勢であったから、ここに、ヒマラヤ南麓諸国を除くチベット仏教圏の大部分を覆う形でダライラマの宗教的権威が確立されることになる。
 グシハンによるダライラマの宗教的な権威を確立するための努力の第一としてあげられるのが、「ダライラマよりハン号を受けたこと」であろう。この時期、モンゴルやチベットの俗人権力者たちは自身の信仰する宗派の高位聖職者に自らの地位を箔づけしてもらうことを好んだ。グシハンは1637年に青海地方を平定すると、ただちにラサにのぼり、ダライラマ五世から「ハーン」の称号を授かった。このことはオイラトという強国の指導者によるダライラマへの支持を示すものであり、他宗派やゲルク派内の他の高位聖職者に対しダライラマの権威をおおいに高めるものといえよう。ダライラマの権威増大のための事業の総仕上げというべきものが、清朝皇帝との会見である。チベットの管長クラスの宗教的権威が文殊菩薩の化身たる中国の皇帝と自ら会見して「施主と受施者の関係」を結ぶことは数世紀に一度あるかないかの大事件であり、その実現は、ダライラマの権威を国際的にも確認させるものとなる。グシハンは清朝に対し1643年以来ダライラマを北京に招聘するようしきりに要請し、1653年より54 年にかけ、ダライラマ五世と順治帝との会見が実現するに至る。
   (2)俗権の再編
 グシハン麾下のオイラト兵は、征服活動が一段落した後もチベット各地にとどまった。大部分は青海湖畔に遊牧し、ハンの直属部隊がラサの北方のナムツォ(テングリノール)湖畔のダム草原に配置された。さらには第三代ダライハンの時代、ガリ地方のガルトクに兵力200程度の換防兵が配置された。
 征服地のチベットには、集権的な中央権力機構が樹立されることはなく、大小の地方政権の割拠状態が温存された。
 最大の地方政権が新たに成立したダライラマ領である。ここではダライラマの俗務係(チャンゾェパ)が統治者「デシー」に任命され、ハンとともに「天における太陽・月のごとき地上の一対」となって、ダライラマの権威の増大、仏教の発展に取り組んだ。グシハンとソナムラプテンは、ダライラマ五世と順治帝との会見を成功せさると、過去にフビライとパスパが「施主と受施者の関係」を結んだことを超える評判を得た、と自画自賛した。  その他の地方政権の領主たちは、オイラト領としてグシハンの貢納民となり、貢納と引き替えにその保護をうけることとなった。
   (3)ダライラマの政治的権威
 グシハン麾下のオイラト族は、グシハンの没後、10人の皇子たちに分割相続された。彼らは生母の違いにより左翼・右翼にわかれ、左翼はハン位を継承したオチルハン=ダヤンが、右翼は「ホンタイジ」号を得たドルジが統率することになった。そして代替わりがすすむにつれ、分割相続によるオイラト族の細分化は一層すすんだ。
 貢納民たる地方領主達に対する支配権も、オイラト族と同様に皇子たちに分配され、子孫に受け継がれていった。
 グシハンの在世中は、チベット各地のオイラト族や各地の貢納民は全て彼の掌握するところであり、ハンを以て「チベットの俗権の総覧者」といいうる状況にあった。しかしグシハンが没すると、彼が保有していた権限は細分化される一方となり、俗権を一手に掌握する人物はだれも存在しなくなる。「チベット三州」すなわちチベット全土の君主というチベット=ハンの位置づけは、グシハンの在世当時こそ、チベット全土を覆う世俗的な権限の裏付が存在していたが、代替わりがすすむにつれ次第に名目的なものとなっていったのである。
 一方、ダライラマは分割されることのない広大で富裕な所領を有していた。しかも時代が降るにつれ、ダライラマ領の内外を問わず各地に新設されるゲルク派寺院の数やそこで修行する僧侶の数は増大し、それらを通じてダライラマの権威は一層チベット全土に浸透していった。
 このようにして、ダライラマ五世は、グシハンの構築したチベット再編の枠組みを通じて、チベット全土を覆う権威を保有する唯一の人物となったのである。
 ダライラマ五世がいかなる宗教上・世俗上の権限を獲得・保有・行使していたのか、その実態の解明は今後の研究課題であるが、彼が全チベットを覆う宗教的権威を背景として、俗人権力者たちにきわめて大きな影響力を行使しえたであろうことは想像に難くない。
このページの先頭へ //目次へ

ダライラマ五世の死の波紋
 ダライラマ五世を頂点としてチベット全土を覆う宗教的ヒエラルヒーの網の目は年々強化されたため、俗人権力者の間で権限の細分化が進行してもチベットの統合は揺るがなかった。しかしダライラマ五世が1682に没すると、その後継者の認定を巡り大きな混乱が生ずることになる。
   (1)ツァンヤンギャムツォの継承
 ダライラマ五世の晩年にデシーに就任したサンギェギャムツォは五世の死を十五年間秘匿してツァンヤンギャムツォをひそかに養育し、1697年に五世の死を公表するのと同時にダライラマ六世として即位させた。しかし六世はほどなく放蕩に走り、僧侶としての戒律を返上してしまう。サンギェギャムツォは責任をとってデシー位を退いたが、息子のガワンリンチェンを替わりに就任させ、黒幕として権力を握り続けた。
   (2)サンギェギャムツォとグシハン一族の権力闘争
 デシー=サンギェギャムツォはツァンヤンギャムツォを密かに養育する一方、ダライラマ五世の宗教的・政治的権威を自らが継承したという自己神格化をも試み、グシハン一族の排除を目指した。
 ただし、サンギェギャムツォとグシハン一族の権力闘争は、史料間の記述に著しい相違があり、具体的内容を確定することが非常に難しい。
 1700年に死去した第三代ダライハン=グンチュクにはテンジンワンギャルとラサンの二皇子があった。「パクサムジョンサン」によれば、サンギェギャムツォは 即位して程ない兄テンジンワンギャルを毒殺してさらに弟ラサンの追放を図り、ラサンから返り討ちにあったという。一方「ジャムヤンシェパ一世の伝記」によれば、兄テンジンワンギャルは父ダライハンの死と同じ1700年に中風で死去し、ラサンがハンとなって1703年に「チンギスハン」という称号を得たという。この史料でも、サンギェギャムツォはラサンの追放を図って却って逆襲をうけ、敗死したと述べられている。この時期にチベットに滞在していたカプチン会の宣教師デシデリは、兄テンジンワンギャルについては記すことなく、毒を盛られたのはラサンだと記す。
 ともあれ、ラサンは1705年にサンギェギャムツォとの権力闘争に勝利し、ダライラマ領の行政機関「ガンデンポタン」を手中に収めた。そして不行跡なツァンヤンギャムツォを廃位し、イェシェギャムツォという僧をダライラマ六世として即位させた。
   (3)グシハン一族の内紛

   (4)ジュンガル部のチベット侵攻と清国の介入

   (5)ハン位継承者問題


このページの先頭へ //目次へ

以下の各節は次回更新時に掲載


清国の青海出兵とグシハン王朝のチベット支配体制の解体

清国の諸民族統治体制とチベット

清国再編の努力と辛亥革命

共和主義者による新国家「中国」の構想とチベット・モンゴルの対応

中国を巡る国際環境とチベット・モンゴルの選択


国民政府のモンゴル人民共和国承認と、人民政府による「西蔵和平解放」

このページの先頭へ //目次へ