頭 YOSHIHARU TSUGE
つげ義春

プロフィール
1937年東京の葛飾に生まれる。
5歳の時に父親に死なれ、母と兄弟達(弟の忠男も漫画家)と転居しながら極貧生活を送る。9歳の時に母が再婚し、義父が来るが虐待にあう。
小学校卒業後、進学せずにメッキ工場に就職。あまりにもの重労働に遅れる給料の支払い、何度も逃げ出したりした。そのような生い立ちのせいか対人恐怖症でもあり、人とあまりかかわらなくてもいい漫画家になろうと思い漫画家になった。
水木しげるのアシスタントなどをしつつ、ガロにて「沼」「チーコ」などを発表。それまでの漫画表現にとらわれない新しい世界を作る。
70年代の学生紛争まっただ中の時代は「ガロ」とつげは若者にとってかかせないアイテムであった。
その後、精神衰弱もひどくなり徐々に漫画を描くペースが落ち、80年代半ばを最後に休筆中。カメラ屋や骨董屋をやったりしたが続かず、現在はのんびりとした生活を送っているらしい。

 

 

レビュー

ねじ式
(短編集)青林工藝社
ねじ式
■20世紀最後の年2000年に青林工藝社から出版された本。
この本は凄い。なにが凄いってこだわりが凄い。まず大きさだが当時のガロと同じ大きさなのである。それからタイトルにもなっている「ねじ式」がオリジナルの修正前(眼科の看板の文字が眠科のまま)だったり、2色でそのまま掲載されているのだ。
それから「ねじ式」を例外として後の代表作はすべて発表された順番に掲載されている。
「沼」「チーコ」から「李さん一家」「紅い花」「ゲンセンカン主人」そして「やなぎや主人」へとつながる。(出版社の問題でガロ時代のみ)
つげ義春の作品はほとんどが短編で、今まで出版された単行本では、それぞれ代表作が重複して掲載されていたり、順番が滅茶苦茶だったりと不満点があったのだがそれを解消している。
オマケに巻末にはエッセイ3つと解説・資料として今まで出版された単行本のリスト、彼の年譜がついていて資料としての価値もあります。
話は変わって「ねじ式」についてだが、今の若い人にもつげ義春は知られている。しかしほとんどの人が「ねじ式」が好きと言う。というか「ねじ式」しかしらない人がほとんど。映画化されたり、色々なところでパロディされていてある意味記号的な扱いをされているような気がする。この本もただの「ねじ式」という名前で出版されたのもそうすれば売れるからなのだろうか。
僕は確かに「ねじ式」は1コマ1コマ、セリフ一つとっても頭にこびりつく程強烈だとは思うが、つげ義春を代表する作品だとは思えない。個人的に「ねじ式」より好きな作品は沢山あります。
冷静に考えてみたらこの本はそういった若い人につげ世界を知らせるいい本なのかも。とにかく1家に1册!!(クロブチ)
 

ヨシボーの犯罪
(短編集)小学館
ヨシボーの犯罪
■小学館の「つげ義春作品集2」ということなのだが、この全くまとまりの感じられないセレクトはどういった事なのだろう、、、
全体を眺めてみるとビックリするほどつげ義春って人がどんどん絵柄が変化していっている人だと言う事がわかる。
初期の貸本漫画のような「ある一夜」から、師匠のように慕っていた白土三平そのままといった「女忍」など興味深い。
しかし僕の持っている本の中でこれでしか載っていない「蟻地獄」「なぜ殺らなかった」「ねずみ」が面白い。
「蟻地獄」「なぜ殺らなかった」は人間の汚い部分の心理描写がリアルなゾクっとするようなお話。
「ねずみ」はつげ義春の漫画ではめずらしく舞台が宇宙のSFもの。宇宙船の造形と宇宙服の胸の星がなんか泣かせます。でもストーリーはよくってねずみが出てくるシーンなんかは鳥肌ものです。(クロブチ)
 

