おかきさげに、「それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理、心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、たゞ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。たゞめん/\精神一つの理にある。」とお教え頂いています。この中の、「心一つが我がの理」とは、「たゞ一つ自由という一つの理」ということであります。そして、その意味は「自分の心だけが自分のものであり、その心は自由という理を生み、その理は自分の精神一つである」と言うことなのです。

 教祖から「神は在ると言えば在る、無いと言えば無い。」とお教え頂いているように、親神様を肯定するのも否定するのも、そのお言葉の確率からすれば五分五分であり、その選択は我が心一つに在り、親神様を信じる信じないは自分の精神一つなのです。お道の者でも、目に見えない非現実的な親神様を確信するのは難しいことです。それをどこまで肯定できるのかが私達の信仰であり、信仰とは非現実的な事への肯定でもあるのです。

 おふでさき三号の115に、「にんけんの心とゆうハあざのふて みへたる事をばかりゆうなり」とお教え頂いているように、私達は形ある物事に気をとられてしまいがちちです。それを、敢えて現実的な物事を二の次に置き、第一に目に見えない非現実的な親神様を信じ信仰することは、心の包容の勇気と精神の強さが必要なのであります。

 今回のようぼく躍進地方講習会を受講し一ようぼくとしての根本的な使命について今一度考えさせられ、私自身、非現実的な事を有難いと肯定する信仰をし、我がの心一つの自由という理のために、心の包容の勇気と精神を強く持ちたいと願う昨今であります。(諭達講習会
本部員山田忠一先生お話より)