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MINETAROU MOCHIDUKI |
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望月峯太郎 |
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■バイクのヘッドライト部分が人間の顔。いわゆる人面バイク。 そこに詰ってたのはモーターサイクル、ロックンロール、オカルト、、、 これらのキーワードの行き着くところは「現代(80年代末期)の家庭ドラマ」だった? あらゆる面において他のどの漫画にも似ておらず、ジャンル分けなど全く不能な異形の傑作。 スタイルではなく「生き方」としてのロックは今ここに甦る。 魂の叫びは、時代も世代も越えて、今ここに届く。 そして、失われたヒーローは、今ここにいる。 とにかくカッコイイ。読みだしたらノンストップで突っ切るべき。 3巻の終わりから最終回直前までのドラマの加速の勢いはまさに「もう止まらねんだよ」。 オーケー、ワン、ツー、ワンツースリフォー!(雅)
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■お茶の間=家庭を築くため、夢を捨てて会社道。 しかしそんなコントロールされた人生は、嵐を呼ぶ男、花井カオルには似合わない。 いざ愛するソノコ君のために魂の飛び込みを! そのリビドーの暴走の結果、お茶の間=家庭の最小単位たる、男と女の間に最も必要な感情は再燃し、スパークする。 つまり、愛。 爆笑と、興奮と、感動の、生き様。 かっこ悪いことは、なんてかっこいいんだろう。(雅) |
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■幽霊も怖い、自然も怖い。しかし、とりあえず、身近なもので、一番怖いのは、やはり、人間。それも、全然知らないのに、親し気な人。(時々かかってくる、なんかの勧誘のお姉さんの、親し気な喋りかたとか、結構怖い)そして、勝手な解釈で、どんどん他人の生活を侵していく人。 そんな、最近ではすっかり定着した、「ストーキングされる」恐怖を描いた傑作ホラーが、この「座敷女」。突然、前触れもなく、目の前に現れ、つきまといだす大女。外見も大概不気味なうえに、奇怪な言動。異常な行動。全てが怪しく、そして怖い。望月峯太郎の絵が怖い。「ぎゃ〜」という叫び方や、執拗な書き込みが怖い。とにかく、ストーカーのみならず、噂話や、復讐など、さまざまなタイプの恐怖を絶妙にブレンドしており、それらが組み合わさることで、非常に、いや〜な不気味さ、おぞましさを生み出している。 「何もしてないのに、何でこんな目に、、、。」と言う主人公が異常にリアル。最後の、とんでもない話の飛躍も凄いけど、何よりこの漫画が怖いのは、ほんとにあっても全然おかしくないように思ってしまうところだろう。やはり一番怖いのは、「会話の通じない、容赦なしで自己中な他人」ということか?運が悪かった、というのでは、あまりにむごいよなあ、、、。(雅)
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■「家に帰るまでが修学旅行です」 その、修学旅行の帰りに突然訪れた崩壊の原野にぽつんと生き残った少年少女の肉体と魂の漂流記。 全ての常識が覆された後に膨らんだ一切の余裕を食いつぶす黒々としたイメージに呑まれながら、少年少女は延々と、考察をし続ける。 重要なのは、あくまで「家に帰る」という行動と同時にそれがあることである。 「家に帰る」或いは生きること自体に、意味が見いだせないことに読者は否応なく頷かされるが、同時に、じゃああんたはどうする?という問いかけに愕然とし、世の中に、本当に意味のないことなどないということを思い知らされもする。その矛盾の激化が、物語りを加速させる。 安易な絶望も、楽観も許されぬまま、では、私とあなたが辿り着ける場所は何処にあるのか? どんなに追いかけても、決して追いつくことの出来ない地平線を、それでも追いかけて、そこから何が見えるのか? 何をイメージすることができるのか。 全ては、これまでの望月作品同様のテーマ、最終回のタイトルの核心に帰結してゆく。それは、最後の希望であり、意味を超越した、最後の意志である。 しかし、その強い確信が、真っ黒なベタの中に再び呑み込まれ、終わりなく思考をループし続けることを余儀なくされる時、そこには重い沈黙も残されてしまう。 賛否両論が巻き起こるのを承知の上で、こうするよりなかったところに、望月峯太郎の表現者としての覚悟が滲み出ているようだ。 20世紀終わりの、荒涼とした漫画の原野から、何処までイメージは膨らみ続けることができるのか。 まだ、差し伸べられている手をぎゅっと掴める機会は転がっているはずだ。 修学旅行は終わらない。(雅)
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