1.平泉布教所
  a.初代所長、二代所長
天理教桂平泉分教会は清水重延(しげのぶ)、み津江夫妻が布教し、昭和十八年、重延を所長として天理教平泉布教所を設立することに始まる。
  初代所長清水重延は明治三十四年六月九日、京都市中京区押小路通御幸町西入橘町六〇五番地天理教平安西分教会において当教会役員清水延吉(のぶきち)、登茂の長男として生まる。柳池尋常小学校、第一高等小学校、京都国学院に学び、平安西分教会の青年となった。その後軍隊の招集を受けるが、入隊中銃剣道で胸を突かれたことが元で心臓を病み除隊した。昭和五年、中井仲蔵(大原大教会部内近滋分教会)の娘こまと結婚。昭和六年四月七日、娘、智子が生まれるが、生まれてすぐに出直し、妻こまも産後の肥立ちが悪く、同月二十四日に出直すという節にあった。
  それから四年、昭和十年九月、重延は小野み津江(後の桂平泉分教会初代会長)と再婚する。
  み津江は明治四十一年十月二十四日京都市左京区大原に於いて、大原分教会役員小野徳次郎、タケの長女として生まれる。大正十四年三月京都市立大原女子実業学校補習科を卒業。昭和二年十月十六日おさづけの理を拝戴している。み津江は幼い頃よりお道が好きで二十三才の時、別科四十五期を卒業するや京都出町柳において、にをいがけ、おたすけに励んだ。当時大原分教会の出張所が出町柳にあり、その留守番をしながら市内在住の信者宅を廻り、にをいがけに歩いたという。「教会を設立するまでは結婚しない」というほどの強い信念をもって日々を歩んでいたそうであるが、布教生活を三年続けた後に縁あって清水重延と結婚した。

b.布教時代
 清水重延、み津江夫妻は、昭和十年十二月、結婚して三ヶ月にして東山区泉涌寺(せんにゅうじ)門前町、古い信者である高橋方に於いて共に布教を始める。後の桂平泉分教会の「泉」の文字は、重延夫妻が最初に布教に出た「泉涌寺」の「泉」に由来する。
 結婚早々、夫婦共々布教に励んでいたが、事情によって住居を次々と移り変わった。小西千代氏の世話によって左京区出町桝形町十八番地に移り、昭和十八年、左京区田中下柳町十八番地において重延を初代所長として平泉布教所の開設を見た。その間、松本良信、冨美子夫妻が二男の身上より入信。夫婦共々益々成人して布教の上に力を入れて伏せ込み下され、又中山近吾、うた夫妻、小西千代氏らも勇んで信仰されるようになった。
 信者も次々に授かり日々勇んで通っていた重延夫婦だったが、太平洋戦争ますます激しくなり、重延は軍事工場や炭鉱労働に動員され、また布教所家屋の立ち退きを迫られる結果、やむおえず神実様を信者の小西宅に預け、昭和二十年七月二十九日終戦直前に、平安西分教会に在籍していた父延吉が出直すという節もあり、家族共々平安西分教会へ住み込んだ。重延はその後、約二十年間、昭和三十九年に出直すまで、布教所復興を願いつつも、神実様は信者、松本良信家に預けおつとめを勤めながら、平安西分教会の御用に励んだ。この間、佐々木繁、ふじ夫妻、武知寛、房子夫妻、井上あさ氏そして藤井、堀内、富永、遠藤、笹野氏らが熱心に信仰されるようになった。

2.清水家の信仰

 清水家の信仰は清水延吉(しみずのぶきち)に始まる。清水家は代々、京都市富小路三条下ル朝倉町で呉服悉皆業(ごふくしっかいぎょう)を営んでいた
 延吉は明治五年二月四日、丹波国北桑田郡知井村字北において、農家であり教育者としても知られていた中野友治郎信國(なかのともじろうのぶくに)、たけの五男として生まれた。延吉は十二、三才のころ、京都のある商家へ奉公に出された。その後に清水利兵衛(しみずりへい)、春子の次女、登茂(とも)と養子縁組し清水家の人となった。
 延吉の実兄、中野甚三郎(なかのじんざぶろう)はそれまでに京都に出て来ており、そこでお道を知り、斯道会一号講社に属して、妻、孝(こう)と共に熱心に信仰していた。延吉が信仰を知ったのもこの兄夫婦からだったようだ。平安西信徒名簿によると、延吉が信徒として登録したのは明治二十五年、二十歳のときであった。
 清水家へ入籍後、延吉は河原町分教会の萩原治兵衛先生より清水家断絶の因縁を諭され、心に感じるところあって熱心に信仰するようになった。清水家のほとんどが結核で出直していることから、結核の因縁をも深く感じた。これをきっかけとして延吉の信仰は日増しにあつくなっていった。
 天理教平安西分教会の前身である「斯道会一号講社『平安組』」は、明治三十四年一月、中野甚三郎を組長と定め、八日、十八日をおつとめ日として組結成を届け出た。延吉はこの「平安組」に所属し「周旋方」をつとめた。しかし、種々事情が続き、加えて中野組長が四十歳の若さで出直すという節に会い、組を解散することとなった。
 しかし、熱心な信者たちは「これでは申し訳ない、何とかもう一度」ということになり、同志中唯一の教師であった大下治三郎(おおしたじざぶろう)を組長に推薦し、三田村庄太郎宅に神実様を祀り、明治三十六年一月、平安西組と名も新たに講社結成の許しを受けた。
 同年、九月二十六日、平安西布教所のお許しを戴くのと時を同じくして、大下組長、三田村庄太郎と共に、延吉は家業を捨て、家族とともに平安西布教所へ住み込んだ。

