マイ・ヒーローの系譜(単なる想い出話)ストロング山下(漫画鳳凰殿

私の少年時代のヒーローというものは、「敵に勝つ」「空を飛べる」といった要

素が必須だった。マイヒーロー第1号はTVでやっていた「スーパーマン」であった。当時はアメリカのTVシリーズが日本でも多々放映されており「ベン・ケーシー」「逃亡者」などは子供のくせにおもしろいと思って見ていたものだ。「スーパーマン」もそんなUSドラマのひとつで、いかにもアメリカ人顔のおじさんがマントをひるがえしながら「ニカッ」と笑うのがカッコよかったのである。ふろしきに“S”をマジックでかいて首のところで結わえスーパーマンごっこをやっていた。これは、できるだけ高い所から無事に飛び降りることができたら勝ちなのである。余談になるが私が高校生の頃までのUSテレビ物の系譜だと「宇宙家族ロビンソン」「じゃじゃ馬億万長者」「奥さまは魔女」「スタートレック(当時は題名が違った)」「パートリッジ・ファミリー」「ペーパームーン」(ジョディ・フォスター主演)がおもしろかった。そうこうしているうちにテレビでは国産のアニメや特撮モノが始まった。ひととおり見ていたが特に好きだったのは「エイトマン」「スーパージェッター」であり実写物では「ウルトラマン」であった。この頃のヒーローの条件としては乗物、小物という要素がはいってくる。流星号や変身カプセル(名称失念)などである。「宇宙少年ソラン」の丸い宇宙船も好きだった。このへんまでは基本的に「あのようになりたい」と思わせる主人公がヒーローだったわけだが「ウルトラセブン」においてその概念は打ち砕かれてしまった。

今思うとウルトラマンですでに徴候があったような感じだが、ウルトラセブンでそれは確定的となったのだ。少年はウルトラセブンのようにはなりたくなかった。でも嫌いというわけではなくカッコ良かったし大好きだったのだが、なにか今までのヒーローとは違っていた。今でこそ、様々な証言や文献があり大人の見方として語ることはたやすいのであるが、少年時代の気持ちでウルトラセブンを語るとき、私はその感じをうまく言い表すことができない。セブンは強かったが絶対的ではなかった。弱い面もさらけだし傷つけられながら戦っていった。怪獣退治の爽快感はなくただ悲惨な気持ちが残っていたように覚えている。

セブンによって、ヒーロー像を変えられた少年は、その後「ジャイアント・ロボ」「スペクトルマン」など巨大ヒーロー物を見続けるが時代は「シルバー仮面」「バロム1」「レインボーマン」など等身大の主人公になってゆく(シルバー仮面は巨大化したけど)。その中でヒーローとなりえたのが「仮面の忍者赤影」「仮面ライダー(旧1号)」であった。奇しくも両者とも「仮面」の男なのだが、これが何かを意味しているかどうかはわからない。特に赤影の仮面は造形が簡単で少年は、ボール紙を切りぬき赤マジックか赤チンで着色して制作、“変身”して遊んでいた。仮面上部のトンガリを認識していない仲間もいた(たしかに髪の毛で隠れていてよくわからなかった)。仮面ライダーではなんといってもライダーキックの姿をどれだけ完璧にコピーできるかが勝敗の分かれ目であった。熱心なファンは、どこからもちこんだのか教室の後ろに体育用のマットを敷き練習していた。少年も一緒になって飛んでいたのだ。仮面ライダーでは変身前の主人公(藤岡弘)も同じくらいにヒーローだった。わざわざ変身しなくてもいいのにとさえ思っていたほどである。

アニメのほうでは「マジンガーZ」がヒーローであった。「鉄人28号」では燃えなかった少年はマジンガーでは火が点いた。今までのヒーローと違う点は、特にマネができなかったということであろう。中にはボール紙で作成した2枚の板を胸に張りつけ、兜甲児の声で叫んでいた者もいたみたいだが・・・。

中学時代はTVを離れ、スクリーンの中にヒーローを発見した。ブルース・リーである。あのカンフーアクションは実に衝撃的かつカッコよかった。クラスの中で2,3人はその筋の道場に通いはじめた。もとからやっていた者は男子生徒の羨望を一身にあつめた。が、少年は女子生徒にもてる方を選んでしまった。このブルース・リーの登場はほんとに各方面に影響を与えたと思う。映画ではカンフーものが粗製濫造され、和製ブルース・リーといわれた役者も何人か出現した。漫画の主人公もなぜか拳法を使う者が急増したものだ。

