脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「燐多について・・・」その3

一体何が落し穴だったのか?それは作者自身である。前回も書いたが「燐多」の登場人物は物語を展開する為の道具として設定され、物語も面白ければ何でも良かったのだ。感情移入や共感など必要ない。面白ければそれで良い・・・そう思っていた。

だが書き進むうちにドンドンと欲が出てきたのである。そう、作者自身が観客とは別の形で物語に感情移入し始めたのである。テーマなんか無しでスタートし面白ければ何でも良い、感情移入や共感なんて後から着いてくる筈だった。

だがそうはいかなかった。(当たり前の事ではあるが)物語に自身のイデオロギーやら深い心理描写を盛り込みたくて仕方なくなってきたのである。だが最初に決めた方針は曲げる訳にはいかない。それにここでウェットな内容を盛り込めば、作者のイデオロギーと深く絡み合い、殆ど演説のような内容、台詞、展開になってしまう。

そしてそれを観た観客はこう言うのである。「そんなこと言われても・・・・」それは私自身が演劇を観て一番感じたことであり、不快に思ったことでもあるのだ。

面白いか面白くないか、それを決めるのは作者ではない。観客である。作者の自己満足で終わってはいけないのだ。それは、わざわざ開演時間を調べ、劇場まで足を運んでくれてチケットを購入し、開演時間まで待ってくれたお客さんに対して、自分の素裸をみせて「どうですか?」というようなものである。
(そういう劇団は少なくないと思うが)

そんなことは少しはやってもいいかな?とも思うが私が客なら観たくないし、「金かえせ!」と怒鳴ってしまうだろう。そんなジレンマとのせめぎ合いの結果、脚本は完成した。作者自身の感情は出来るだけ自然な形で盛り込み、違和感を無くした。観客がキャラに感情移入しやすい様に人間味も持たせた。
(これは先に「その1」で書いた様に役者に負うところも大きいが)

だがその結果、物語は勧善懲悪の恐ろしく単純なものになってしまったのだ。では物語(設定は凝りに凝ったので文句は無いが)を犠牲にしてまで私が盛り込みたかった内容とは一体なんなのか?それは次回で述べる事にしよう。

つづく
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