脚本家 古谷壮志の
「わーるど・いず・のっといなふ」
「アンチも程々」

最近話題(の筈)のトマス・ハリスの新作「ハンニバル」を読んだ。これ「羊達の沈黙」の続編なのだが主人公があのハンニバル<人喰い>レクター博士なのだ。博士はその名の通り人間を食べてしまうカニバリストなのだ。

それもとんでもない悪人でその事を気にもかけない。むかつく、或いは美味しそうな奴は食べてしまうか殺してしまう。しかし読み進む内にそんな極悪非道なキャラである博士になんだか感情移入してしまう。

博士に以前ひどい目にあわされた大富豪が放った刺客から巧く逃れてそれを倒していく博士。終いには博士に巧く逃げて欲しいと応援している自分に気付いた。

危ない…。でもこれって小説や物語を楽しむという点では適切な反応なのだ。ではそうではなかったら?楽しんで感情移入しているのが虚構ではなかったらどうだろう?

最近よく聞く少年達の動機不明(というか意味不明)の凶行。バスジャック、通り魔殺人etc。その中で特にやばかった少年の何人かは共通してあの神戸の「酒鬼薔薇」事件の犯人の少年にシンパシーを感じていたらしい。

私はなんでそんな奴にシンパシーを感じるのかと思ってたが、レクター博士の事を考えて何となく理解できた。要するに彼らにとって「酒鬼薔薇」はアンチヒーローだったのだ。

私が博士に感情移入したように彼らは「酒鬼薔薇」に感情移入したのだ。私の場合は虚構の人物であったが彼らは現実の凶悪犯だった。社会の流れに逆らうアナーキーなアンチヒーロー、確かに格好いい。

私の場合は脚本なんか書くから、そういった憧れは自分の作品の中に投影すれば良い。だがそうではない人間は?究極まで行くと凶行に至る。

私だってそういった可能性が無い訳ではないが、作品を書くことでそれに歯止めがかかる。夏目漱石が自分の小説の登場人物より遥かに変な奴だったように。

だがよくよく考えてみると、アンチヒーローがアンチヒーローたる由縁は要するに滅茶苦茶我が儘だからなのだ。我が儘で有るが故に反社会的な方向に走っていく。

そんな奴はヒーローでもなんでもない。現にオウムの麻原はあれだけ崇拝されていたにも関わらず、自らの保身の為には弟子でも身内でも犠牲にする卑劣な人間だった。麻原を権力と戦う超人と、英雄視していた弟子達もそんな麻原に幻滅した。「酒鬼薔薇」もきっと只の危ない奴だろう。

アンチヒーローに憧れるのは人それぞれ勝手だが、アンチヒーローの本質を見極めた上で憧れて欲しいものである。
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