006
かとうれいこ問題 その〈1〉

  何と、前回(005)から一年以上が経過して仕舞っていることに、私は驚きを隠すことが出来ない。隠すことが出来なくても別に構わないが、とにかく、二十世紀も残すところたった二年(因みに、中国では、西暦2000年から二十一世紀ということにしてあるそうですが)となった現在、このように価値ある問題について論じることが出来る私は幸せである。---その通り、"かとうれいこ問題" こそ、所謂 "巨乳" を巡る有らゆる問題、即ち乳論の原点なのである。かとうれいこさんは、単に日本の巨乳クラシックの代表といって済ませてよいようなお方ではないのである。〔中国の二十一世紀については、訂正があります。次の007冒頭を御参照下さい---2000年、2月---〕
  "かとうれいこ問題" とは、どうして彼女のおっぱいはインパクトがあるのか、ということである。かとうさんは、勿論、バスト1メートルを超えるような、文句のない圧倒的な巨乳の大物という訳では全然ないのだが、それでも、何故か不思議と、如何にも巨乳である、という印象をわれわれに与える、ということが、この問題の出発点にある(このこと自体に納得出来ない方には、かとうさんのグラビア・アイドルとしての全盛期の写真を、改めて幾つかじっくりとご覧頂く他はない)。その秘密は何か?
  この問題に充分に答えることが、乳論の殆ど全ての問題の解明につながる、と言っても過言ではない。つまり、かとうれいこのおっぱいの分析は、乳論にとって最大かつ最重要のケース・スタディなのである。"かとうれいこ問題" は、乳論の各論であると同時に総論、本質論である。

  ‥‥一応断わっておくが、われわれ乳論者たるもの、かとうさんのおっぱいの前で必ず一度は立ち止まらねばならない、と私が考えるのは、かとうれいこのおっぱいが、一箇の重要極まりない〈問題〉だからである。それに盡きるのであって、実は失礼ながら、私個人は、それほど、トータルにタレントしてのかとうさんという人物にゾッコンという訳ではないのである。簡単に言って、私はかとうれいこのファンではない。言い換えると、おっぱいがらみでないかとうさんに、私は殆ど何の関心もないのである。私の全くの個人的な趣味の範囲のなかのことであるが、かとうさんは所謂巨乳と言ってよい人であるし、端正なお顔もしていらっしゃって、美人だと言ってもよい。しかし、なんというか、全体的にバランスがとれた一人の人物としての魅力---通常、乳論の内部では、こういう魅力は要求されないのであるが---に欠けることが気になる、というか、深みのようなものが感じられないことが意識されて、彼女のグラビアに接する度に、残念だな、という気持ちが先立って仕舞うのである。彼女がトータルな人間としての魅力を見せようとしていることが殊更に感じられるので、却ってそれが、かとうさんの肉体美を味わうことの妨げになって仕舞っている、と言えばいいのだろうか(実は、かとうさんの肉体美ということだけをとってみても問題があるのであり、これは次回で扱うことにする)。彼女のおっぱいが、もっともっと巨きかったならば、こういう複雑微妙な感情は生じなかった、ということなのかも知れない。
  かとうれいこさんは、どうやら、ごく最近出版された写真集を転換点にして、云わば完全に "乳離れ" し、マルチ・タレント或いは女優としての道を本格的に歩むことが決定的になった。女性のおっぱいというものには、(悲しいことであるが)賞味期限があり、それが切れたのである。しかし、かとうさんの場合は始めから、おっぱいに全てを賭けていた訳ではない(まぁ、そんな人は少ないでしょうけど)。賞味期限切れは彼女の芸能人としての人生設計に最初から折り込み済みのことである。タレントとしてどこまでも成長し、芸能界で長く活躍してゆくためには、自分の水着グラビアがもてはやされるというようなことを手放しで喜んでいては不可ないのである。売れなくなってきたらフル・ヌード写真集を出して自爆し、芸能史の泡と消えるような道を歩みたくはないという、昔からの彼女の強い意志が少しずつ実を結んでいるのが、かとうさんの現在の姿なのであろう

  本題に入ろう。---何故、かとうれいこのおっぱいが問題になるのか---言い換えると、どうして、かとうれいこのおっぱいが魅力的であることが問題なのか?
  先ず、或る資料による彼女のプロポーションを見て頂きたい。

