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Last Update:2001/10/31

パートタイムアスリートいずみ アスリートを続けられるのか!?


■2001年10月31日(水曜日)
 体育学校を卒業してから1年が経った。この1年で、生活パターンは全く違うものに なり、競技力は800mについては落ち、1500mについては維持できた。走る 環境が厳しくなればなるほど、競技を続けてゆきたいという気持ちは、どんどん 大きくなり、寝る間を惜しんでジョッグを続けてきた。しかし、時々、なんでそこまで して続けたいのだろうか?と考えることがある。考えるくらいなら止めてしまえばいい のだが、走らないと、体の調子はおかしくなるし、なんだか不安になり、結局走ること になる。走るというのは自分にとっては精神安定剤のようなものなのだ。
 仕事が走ることという状態から足を洗って1年経ち、体の方はついていっていないが、 気持ちとイメージはまだ1年前と変わっていない。心と体がうまくかみ合っておらず、 あまりよろしくない状態にあるような気がする。怪我には十分注意しよう。 

■2001年10月30日(火曜日)
 1年前から、和光市駅の駐輪場に毎月2000円ずつ払って、自転車を置いている。 その駐輪場にある自転車を使うのは、朝霞駐屯地へ行くときだけで、最近は月に1回も ない。1年間で24000円も払っている。自転車が2台は買えてしまう。とても もったいないような気がしてきたので、今月で駐輪を止めることにした。
 問題は、その自転車をどうするかということだったが、わざわざ所沢まで 送るのは、お金がもったいないので、和光から所沢まで乗って帰ることにした。 和光から所沢まで、だいたい20kmちょっと。車で30〜40分はかかる。 渋滞していれば1時間以上かかってしまう。どのくらいかかるのだろうか?と思いながら 出発したが、信号で止まることがほとんどなく、ずっとペダルをこぎっぱなしで、 ちょうど1時間で帰ることができた。けっこうがんばったので、大量の汗をかいていた。 自転車は、電車や車と比べてもそれほど大きく遅れることはないと認識した。

■2001年10月29日(月曜日)
 朝練して、シャワーを浴びたときに、驚いた。金曜の朝以来シャワーを 使っていなかったのだが、ずっとガスの栓が開いていて、しかも火がつきっぱなし になっていた。なんと無駄使いをしたのだろうと思ったのと同時に、火事に ならなくてよかったと思った。ガスの元栓だけは気をつけようとしていたのに、 さっそく見落としていた。ちょっと注意が足らないぞと反省。

■2001年10月28日(日曜日)
 部屋に必要な、掃除機、電子レンジ、炊飯器などの電化製品が全くなかったので、 それらを買いに、池袋へ出かけた。適当に安いものを買って、終わりにしようと 思っていたが、そう簡単にはいかなかった。メーカーが同じでも、そのメーカーの 製品だけで、いくつも種類があって、値段が1000円違うと、微妙に機能も違ったり する。メーカーの違いによっても機能が違うし、値段も違って、よく見れば見るほど、 どれにしたらよいのかわからなくなってきた。結局、何も買うことが出来ず、 パンフレットを大量にもらって帰ってきた。後から全部を見比べて検討しようと 思ってみたが、それに目を通すだけで、相当な時間が掛かり、だんだんどれでも よくなってきた。やっぱり最初に考えていた通り、一番安いのを買った方が よかったのだろうか?なかなか結論が出せない。

■2001年10月27日(土曜日)
 川崎秋季市民陸上競技大会に出場した。アンビバレンスの地元である川崎で、 アンビバレンスのユニフォームを着て走るのは初めてだった。
 種目は1500m。1日で予選と決勝がある、なかなかハードなレース。 1500mのレースで、1日2本走るのは、いつ以来だろうか?たぶん 大学の時以来なのではないかと思う。ただでさえ練習できず、走れていないので 2本ももつかどうか不安だった。大会記録が3分54秒76で、うまくいけば 大会新記録が出せそうだったので、それを予選で狙い、決勝は1位で ゴールすることだけを考えることにした。
 予選は1周目を57秒、2周目を2分01秒で通過し、なかなかいい調子で 進んでいたが、誰も付いてこないので、だんだんペースが落ち、残り1周の 通過が2分50秒。残り1周を64秒以内で回らないと大会記録が出ないという 状況だった。がんばったがまったくペースは上がらず、きわどいところで なんとかゴールした。タイムは3分54秒22。わずかに大会記録更新。
 走り終わったとは、酸欠で頭痛が激しく、この後に決勝を走るなんて考え られない状態。とにかく、少しでも体が動くよう、立ち止まらずに歩いた。
 決勝は、スタートで明大の学生に先頭を取られ、ペースが遅かったため、 つまずきそうになった。先頭に出るまでに150mくらいかかった。 1周目の通過が66秒。あまりにも遅く、かえって疲れた。2周目から 少しずつタイムを上げていくつもりだったが、あまり上がらず、そのまま 最後まで惰性で走ったような感じだった。そのため予選ほど疲れることは なかった。無事に、1位でゴールし、タイムは4分02秒66。4分は 切りたかったが、予選で力つきたため、どうすることも出来なかった。 スタミナもスピードもなくなりつつあることを実感し、来年以降、維持して ゆけるかどうかちょっと不安になるレースとなった。


