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「笑いと恐怖の境界線」

 人笑わせるのってかなり快感。
 では、それが受けなかった場合は? オーバーに言えば、途方もなく長く感じる恐怖の間を味わうこととなる。 (ちなみにツッコミという行為はボケを外した人間への愛あるフォローでもある)
  笑いというのは、常にリスクを背負ってるのではないか? それは笑わせる方も、受ける側も。
  松本人志の「ビジュアルバム」のバナナの巻を観た時に思った感想。 漫画にもからむ話題なので、書く。 お笑いにそんなに精通してない自分でも、まっちゃんの笑いが抜きんでておもしろいのはわかる。 なので、すごく期待して観た。さあ、どんなコントをやってくれるのか? 5本のショートコントを見終わって、静かな、お笑いっぽくないエンドロールが流れる中、 俺は凄く複雑な思いだった。 いや、おもしろかったし、爆笑するシーンもあったんあだけど、通底して感じてたのが「これ、笑えるか?」というムード。 笑いを越えて高いレベルにいっている、とかはよくわからないのだが、とにかく、この内容を笑うことにどこか違和感があった。(内容がおもしろくないというのとは全く違う変な感じ)
  で、「BSマンガ夜話」で、いしかわじゅん氏が「行け!稲中卓球部」について、『ギャグマンガで大ウケするものって、必ずどっかに暗黒部分を持ってるよね。 人間の心の暗い部分を刺激する何かがあるんだよね。 たぶん2000万人の人は(稲中の単行本の売れた数が2000万部以上)気づいてない人が多いかもしれないけど、心のどっかで反応してるんだよね』と語っていて、それを聴いて、「ああ、、、」と納得するところがあった。 「稲中」は、(少なくとも俺は)すごく恥ずかしかった「中学生」ってものを徹底的にカリカチュアして、それを「笑い」にもっていった、すんばらしいストーリーギャグマンガだと思ってるんだけど、たまに笑えない回があった。 おもしろいんだけど、それを笑うことにどこか罪悪感があるような。 それは「ビジュアルバム」に感じた違和感に近い。
  ギャグっていうのは、他の表現より、はるかに「客」を意識しなけれなならないジャンルだと思う。それは冒頭にも書いた通り、凄くシビアで残酷な世界だからだ。 不細工だと「ブス」とか言われるのと同じくらい残酷な。 ウケなかったら終わりなんだから。
  これにはこんな深いテーマが、なんて弁解の余地もない。 まっちゃんも「稲中」も、そんな残酷な世界で大成功したトップクラスの「笑い」なのだが、だからこそ、その残酷を乗り越えたゆえの残酷さがあるように感じる。 突き放した感じ、とでもいうか。 これは、もちろん俺が単純に笑いがわかってないってことなのかも知れないけど、 そんなこんなで俺は彼らのギャグを心の底から笑いきれないのだ。 たまにね。 (雅)
モドル