「つるんづの漫画大作戦」ノストラmiya(つるんづの漫画大作戦

1999年7の月

空から漫画のカミサマが降り注ぐ

オモシロクナイ漫画たちは淘汰され

何を読めばいいのかわからないクソ大衆どもは

つるんづの漫画大作戦に殺到するだろう

私は21世紀にココをこうしてアレしてるだろう

「愛しの未来ちゃん」ミドリ(LOVE&PEACE

「未来」ってゆうテーマだと聞いてとっても困ってしまったんですけど自分なりにちょっと考えてみました。

んー、まず「未来に漫画はあるのかな?」「あったとしても何かを訴えかけるような漫画はあるのかな?面白いって思える漫画ってあるのかな?」

もしかしたら単行本とか雑誌じゃなくてデーターとして売られてるのかな?とか。いろいろ考えてみたらなんだか少しさみしかったです。

でも今も昔もステキな漫画を描いている人がいるから、その漫画に影響される人がきっといるから未来にもいい漫画があるんじゃないかな?と。

あたしはどっちかとゆうと現代よりも昔の方に憧れが強い方だと思うので初めに書いたようなことを想像しがちでだけど現代のあまりよくない流れに逆らっていく人がいれば未来はきっと明るいよね。

あたしがおばぁちゃんになったとき孫達もいい漫画が読めるような時代であって欲しいなぁ。

私は21世紀にステキなママしてるだろう

「公害漫画の現在過去未来」ストロング山下(漫画鳳凰殿

近過去における近未来は、まさに現在です。

漫画において、当時の世相や問題などを題材にして、近い将来に起こり得るだろうという話を描いた短編の中で『ベビーフード』(斉藤あきら 1976 「エルドラド<黄金境>」曙文庫所載)という佳作があります。これは特に珍しい本ではないので読まれた方も多いかと思います。

20数年前、公害が非常に大きな問題となっていました。工場からの川や海中への廃液垂れ流しや、有毒物質の土中埋め捨て、大気中への拡散噴布などが人体に悪影響を及ぼし始めた時期だったのです。それは公害病と言われ古くは、水俣病や四日市喘息、イタイイタイ病などがあり多くの被害者を出しました。その後、水銀、カドミウム、六価クロムなどが問題になりました。

『ベビーフード』は、ある会社の研究員は海中のヘドロを精製し、男女産み分けの薬品を開発します。しかし、その薬品を服用して生れた赤ちゃんはミルクや通常食を受け付けません。母親がくさった牛乳を与えると嬉しそうに飲むのです。やがて父親はヘドロを与えようとします。ヘドロを食べさせるわけにはいかないと止めに入った母親は父親に殺されてしまいます。赤ちゃんはくさったものやヘドロを喜んで食べました。その父親は実は薬品を開発した研究員で、やがて自殺してしまう・・・というどうにも救いようの無いお話です。

現在でも、環境ホルモンが問題になっています。人体に少しずつ影響を与えていきます。

やがてこのような赤ちゃんが大勢生れるかもしれません。公害病問題から20数年たった今でも、まだ同じような問題を抱えています。

漫画における、時代的に普遍的な題材から公害問題がなくなるのを願っています。

私は21世紀に土方してるだろう

「未来の漫画の未来」つるんづマリー(つるんづの漫画大作戦

最近の漫画はおもしろくないね、では昔の漫画は面白かったか?
必ずしもそうではないよ、でも、個性のある漫画は多いな。これがプロの漫画なんだとよく思った。

これからの漫画はどれだけ自分を表現できるかどうかだと思う。

マニュアル通りに客に媚び媚びだと自分がないからプロじゃない。プロはなんだ?
他人に描けないモン描ける奴のことじゃないのか?俺はそう思う。そのために何がいる?まず「自分」が必要だろう。

 「わかるもの」が「おもしろいもの」で「わからないもの」が「おもしろくないもの」と言うのは、あてはまらない図式だ。漫画はショーじゃない。表現だから

客は入り込め、一緒に考えられるのだ。客のために解りやすく考えて作るんなら誰が描いてもいい事だ。

では好きなように作ればいいのか?と言うとそうではない。何か説明する時に<`わらなくてむしゃくしゃするのはただのあほだ。

世界が伝わって、世界を探検できる、そんな作品を作らねば、それには「自分」が必要だ。何人もの客の入れる世界を持った大きな「自分が、、、、、。

!すごいな漫画家って。

私は21世紀に23世紀してるだろう

「未来といえばSFでしょ」くろぶち(FLOW

未来といわれればやはりSFだろう。

SFこそ 漫画の持ち味を発揮できるものはないと言ってもいいのでは無いだろうか。

実際には存在しない世界を構築できるのだから。

しかし全て想像の世界を作り上げるといってもその漫画が作られた時代に多少なりとも影響を受けているといえる。その部分が僕はたまらなく好きなのだ。

特にSF漫画といえば手塚治虫である。ライフワークとも言える火の鳥の「復活編」「生命編」の世界観は最高にクールである。1969年代に描かれた未来は「アキラ」以降に描かれるいわゆる「サイバー」な未来とは違った色がある。

