おもしろトピック ギャルワ=カルマパ「八世」リンチェンペルデン  2000.01.29公開/2000.02.04修正


明朝皇帝。
 漢文史料に「大慶法王領占班丹 (リンチェンペルデン)」、一部チベット史料にギャルワ=カルマパ八世と自称したという記事が見える。
 正徳5年には、自らに「大慶法王西天覚道円明自在大定慧仏」の称号と印章・勅書などを給した。
ギャルワ=カルマパ八世ミキョドルジェに入朝するよう招請したが、会見を果たさず死去。
諱(本名):朱厚照
生没年:1491-1521
在 位:1506-1521
廟 号:武宗
年 号:正徳

(引用)
ところが、ケーペーガートンにはこれに関連してもう一個所極めて興味ある記述があるのである(KPGT, p.677)。
尊者チョェタクギャムツォの、「我の後の転生において、カルマパ一派なれば教法の大義は成就せざるを以て、カルマパは二派となるべし」と仰せられたるごとく、天子正徳皇帝は御身の現前が同時であり、即ち尊者第八代の誕生と天子の獅子座に即きたるとは時を同じくす。この天子はよって黒帽を被り、「我はカルマパなり」と語られたり。
チョェタクが、カルマパは二派なるべしといったのは、カルマパが黒帽派 Shwa nag pa と紅帽派 Shwa dmar pa とに分かれることを懸記したものであるが、丁度チョエタクが死してミキョエに代わるときが武宗の即位の年に当たっていたのである。武宗が自らカルマパなりと称したということは漢文献のうちには全く記されておらず、疑わしいとも思われるが、しかし彼が自ら大慶法王リンチェンペンデン Rin chen dpal ldan と号し、ラマ服を着用し、チベット語を操っていたことは有名な事実である[二七六頁]。しかもその本人が天子としてでなく、「法王」として彼を招請したのである。何人かが武宗にカルマパの転生者たることを吹き込んだために、彼はそれを信じてラマ僧を気取るようになったのであろうか。或いはラマ教を愛好する故にそのようなことをなし、カルマパの転生者としての噂をうんだのであろうか。そのところは一向あきらかでない。しかし恐らくカルマパの転生者としての噂は当時のチベット人の間ではかなり拡まっていたのであろう。しかもそれが黒帽を被っていたとすれば、これは黒帽派であり、ミキョエとの間に何れが正統であるかという疑惑は何等かの形で起る筈である。ミキョエはその紛争を恐れて入朝を拒否したのではなかろうか。噂によって入京を拒否するということも、実際には拒否の理由にはならないであろう。数年後に入朝するという言葉は苦しい言訳であったと思われる。それにしてもこのような事情の故に入朝しないというのも些か常識を外れた決定のように思われるかもしれない。しかし相手は超常識の武宗である。ミキョエの拒否は非常識なようで結局常識的な保身の術であったとさぜるを得ない。
  佐藤長先生「第四 明朝冊立の八大教王について」(『中世チベット史研究』, pp.186-188)より  

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