平安西分教会史

(教会誌「平安西」及び大教会提出資料より)

○初代会長入信

 平安西分教会初代会長大下次三郎は、明治四年三月一三日、京都市下京区大宮通蛸薬師下ルに、父利兵衛、母むめの長男として誕生した。元来大下家は油ロウソクなどの行商をしていたが、家が貧しいため九才より錦小路通御幸町西入『湯葉吉』(湯葉製造販売)に奉公し、よく励み、実父と死別した十六才頃には主人の信用篤く、店の責任を任されるほどであった。明治二十年ごろ、店に来る人に勧められて裏寺町の常楽寺で行われていた元斯道会のおつとめに参拝し、説くところの教理に深く感銘して入信を決意した。その後は仕事が終われば毎夜のように常楽寺の講社に熱心に足を運ぶので、若い者の夜遊びではないかと店主に尾行されたことも幾度かあったが、いかに夜遅くなっても早起きと勤めを欠かしたことがないので、かえって感心されて黙許された。
 こうして成人の歩みを進めるうち、明治二十一年に斯道会八十五号周旋方、明治二十五年五月七日教導職試補を拝命、翌年二月二日おさづけの理を拝命した。明治二十九年、河原町分教会役員佐藤山三郎長女ゑいとの結婚を機として独立を許されたが、修行をした湯葉商をすることは許されず、やむなく海産物商を始めた。営業は妻と店員に任せ、売上金のほとんどは道の御用に立て、自らは日夜布教に奔走したが、おかげと商売は繁盛し、明治三十二年斯道会第一号講社(河原町大教会前身)周旋方に転任することとなった。

○斯道会一号講社平安組結成

 明治三十二年、水口、甲賀、湖東の三支教会が分離して、河原町の教勢は十分の一程度になった。この節の中から、修理の届かぬ直属信者をどうでも育てたいとの河原町分教会二代会長深谷徳次郎会長の親心により、斯道会第一号所属の講社を新たな結成と発展を促されるために地域的に、縁故や理のつながりを考慮して五つに根分けされることとなった。この内一つの平安組こそ、現平安西分教会の基となったのである。
 平安組はまず十名の有志が寄り合って明治三十四年一月、三条川端上ル大橋町の茶汲(宿屋)の奥を借りて神様を祀り、中野甚三郎を組長と定め、八日、十八日をおつとめ日として組結成を届け出た。このときの主な参加者は中野甚三郎、大下次三郎、清水延吉、三田村庄太郎、柴田庄次郎、矢部喜七、川村与助、小西亀次郎、小西友次郎、小西金次郎、谷口千代之助などである。この外集合時には中澤忠次郎、伴 伊之助など三、四十名集まった。こうして発足はしたが、周旋方清水延吉と小西兄弟が、常に意見が合わず布教上の対立も出来た。遂に小西兄弟は柴田庄次郎を推して川端二条下がるに東平安組の名のもとに分割した。主な信者は次々にその方へ引き寄せられたので、とりあえず神様を中野甚三郎宅へ移して種々と手を尽くしたが、平安組は次第に衰微していった。加えて中野組長が身上にお手入れをいただき出直すという節に遭い、おつとめも遠慮せねばならぬ結果となったので止むなく組を解散することになったが、熱心な信者の中には「これでは申し訳ない。もう一度なんとか」ということになり、同志中唯一人の教導職である大下次三郎を組長に推挙して、明治三十六年一月、平安西組と名も新たに講社結成の許しをうけた。当時の加盟者は周旋方二十七名、信者数一四二名であった。

○布教所設立

 大下組長はこの機に、繁盛してしばらく経営も軌道に乗ってきた商売を投げ捨て、家族共々生涯をたすけ一條に捧げる決意を固めた。同じく悉皆業を営む清水延吉、三田村庄太郎も印刷業を捨て、苦楽をともにする心を定め、三者鼎のような協力によって、現在地、押小路通御幸町角の三田村庄太郎宅を親神祭祀の場所と選び、更に周辺の家を借りて拡めて各家庭同居の共同生活を営みて布教に励むこととなった。その後この熱意に動かされ、料理仕出し業の矢部喜七、中野甚三郎未亡人、幸も入込んで布教に努めたが、一同の推挙によって組長大下次三郎を所長として、同年九月二六日、平安西布教所のお許しを頂いた。(教甲第二六五六号)
 尚、分割した東平安組は同志意見が合わず、途中誠道組に付くなどしたが、布教意の如く進展せず失意の形となり、平安西布教所設立と同時に再び帰属し、さしもの大節を見事に乗り切ったのである。