■2001年10月26日(金曜日)
 あるきっかけで、大学生たちと飲んだ。彼らはある予備校の卒業生の集まりで、 二十歳くらいの子たちなので、無茶な飲み方なんかをしていて、若いなぁという 印象を持った。大学の授業に出ているか?と聞いてみたら、あまり出ていないと いう言葉が返ってきた。自分の学生生活が塀の中の普通でない生活を送って いたので、普通の学生生活がどういうものか、とても興味があった。時間に制約 されることもあまりなさそうで、学生生活というものを楽しんでいるようだった。

■2001年10月25日(木曜日)
 朝5時半に出勤し、長い1日だった。たまに訓練で、こういう事がある。 いつ、何が起きるかわからないし、いざというときのための自衛隊なのだから こういう事は必要だと思う。その代わり、朝練が出来なくなるのが悲しい。 だいたい朝練は5時から始めているので、5時半に出勤だと、4時過ぎには 起きないと練習はできない。新聞配達の人に言わせればたいしたことないかも しれないが、自分にとってはものすごく早起きで、眠ったまま走るのでは、 全然練習にならないので、結局朝練はあきらめてしまう。もうちょっと、 意志が強い方がいいのかなぁ?

■2001年10月24日(水曜日)
 アンビバレンスの練習会に、新聞社の人たちが取材に来ていた。練習中に カシャカシャッと写真を撮られ、いきなり有名人かモデルになってしまった ような錯覚に陥った。記者の人が、一番関心のあったことは、陸上は自分に とって、どういうものか、いつまで続けるのか、続けられるのか、クラブ チームとはどういうものかということだった。人によって、考え方が違うと 思うが、自分たちのだいたいの意見は陸上は生活の一部、でやめることは えられないというものだった。病気みたいなもので、治らないのです(笑) なんて答えた。クラブチームについては、様々な業種の人と知り合える サロンの場ではないかと答えた。これが記事になるかどうかは、記者の 腕次第だそうな。

■2001年10月23日(火曜日)
 入間にいる防大の同期と、たまたま入間に出張で来ていた同期と飲み会。 朝になって突然決まったもので、以前から入間にいる同期は「入間会」と 称してよくやっているということだった。
 たった5人だけの集まりだったが、久しぶりに昔の話ができる仲間と飲む ことができ、話が尽きず、楽しく過ごせた。気がついたら11時も過ぎ、 自分の部屋に戻ったのは12時前だった。今日は早く寝ようと思っていたが、 実行できなかった。

■2001年10月22日(月曜日)
 初めての当直業務で、基地にお泊まり。朝の集合で、集合場所を間違え、 さっそく叱られた。どこに何があるのかもまだわかっていないのがまずかった。
 夜は、久しぶりに基地の風呂へ入った。風呂が広いと、気持ちがいい。 風呂を出て気分が良くなった後、点検の区域を点検。異常なく、無事1日が 終わった。 

■2001年10月21日(日曜日)
 部屋のカーテンを買いに所沢へ行った。初めは100円ショップですまそうと 考えていたが、大きさの合うようなものは全くなく、結局西友へ行った。 所沢駅前の西友は、あまり大きくないので、品揃えも少なく、がっかりしたが、 早く決めてしまいたかったので、妥協して買った。
 この1週間は、カーテンがなかったため、外から丸見えだった。これで やっと外から見られることなく、生活が出来るようになる。