3.桂平泉分教会

a.設立への道すがら
 清水重延、み津重夫妻には、上より吉郎(きちろう)、とも子、宣政(のぶまさ)、せつ子の二男二女があったが、吉郎は昭和十八年十一月二十日、盲腸炎が原因で八歳にして出直し、信正も養子先の三原、久坂家の両親に連れられて行った、炭鉱ひのきしんの現場で腸炎にかかり、幼くして出直した。後には娘二人残ったわけであるが、長女、とも子(後の桂平泉分教会二代会長)は信者、光成哮三郎に嫁ぎ、次女せつ子も日乃丸分教会、中沢忠嗣に嫁いだ。
 嫡子であるとも子が光成家へ嫁いだことにより、清水重延家を継ぐ者がいなくなり、平泉布教所の復興も危ぶまれたが、昭和三十九年一月二十七日に出直した父、重延のお道の上に一代を通った強い意志に哮三郎、とも子とも深く感じて、昭和四十二年、哮三郎はそれまで住んでいた京都市伏見区向島より移って、京都市西京区桂乾町五十三番地百十一に家屋を買い求め、哮三郎、とも子、長男信孝、二男と一家を挙げて清水家に入籍した。そして、二十年以上もの間、松本良信宅に預けておつとめしていた神実様もいよいよ新築なった家屋へ鎮座させていただき、平泉布教所としてつとめさせていただくこととなった。
 この間も平安西分教会に在籍しながら信者の修理丹精に励んでいた清水み津重だったが、夫、重延が願って果たせなかった布教所復興という願いがここで果たすことができたのだった。
 光成哮三郎は昭和八年九月二十三日、京都市左京区吉田において光成光太郎、ヨネの三男として生まれた。光成家の信仰は哮三郎の祖母である要(かなめ)ヤスより始まる。要ヤスは大正十年七月十三日におさづけの理を拝戴、平安西分教会に所属する古くからの信者であった。その信仰を受け継いだ長男光太郎宅の講社祭に平安西分教会に在籍していた清水重延、み津江が通っていたのが縁で清水とも子との縁談が整った。哮三郎は中学の頃より働き家計を助ける勤勉な少年で、京都市水道局技術部器材検査所に勤めながら、立命館高校二部に通い、昭和三十八年清水とも子と結婚した。

b.教会設立
 それから信者も益々御守護いただき、昭和四十六年五月、教会設立の話が進みわずかにあった空地に神殿と信者室を建てさせていただいた。しかし大教会のご視察をいただいたところ新設教会としては少々場所が狭く本部よりお許しがいただけないとのこと。所長、役員、信者とも成人の足りなさをお詫びし、教会設立は一時中断の止む無きに至った。
 同年七月十六日、み津重は信者宅祭の帰路にふらつき、軽いながら半身不随になり一カ月の療養が必要というお手入れをいただいた。その直後、平壌分教会部内、満州平新初代会長吉弘キクノが出直した。

c.満州平新分教会
 満州平新初代会長吉弘キクノは明治三十二年二月二十一日に長崎県南高来郡西郷村八二七番地において生まれる。長崎県西郷村尋常小学校卒業後、十八才の頃朝鮮に渡り転々とする内に、昭和五年頃身上から平壌分教会二代会長田中百合氏よりお道の話を聞き入信した。昭和八年十月三十一日おさづけの理拝戴、その後昭和十年七月より満州国新京に於いて布教を開始し昭和十五年十月布教所開設。昭和十七年四月二十八日満州国新京特別市敷島区永楽町三の二に於いて満州平新分教会の理のお許しを頂いた。しかし昭和二十年、敗戦により日本内地に引き揚げた。昭和二十七年七月京都市伏見区深草亀井町にて、移転復興を願い出る。その後四十三年十二月二十四日京都市下京区中堂寺町庄内町に於いて再び移転を願い出て是非とも思召しに添わせていただきたいと努力してきたが、昭和四十七年八月三日出直した。また、教会の土地建物は借地借家でありしかも個人名義で借用していたので本人の出直しにともない借地権が消滅し家主から立ち退きを迫られる状態であった。
 そんなとき、清水み津江は平安西分教会大下理一会長より、「満州平新の上級、平壌分教会の初代会長は清水重延の父延吉でもあり、満州平新復興の意味も含めて、この教会の理を受けてはどうか」との相談を受けた。平泉布教所一同、心よりこの言葉を受け入れ、昭和四十七年十一月二十六日、清水み津重を会長として、名称も桂平泉分教会と改称し、平安西分教会直轄教会としてお許しをいただいた。
 提出願書に記されている当時の教会役員は、松本良信、中山近吾、藤井 繁、武知 寛、堀内昌三、清水哮三郎の各氏である。
 また、「移転項目書」によると、境内地の地目及び坪数「宅地 一一七.九三平方メートル(三五坪六合七勺)」境内建物「木造瓦葺二階建居宅一棟、一階六五.九七平方メートル、二階四五.四五平方メートル」土地建物の所有者住所氏名「京都市右京区桂乾町五三番地の一一一 清水哮三郎」となっている。