リアリズムの宿
(短編集)双葉社
リアリズムの宿
■「旅」をキーワードとしてまとめられた1册。
厳密に言うと旅だけでは無いのだが、うまくまとめられた感じ。
旅、温泉とコーヒーが好きな事で有名なつげ義春が肩の力を抜いて描けた作品達ではないだろうか。
主人公であって主人公では無いマルイ目と丸い鼻をした男が出てくる。この男は名前も無く狂言回しのような役なのだが、売れない漫画であり、温泉や旅好きなところを見るとつげ氏本人と重なる。しかし本当にあったように思える話であり、語り口が独特なので自分が体験してるような気分にもなってしまう。
つげ義春の漫画の中でこの時期が僕は一番好きだ。絵柄的にもとても読みやすいし、なにより読んでいて「ほっこりする」というか暖かくなって声が出ない程度にニヤケ面になってしまう感覚がたまらない。
また各作品の主人公、そして出演者達「李さんの一家」や「紅い花のキクチサヨコとシンデンのマサジ」「長八の宿のマリちゃんやジッさん」「もっきり屋の少女」「ほんやら洞のべんさん」などあげたらキリが無い人々がとても魅力的で愛くるしい。
あぁ、日本に生まれてよかった。そしてゆっくりとこの丸い目の男がした行程と同じ旅行をじっくりとしてみたいものである。(クロブチ)
 

定本・夢の散歩
(短編集)北冬書房
定本・夢の散歩
「夢の散歩」
■夢、或いは空想を描きとめたような短編。
秀逸なのは、夢、或いは空想の話の筋よりも、(まあ夢に筋も何もあったもんじゃないが)むしろそれを再現するつげの絵と構成である。
白昼夢という言葉を構成する漢字そのままの白っぽい、真昼のやみのようなタッチと、モノローグの仕方のふわふわした感じが、どこまでも現実味を漂白し、それでいて、ぬめぬめしたリアリティも不思議と醸し出す。
暝い闇と、その奥でぬらぬらと輝く眩い光は、どこまでも絡み合ってつながっているのだ。(雅)
 

必殺するめ固め
(短編集)晶文社
必殺するめ固め
■1980年あたりにガロ以外の雑誌に掲載された短編をあつめた単行本。
前半の「会津の釣り宿」「庶民御宿」に関しては上の「旅シリーズ」と重なっている。
その次の「退屈な部屋」と「日の戯れ」という作品が僕は大好きなのである。若い貧乏夫婦の話で漫画の仕事が減った夫とオカッパの奥さんのちょっと倦怠期に入った日常を描いているのだが、どちらも嬉しくなってしまうような、胸がキュンとなるような可愛くて素敵なお話なのだ。
しかし問題はそれから後ろの作品達である。このキッパリと別れた境目につげ義春に何がおきたのだろうか。
「ねじ式」は夢を漫画にしたわけのわからないシュールな作品として有名だが、この本に載っている後半の漫画達はそれどころのレベルでは無い。何度読み返してみても恐ろしいくらいにおかしい。
「夜が掴む」はまだ漫画として読めるのだが会話の内容や流れがあきらかにおかしい。それが「コマツ岬の生活」「必殺するめ固め」「ヨシボーの犯罪」になるとさらに加速してもう訳がわからなすぎて楽しい気分にすらなってきます。これはつげ氏のノイローゼと関係あるのでしょうか?読んでいて不安になりました。
「するめ固め」という技を決められた夫が情けない姿で自分の布団に入ってふて寝するシーンなんか忘れられないです。
「アルバイト」「外のふくらみ」なんて絵もまともに完成していないし、、、狙いなのか?
天然でこんなにある意味サイケデリックな漫画は見た事がありません。(クロブチ)

「退屈な部屋」
■退屈であるが、絶望感はなく、ならば、名前も捨て、底知れぬ深みを持つ秘密の穴蔵に入り込んで、ごろごろごろ。
退屈とのつきあい方がわかっている以上、恐れるものなど何もなく、ただただぼんやりと、わたしではない何かになって、ただそこに在ろう。
果てしない空漠の果てに見えてくるものなんて、なんにもなくても、今、ここにいるということ。
これを虚無ととるか?それとも、、、
退屈しのぎをしている夫に、軽やかに纏わりついては退屈をしのぐ妻の、とらえどころのない雰囲気が佳い。(雅)

「日の戯れ」
■「退屈な部屋」の夫妻と、おそらくは同じ夫妻なのであろうが、夫はかなり表情豊かになっており、退屈と閉塞を突き抜けたように爽やかだ。
実際の問題はまるで解決などしていないのだが、それと気分はまた別、ということであろうか。
彼にとっては、最早些事の全てがどうでもいいようだが、さりとてデカダンやニヒリズムに陥っているのではなく、相変わらずただそこに在る。ただ、それだけのこと。
再び問題。これを虚無ととるか?それとも?
多幸感と悲哀感が交錯するラストが秀逸。(雅)