○部属日進組(七條分教会前進)結成

 明治三六年以来、三田村庄太郎の導きにより弟佐々木駒吉は日進組(斯道会第五〇二三号)なる名のもとに講元となり七條間之町上ル自宅に於いて布教を始めた。夫婦心を合わせにをいがけおたすけに奔走し、知人親戚関係信者等も数を増やしてきたので兄三田村庄太郎を所長として、明治四〇年四月二四日布教所のお許しを頂いた。(明治四二年本教独立により七條宣教所と改称、平安西最初の部内教会である)

○布教所の充実

 明治三七年、教勢の伸展に伴い教勢も繁忙になってきたので教会の組織を定め、中澤忠次郎は会計係となる。伴 伊之助 当時一九歳、身上の処生涯を道一條に捧げると誓い単身住込み青年となる。松尾国太郎も布教所青年として妻子共々常詰となり、布教所の内部も人的に充実し、教勢その後も順調に伸び、部内教会一ヶ所、教師十三名、教徒六十三名、信徒五一三戸を数えるようになったので、一同談じ合い、本教独立の旬の理を頂き、支教会昇格を願い出、明治四二年一月二五日、お許しを頂き、平安西支教会となる。

○支教会時代

 明治四三年、丹治佐四郎は当時信徒であった河原町三条上ル司馬樽桶製造業の職人として永年勤めていた。主人の導きにより信仰し、教会に運ぶ中、教理に真髄し、道一條を志し、青年として入込みとなる。
 服部利一郎は西洞院四条上ル悉皆屋の長男であったが、学校卒業頃より身上を病み、たすけ一條に身を捧げんと教会常詰となった。

○子供会の活動

 従来布教は大人対象であったがね次代を受ける子供の布教も大切であると、大下会長、伴 伊之助、丹治佐四郎、服部利一らが中心となり青年会員、婦人会員、子供たちを包含して明治四三年十一月二十三日、平安西子供会の発会式が挙げられた。教祖二十年祭の直後から、縦の伝道の重要性に着眼したことは正に卓見であり、お道の幼少年活動の草分けと言い得る。その後毎年子供大会、夏の野外キャンプ、ひのきしん等、数々の楽しい行事は続けられ、おぢば教館に於いて行われた天理教子供大会のブラスバンドを交えた少年少女歌劇は大会の花形であり、特に有名であった。又、夏の海浜キャンプ等は音楽部、映画部を動員して土地観光とタイアップして行う等は注目の的である。その修了者が二代、三代目の平安西を背負っているのである。爾来子供会は少年会に包含されることとなった。
 同志が集まって結成された性格から、まとまりのとれ難い信者たちを大きな包容力をもって育成し、教勢は市内は勿論、地方へと伸びていった。

○朝鮮 平穣の道

 平安西分教会役員清水延吉は布教の志を立て朝鮮平穣に渡り、以前身上のおたすけを頂き、平穣に在住し熱心に布教していた中村善五郎と妻田中百合をたよった。各人の熱烈な布教は日毎に実を結び、明治四十三年十月二十七日、清水延吉を初代会長として平穣府旭町に教会を設立することとなった。それから五年後、別科修了をまって田中百合が二代会長に就任した。

○南河内白木の道

 大阪府南河内郡の出身にて、京都にあって點灯業を経営する福田猶吉は妻の身上霊救によって入信し、教師を拝命し、教会役員となり商売の傍ら布教にも勤めていたが、神恩報謝止みがたく、故郷、南河内郡白木村に帰り、布教に専心し、大正二年三月二日教会設立のお許しを得た。現在部内教会(平白)一ヶ所あり。