■2001年10月20日(土曜日)
 午前中は、久しぶりに体育学校で練習。メニューは1000mと400mのみ。 たった2本だが、質は高かった。最近は全くトラック練習が出来ず、なんとか ジョッグでつないでいたため、走れるとは思っていなかった。しかし走ってみると 1000mは2分26秒台。400mと52秒台。1000mで2分30秒を 切ったのは体育学校をやめてからは初めて。自分が2,3年前に調子の良かった ときと変わらないくらいのタイム。自分でも驚いた。しかし走り終わってから、 ダメージがジワジワと出てきて、動けなくなり、倒れていた。どう考えてもやりすぎ だった。こんな無理なことばかりをやっていたら早死にするのではないかと思った。
 夜は、水道橋へ行って、マンドリンのコンサートを見た。マンドリンというものを 初めて見たが、日本の琵琶のような、椰子のみをくりぬいたような感じの楽器だった。 音がとても繊細で、聞き入った。弦楽器だけの演奏もいいものだと思った。

■2001年10月19日(金曜日)
 仕事中は、書類の内容はあまりわからないが、とにかく責任者が自分であるので、 読むだけ読んでひたすら印鑑を押しまくった。こんなに連続で押したのは初めて。 気持ちとしては、総理大臣か、天皇にでもなってしまったような感じだった。
 仕事帰りに、上司と後輩と飲みに行った。今までは基地の中に住んでいたので、 通勤というものが全くなく、仕事帰りに飲みに行くというのは初めての体験だった。 なんか、オヤジになったという気分。

■2001年10月18日(木曜日)
 転出、転入届けや、官舎の手続きなど、いろいろな手続きを全くしていなかった。 これらの手続きが平日しかできず、時間も掛かるため、1日休みをもらった。 官舎の管理人の所へ行って、狭山市役所へ行って、所沢市役所へ行って、郵便局へも 行って、けっこう動いた。夕方になってやっと時間が出来たので、六本木まで出て 血液検査もしてきた。1日を無駄なく使えたと自分では満足。

■2001年10月17日(水曜日)
 新しい職場での1日が始まった。いろんな人が自分の所へ報告をくれるのだが、 理解できることが少ない。その理解できていないことを上司に報告しないといけない。 専門用語が多く、その言葉がわからないとどうしようもないと思った。何も わからないけどやらなければならない。仕事を始めれば誰もが通る道なのだろうが、 自衛隊に入って5年目になるのに、何も知らないというのは、普通の人からすれば、 おかしな事だろう。時が経てば、周りの人と同じように業界用語を使うように なっているだろうと信じ、出来ることからやっていこう。

■2001年10月16日(火曜日)
 午前中に卒業関連の行事が3つくらいあって、9時半には解散になった。 昼に官舎へガス会社の人が来ることになっていたので、急いで所沢へ向かった。 大宮から川越線に乗ったときに眠ってしまい、川越からの折り返しで恵比寿まで 行ってしまうところだった。そこで少し時間を使ってしまったため、所沢へ12時前に 着くことが出来ず、ガス会社の人は午後に来てもらうようになった。
 2時前にガス会社の人が官舎まで来て、ガスを使えるようにしてくれ、湯沸かし器の 使い方などを教えてくれた。とても親切な人だった。
 ガス会社の人が帰った後は、入間基地へ急いだ。3時に到着すると連絡してあった から。ギリギリ3時に間に合い、いよいよ新しい職場での生活が始まった。いきなり 中間管理職になり、部下が約40名。これからいろんなことが起こるのだろうなぁ。

■2001年10月15日(月曜日)
 午前中は、教場のそうじと、教官方との懇談会。授業のやり方について、 話し合った。自分たちの後から入ってくる課程の人たちが、よりよい授業が 受けられるようになればいいと思って、意見を出した。
 午後は、自分たちの宿舎の清掃と、宅急便出し。宅急便屋が宿舎前まで 来てくれたので、荷物を梱包するだけで済んだ。自分は県内の引っ越しなので、 荷物が多くてもたいした額はかからなかったが、行き先が沖縄で、荷物が 膨大だった人は、4万円以上かかっていた。自分が一番お金のかかったのが 自転車。しかし買うよりはやすいと思って、運んでもらうことにした。
 あとは、明日の卒業を待つだけ。

■2001年10月14日(日曜日)