さらに、少年は格闘技ファンでもあったため、リング上にもヒーローを見出して

いた。それはアントニオ猪木であり沢村忠であった。猪木のコブラツイストが出たときには大騒ぎであった。当時はコブラツイストが最強のスタンディングホールドであった。卍固めなぞ出ようもんなら隣家のおやじの「出ったぁぁぁ」と絶叫が聞こえたものである。タッグマッチで、猪木がコブラツイストを決めフォローに出た馬場が16文キックでガードするシーンを見たことのないプロレスファンは不幸である。今も思い出すたび震えるシーンは猪木がコブラを決めフォローの馬場も助けようと出てきた外人にコブラを決めたシーンである。リング上でBIコブラ炸裂というとてつもない事態が起こったのだ。こういうシーンを見ていた少年は幸モンである。キックボクシングの沢村忠もコブラツイストに匹敵する必殺ワザを持っていた。それは“真空飛び膝蹴り”。これはすごかった。天性のジャンプ力による滞空時間の長さから真空という冠がついたわけだが、ほんとに効きそうだった。コブラツイストや真空飛び膝蹴りもよく仲間とやりあったものである。

その後、少年は成長しヒーローともさよならしてきたわけだが、彼らのことは決して忘れないであろう。

いやあ、ヒーローっていいもんですね。

ルパァーーン!!ミドリ(LOVE&PEACE

ヒーローの名前=ルパン3世

ルパンだよ!ルパン!

エッチでおちゃらけてるくせに、実は優しくてかっこいい!!

頭もいいし!!バカなふりで実は頭のいい人はホントにかっこよく見えます。

テレビよりも、映画の方がかっこいいと思う時が多いです。

ヒロインはフジコちゃんだよ!フジコちゃん!

なんか、ずるいことばっかりやってるのにあの色っぽさで許されてしまうとゆう。やっぱり美人は特なことが多いですね。

ヒロインとはちょっと違うけれど、クリーミーマミもあたしにとってむちゃくちゃ憧れ。(アイドルだよね、あれは!)

フジコちゃんとマミちゃんは全然違うけど両方同姓としてすごく憧れます。

現実のヒーロー=いるけど、ヒミツ!

「嵐の日にも」マッカ

ぼくの中のヒーロー達は「逆境ナイン」です。

野球部存続の危機に直面し、どんな事があっても試合に勝たなければならない状況になってしまった彼等。とよく聞くストーリなのです。その野球部には普通では考えられない苦難や逆境が待ちかまえているのです。しかし彼等は熱く熱くたちむかうのです。ほんとに熱いです。そして読者をその熱さのために何が起きているのかがよくわからなくなり、納得してしまうのです。

人間的超人ちるる

ヒーローの名前=特にはいない

ヒーローといえば、月並みだけどいわゆる漫画とかにでてくるヒーローものが出てくるな。

女の癖に小さい頃からミンキーモモよりも仮面ライダーブラックの方が、何かしら魅力的だったのです。

しかもデビルマンとか昔のものが好き。

何故かというと、うちはヒーローの超人的な力が好きなんじゃなくて、悲しい宿命とか、そこからでてくる葛藤とかそういう影(?)の部分に魅力を感じるから。

そういうところがしっかりしてる分、昔の方がすきなのです。

何年か前に見たインディーズ映画で「仮面サンダー」っちう、正義の味方が実際にいたら・・・・ていうのをパロったのが有った。結構面白かったので機会があったら見てくだされ。

現実のヒーロー=ううん、いない。

ヒーローいませんつるんづマリー(つるんづの漫画大作戦

ヒーローの名前=いません

ヒーローいません。

子供の頃みんなが「仮面ライダー」や「ウルトラマン」と騒いでいた中に、入ることが出来なかった。

ヒーローモノのTVを見るのが怖かった。

なぜなら見た夜、寝ると必ず夢に怪人が現れるのだ。

ヒーローは、現れない、、、。俺は、眠れない、、、。

「TV怪人大百科」みたいな本でいろんな種類の怪人を見るのは好きだった。

でも動くともうダメ、、、、。だって、動いてるんだもん、、、。

いや、動いとんやもん。

それでたどり着いたのが「魔女っ子メグちゃん」や「キャンディキャンディ」などの少女アニメだった。

ヒーローっぽいのを見つけた。「ラセーヌの星」。

でも敵のオッサンが夢に現れてからはやっぱり見ていない、、、、。

そんな風に怪人やオッサンに泣かされて子供の時代は過ぎ、強いて言うなら中学の時のブラックジャックとの出会いがヒーローとの出会いかなあ、、、、。

、、、、おお、、、ヒーローいたっ!!コーヒー飲も!!