○日乃丸分教会の道

 細川七郎は酒造業を営んでいた。心臓の病を悩んでいるところを妻かつの姉、細川つねの導きより、初代会長のおたすけを得て入信した。同じ町内に教会役員中沢忠次郎、與六親子が商売を営んでいたので、共に信仰を語らいつつ布教に従事していた。明治四十五年重き心臓病の霊救に感銘し、名称の理を頂く心定めをし、中沢與六と協力し信者の増加につとめ、大正三年、上京区日暮通丸太町上ル自家の酒蔵を改造し、教会普請、同年三月二十七日教会の認可を得る。

○大正の普請    

 教祖三十年祭の旬の理を頂き、教勢は伸展し信者の増加と共に、教会の狭隘が感じられ、信者等の語り合うようになった。盛り上がる勢いは、遂に教会普請の動議となり、大正三年十月十九日本部のお許しを得て、親神様、教祖、祖霊様の仮遷座を行い、信徒、佐々木秀吉を大工棟梁として神殿及教職舎の普請にとりかかった。大正四年十二月落成、大正五年三月二十一日鎮座祭、翌日奉告祭が盛大に執行された。
 当時信徒総代は市村彦太郎、服部治三郎、福山清太郎である。
 大澤朝太郎長男、栄一郎は、生来体も弱かったが、重き身上のお手入れより、生涯を道一條に捧げることを誓い教会常詰となる。

○朝鮮 黄州の道

 堀口常三郎は二条駅裏に住まいしていたが、中村留吉と共に教会普請に際し大工方として勤めていた。両名共棟梁、佐々木秀吉のにをいがけにより入信した。堀口は弟、岡本平之進の身元の定まらぬのを案じ入信を進めた。心打たれて期するところあり、一旗挙げんと朝鮮に渡り黄海道黄州郡に於いて、布教を始め熱心な信者、井原春吉をお与え頂き共々に相謀り大正五年三月二十五日、教会設立のお許しを頂いた。

○丹後 四辻の道

 信徒西村はるは身上の処不思議なおたすけを頂き、心定めによって故郷の丹後四辻に帰り生計を立てるため、夫、鹿蔵と計り自転車業を営む傍らおたすけ活動に励んだ。御守護頂いた信者も出来たところから松尾国太郎が布教援助のために赴き共に苦労と、努力の結果、丹後与謝郡市場村四辻に於いて、大正五年十二月十五日教会設立、本部の認可を得る。

○綾小路宣教所(後の恭仁宣教所)の道

 伴 伊之助は滋賀県水口町泉の出身で祖母の白水分教会(甲賀)の信仰につながり、父母は京都に移り丸太町大橋東詰めにて旅館を営む。
 その息子伊之助は十九歳のとき胸を患い、生涯を道一條に捧げんと誓い、単身平安西布教所へ住み込み熱意をもって教務につとめ、明治四十二年専心布教を志して、平安西布教所信徒総代市村彦太郎夫妻を頼り、布教に従事した。彦太郎の理解と婦人千代の熱心な布教援助により二十四歳のとき、下京区綾小路通醒ヶ井東入に至誠組講社を結び、信徒の結成に懸命し、大正六年三月三十日、綾小路宣教所設立に及ぶ。
 然るに信者事情のため地方庁不認可となり再願準備中、大教会のお声によりて、宇治田原部属恭仁宣教所が担任者なく、有名無実となっているのを継承して、移転願出たるところ、地方庁では、その教会は既に取り消されているので、改めて任命移転所属変更の本部認可を大正十年七月二十四日に受け、地方庁にては新設として大正十一年二月二十日に許可を受けた。現在部内教会、恭智、恭仁大宮、恭仁龍、恭仁園の四ヶ所。

○東平安の道

 柴田庄太郎は明治二十五年春入信し、生魚商を営みつつ、斯道会の信者となる。明治三十四年、平安組結成に尽力したが、前述の通り数々の道すがらを経て、再び平安西布教所所属となり、左京区新柳馬場仁王門東入に再起して大正七年五月十九日現在地、新東洞院通仁王門上ルに於いて教会設立認可を受ける。