 

隣りの女
(短編集)日本文芸社
隣りの女
■1980年代前半につげ義春の為に出版されたという幻の雑誌「コミックばく」にて連載された短編にあと2つの短編をプラスした単行本。
どれも若いダメな漫画家を主人公に戦後の貧しい時期の金策にほんろうする姿が描かれた作品が多い。
プライドを捨ててしまうかこらえるかギリギリのラインが見て取れる。周りで話を持ちかけてくる人間がみんな揃いも揃って一癖あるやつらばかりで、時には苦渋を飲まされてしまうラストなのだが、「自分が悪かった」と無理矢理納得せざるを得ない気分になる。こんな漫画なかなかないでしょう。
唯一このくくりに合っていない「近所の景色」という作品があるのだが、やっぱり僕はこれが好きである。
梶井基次郎の「檸檬」という小説からつげ氏が一説を引用したりして描いているのだが、昭和の雑踏というか汚いけれど愛すべき風景と人達が出てきてて、なんとも言えないいい話です。(クロブチ)
 

無能の人
(短編集)日本文芸社
無能の人
■上の単行本「隣りの女」と同じ「コミックばく」にて連載された作品を集めたもの。めずらしく続き物の話なのだ。
90年代に入ってから「無能の人」として映画化され話題に。それによって90年代の人達につげ義春が再認識され、本などが発売されたりした。
「隣の女」に収録された短編達の完成版という印象をうける。ダメな夫と怖い妻、それとボケーっとした息子の貧乏家族の構成。
もう第1話の最初のコマの横に寝そべった男と次のコマの「おれはとうとう石屋になってしまった」というセリフはかなりのインパクト。なんの説明なしで全て説明しきれる所がつげ義春の凄さ。
河原(多摩川)で売れそうな石を拾ってその場で店をかまえて売るという、バカな商売なのだが、異様なほどの細かいウンチクによって本当にあるのではないだろうかと思わせられてしまうほどリアルなのだ。
話をすすめるごとに石のプロが色々出てきてかなり盛り上がるのである。
最後のほうなんて無能の人のはずなのに「武士道」の精神を感じずにはいられないのでありました。(クロブチ)

「石を売る」
■退屈とは、結局は贅沢で優雅なものなのだろう。
退屈できるうちが華、というか。だって石を売り始めちゃうところまで行き着くと、生活そのものが重くのし掛かってきて、退屈の持つ軽快さなど全く見当たらなくなってしまう。それにしても石って、、、、
これはさすがに限りなくヘヴィだ。
読んで字のごとくリアルなリアリズムは、重苦しいし、暗い(正確には、深い、のだが)。
不思議と絶望感は漂ってないが、どうにもこうにも終わっちゃった感が強烈で、若者にはあまりお薦めできない。いや、やっぱ読んでおいた方がいいのか?どうだろうか?
やはり人間地道が1番だろうか?
芸術って社会不適合の輝きなんだろうか?
答えの出せないまま、一家3人は探石行へ。(雅)

「探石行」
■どんなことにも浮き沈みはあり、石を売るとこまで行き着いた一家3人も、思わぬ臨時収入で、旅行することになり、不穏でギスギスした空気も随分和らいでいる。(「石を売る」で、全くこちらを向かなかった妻の表情が、はっきりと見えることが大きい)
しかし全てに於て軽率な彼らは、結局一般的に見て、あまり楽しそうではない旅行をする羽目に陥ってしまう。
で、例によって空漠としたものに包まれるのだが、一家心中なんてもちろんするはずもなく、山あり谷ありの険しい道を再び歩きだす。
淋しいし侘しいし切ない。
だが、しかし、ここに、在る。
それも3人も。ぎりぎりの段階で、ぎりぎりそのことが保てている。まだ、ここに在る。
社会から遠く離れて、それでもなお。だから、絶望だけはどこにもない。
無論虚無などない。あるのは、この3人だけ。
嗚呼、この無能の人々のなんたる崇高さよ。本当の虚無など、この広い心象宇宙の中にこれっぽっちも存在できないでいる。
そこにはぎっしりと隙間なく、生きた「かなしみ」が詰っているから。(雅)

 

モドル
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