12月27日「漫画的な現実」(くろぶち)

今テレビで話題になっているニュースに「毒物を送付して自殺ほう助した」というのがありますよね。
あれを見た時に「現実が漫画よりも漫画してる」という感情になった。その感情はオウム事件の時や、神戸の中学生が校門の前に首を置いた事件の時にもなった。
なんだか現実に起きたこととして受け止められない。本当に漫画や映画を見た時のような気持ちになるのだ。

今回の薬のやつはインターネットが関わっているので余計に感心が高まる。
しかし今日テレビでその自殺関係のHPを写していたのだがそのHPの名前が‘ドクターキリコの相談室’ (?)とかだった。かなりなんとも言えぬ気分だ。

僕は自殺をするなとかネットをもっと取り締まれとかそういうことはわからないけれど、急に自分の身近な所でそういうことが起こっているのだとそのHPの名前で思い知らされた。

この事件によって環境がなにか変化するのかとかそういう事も含めて今一番目が話せないニュースであることは確かだ。

*ドクターキリコというのは手塚治虫の「ブラックジャック」に出てくるブラックジャックのライバル的存在のキャラクターで安楽死させることは悪い事ではなく、むしろ無理に延命するよりそうしたほうが幸せだと主張する人物。

12月21日「雑誌の発売日」(くろぶち)

今のような年末や夏の御盆の時期に雑誌は合併号などで1週お休みしますよね。
その時に毎回思うのですがどうして雑誌は発売日の日付ではなくまだ来ていない先の日付なんでしょうか?
月刊誌などでも次の月の日付ですよね。慣れてしまっているのですが、例えば月刊誌で1日に発売の雑誌の場合、関西の場合発売が2、3日遅かったりします。そうすると間違える場合が出てくる。

話を最初に戻すと、年末などに休まれると混乱します。とくに週刊の漫画雑誌の場合、似たロゴの増刊号などが出てさらにわかりづらいです。
何故なのでしょうか?利点とかあるんだったら教えてほしい。
素直に発売した日を書いたほうが良いと思うのは僕だけじゃないはずです。

12月18日「安井金毘羅宮」(くろぶち)

手塚治虫メーリングリストで教えて貰ったのですが、京都の東山にある安井金毘羅宮という所に「絵馬館」というものがあり、手塚治虫をはじめ沢山の漫画家達の直筆の絵馬が奉納してあるというので早速僕と雅の漫画時代コンビで行ってきました。

金毘羅宮は祇園の八坂神社から南へ行った所にあります。ラブホテル街のにあり「本当にこんな所にあるのか?」と不安になります。今となってはこういう所も京都らしさというのでしょう。
到着するとさっそく建物がありました。入場料が500円なのでちょっと躊躇しましたが入場。

立派な古い建物で和風だけれど洋館のようななんとも不思議。
2階建になっていて1Fが金毘羅宮ゆかりの貴重な絵馬と絵画、2Fが芸能人や漫画家、芸術家たちが奉納した絵馬が展示されています。
人も僕達だけで、中に入ると若い男性がひとつひとつ丁寧に解説してくれました。
「絵馬」というのは元々神事や祈願に生きた馬を献上していた行事がはじまりで、生きた馬を捧げるのが困難になりはじめたため、絵に描いた馬を捧げることになったそうです。
現在では境内などに小さな台形の絵馬に願い事を書いて結び付けていますが、昔は凄く大きい板に絵を描いて門などにかかげていたそうで、今とは全く違い大迫力です。立派な芸術作品です。しかし元々外に置いていたために今では色などが禿げていました。

そして2Fにあがると、沢山の有名人達が描いていった絵馬があります。もう好き勝手に描いてますね。手塚治虫をはじめ、漫画家の直筆の絵馬たちがすぐそばで見れます。海外のアーティストなどは絵馬のイメージが無いせいか完全にキャンバスと化してました。

そして最後に「ガラスの部屋」という別館に案内されます。そこにはガラスを使った芸術家「デイル・チフーリ」の海をテーマにしたガラスの作品がみれます。あまりの大きさと色に圧倒されました。

これだけ色々あるのに京都に住んでる僕でさえ全然知らないのは勿体無い。京都に来る用事があったら立ち寄ってみてはいかがでしょう。

安井金毘羅宮「絵馬館」

料金:500円 開館10:00〜4:00 休館日:月曜日

京都市東山区東大路松原(清水通)北西側

エ(075)651-5127

12月12日「新しい!?」(くろぶち)

この前紀ノ国屋書店で新しい「立ち読み」のスタイルと遭遇した。いや正確にいえば「座り読み」なのだが、、、

下のヘタクソな図を見てくれればわかると思うが平積みしてある場所に肘をついてなんの遠慮も無く読んでいるのである。しかも2人並んで同じ姿勢で、、、さすがにこれはなんだかなぁと思った。

読んでいる人物は若い主婦。自分の子供の髪の毛を茶色にして後ろ髪だけ延ばしてるような人。

しかも読んでいる本は「ジャニーズの追っかけ本」。本屋の人も注意できないでいるようだった。

あまりにも面白かったのでデジカメで撮ろうと思ったけどフラッシュがないと撮れない明るさだったので諦めた。だって恐いんだもん。

でもこのスタイルが流行して本屋でずらっと並んでたら格好いいかもな。

図→

12月11日「オリジナリティの所在2」(雅)

全くオリジナルなものというのは人間の頭の中には存在しないと思う。
発想とは解釈の発展形だし、解釈の前には「何か」がある。
その「何か」そのものは個人が生み出すものではないからだ。

よく「誰も思いつかなかった」というフレーズを聞くが、それは正確には誰かが考えてても実行できなかったり、無意識でみんなわかってたことを、具体的に、うまいやり方で表現できたということだと思う。
でなければ、それは誰も理解できないものになるからだ。

例えば「CUBE」という映画(凄くおもしろいからおすすめする)。
この映画を構成する物語要素の核は「立方体を基本とした不条理な建築物とその特殊状況下におかれた複数の人間」というシンプルなものだ。
この要素は監督のヴィンチェンゾ・ナタリが生んだものではなく、彼がどこにでもあるイメージを組み合わせ、それを膨らませたに過ぎない。
「そんなの当たり前だ」と、これを見ている人は思うだろう。
そう、そんなのは当たり前だ。
だがその当たり前をふまえて初めて、オリジナリティの所在がはっきりしてくるんじゃないだろうか?