    T=161  B=86  W=58  H=84

  これは、かとうさんのグラビア写真の隅のキャプションで、所属事務所のイエローキャブの住所などが一緒に書き込まれたもののなかで紹介されているデータだから、公式の数値だと考えてよい。
  このデータの全体が問題ではあるのだが、やはり一番驚くのは、バストが80センチ台だということである。‥‥私が乳論への道を踏み出したそもそもの決定的なきっかけが、かとうさんのこの数字だと言っても大袈裟ではないほどなのである。どうして80センチ台に収まっていられるのか?これは可笑しいのでないだろうか。特にビデオで、彼女の胸がぶるんぶるん揺れているところを観たりすると、86という数字は激しくわれわれの感覚に逆らってくる。イエローキャブはアカラサマなウソを言っているのではないだろうか。明らかに彼女は巨(おお)きいのである※※。 感覚的には(感覚を数字に置き換えて考えれば)、明らかに超90センチ級の巨きさの筈なのである。例えば、さきほど脚注で少し触れた黒田美礼さんのことを考えて欲しい。黒田さんは B=95 ということになっている。黒田さんくらい見栄えがすれば、90センチ台半ば、というのが、ノーマルで自然な視覚的印象と数値との組み合わせである。彼女の場合に問題はない。他には、大原かおりさんがやはり95センチである。これも、(本当はこの数字は大きすぎるのではないか、という疑念がときおり脳裏をかすめるが、それでも何とか)納得のゆくものである※※※。これにひきかえ、かとうさんの数字は、感覚的には小さ過ぎるのである。

  イエローキャブがウソをついている、という可能性は充分にある。
  かとうさんが芸能界へデビューしたのは、〈巨乳=D カップ〉という定式が世間に浸透しようとしていた頃のことである。「D カップ」というのは、ダイレクトに「巨乳」を意味していた。世の普通の男性たちにとっては、それが実際にどのくらいの巨きさなのか、ということはたいして問題ではないし、当時(約十年前頃)はたまたま、バスト・サイズが85〜86センチくらいあれば、巨きなおっぱい、ということになっていたのである(いまでも大多数の人々にとってはそうであろう)。つまり、85〜86くらいで充分に巨乳であるし、それは感覚的に「D カップ」と呼ばれていたのである。
  ただ、これは偶然だと考えるべきなのだが、バストがこのくらいのサイズであると、現実にもそれは D カップである可能性が非常に高いのである。更にしかし、これはあくまで日本の話である。海外には(恐らくアメリカを中心として)巨乳専門のヌード・グラビア雑誌が幾つもあり、そのなかに、その名も「D-CUP」という雑誌がある。ところが、日本と外国では、カップ数の表わし方が全く違っている。「D」というカップが表わしている筈の実際の数値は、日本と海外では異なっているのである。海外のその手の雑誌で、日本の基準で測って「D カップ」しかない人がグラビアを飾っているというようなことがあるとは、とても考えられない。とは云え更にしかし、海外のこの世界でも、「D」だけは、殆ど実際のサイズとは関係なしに、巨乳を表わすために使われている傾向があると思われる。要するに、日本でも海外でも、基本的にスケールは違うが、「D」は、実際の数値とは余り関係なく、巨乳を意味することが多いのである(その理由は、機会があれば改めて考えてみたい。単に、"D" という文字の形に関係があるというだけのことなのかも知れない)。
  ともかく、海外や、日本の現在の(巨乳ファンのあいだでの)情況とは違って、かとうさんがデビューした当時の日本では、(偶然にも)実際の大きさとして D カップの人が巨乳で通用していた(繰り返すが、現在でも一般的には、バストが85〜86センチあれば充分に「巨乳」である。この基準なら、当然パイレーツも巨乳である)。そして、超90センチ級になるともう(当時の日本では恐らく)、云わば "超巨乳" なのである。つまり、マニア的ではない、一般的な感覚からすれば、それは、"不必要に巨きい" ということである。こういう意味で「超巨乳」であることは、マルチ・タレントを目指すかとうさんにとってはマイナスの要素になる筈である。簡単に言えば、「私はただおっぱいがデカだけの女ではないのよ」ということである。このことは例えば、巨乳界(?)では既に伝説化し、一部で崇拝されている河合奈保子さんの場合に、巨乳である(と思われている)ことが、彼女の歌手活動にどれだけプラスであったのか、ということを想像してみればいいのである。河合さんは、自分の歌が愛されることと自分のおっぱいが愛されることとのあいだには何の関係もないばかりか、歌にとっておっぱいは邪魔な要素だと思っていただろうことは、殆ど確実ではないだろうか※※※※
  そこで、かとうさんの事務所が、彼女が実際には90センチ以上あったにも拘わらず、公式の数値としては10センチほど小さく偽って、適度な「巨乳」の範囲にイメージを制限した、ということは、ありそうなことなのである。