現実のヒーロー=のび太

苦戦のヒーロー論アリナガ・シンイチロウSOS

ヒーローの名前=島村さん岩鬼さん惣流さん他多数

アリナガさんの主張(ヒーロー編)

ヒーローの条件、それは「負けないこと」だと言ってもいいんではねぇでしょうか。

よっぽどの例外を除けば、負けてしまう人はヒーローにはなれません。万が一負けたとしても「それをバネにより大きく成長」したり、「試合には負けたが、勝負には勝っ」てなけりゃなんないわけです。

ヒーローの敗北、それは即「世界の終わり」や「所属チームの敗退」や「新型

ロボット完成の急務」につながるわけですから。

しかし不思議なことに、人気のあるヒーローほど「無敵」なイメージは弱かったりもします。

ふつうに考えれば決して負けない人間(あるいはモノ)なんてのは、そりゃあもう「スゴイ!強い!」ってなイメージがこびりついて離れないものなのですが(ex.全盛期のマイク・タイソンやらナリタブライアン)、心に残るヒーローに限って「ムチャクチャ強かった」っていうイメージはないんですよね。

ウルトラマンなんかまさにそうで、勝った時のイメージよりもカラータイマー

をピーコピーコ言わせてる時のイメージのが断然強い。一体何故なのでしょう?

これは日本における「ヒーローの元祖」桃太郎について考えてみればやや分かりやすいですね。

私は生まれてこの方フェイバリットキャラクタとして桃太郎を挙げる人に会ったことがありません。おかしな話です。おそらく日本で一番著名なヒーローであるにも関わらず、その人気のほどには?マークがつくのです。

で、よくよく考えてみれば桃太郎って、ちっとも苦戦してないのですね。苦もなく仲間を集めて、苦もなく鬼を退治した、というか。言ってみればこちらが

「勝つのかな?負けるのかな?」なんて心をときめかせる間もなく勝利してしまっている。これがマズいんではないかと思うわけです。

勝つのか負けるのか、まったくもって予想がつかない。そーいう境遇で勝利を得てきたヒーローほど共感を得やすいものです。

考えてみればこれは至極当然なことで、楽して勝利したヤツよりも苦労してボロボロになりながら勝ったヤツのが我々の胸を打つわけです。

「ビバ!ダイナミック」のふりーく北波さんが指摘されていたように(記憶曖昧)「いかにいたぶられ、いかに勝利するか」は非常に大事なことなんだと思うわけですね。だから、ある意味ヒーローの歴史というのは苦戦の歴史だと換言してもいいのかもしれません。

アリナガも超リスペクトの「サイボーグ009」のヒーロー・島村ジョーなんかはマジで抜群に弱かったというイメージがあります。

小型原子炉はすぐにメルト・ダウンしそうになるわ、案外あっさり仲間に助けられちゃうわで「戦い」に弱いのもさることながら、なにしろ非常に心が弱い。

すぐ泣く、すぐ悩む、すぐ落ち込む。もう足が速い以外はパンピーよか弱いん

じゃないかと思うくらいに弱かったりするのですね。

しかしながら、この島村さんはマンガ史上でも屈指のヒーローであると言えるでしょう。我々と同等の(どうかすっと以上の)「弱さ」を内包しつつも、けっして巨悪に屈しなかった姿勢は抜群に人の心を打ったわけです。「アリナガ式苦戦ヒーロー史観」に照らしてみれば、彼こそは「究極のヒーロー」だったりします。

ところが、この「苦戦」の要素を見事に逆手に取ってしまったヒーローが一人います。「世紀末救世主」ことケンシロウさん(年齢不祥)です。

北斗神拳の伝承者であるこの男、そりゃあまぁ強い強い。その勝ちっぷりたるや20世紀最高と言っても過言ではないくらいに抜群に強いですね。

今思えば「北斗の拳」連載当時は「キン肉マン」や「キャプテン翼」などの旧態然とした「苦戦するヒーロー」がまかり通る時代でありました。キツい言い方をすれば「苦戦」というぬるま湯にヒーローがつかっていたといいますか。

そこへ来てケンシロウが苦戦も修行もすっ飛ばして敵をただただ葬っていったものですから、そのインパクトは絶大だったわけです。

大いなるアンチテーゼヒーロー。彼をそう呼んでもいいかもしれません。

とは言え、やっぱりヒーローと苦戦はカレーライスと福神漬のような関係でありまして、苦しみながらも勝利をもぎ取るヒーロー達はやっぱりボクらの心を打つんであります。

例えば幕之内一歩は強さ弱さを兼ね備えたある意味理想的なヒーローであると言えますし、範馬刃牙は圧倒的にキャラの立ちまくったライバルと戦うことで常に苦戦を強いられていますし。

やはり苦戦してこそのヒーロー、苦悩してこそのヒーローだなぁ、と私的には

信じている次第です。

・・・と、そういや最近異様に弱いヒーローがいたっけな。

・・・はッ!サードチルドレン!!