○東京 平東の道

 明治四十三年頃、中野 幸は東京布教を志し懇意の宅に寄寓し、手伝や子守の傍らおたすけし、浅草の一角や、向島の二階にも居を移して専心布教に努めていたが、信者の要請によって浅草に吾妻組を組織し、集団所を設けた。大正五年上級教会会議によって幸は教会の用務と老齢なる為呼び戻し、永年教会勤めをし布教に従事していた丹治佐四郎を交代派遣して教祖四十年祭教勢倍加のおぢばの声に添うごとく本所区内に移り、丹治夫妻、住込長尾等共々布教に努力、教会設立のため家屋改築準備中、大正十二年関東大震災に遭い灰じん、あまつさえ妻を失い、無一文の大節より復興につとめ、大正十三年六月二十七日、本所区中之郷竹町十一番地に於いて教会出願認可される。

○平信の道

 田村義一は義兄、白木宣教所長福田猶吉の教導を受け信仰を続けるうち、明治四十二年六月平安西支教会青年に登用され勤務するうち義兄は出直したので、大正四年頃その志しを受け京都市内及び大阪市に於いて布教に努め、講社を設け励む折りから、教祖四十年祭の旬の声に応じ、大正十四年三月四日、京都市下京区仏光寺通岩上西入に教会設立を認められた。

○滋賀 江浜の道

 宇野そのの夫、文平は業務見習いのため京都の有名呉服店外村商店に勤めていた。ある日そのは頼んだ髪結いよりめずらしい話を聞いて感銘した。爾来そのは髪結いにかこつけて熱心に話を聞いた。夫には内緒で近隣のにをいがけにつとめるようになった。その髪結いが平安西の信者であった。滋賀県長浜に帰って後も、婚家宇野文商店は長浜に於ける屈指の家であったが、そのは温情溢れ、意志強く、自分の因縁を自覚し道一條に志して、身分も名誉も省みず、周囲の嘲り謗りの中を布教につとめ、夫を説き、自宅に講社を設け祭祀教話などつとめて信者も出来てきたので、旬の理に応じ、滋賀県長浜市米川に大正十四年十二月十五日教会設立本部認可を得た。夫文平は当時平安西支教会信徒総代をつとめている。現在部内教会(平龍)一ヶ所あり。

○近江 北五個荘の道

 今井和歌は入信前は看護婦養成所の教師などを勤め、日清戦争従軍又日本国派遣特別看護員に選ばれるなど信望あり。夫や子供の身上より信仰に入っても、聰く教理をわきまえて教師検定を受け、親戚筋にあたる五個荘川並病院に看護婦長を勤めつつお助けに奔走、同僚の邑川かのの招きにより北五個荘に居を移し、燃えるような信仰と、堅い信念のもとに、地方婦人会と交流して布教を始めた。当時、甲賀、水口、湖東、三大教会の地元ながら、五個荘村には教会設立が困難とさえいわれていた中を講社祭りをつとめて努力し、大正十四年十二月二十二日本部より設立認可を頂いた。

○初代会長出直

 斯く広く大きく、寛大な親心を以て教信者を育成した、大下次三郎は昭和三年四月十日、五十八歳を以て出直した。在世中は厳しい言葉も出さず終始優しい親心で熱心に教え導かれた理の子供たちはその遺徳を慕い、現在も毎年四月十日は清水山の墓所に墓参会が続けられ桜の花咲く京の春を喜び合う教信徒の和楽の日となっている。

○二代会長就任

 初代会長出直後、役員部内教会長会議の結果、布教時代より労苦を共にしてきた夫人ゑいを全員一致で二代会長に推挙し、昭和三年五月二日、教丙第一三八九号を以て会長に任される。

○青年会 平安西支会長変更

 同月八日青年会平安西支会長息 大下理一に変更、青第八八号を以て任命される。
 斯くする中に道の旬は教祖五十年祭、立教百年祭の旬へと動き始めた。二代会長を芯として役員、部内教会長の結束も固く、教勢頓に伸展し、子供会と共に文化面に於いても、活発に活動し始め、昭和四年二月より青年会活動として教会機関誌「十日」を発刊。昭和九年九月号より発展的に名を「平安西」と改め、月刊として刊行したが、昭和十五年四月、戦時体勢用紙統制のため休刊するのやむなきに至る。