  ‥‥しかし、私の乳論は、かとうさんのこの数値(特に「B=86」)を認めるところから始まった。だいたい、"感覚的に数値が小さい" というのはどういうことなのか。こういう言い方自体に問題はないだろうか。怪しいのはやはり、「感覚」の方であって、「数値」ではない。色々に変化することが出来るのは「感覚」である。探究によって、世界を受け入れる自分の感覚を柔軟に変化させる道を執るべきなのである(こういう思考の試みが、乳論にとって有意義な訓練である、という意味合いもある)。かとうさんのおっぱいが(厳密に86センチであるかどうかは別として)80センチ台であることを受け入れたうえで、それがあのように見応えのあるものに感じられるということに、何らかの合理的な説明を見付けるべきなのである。乳論はここから始まる。

  第一には勿論、おっぱいの巨きさは、単なる "おっぱいを含めた胴回り" であるに過ぎないバスト・サイズよりも、カップで測られるべきだ、という方向に思考を集中することである。以前にも論じたように、塊としてのおっぱいの巨きさを知るためのよりよい尺度は、トップ・バストとアンダー・バストとの差なのである。かとうさんのアンダー・バストを知ることが出来たなら、それは極めて大きな収穫になる筈である。---しかし、カップ数は勿論のこと、アンダー・バストは公開されていない。そこで、アンダー・バストを間接的に想像するための目安として、ウェスト・サイズに注目する。‥‥しかし、ここでわれわれは、またしても大きな障害に行き当たることになる。---かとうさんの公式のウェストは、何と、「58」なのである。
  これも前に論じたように、「58」という数字くらい、ウェスト・サイズとして疑わしいものはないのである。58センチというのは、一般的なウェスト・サイズの "理想" なのであって、通常、現実を語っているとはとても思えない代物なのである。われわれの一般的感覚にとっては、ウェストが58センチより小さいのは非現実的でしかなく、58センチよりも大きいのは太っている印なのである。グラビア出版界がそういう理想の常識を作り上げて仕舞っているのである。ウェストが60センチなどと書いてあると、却ってほっと安心し、親しみが湧いて仕舞うのは私だけであろうか(勿論、この場合でも、実際には65センチもあるので「58」では到底誤魔化しが利かず、仕方なく「60」センチと書いてある、ということなのかも知れないが)。
  ここで決断が必要である。つまり、かとうさんの場合には、例外的にウェストが58センチであることを認めて仕舞う、ということである。かとうさんは、本当にウェストが58センチなのではないか、ということである。そして、このウェスト・サイズを基に、アンダー・バストもそれなりに小さいと仮定する。そう考えなければ、あの感覚的な巨きさは実現しないのである。‥‥この決断をそれほど誤ったものでもないと思わせてくれるのは、かとうさんの身長である。日本人のなかでは決して珍しいケースではないが、161センチという身長は、強いて言えば、低い方である。スリー・サイズのうち、最もウソをつく必要がないのが、身長ではないだろうか。われわれは、この身長のデータを信じることにしよう。つまり、かとうさんは小柄な人なのである。全体に小柄ではあるが、おっぱいが所謂「D カップ」であることによって、相対的に巨乳になるのである(実際には F カップくらいである可能性がある、と言ってもよいであろう。ともかく、この場合、"相対的に" 巨乳、というのは、"実際には小さい" ということではない、身長のデータやアンダー・バストの推定を基にして、それらの大きさとの関係から、実際に巨きいことが割り出される、ということである)。例えば、遠野奈津子さんのように、贅肉のない非常にスリムな人が公称「G カップ」であるというようなことも、たまにはあるからである。われわれがかとうさんのサイズを納得するための一番有力な考え方は、基本的には、このようなものである筈である。

  しかし、これだけではまだ、われわれの感覚は納得しない。これではまだ、何か説得的なファクターに欠けているような気がする。---かとうれいこさんのおぱっいは、あの86センチという小さなサイズで、どうして、あれだけの "巨乳感" を実現し得るのか。かとうれいこの分析はこれで終わりはしない。次回では、私が「かとうれいこ=ナチュラル遠近法体型」説と呼ぶ考え方を紹介することにしたい。

