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「オリジナリティの所在」

 「踊る大捜査線」みたいなやり方って、結構好き。
あのやり方ってのは、例えば、他の作品からいいとこどり(それは音楽なり、シチュエーションなり、演出方法であったり)するところは素直にして、それを隠そうとせず、で、それを吸収して、その結果、「踊る大捜査線」以外の何ものでもないっていう風に仕上げるって感じやねんね。
  で、おもしろく、感動できるってことは、そこにきっちりと作り手の、 新しくて凄いもんにしてやる!ってのがこめられてるからやと思う。 それは明らかに部分部分がサンプリングではあっても、全体としてパクリではない。
  俺は中学の頃「幽☆遊☆白書」ってマンガが大嫌いやった。 なんでかって、あの当時でも「これドラゴンボール(17巻以降)パターンを黄金律まんまでやってるだけやん」って感じやったから。 でも、途中で見方変わって、一転してかなり好きになった。 そのきっかけはジャンプ特有のトーナメントが終わって、新しい話(仙水というキャラの登場)になってから。 そこからの展開が、「今度はジョジョのパクリか?」ってとこから段々テンションが あらぬ方へ高くなって、価値の逆転とか凄い流れになっていって、とんでもないことに。(絵柄もとてつもなく変貌していった)
  で、「ああ、パクリから突き抜けてかなりオリジナルになったな」って思えたわけ。 当時は、絵が粗くなった、って非難されたらしいけど、ほんまそういう非難する人は一体マンガの何を見てるんやろうと思う。キャラの外見だけ見て同人誌のネタ、とか考えてるの? なんぼ考えても、「幽☆遊☆白書」は後半の方が絵はよくなってる。
  さて、今サンデーでやってる「烈火の炎」ってマンガ。これは現時点で、「ただの幽遊白書のパクリ」。この後凄いことになるかもしれないけど、なりそうにない。(まあ、そんな追っかけてないし、ここ1年くらい見てないから偉そうに言えないけど)
  パクリのパクリで、そのまま終わったら、やっぱ最低やと思う。 たとえ、設定とか内容が「どっかであったよな」って感じでも、トータルで、そこに作ってる奴のエネルギーが流れ込めば、それは間違いなくそいつのものになると思うねんよね。 境界の線引き難しいけど。 だから、それがこめられてるな、ってものは好感が持てる。 そしてそれが何故か、という話。
  そもそも全くオリジナルなものというのは人間の頭の中には存在しないと思う。 発想とは解釈の発展形だし、解釈の前には「何か」がある。 その「何か」そのものは個人が生み出すものではないからだ。 よく「誰も思いつかなかった」というフレーズを聞くが、それは正確には誰かが考えてても実行できなかったり、無意識でみんなわかってたことを、具体的に、うまいやり方で表現できたということだと思う。 でなければ、それは誰も理解できないものになるからだ。
  例えば「CUBE」という映画(凄くおもしろいからおすすめする)。 この映画を構成する物語要素の核は「立方体を基本とした不条理な建築物とその特殊状況下におかれた複数の人間の行動」というシンプルなものだ。 この要素は監督のヴィンチェンゾ・ナタリが生んだものではなく、彼がどこにでもあるイメージを組み合わせ、それを膨らませたに過ぎない。 「そんなの当たり前だ」と、これを見ている人は思うだろう。 そう、そんなのは当たり前だ。 だがその当たり前をふまえて初めて、オリジナリティの所在がはっきりしてくるんじゃないだろうか? やはり、オリジナリティとは、発想の巧みさ、展開のさせかた、つまり解釈以降の作業の独自性にこそあるのだ。 そしてそれは、実はその解釈までの行程が、すでに誰かに使われていても、構わないのだ。 例えば、ナタリの場合、「立方体」という単純なイメージを中心に、どれだけイメージを発展させ、それをどうドラマ化したかというところに彼のオリジナリティが存在する。
  これからのクリエイターにとって重要なのは、その発想そのものがオリジナルかどうか、じゃない。 発想からの展開の中で、オリジナリティをどれだけ発現させることができるかなんだ。 もっともこれは、ひょっとすると大昔からそうなのかもしれないけれど。 (雅)
モドル