○岡山 平備の道

 大正十二年頃、服部利一郎夫妻は教会の命により岡山市へ単独布教に出で、三門講社山本とら宅をよりどろことして布教に勤める内に田渕しな、吉野平三郎等の協力を得て昭和五年五月十七日新道三十番地に於いて平備宣教所の本部お許しを頂く。

○受訓者会結成

 昭和五年頃、尊いおさづけの理を頂きながら世情に流されがちなるを何とか旬の理に取り残されないよう、布教意欲を喚起するため、直属よふぼくを集め、真心会を結成し、ひのきしんに励み、それを母体として部内全体の受訓者会を結成し年一回大会を開催して、その育成に努めた。

○青年会の活動 音楽部編成

 大正十年頃、にをいがけ路傍講演の聴衆を集めるため四種類ほどの楽器を用いて吹奏していたが、年祭のおぢば団参も活発になってきたので昭和五年頃より本格的に音楽部を作り、元海軍軍楽隊長福島泰山氏を招き、十五名一隊とするバンドを編成した。赤いダブルに赤線入りの紺ズボン姿はおぢば団参の花形であった。又、本部青年会総会出演、子供会、映画界、路傍講演、出征軍人送迎、対外演奏会、全国吹奏楽コンクール一般の部選抜出演するなど、華々しく活躍した。又、雅楽部、映画部も作り、それぞれ活躍が続けられたが、これらの活動も戦争のため全て中止のやむなきに至った。
 又、対外活動として春秋会を起こし、春秋に富む若人の和楽親睦を計るため春秋会を作り成人的話し合いの場としていたが戦時中は専ら対外講演会、傷病兵士慰問、遺家族慰問などを行っていたが、現在も成人的話し合いの場として続けている。

○大津 平教の道

 渕田 文は十八歳で大津で玄米問屋を営む渕田源蔵に嫁ぎ、大正四年五月頃身上に重病を患い吉田某(所属不詳)ににをいがけされ、かねてから信心家であり、心に感じるところけあり、大正七年平安西支教会を訪ね、教えを乞うた。
 不思議な結構な身上おたすけを頂き、大正八年一月よふぼくとなり、人助けに励み、祭祀し、大正十二年三月教師検定をうけ教師となる。その頃夫源蔵は大津市会議員に当選せしこともあって、後援のもとに自宅に大津集談所を設け、布教に精進した。多数の信者が参拝するようになり、昭和八年十二月二十一日平教宣教所設立本部認可を受け、自宅を改造教会所となし、昭和九年五月十二日鎮座祭、翌日奉告祭を挙げる。

 

 部内教会も次々と数を増し、教勢も順調に伸びて部内教会十五ヶ所となったが、親神様のお鎮まりくださる地場が借地であっては申し訳ないと部内教会長一同寄り合い、教会敷地を買収させていただこうと相謀り、昭和六年より一粒会を結成し、五ヶ年計画を以て、信者の真実を結集し、昭和十年神土の買収を完了し、同時、分教会昇格運動を進め(その間、昭和九年八月十一日部属恭智分教会設立)、昭和十年五月二十日分教会昇格のお許しを頂いた(教昇第三二四号)(昭和十年八月二十五日部属平白分教会設立、昭和十二年七月七日部属平龍分教会設立、昭和十七年四月二十八日部属満州平新分教会設立)。

○二代会長辞任

 二代ゑい会長は、昭和十二年日支の事変起こり戦争状態に入ったので物情も騒然となり、加えて老齢のため辞任した。

○三代会長就任

 役員教会長会議の結果、長男大下理一を後任に推したが、当時部内日乃丸分教会長であったため、教会常詰中澤はるを遣わし会長を交代し、昭和十八年五月三十日、三代会長に任命のお許しを頂いた(教丙一七七七号)当時部内部属教会 計十八ヶ所。