やはり、オリジナリティとは、発想の巧みさ、展開のさせかた、つまり解釈以降の作業の独自性にこそあるのだ。
そしてそれは、実はその解釈までの行程が、すでに誰かに使われていても、構わないのだ。

例えば、ナタリの場合、「立方体」という単純なイメージを中心に、どれだけイメージを発展させ、それをどうドラマ化したかというところに彼のオリジナリティが存在する。

これからのクリエイターにとって重要なのは、その発想そのものがオリジナルかどうか、じゃない。
発想からの展開の中で、オリジナリティをどれだけ発現させることができるかなんだ。
(顕著な例は、やはり最近では「新世紀エヴァンゲリオン」か)

もっともこれは、ひょっとすると大昔からそうなのかもしれないけれど。

12月9日「オリジナリティの所在」(雅)

「踊る大捜査線」みたいなやり方って、結構好き。
あのやり方ってのは、例えば、他の作品からいいとこどり(それは音楽なり、シチュエーションなり、演出方法であったり)するところは素直にして、それを隠そうとせず、
で、それを吸収して、その結果、「踊る大捜査線」以外の何ものでもないっていう風に仕上げるって感じやねんね。
で、おもしろく、感動できるってことは、そこにきっちりと作り手の、新しくて凄いもんにしてやる!ってのがこめられてるからやと思う。
それは明らかに部分部分がサンプリングではあっても、パクリではない。

俺は中学の頃「幽遊白書」ってマンガが大嫌いやった。
なんでかって、あの当時でも「これドラゴンボール(17巻以降)パターンを黄金律まんまでやってるだけやん」って感じやったから。
でも、途中で見方変わって、一転してかなり好きになった。
そのきっかけはジャンプ特有のトーナメントが終わって、新しい話になってから。そこからの展開が、「今度はジョジョのパクリか?」ってとこから段々テンションがあらぬ方へ高くなって、価値の逆転とか凄い流れになっていって、とんでもないことに。
で、「ああ、パクリから突き抜けてオリジナルになったな」って思えたわけ。

さて、今サンデーでやってる「烈火の炎」ってマンガ。これは現時点で、「ただの幽遊白書のパクリ」。この後凄いことになるかもしれないけど、なりそうにない。(まあ、そんな追っかけてないから偉そうに言えないけど)
パクリのパクリで、そのまま終わったら、やっぱ最低やと思う。

たとえ、設定とか内容が「どっかであったよな」って感じでも、トータルで、そこに作ってる奴のエネルギーが流れ込めば、それは間違いなくそいつのものになると思うねんよね。境界の線引き難しいけど。
だから、それがこめられてるな、ってものは好感が持てるなあ。やっぱり。

12月6日「スッキリしよう」(雅)

昨日の夜中に「CURE」っていう映画を見た。3回目。見れば見るほど凄いし、怖い映画やねんけど、なんか見るたびに印象が変わってきた。
見方変えると、これって主人公がスッキリしていく話なんよね。
(スッキリのしかたにはひどく問題があると思うが)
だからあの映画の初見時の怖さは、見てるこっちも、実はスッキリしないまま、とんでもないものをため込んでいってるんじゃないか?っていう不安があるから、余計引き立ってるんじゃないだろうか?と、思う。

で、話は飛ぶけど、たとえば、精神の落とし穴に落ち込んでたころの手塚(虫プロ倒産や劇画の台頭の時期、「アラバスター」とか描いてた頃)や、「地獄変」の日野日出志。はたから見れば、「やっべえ〜」って感じのもの描いてても、別に本人らは社会的にとんでもないことはしてない(してたらやだなあ)んだし、それが自分の闇の発散になってるなら悪くないんじゃないかとも思う。蛭子さんだって、マンガだけ見てたら、すごい「闇」だし。まあ、読者はその闇に当てられるんだけど(^^)

極悪エロ漫画家ダーティー松本が、「狂気がマンガに出てる奴は大丈夫」みたいな発言をしたことがあるらしいが、それも、だからなんとなくわかる気がする。

と、いうわけで、今回は、何をもってスッキリするかと言う話でした。
(そんな話やったか?)

みんな、合法的にスッキリしようぜ!

12月2日「がんばれエビスさん。」(くろぶち)

ワイドショーみました?
漫画を描かない漫画家エビスさんが賭けマージャンで現行犯逮捕されてましたよ。
なんか別に意外性もショックもない悪事はエビス先生ならではって感じですね。

芸能人は可哀相、、なんか仕事も謹慎するみたいですよ。家を立てたばかりだというのにね。
なんか記者会見を開いてたけど、とても逮捕された人の会見ではなくて大笑いしてしまった。
記者の人に「今の気分を絵で表現してください」とかいって紙とペンわたされて絵を描いたりしてるし。
なんかこれにめげずに(めげないか)これからもあの人柄で生きていてほしいもです。


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