脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
実はよく有る話

「桜の頃」のチラシに脚本家の上田君のコメントでこういうのがある。「私の脚本の主人公は主人公らしくないとよく言われる云々」これは主人公が主人公然としていないということをさして言っているのだろうと思うけれども、果たしてそうなんだろうか?

主人公然としたキャラクターと言えば、まず思い浮かぶのはスーパーマンである。誰よりも強く、誰よりも速く、何者も恐れない。確かに主人公らしいと言えば主人公らしい。だが弱点は無いのか?普通思い浮かべるのはクリプトンナイトである。細かい設定は割愛するが要するにこのクリプトンナイトから出る放射線にスーパーマンは弱いのだ。下手をすると死んでしまう程らしい。

しかし本当の弱点というか欠点はそんな物ではない。それは、完璧すぎる事である。スーパーマンは万人を愛し、万人の味方である。それが職業としてスーパーマンをやってれば話は別だが、彼はそうではない。スーパーマンである以上、明確にプライベートとスーパーマンである自分を分ける事は出来ないのだ。そこで苦肉の策として彼は普段はクラーク・ケントを演じているのである。(ちなみにクラークというのは地球での名前で本名はカルエルというらしい)しかし悲しいかな、彼が好きな会社の同僚のロイス・レーンはスーパーマンにぞっこん。ケントには目もくれない。ジレンマである。

しかもスーパーマンは先に述べた通り万人の味方なもんだから、ロイスだけえこひいきする訳にはいかない。そこで又ジレンマである。スーパーマンである以上、ロイス一人を愛することさえ出来ない上にケントとしては相手にさえされない。完璧すぎる故の悲劇である。

その上それらのハードルが乗り越えられたとして、スーパーマンは所詮宇宙人、ロイスと結婚したとして子供はおろか、性生活すらいとなめない可能性まである。悲しすぎる。だから彼はスーパーマンで有り続けるしかないのだ。

それはさておき、主人公の話である。主人公らしくない主人公と言ってまず思い浮かぶのは何だろう?私がまず思い浮かべるのは最近で言えば「エヴァンゲリオン」の碇シンジである。もっとさかのぼればエヴァに大きな影響を与えたと思われる「ガンダム」のアムロ・レイである。

この両者について共通している点はダメ人間であると言うことである。二人とも弱っちい上にイヂイヂしていてちっとも男らしくない。それでいて非常に妬み深く正に最低である。がしかし、スーパーマンと違っている点はそれだけではない。彼らには実は弱点が無いのだ。一見すると弱点だらけには見えるが、彼らに対しては弱すぎるが故に回りからの期待がそれほど無いのである。

スーパーマンが例えば人命救助に失敗したとすればエライ非難を受けるだろう。「それだけの力が有りながら何故助けられなかったんだ?」とかなんとか。だが最初から期待されていない人間が失敗しても誰も何も言わない。本人にしてみても、ほらやっぱりってくらいのもんである。正に無敵の存在と言っていいだろう。

これが悪いと言っている訳ではない。むしろ良いことであると私は思う。どう言うことかというと、日本人は遂に仏教的思考あるいは願望からこれによって脱却出来るかもしれないのである。ちっともどう言う事かという説明になっていないので説明すると、日本人はなんだかんだ言っても仏教徒ということである。それにはまず、アメリカを例にスーパーヒーローの分析から始めなければならない。

アメリカを代表するヒーローそれは言わずもがなスーパーマンである。対して日本はどうだろう?ここでは話を進めやすいようにウルトラマンということにしよう。ウルトラマンとスーパーマンの違い。ソレは何か?それは人権である。

たとえば、スーパーマンにはメトロシティの市民権がある。その上名誉市民にも選ばれたりしている。それに対してウルトラマンはどうだろう?ウルトラマンの正体を知っているのは主人公のハヤタだけで、その他の人間は何も知らない。謎の存在だ。誰もが知っているのにその正体を誰も知らない。少なくともスーパーマンは社会的に認知され、クリプトン星から来た移民として受け入れられている。

同じ(?)宇宙人なのにウルトラマンはいつまでも謎のままである。そこに大きな違いがある。スーパーマンはアメリカで生まれたヒーローだけに非常に民主主義に基づく所が大きい。つまりスーパーマンはアメリカの一市民であり、アメリカを脅かす敵と戦うのは当然であり、市民権を持つ者の代表なのだ。

人間離れした能力を持っているのでそれを利用し、皆の幸せのために奉仕する。出来ない人の為に出来る人がやる。実に合理的だ。一方のウルトラマンはというと、日本に現れた怪獣を突然現れてぶち殺し、どこかに運び去るウルトラマンが戦ってる姿を目にする一般市民はそう思うはずである。

そしてこう言うのである。「ありがとう、ウルトラマン」そこにはウルトラマンを市民の代表なんて思う気持ちは欠片もない。ウルトラマンが誰であろうとどうでもいいことなのだ、実に他力本願である。大きな違いというのは。ウルトラマンは民主主義というより大乗仏教的なのだ。大乗仏教では人間が悲惨な戦争、災害なんかでひどい目にあっても最後には御仏が降臨して人々を救ってくれるというもので、これも実に他力本願。ウルトラマンと共通している。

前述した「エヴァ」はそこに目を付けて制作された。もし、ウルトラマン(ハヤタ)がウルトラマンであることをコンプレックスだと考えたらどうだろう?誰もが知っているのにその正体は未だ謎のまま。言いたくても言えない。なのに頼りにだけはされ、ハヤタとしては誰も見てはくれないのにウルトラマンになったときだけは皆が注目する。ハヤタに存在意義はないのかもしれないとまで考えたらどうだろう?主人公が主人公であることに悩んだり、それにコンプレックスを感じたりしたら、物語としては破綻してしまう。

その証拠に「エヴァ」も破綻した。主人公らしくない主人公というのはむしろ、より人間らしくなったという点では新しく、誇れる事でありウルトラマン(仏教的)でもスーパーマン(民主主義的)でもないニュータイプ(むしろ最近では此方の方がスタンダードになりつつある)なので、上田君は(多分気にはしてないだろうが)気にすることはないのである。人間を描く上で葛藤や弱い部分というのは避けて通れない問題であり、それがない方が異常だ。スーパーマンは冒頭で書いたような問題がかなり有るにも関わらず悩んでいる様子は余り無い。

話の流れから言うとなんだかスーパーマンが人間らしくないみたいだけど、人間らしくなくて当然、何故なら彼はスーパーマンであり、クリプトン星から来た宇宙人であって人間ではないのだから。
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