エアチューブの中を疾走するエアカー。サイケデリックなソファにでかいサングラスとパンタロン。全て丸みを持ったデザインである。

そのころ描かれた想像の世界は大体199X年とされていたりするのでもう既に現在となっている。

しかしまだまだ空飛ぶ車は存在しない。だから人間もまだ地下で生活しなくてもいいと安心してみたりする。

しかし現実の方が先に進んでいる所だってある。携帯電話なんてそうだ。漫画の中ではコード付きだし、細かい所だと、缶ジュースがタブになっていたり。

ああ、僕の生きているあいだにエアカーに乗りたいそれが夢だ。

明るい未来を希望します。

私は21世紀に宇宙ステーションでだらりとしてるだろう

「ミライさん」アリナガ☆シンイチロウ(SOS

未来なんだそうです。

いゃ、今回のテエマ。
ドイツ語だとテーゼですか。
テーゼとか聞くとなんかワクワクしちゃうんですが。
なんででしょうか。ナイショですけど。

まぁそれはいいとして、今チョーギリギリで執筆してます、ワタシ。

いゃ厳密に言うと締め切り後なんですけどね。
果たしてちゃんと届くんでしょうか?
もし仮にこの原稿が上がったとして、それがちゃあんと届くかどうかは全くもってわかんないわけで。何故なら、それは未来の出来事ですから。

人が生命を維持しつづける限り等しく保証(或いは強要か)されているにも

関わらず、実のところ全く得体の知れないモノ。それが未来です。
しかしながらその未来はある程度こちらの意図で作り替えることが出来るものでもあるわけです。例えばこの原稿を早めに切り上げれば、コレがちゃんと届く確率もぐんと確かなモノになる。
・・・早く書けよ。>オレ

まぁそれはいいとして、意図の介入する風景としての「未来」ってのは案外特殊な存在ではあるわけです。

「今」は通りすぎる風景であり、「過去」は過ぎ去った風景である。

これって電車とか自動車とか徒歩とかからの景色と通じるところがあるんだけど、決定的に違うのはそれらの景色に行く先の風景があるのに対し、「未来」には風景なんて無いってコトですね。
だからどっかのチンケなもの書きが「暗い未来」なんて月並みだかアヤナミだかの台詞を吐いてみたりしたって、それはその人の瞳の裏側あたりで展開されている「暗い」茶番劇に過ぎないわけです。いゃ、絵空事というか。

まぁそれはいいとして、『逆境ナイン』のサカキバラ・ゴウ先生が「自分の可能性を狭めるなど男のやることではない」とかの台詞を吐いていらっしゃいます。すんばらしいです。別に男でなくともとりあえず生命のあるヤツらは皆肝に銘じておくべきかもしれません。

ただ、この台詞が素晴らしく思えるという事実の裏には「可能性を狭める」輩の存在があるわけですね、きっと。

本来的には狭めるベきでない可能性をなんでまた好き好んで狭める人間がいるのか?ボクが思うにソレを狭めることになんらかのメリットがあるからではないかと。

例えば卍の投稿のテーマが「なんでもあり」になったとしましょう。すんごく大変だと思うのです。書くのが。
なんでもアリだってのは非常に素敵なコトではあるんですが、その素敵具合を存分に発揮するには相応の労力が要求されるうえに、その労力が必ずしも素敵な結果を生むとは限らないわけです。

誰だってシンドイこととかメンドイことはイヤなわけで、それだったら少しくらい不満足であれ楽な方を望んでしまう。安全な博打とでもいいますか。

まぁそれはいいとして、「夢も希望も無い未来」ってなこれまた月並みだかフジナミな台詞があります。しかしながら前述の通り未来なんてのはそもそも「なんにも無い」モノであります。もっと言えば夢だの希望だのは人間に内在するモノでありまして、件の「夢も希望も無い未来」なんて言い回しは「具もソースも無いチクワ」って言い回しと同じくらい奇怪な言い回しかもしれません。

こっからはどうでもよくないぞ。

本来何も無い未来いう存在は、言わば白い紙切れくらいの価値しかないと個人的には思うわけです。のっぺらぼうで無愛想というか。
しかし体温のある人間ならば、そののっぺらぼうな無愛想になんらかの素敵を見い出してその素敵を描いてみようと思うはずなんです。
そこに描かれるのはその人に内在する夢であり希望。その夢とか希望とかが誰かの心の琴線に触れた時、描かれたソレは見た者にインストールされそして白い紙切れは夢のインストーラとなっていくわけです。

白く無愛想なのっぺらぼうが夢のイレモノになる瞬間、それがまさしく「今」

であり、たとえその「今」が「過去」になろうともそれは永く「今」と同じ(もしくはそれ以上の)輝きを帯びつづけるわけです。

まぁそれはいいとして。

そういう意味では「未来」と「マンガ」って同義だったんですね。

私は21世紀に22世紀を夢想してるだろう

「未来は今のつづき」雅(漫画時代

時計を見る。

かちこちかちこち。

もうすぐカップラーメンができる。

かちこちかちこち。

できるまでまだ間がある。

かちこちかちこち。

じゃあ、何してようか?

マンガのつづきでも描こうか?

何を考えようか?

もうすぐカップラーメンができる。

もうすぐ明日になる。

で、何ができる?

かちこちかちこち。

私は21世紀に俺は俺。でも微妙に違ってるだろう


編集後記(くろぶち)

最近の世間を反映してか未来に対する漠然とした不安がやはりあるようです。

「しかし未来は自分で作るもの」とかおきまりの台詞を言ってみました。

1999年ですが一番心配なのはノストラダムスを信じきった集団とかがなんかテロとかしそうな気がするということです。全く迷惑な予言だよ、、、。でも楽しかったり。

1999/1/4


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