FUMIKO TAKANO | |
高野文子 |
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「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」 ■高野文子流心理描写のひとつの到達点。 おそらくは明治から大正とおもわれる時代の港町の、女学校の開港記念祭の演劇を軸に、少女と少女の心と心の触れ合いを、台詞に頼らず、モノローグと、演出で描き切る。 作品ごとに画風を変える驚異の離れ技が持ち味の高野文子だが、ここでは和風と洋風がいいバランスで混ざった、まさに時代感のある画風であり、ひとつひとつのシーンがどれも大切で、捨てゴマがない。 集中線を一切使わずとも生みだされる圧倒的な演劇の迫力など、あげていけばきりがない完成度である。 しかも、それが職人的ではなく感性のみでやっているようにすら感じられるのは恐ろしいほどだ。 ラストの言葉にできない読後感がたまらない。(雅) ■絵柄と舞台がとてもモダンでそれだけでもおきにいりの作品。
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「奥村さんのお茄子」 ■1回読んだだけではとても発見しきれないくらい、いろいろなものが詰った、異形の日常SF。 人間に「整形」した宇宙人が先輩の無実の立証のために、奥村さんが1968年6月6日木曜日のお昼に何を食べたかを探るというのが筋書き。 まあ、これだけでも充分ぶっとんでいるのだが、銀河系の果てまでぶっとんでるようなこの漫画の本当の凄さは、その曖昧な過去の記憶への焦点の当て方だろう。大体覚えてるはずがない何十年も前のその日の記憶を再生するために、当時のビデオテープ(なんと「うどん」である!)を再生するのだが、結果見えてくるのはなんでもない日常の風景。(普通はそこにドラマがあったりするよね) そんな誰でも見落としているようなものに、普段とは異なるアプローチで接近していく結果、炊飯ジャーですら未知なるものに見えてくるのである。 高野文子という才能の凄まじさのひとつは、この「日常」と「銀河系の果てまでぶっとんだ非日常」をなんの違和感もなく、いっしょくたにして作品にできることにある。 漫画表現には、まだまだ眠っている可能性があり、それに気付くか気付かないかだけ だという見本。(雅)
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■「一件ただのデパート・ガール、しかしてその実体は?」 ひょんなことから大富豪のひとり娘のメイドを解雇されるはめになり、 またまたひょんなことでデパート裏世界を巡る陰謀に巻き込まれた 元気少女ラッキー・ランタンタンのめくるめくデパート内限定大冒険。 ハリウッド黄金時代の活劇のようによく出来たプロットと、 圧巻の映像演出は、完成度という面で完璧に近い出来栄え。 そして主役のラッキーのキャラがいきいきとしているため、展開も弾むような楽しさ。 これだけカメラ(視点)がグリグリ動く漫画も滅多に無いし、 映像的、動的な画面構成はテンポのいい展開に更に花を添える。 実力も感性もある作家が、王道をやるとどれだけすごいものが出来上がるかのお手本。 確固たる物語りなため、感覚的な高野作品が好きな人には物足りないかもしれないが、 でもこれだけのものはちょっとそこいらじゃ見れないよ。 (雅) |
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■バブル全盛期に、新潟から来た宇宙人、高野文子が描いたゆったりとした「東京」。 時代の気分、流行は、その時々に最先端を作るが、その最先端に限って、10年後には目もあてられないことになっていることが多い。 そんな中、普通無理だろー、というくらいマイペースなるきさんは、ゆるやかに時代と付き合っていく。 影の主役、友人の「えっちゃん」は、時代についていく不特定多数の代表者だが(だから感情移入しやすい)彼女のるきさん観はニアリ−イコール、読者のるきさん観であり、るきさんについて、どうだかなー、と言いつつも心のどこかで、こうあれたらいいな、とも思ってしまうのだ。 そしてとにかく日々はつづき、えっちゃんや読者は日々を生き、るきさんは地球のどこかで、10年前と変わらずごはんを炊き続けるのだ。(たぶんね) しかし、この会話やテンポ、絵、色使い。やっぱり天才だとしか言いようがない。すごいぞ高野文子。 10年前のバブルの中、異彩を放った「るきさん」は、今から10年後にもやっぱり異彩を放っているはずだ。 最先端が息切れしている横をふらりと通り過ぎて。(雅) ■もう、この漫画大好きです。
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