脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
関係ないけど「326」の話

最近デパートだとかあちこちで「326」コーナーを見かける。どうも流行っているらしいので一寸覗いてみた。なんか詩とイラストが書いてあるポストカードなんかが良く売れているらしい。だが少し気になることがあった。それはファンの年齢層である。

どうやら中高生を中心に流行ってるみたいなのだがそこが解せない。「326」の詩には暖かみもあるし別段変わったところもない。しかし私には彼の詩がとても危険な物に見える。それは何かというと言うと、そこに流れている一貫したテーマのような物である。彼の詩は一見すると不特定多数の人間に対するエールの様にに見える。

がしかし、恐らくこれは彼自身に対するエールであり。それをどう受け止めようと受け手の勝手である。だからこそ危ない。彼の詩には(特にどの詩がとは言わないが)一貫して「楽しても良いんだ」と言うようなメッセージが込められている様に思えてならない。

そう、楽する。あるい極端に言うと堕落することを許容している様に見える。「そんなに辛い事なら辞めたって良いんだよ」と優しい口調で語りかけている様に見えて仕方がない。

しかも人間というのはそういった優しい(甘い)言葉に弱いのである。別にそんな言葉に感動するだとか共感する人間ってどうかと思うという訳ではない。中には共感して当然という人間もいるだろう。例えばいじめにあってるだとか。リストラの憂き目にあって辛い思いをしている人とかね。

では何が危険かと言うと、特段そういった大きな挫折だとか辛い思いをしている。という訳でもない人間まで「私って無理してる」と勘違いさせしまう力が彼の詩には有るのだ。

例え話をすると。とある歌手を目指している青年が居たとする。彼はバンドを結成、親の反対を押し切ってライブでデビューする。結構受けもよく、それなりに人気が出る。だもんで頑張って毎日練習、バンド漬けの毎日を送るも少し疲れてバンド以外の事もやりたいなあと思い始める。

そんなある日、「326」の詩に出会いこう思うのである。「俺って無理してるのかなあ?」馬鹿言っちゃいけない。彼は決して無理などしていないし。好きなことをやりたいだけやっておいて、バンド以外のこともなんて思うこと事態が我が儘というものである。だけど、「326」の詩を見ると変に誰もが共感出来るように書いてあるもんだから。そんな人間にまでそういった感情を抱かせてしまうのである。

最初に述べた、中高生のファンが解せないというのは。中高生の中でそういったエールを必要としている人間がどれだけいるのか?と思うのである。別に悩みは誰だって持っているし、みんなソレを乗り越えている訳で。立ち向かう前に「嫌だったら辞めて良いんだ」なんて納得されたらたまったもんではない。

最近の流れとして、「競争社会は良くない!」という声をよく聞く。きっと「326」を好きな人にはそう言った人が多いんじゃ無いだろうか?だけれど競争の無い社会が必ずしも健康な社会とは言えないんじゃないだろうか?競争辞めるのは構わないけど。究極まで行くと北朝鮮みたいになっちゃうと思うし。

競争を嫌悪する傾向は社会全体の進歩を妨げる。最近日本の生産性の低下が問題になっているが、考えられる色々な原因の中で、若い世代のこういう傾向が最も回復しにくい要素のように思える。

1969年夏、ニューヨーク州はウッドストックで伝説のロックフェスティバルが開かれ、約40万人の若者を集めた。それに対して配置された警官は60人程であったにも関わらず死者は僅か数人で傷害事件も殆どなく。アメリカでは珍しいイベントとなった事に皆は驚嘆した。

40万人も集めたにも関わらず驚くほど秩序のある集まりだったのだ。主催者が絶えず叫んだ「貴方の隣に座っているのは、貴方の肉親の兄弟だ!」という言葉どおり、兄弟愛と連帯感に溢れる社会がそこにはあったのだ。だがソレは競争社会に疲れて離脱し、一時の陶酔を求める人々の集団でしかない。そこにある秩序と調和はマリファナやヘロインに酔った無力感に支えられた虚脱状態でもあったのだ。

そこには退廃と停滞しかない。音楽の歴史の上でウッドストックは重要だったかもしれないが。「世界に平和を」という大義名分で開かれたこの催しが社会的には何の影響力も持たなかったのがいい証拠である。「326」を見ているとそう言った事を思わずにはいられない。コレを読んだ貴方はどう思うだろうか?
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