d.初代会長出直
 清水み津重会長を真として、ますます教会も賑わい、喜び勇んで日々を送っていたわけであるが、昭和五十四年八月、み津重会長が子宮がんの身上を頂くという教会にとっても大きな節をお見せいただいた。しかし、間もなく御守護いただき、教会に戻って再びお道の御用の上につとめていたのであるが、昭和五十五年八月、入院中に受けたコバルト照射により骨が極端に弱っており足を骨折して再入院。その際にがんの再発がわかり、種々手を尽くしたが、昭和五十六年六月二十七日、七十三歳にしてがん性腹膜炎で出直した。み津重会長の人生もまた、全てをお道に捧げ、揺るぎない信仰でもって人々を教え導いた、かけがえのない一生涯であった。

c.二代会長
 後任教会長には娘、清水とも子がつとめることとなった。主婦から一転して教会長になったとも子だったが、様々な苦労を乗り越えながら会長としてのつとめに励んでいる。
 清水とも子は昭和十二年十月十八日京都市中京区押小路御幸町西入橘町六百五番地天理教平安西分教会において当教会役員清水重延、み津江の長女として生まれる。昭和三十一年三月八日京都府立鴨沂高校卒業、昭和三十一年五月二十七日おさづけの理を拝戴している。
 教会の土地建物はそれまで哮三郎の名義だったが、み津重会長の出直しをきっかけとして、哮三郎の「前会長の霊に親孝行させてもらいたい」という願いと、会長、役員、信者一同の悲願であった「お教え通りに男鳴り物と女鳴り物が相対しておつとめをつとめさせていだけるだけの広い神殿を御守護頂きたい」という気持ちが立てあって、教会の土地建物を売却し、昭和五十九年三月二十六日、宇治市伊勢田町浮面四十七番地三十八の地に、新たに、宗教法人の教会として、神殿の移転、建築の御守護を頂いた。おぢばに正対する新しい神殿で、神殿移転建築奉告祭を努めさせて頂いたわけであるが、新会長就任三年足らずにして新しい神殿を御守護いただいた不思議を誰しも感じずにはいられなかった。会長夫妻、役員、信者たちの努力の賜物であるだけでなく、清水重延、み津重夫妻の深い思いを感じずにはいられない。そして何より親神様の深い親心を感じさせて頂く。
 「移転項目書」によると、境内地の地目及び面積「宅地 一〇六.六六平方メートル、宅地 一〇六.五四平方メートル、宅地 一四九.九三平方メートル」境内建物「木造瓦葺二階建、神殿兼教職舎壱棟 一階一二五.二八平方メートル 二階四九.一四平方メートル」土地建物の所有者の住所氏名「京都府宇治市伊勢田町浮面四七番地の三八天理教桂平泉分教会」となっている。なお、当時の願書に記載されている教会役員は、松本良信、中山近吾、武知寛、堀内昌三、清水哮三郎の各氏である。
 また、平成四年時の桂平泉分教会責任役員は武知寛、中山近吾氏。平成九年八月二十二日現在の責任役員は松本好雄、清水哮三郎氏となっている。そして現在までに橋本氏、佐々木氏、津久田氏などが熱心に信仰されるようになった。

4.平良布教所

 桂平泉分教会には現在(立教百六一年十二月)一カ所の部内布教所がある。
 平良布教所は昭和六十一年四月十六日松本良信を初代所長として「教祖百年祭を旬として心新たに踏み出す心定め」を理由に開設。開設時の周旋は松本好雄、光成鈴代、清水哮三郎。祭典日は毎月十六日である。
 松本良信は明治三十八年三月二十二日石川県金沢市鍛冶町に生まれる。その後小将高等小学校に進むが中途退学し一旗挙げようと京都に出て、町田商店に住み込み修行に励む。その後、昭和八年冨美子と結婚。男四人女三人の七人の子を授かるが二男の身上より天理教に入信。昭和十四年六月おさづけの理拝戴。途中事情により平泉布教所を自宅に預かり大切にお仕え頂いた。平成二年六月十七日八十五才で出直す。
 初代所長の出直しにより平成二年十二月一日松本冨美子が二代所長に就任。又、平成四年五月一日二代所長の出直しにより、平成四年九月十六日松本信次が三代所長に就任し現在に至っている。なお、現在の周旋は松本好雄、光成康次。所属よふぼく十名。