  それでは皆様、(あと十数時間で新年ですが)よいお年をお迎え下さいますように。


  ※ 数知れず繰り返される女性タレントの方々の試み、つまり、グラビア・アイドルからスタートして、歌や芝居やテレビのバラエティ番組の司会などが出来るマルチ・タレントへ成長してゆこうとする芸能活動のあり方に関しては、男性の欲望の満足が優先されるいまの社会で女性が生き抜いてゆく、ということに纏わる、女性にとっては(たぶん)辛い問題がある。これについては、黒田美礼さんの場合がよい例になる。彼女はときどきテレビや雑誌で明瞭(はっき)りと仰るのであるが、自分のおっぱいが巨きいということが自分で好きではないのである。つまり、グラビア・アルドルになりたいという気持ちが全くない訳ではないのだが(そして彼女は実際に、おしもおされぬグラビア・アイドルになった)、余りにおっぱいを強調するのは嫌いなのである。パイレーツの「だっちゅーの」によって様式として完全に確立した例のポーズ(投球前にキャッチャーと相談しているときのピッチャーの姿勢のような)が、彼女はお嫌いなのである。グラビア撮影のときには、このポーズを執ることは断固拒否するそうである。アメリカのセックス・シンボル、マリリン・モンローの芸能生活も、嫌々ながらの悲しい人生であったようだ。当然のことであるが、人間というものは、自分が愛されるときには、自分の全てが愛されることを願うものである。単なる巨乳アイドルよりはグラビア・アイドル、更にそれよりはマルチ・タレントとして、人々に愛されたい、と願うのは、タレントを志す人間として極めて自然なことである。単にハダカになってウケるだけよりは、歌や芝居の才能を認められることの方が、文化的・精神的で、要するに人間の活動としての価値が高い、という事情もあるだろう。しかしもっと根本的なところには、そもそも、グラビアやブラウン管や劇場を通して愛されることは、決して、人間として愛されることにはなり得ない、という問題がある。‥‥まぁ、当たり前のことですが、なんか悲しいですね。ここから、人間同士は結局、どうやっても(現実の恋人同士であっても)完全に愛し合うことなど出来やしない、という究極的な結論までは、もう一歩なのだから。‥‥人間て、愛がなくては生きてゆけないものなのか知ら(こんなこと真面目に考えたの、産まれて初めてだなぁ。俺って可愛い奴)。

  ※※ この「巨きい」というのは、あくまで国内的な範囲でのことである。これは別の機会に是非触れたいと思っているのだが、世界レヴェルでは、かとうさんよりふたまわりほども巨きいのが、巨乳ファンにとっての標準である(前にも述べたように、ただ巨きいだけなら、果てしはない。いま問題にしているのは、世界標準である。人間の限界ではない)。日本では例えば、相原真由子さんや中山あいさんは I カップ、沢口みきさんは J カップ、大舞じゅりあさんはK カップ、というように一応言われているが、これを更に超えてゆかねば、世界では全く太刀打ち出来ないのである。そして勿論これは、シリコンを注入して人為的に巨大化した場合を除いても(つまり、所謂 "天然" ものだけを考えても)、という話である。

  ※※※ 但し、乳論の道が如何に困難を究めるものであるかをよく示している例なのであるが、大原さんの場合、「かおり」と平仮名で大々的に売り出す一年前の、「香織」の時代のビデオ(『CREA』)によると、B=90・I カップである、それが、「かおり」になってからのビデオ(『Final Beauty 大原かおり』)では、バスト・サイズが5センチ増える代わりにカップ数はランク落ちして、B=95・H カップとなっている。けれども、私の考えでは、必ずしも、早い話がこうした「公称」の数字は全くの出鱈目だ、と結論しなければならない訳でもない。人間も、そのおっぱいもナマものであるから、特におっぱいは、時と場合によってサイズが色々に変化するということがある筈だからである。ただ、バスト・サイズが5センチ大きくなっているのにカップ数がワン・ランク小さくなっていることを事実として認めたうえで、これを充分に納得のゆくように説明し盡くすのが簡単ではないことは、確かである。ここには〈大原かおり問題〉というものも存在する、と言うべきであろうか。そういう気もする。

  ※※※※ おっぱい一本で売ることが究極の目標ではない場合、かとうさんのようにカップ数を滅多に公開しないのが普通である。大原さんのように、始めは「H カップ」というのをセールス・ポイントとして積極的に打ち出して深夜番組を中心に活躍し、いまでは広くバラエティー的展開もしているタレントさんはまだまだ少なく、こういうタイプの人々が今後増えてくるのかどうかは、注目されるところである。

006 1998 12 31