脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「悲しい記事」

小渕前首相が亡くなられた。人の死というのは誰のものであっても悲しいものだ。しかし今回の前首相の死には残念ながら強い憤りを感じずにはいられない。

それは何か?それは国民の軽薄さである。日本の内閣総理大臣は国民投票による直接選挙によって選出されている訳ではない。つまり、小渕氏を支持していたのは彼を国会議員として選出した地元の人間だけで全国民から言うと微々たる数字だ。にもかかわらず彼は首相になった。

自分たちも知らない間に国会内でだけで(正確には自民党内だけで)行なわれた段取りで決定した首相の葬儀には多くの人が足を運んだ。実に不思議だ。

マスコミも就任当時「冷めたピザ」「鈍牛」「凡人」とこき下ろしていたのに。死んだら手のひらを返したように偉人扱い。

「ブッチフォン」なんて言われて「親しみやすい人柄」なんて言われていたが、昨年の流行語大賞に「ブッチフォン」が選ばれるなんて誰が予想したろうか?誰もいないはずである。

それもその筈、小渕氏が実際に電話をかけていたのは主にテレビタレントが中心で一般の人間にかかってくる何てことがあったなんていうのは聞いた事が無い。

それに人柄なんていうのは他人には何とでも取り繕うことが可能な訳で彼の本当の人柄なんて誰も知らないというのが本当の所だろう。

小渕氏は死ぬことで評価が高まっている様だが、「盗聴法」や「新ガイドライン法」「介護保険」なんていう、いくら議論しても飽き足らないような問題をさした議論もなく通してしまうザル内閣を作ったのは彼なのだ。

小渕首相の死を伝える新聞記事を見ていてあることを思い出した。それは以前私が好きでよく見ていたTVシリーズ「素晴らしき日々」の中で主人公のケビンが出された国語の課題だ。

どういうものかと言うと、「自分の死亡記事を書いてみよう」というもので、中学二年生に出す課題にしてはかなりハードな物だったのでよく憶えている。

「自分の未来の死について考える」っていうのは確かに中学生に出すにしては哲学的すぎる難問である。ケビンはそのことをきっかけに見通しのきかない未来に対する不安や可能性に対して色々な事を考えるのである。

「自分の死亡記事には一体どんな事が書かれるんだろう?未来では僕はどんなことをしていてどんなふうに見られているんだろう?」ってな具合である。これを読んだ人には是非一度実践してみる事をお薦めする。

自分の可能性、対人関係、自分に対する客観的評価なんかを考える上で非常に重要なヒントが得られることは間違いない。そして、もし実践するならば前述した小渕氏の死亡記事と生前の彼の活動を伝える記事、そして自分の死亡記事とを見比べて見てほしい。

そこにはいろんな物が隠されている筈である。理想と現実、主観と客観、そしてアイデンティティーを考える上でのヒント、等である。

私も実際にやってみたが、私の場合は試しに思いっきり理想を投影したものにしてみた。「可能性という根拠の無い自信」につながる結果にでもなれば良いと思う。

あとはその理想に出来るだけ近付くように心がければ良いのだ。でもそれによって得られたヒントは実際かなり重要なものであると思う。これを読んで実際にやってみる人の記事が悲しい記事にならないことを祈っています。
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