・・・弱すぎだってば。

現実のヒーロー=苦戦続きという意味ではもヒーローです(泣)。

さようならヒーローつるんづmiya(つるんづの漫画大作戦

ヒーローの名前=思いつきません

本文=お題が「ヒーロー」と言うことで、僕にとっての「ヒーロー」が誰かを考えてみた。

しかし頭で考えても思いつかない。いくら考えてもでてこないのだ。

僕は口に出して考えることにした。

「ヒーロー、、、。ヒーロー、、、。ヒーロー、、、、、、、、、、ヒーロー。」

こうして口にしてみるとなんてオモシロイ言葉だ「ヒーロー」。

「僕のお兄ちゃんは甲子園のヒーローなんだいっ。」

オモシロイ。

「すごい!あなたってまるでヒーローみたいっ!!」

んんんんオモシロイ、、、。

「俺がヒーローになったわけは、、、。」

んんぬうううう!!!オ、オ、オモシロイッ!!!

「誰にもヒーローの気持ちなんて分からないんだ、、、、、。」

ンキョー!!!!!オモシロオオオオオオッ!!!

「お鍋が沸騰してきましたら、お塩と下味をつけたヒーローを、、、、。」

ンキャキョッ!ンキャキョッ!オモシ!!オモシロオオオオオオッッッ!!!!

どうやら僕にとって「ヒーロー」とはただのおもしろい言葉みたいだ。

「ちょっと影のあるやつが格好いいのだ」くろぶち(FLOW

僕の漫画のヒーローはなんといってもブラックジャックなのだ。

これはもう説明など必要がないだろう。

僕の考えるところのヒーローというのはやっぱりカリスマ性、憧れのまとになる人物に限る。

しかし、当たり前のバカ正直なやつより、ちょっと影のある、ニヒルなやつに視線は釘付けになる。

ゴレンジャーなどの戦隊者で例えるならばレッドよりもブルー(もしくはブラック)だろう。

もちろん顔は二枚目で普段はちょっと冷たい素振りだが、たまに見せる‘やさしさ’にもうクラクラする。

小道具に「子ネコ」にミルクをあげていればもうヒーロー間違いなし!

しかしそんなタイプのヒーローは女にモテルが最後はレッドに譲ってしまうんですよね。まぁそれも条件ってことか。

現実のヒーロー=ジョン・レノン

「ヒーローの不在」雅(漫画時代

ヒーローの名前=今は炎尾燃(「燃えよペン」)

ぶっちゃけた話、ヒーロー特集なんてものを組んでおきながら、自分にはこれといった現実においてのヒーローはいない。

もっと正確に言うと、現実のヒーローを信じていないのかも知れない。

ヒーローと言えば、偏見込みで、超人的な、カリスマ的な魅力のある、心の指導者のようなもののようなイメージがある。

そういうものにひねくれたうさんくささをついつい感じてしまうのだ。

一方で、マンガには(作劇されたものならどんなジャンルにおいても)

理想的なヒーローが登場し、読んでいる時や、読んでしばらくは凄く感化されたりする。そして自分もそんな架空のヒーローには素直に憧れたりするのだ。例えば、中学の頃は「バナナフィッシュ」のアッシュ・リンクスにひどくやられたものだ。

しかし現実にアッシュ・リンクスはまずありえない。

ありえたとしても自分の生活に関るところにはまず存在しない。

今思えばその存在しないところに魅力があるんじゃないだろうか。

理想的な社会とかがあり得ないけど魅惑的なように。

なかなか存在しないからこそ、輝くもの。

それがそれぞれの胸の中にある理想、ヒーロー像なんじゃないだろうか。

少なくとも、自分にとってはそうだ。不在だからこそ、求めてしまうのだ。

現実のヒーロー=あ、でも藤岡弘はいいな


編集後記(くろぶち)

今回ヒーロー特集で行こうと言ったのは僕でした。前回はエロでちょっとヘビーかな?と思ったのと、ヒーローなら皆物凄く語りたいテーマだと踏んだのですが、読んでいただければわかるように『ヒーローがいない』って人が多かった。

現代では‘ヒーロー’を描こうと思って描かれた漫画って少ないのかもしれません。あと子供の頃のように単純に強くて格好いいヒーローになりたいとも思わなくなってきているのかもと感じました。

しかし「もし自分がそうなれたらいい」というヒーローがほしい。

『カムバック!ヒーロー!』

1998/11/02


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