脚本家 古谷壮志の
現象学的人間論と、うずまき
この物語はフィクションであり、
登場する人物、団体名は実在のものとは
一切関係有りません。

らせん編その3
 坂の上に何があったのか?それは巨大な大仏の頭であった。およそ高さ15メートルはあろうかという巨大な大仏の頭だけがそこにはあったのだ。それもそこに置いてあるといった様子ではなく、明らかに地面に頭だけがめり込んでいるのである。

切腹の後の解釈によって切り落とされた首が地面に落下し、そのまま放置されたように、前のめりに顔から地面に突っ込んだかのようであった。だがもっと私たちが驚いたのは、他の学生たちが全くその巨大な大仏の頭を意に介していないということであった。

坂をのぼりきった所というのは、大学の入り口になっており、職員用の駐車場を兼ねた広場になっていた。坂を登ってきた学生達はその広場を横切らなければキャンパス内には入れない。つまり最も目に付く場所に大仏の頭はあるのだ。にも関わらず、私たち以外にその大仏の頭に注目している人間は誰一人として居ないのだ。

いくら芸術系大学で、日常的にパフォーマンスアート等が学内ではよく行なわれており、さして学生たちがそういったものに関心をもたない校風であったとしても、これは異状な事態である。私は教授の方を見た。すると彼はつぶやいた。

「なんだこりゃ・・・これはまるで「ルーシーインザスカイウィズダイヤモンド」の歌の歌詞みたいに訳が解らないじゃないか・・・」私にはその言葉事態が訳が解らなかったが、彼にはそれが最もこの状況に適した表現だったのだろう。

「先生、何なんでしょうかあれは?」私は尋ねた。

「私にも解らないよ。君はアレが何に見える?」

「大仏の頭・・・ですかね?」

「私にもそう見える。きっとそうなんだろう」

「でも、何であんな所に?」

「知らないよそんなこと」ごく当然の返答であると、私は妙に納得してしまった。私は続けた。

「誰かのパフォーマンスアートですかね?」

「かもしれないね。ピンホールを持ってくれば良かった・・・」

「そうですか?」

「確かにピンホールカメラというのには無縁な情景というものがある、それは決定的瞬間というやつだ。ピンホールの撮影には最低十秒はかかるからね。だがこれはその類の状況ではない。なら撮っといてもいいじゃないか」

「先生の理屈付けというのは何時も身も蓋もないんで困りますよ」

「想像力の欠如というやつだな」

 私は当然の如くそれまで感じていた疑問を教授にぶつけてみた。

「でも、何でみんなはあんな目立つものが気にならないんでしょうか?」

「確かに君の意見には一理ある。よし、調べてみるか。雑誌のネタになるかもしれない」                           つづく

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