脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「燐多について・・・」その4

私が「燐多」に盛り込みたかったものとは何なのか?それはビルディングストーリーに対する素朴な疑問とアンチテーゼである。

ビルディングストーリーとは何か?例をあげるとこうである。志ある若者が、ある問題に直面し挫折する。ここでいう問題とは何でも良い。才能についてであったり、運や身近な人の死についてでも良い。

そして若者は一旦は挫折を味わうのだがそれを乗り越え、一回り大きく成長しハッピーエンドに至る。単純にいえば成長物語である。多くの人はこの類の物語を好むし、私だって嫌いじゃない。だが現実に目を向けた場合そんなことはそう有るもんじゃない。

そのギャップがどうにも解せない。夢を見たいという人も多いだろう。私だって見たい。だけど誰もが必ず心の中でこう思っている筈である。

「そんなわけないじゃないか・・・」

「そう巧くいくかよ・・・」

私はどちらかというと、そう考える人に強く共感を持つ。だから、上田君とは違う形で共感を得ようと考えたのである。上田君の作品は「夢を見たいと言う人には夢をみせてあげれば良いじゃないか」というようなスタンスで書かれている。素晴らしいことである。

だがそれでは私のような人間は置いてきぼりをくってしまう。だから「夢なんて・・・」という人に共感してもらいたいと考えてキャラクター達を味付けしたのだ。

(結果「その1」で述べたような事になってしまったが)

劇中、燐多が「もう虹の色も解らない・・・」と言っていた事をママが話す。燐多は虹の色を世界に例えて世界が平和であればいいと考えた。だが恋人の死をきっかけにその博愛主義的な考え方は失われ、世界に失望する。そして虹(世界)の色を見失うのである。

だが結果的にはその色を破壊しようとする敵に対して立ち向かって行くのである。一見すると前述した例のように燐多は挫折を乗り越えた様に見える。だが作者の意図は少し違う。燐多は決して乗り越えてはいないのだ。

では何故彼が敵と戦ったのか?それはむかつくからである。単純に敵(お子様ランチ)が彼にとってむかつく存在だったからなのだ。劇中、燐多は「俺を舐めるんじゃねえ!」という台詞を連発する。彼が戦ったのは自分が舐められたからであり「世界平和」等という博愛主義的な大義名分はそこには存在しない。

私はその方が人間的であると考えたのだ。ベトナム戦争で戦ったアメリカ人兵士たちが本気で世界を共産主義から守るなんて考えていたとはとても思えない。(ベトコン達はアメリカの侵略から国を守るために戦ったかもしれないが)

彼らが遠い熱帯の国で戦った理由は(アメリカ国民としての義務もあったろうが)単純に敵を殺さなければ自分が殺されるからであり、戦友達が殺された事に対しての報復であった筈である。主人公が「世界平和」を盾に敵を倒すよりも、個人的な理由から立ち向かっていく方が少なくとも私は共感できる。

つづく
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