脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「燐多について…」その2

前回でも述べたが、「燐多」には明確にキャラクターの心理描写をする場面が殆ど出てこない。しつこくならない程度に最小限に押さえてある。

それは基本の日本人洗脳なんかの設定を大事にしてあり、物語を重視してキャラクターはその物語を展開させていく道具であると割り切って書かれたと言うのが主な原因なのだが、もう一つ大きな要因がある。

それは観客の想像力である。私は(脚本にもよるが)キャラクターには感情移入するための必要最低限の情報しか観客には見せなくても良いと考えている。ドライで良いのだ。

何故そう考えるかというとお客さんの想像力を信用しているからである。「そこまで説明して貰わなくても見てれば解る」と言われると「客を見下しているのか?」と言われているようで申し訳ない気持ちになるからだ。

そして、脚本を書く上で今まで見た作品を思い返して見たのである。演劇はそのメディアの性格上説明的な台詞、展開は避けられない。だが説明的な部分ばかりでも面白く無いはずなのだ。だがしかし、思い返してみた作品(それ程多くはないが)はどれもこれも嫌という程説明的だったのだ。それも複雑な設定や複線に対してではなく、主に登場人物の内面描写にである。

私にはそれがしつこく実にウェットに見えた。そしてあることを思い出した。それは以前友人と話していた読書感想文のテクニックについてである。例を上げてみよう。

読書感想文 「老人と海」を読んで 
(作品の選び方も重要である)

「信じる…読んだ後に私の心に浮かんだのはその言葉だった…」
(中略)

「あれは昨年の夏、私の祖母が亡くなったときの事である…云々」(中略)

「ヘミングウェイが私達に何を伝えたかったのか?それは「信じる」事である。私もその言葉を胸に深く刻み込めたと…云々」

ってな具合である。ここまで読んでお解りだと思うが、この文章かなり胡散臭い。残念ながら私が今まで観た演劇というのはこれにかなり近い。

だが読書感想文としては先に上げた例のような内容の方が評価は高いし、演劇も同様である。だがハッキリ言って共感出来ない様な事柄をいくら微に細に説明されたところで、出来ない物は出来ないのだ。

演歌と同じで三分かそこらの曲で熱く人生だの道徳だの語られた所で、だからどうなんだ?としか思えない。なら、いっそのこと洋楽の様な作り方をした方が面白いんじゃないのだろうか?そう考えたのだ。

どう言うことかというと、一般的な日本人が洋楽のCDを買うとき、その曲の歌詞に共感して買う人は殆どいないだろう。買うのは主に、音楽的に好きだとかそういう理由だろう(ヴィジュアルも大事だが)そこに深い感情移入や共感は存在しない。

そういうことなのだ。だがそこにも落とし穴はあった。だからこそ今こうして歯がゆい思いを文章にしているのだが今回はこの辺で。

次回につづく
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