○終戦後の活動

 昭和二十一年三月十六日教会規則変更宗教法人承認(法則変二九一〇号)
 昭和二十三年二月二十五日部属恭仁大宮分教会設立
 昭和二十四年四月、青年会組織の改制に伴い分会活動の今後の進め方、人事の一新を計り、中澤忠雄、青年会平安西分会委員長となる。
 部内教会に各一名委員を置き、中より数名の常任委員を設け、復元をスローガンにして戦時中、中絶していた機関誌及び音楽部、写真部、雅楽部を復活、子供会も往事の諸行事を復元し現在少年会によりその活動が引き継がれている。
 昭和二十七年五月一日、宗教法人法による教会承認(教法人二六七号)

○創立五十周年

 昭和二十八年十月、教会創立五十周年記念祭を盛大に執行する。
 戦争によって戦災三、海外引揚げ三、強制疎開一、計七ヶ所の教会が被害を受けたが、その教会も一手一つの精神に逐次復興し勇んでつとめている。
 昭和三十一年一月、教祖七十年祭を記念して毎月二十六日バス団参を行い、現在は近鉄特急電車団参を以て続行現在に至る。

○京四條の道

 谷口家の入信は教祖存命時代からと聞く。当主千代之助(嘉兵衛)は明治二七年頃河原町分教会の近くに住居を構え、本部より御簾神具の御用達商として、深く信仰に導かれつつ斯道会周旋方としてつとめ、明治三十六年に平安西布教所の設立に及ぶや加盟し、又東平安宣教所が設立されるや信徒総代としてつとめ、店舗を四条通高倉西入に移し、手広く商売をしているうち、千代之助は出直、妻はるが商売を継ぎ、傍ら同業職先関係や知人のにをいがけ、おたすけに励みね次男隆造の身上患いにより、平安西分教会住込み青年として道一條に捧げ、自らは昭和二十五年一月に現在地に四条布教所を設けた。その間、次男隆造、三男七造応召戦死を遂げたので、姉娘夫妻(谷口和一、繰)を帰家さして商売を続け、はるは布教に専念した。ご母堂様がお立寄り頂いた節、京の四条のこんな所に教会がほしいなあ、と仰せになった。そのお言葉を心に受けて老体を励ましつとめたが惜しくも出直した。その節の心定めとして信者一同は名称の理を戴くことを決意し、和一を教会長に昭和三十二年十二月二十六日京四條分教会設立本部認可を受けた。

○積徳運動

 昭和三十四年、青年会提唱により日常諸費節減積徳運動を起こし、婦人会と相共に協力して布教及文化活動を活発化して、教義研究部、祭儀部(おつとめ練習)、にをいがけ部、ひのきしん部、和楽部(茶道・松尾宗京、華道・佐々木一光、舞踊小唄・里園志寿治担当)の各部門に分けそれぞれ活発に行事を行っている。

○子弟奨学

 昭和三十七年四月、部内教会長布教所長よふぼくの子弟教育のため奨学制度を設け「せいじん会」と名称し、現在扶育終了した者十数名あり、共に道の上に又社会に出て活躍をしている。

○創立六十周年

 昭和三十八年十月二十日、教会創立六十周年記念祭を盛大につとめる。

○よのもと会大会

 昭和四十二年六月二十五日 よのもと会大会を盛大に開催し、以来毎月一日に例会を催し、よふぼくの集いを行っている。

○少年会発会

 昭和四十二年十一月三日、少年会平安西隊結成式を行い、毎月第一日曜日を例会日とする。

○真柱様御入込み

昭和四十三年七月、真柱様のお入り込みを頂き、お仕込みを頂く。随行小松駒太郎本部員様、深谷大教会長もお越しくだされ、平安西神殿ふしんをお誓いする。

○桂平泉の道

 清水重延は妻み津江と共に教会常詰として伏せ込んでいたが、昭和十年布教を志して、京都市東山区泉涌寺通なる信者、高橋末吉の離屋の一室を借り布教を始めた。その後止むなき事情により布教地を変え幾多辛苦の道を通ってきたが、重延は身上に倒れ、み津江は看病の傍ら布教を続ける中、重延は出直した。長女夫婦は父の道一代通った意志を深く感じ、京都市乾町に家を買い求め、一家共々清水家に入籍することとなった。久しく信者宅に預けてあった神様を新しい清水家に迎えて、平泉布教所としてつとめさせて頂く御守護を頂き、信者も成人し、新しい信者もお与え頂いた上から、教祖九十年祭お打ち出し頂き、旬の理の上から教会設立の話が進められた。名称の理を頂く上から、僅かにある空地に神殿を建てさせて頂こうと相談まとまり、昭和四十六年五月より、ふしんに取りかかった。完成後、大教会の御視察を頂いたところ、新設教会としては少々狭く、これではお許し頂けないとの事で、やむなく成人の足りないところであったが一時中止の形となった。直後所長は半身不随のお手入れを頂いた。その同じ年の八月三日かねて入院中であった平穣分教会部内満州平新分教会吉弘キクノ会長、昭和四十七年八月三日出直し、後継者定まらず、加えて教会立ち退きを言われている上から上級教会預かりとなった。そこで亡父清水延吉は上級平穣分教会の初代会長であった上より思案して、満州平新の復興につとめる事が親にも喜んで頂ける道であろうと、上級の声を頂き、名称の理を継ぐこととなった。教会名称が土地柄にふさわしくないうちから桂平泉と改称し、昭和四十七年十一月二十六日(教丙第九三二〇号)移転、名称変更合わせて初代会長として任命のお許しを頂いた。

○会長代務者任命

 三代会長身上お手入れを頂き、宇多野病院に入院することとなったので役員会議の結果大下美代子を代務者と定め願い出、昭和四十七年十二月二十六日(教丙代八四号)代務者任命お許しを頂く。

○霊祭日の変更

 従来春秋霊祭日を三月十九日、九月十九日と定めお許しを得ていたが、春秋霊祭は恒例祭ではないということになり、相談の上春秋共霊祭日を二十一日とし、昭和四十八年六月二十一日変更承認を受ける。
 

○教祖神座下附

 教祖神座下附頂けることとなり、願書提出、昭和四十九年七月十四日下附頂き、七月二十六日納置した。

○代務者解任

 三代会長入院中の処、身上快方に向かい退院を許され帰会、その後も逐次快方に向かっているので代務者解任を願い出、昭和五十年七月二十六日代務者解任承認される。八月十一日登記変更、十三日中京支部届け出。

○神殿並教職舎昭和普請

 昭和四十三年八月二十一日、真柱様御入込みの際、おぢばの思召しに添うよう神殿並教職舎の普請をお誓いして以来、第一段階として北隣の家屋の明渡しに掛かったが、頑固に立ち退きを拒否し、示談進まぬままに年月を経たが、昭和四十六年以来三代会長の身上お手入れより、大教会長様のお仕込みを頂き、ふしんにお寄せ頂く切なる親心を悟り、昭和五十一年より本格的にふしんに取り組むこととなり、建築業者竹中工務店を選び、ふしんの計画、立退問題について話し合い、立退問題については竹中工務店に一任し、着々設計計画を進めていくうちに話が好転し、昭和五十一年六月十八日立ち退き明け渡し契約締結を完了した。当時は旧教会敷地で建築計画を進め、設計も出来上がっていたが、隣家が立ち退いた上から根本的に設計変更をし、その為には大教会長様のご指導を得て、本部営繕課野口師男先生に設計監修をお願いし、竹中工務店に施工を依頼することとなった。 昭和五十二年十一月二十六日、神殿及附属建物建築願教丁第八七三九号を以て建築のお許しを頂く。
 昭和五十二年十一月三十日 遷座祭 執行
大教会旧教祖殿へ仮鎮座する。

○移転開始

 昭和五十二年十二月一日より大教会構内地東北の空家(前旅館)へ移転。
 昭和五十三年二月十五日 旧教会取りこぼち始まる。
 昭和五十三年三月二十四日 地鎮祭

○布教錬成の家 銀閣布教所

 ふしんの付帯事業として左京区浄土寺東田町三十七の二 樋口君子所有家屋を布教錬成の家として購入、昭和五十三年三月二十五日、飛地境内地建物承認(教諸一二五二号) 大下順三一家を派遣し銀閣布教所を設ける。
 昭和五十三年九月二十一日 上棟式 執行

○ふしん完工
 

昭和五十四年三月十四日 竣工引渡
      同 二十三日 鎮座祭
      同 二十四日 奉告祭

 


      

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