熊谷のドラえもん
 昨夜はそのまま官舎に泊まり、午前中に電車で熊谷まで戻った。熊谷基地で 後輩に車を借り、荷物を積み、所沢との往復をした。行きは、昨日とほぼ同様の 道を通ったので、1回道を間違えただけで済んだが、帰りは日が落ちて暗くなり、 東松山辺りで迷子になった。自分の思う方向へ進んでゆき、標識を頼りに行きに 来たみちを発見することが出来、無事熊谷へ帰ることが出来た。往復約4時間の 道のりだった。こんなに長く運転したのは初めてで、事故がなかったので、 車の運転には少々自信がついた。

■2001年10月13日(土曜日)


手前が私の住まいです
 引っ越し準備をするため、これから生活することになる官舎へ行った。後輩の車に 便乗して、熊谷から入間基地へ行って官舎の鍵をもらい、官舎へ行くことになって いたが、後輩が二日酔いのため運転できず、自分が運転することになった。2時間 近く運転するのは、免許を取って初めてのこと。しかも7年間はほとんど運転を していない状態。ウインカーをつけようとしたところ、ワイパーが動いたりして ヒヤヒヤしたが、なんとか入間までたどり着いた。
 入間で鍵をもらった後、電車に乗り官舎へ向かった。官舎は防衛医大の中。いちいち 門で身分証明書を見せて入らなければならないので、面倒くさかった。この官舎は もともと看護婦のための宿舎だったため、1部屋で2人が住めるようになっていた。 自分の住まいは5階で、中身は6畳の和室が2つ、バス、トイレ、キッチンだった。 今日は掃除をするためだけだったが、意外と汚れは少なく、簡単に終わることが出来た。

■2001年10月12日(金曜日)
 朝、3時半起きで、4時から仕事。もちろん外は真っ暗。毎日教室に 閉じこもりっぱなしで、食事の時を除いてはずっと頭を悩ます生活が、これで 1週間になった。この総合演習も今日が最後で、疲れが出たためか、 午後からは頭痛があり、眠気があり、課題以外にいろんなものと闘わなければ ならなかった。
 この演習が終わることによって、約11ヶ月続いた熊谷基地での教育の すべての科目が修了した。この11ヶ月で、航空自衛隊に対する知識は付いたが、 自分の筋肉ははぎ取られたようになくなって、みんなからやせたと言われ、 実際にアスリートの体ではなくなっていくのが実感できる悲しい現実があった。

■2001年10月11日(木曜日)
 昨日までの大雨が去り、天気のいい日だった。今日も相変わらず、1日中 教室に閉じこもって課題に取り組んでいた。外は晴れているのに、朝暗いうちから、 夜になるまで室内にいるというのは、なかなかストレスのたまることだ。 走ろうと思ってもジョッグくらいしかできない。スパイクも1週間履いていない。 そろそろトラックに戻りたい。

■2001年10月10日(水曜日)
 10月10日といえば、何年か前までは体育の日。だいたい天気がいいはずなのに 今日は、1日中、嵐のような天気で、雨はやむことはなかった。
 先週の金曜日から、自分達の勉強してきた内容を総まとめするという感じで、 総合演習をしている。といっても教場で課題を与えられ、それに対し、自分なりの 答えをだして、発表し、教官から質問されるというもの。これによって部隊に行ったら、 どういう仕事をするのかというのを垣間見られる。1日かけて、1つか2つの課題が 終わるというペース。発表して質問が終わるまでは、いつまでも続く。
 今日は5日間のうちの3日目。朝6時過ぎから夜は8時くらいまでずっと、 座りっぱなし。これほど、頭を使っていると思うことはないというくらい、考える ということをしている。

■2001年10月9日(火曜日)
 高橋尚子さんの世界記録が、シカゴマラソンで破られたらしい。彼女が 世界記録を保持していたのはたった1週間。この記録を破ったのはケニアの ヌデレバという人。前の世界記録を1分も上回って、2時間18分47秒。 しかもペースメーカーもなしで走りきったらしい。ここまでくると、 男子でもちょっとしくじると抜かれてしまう。女子が男子に追いつく日は 訪れるのだろうか?
 知り合いでは、元営団地下鉄の長沼一葉さんが出場していた。小幡さんの 6位に続き7位だった。去年までは中距離をしていて今回は初マラソンだった はず。がんばっているなぁと思う。

■2001年10月8日(月曜日)
 体育の日なのに、天気は雨。体育の日といえば、今までは10月10日で、 統計的に快晴が特に多い日なので、東京オリンピックの開会式の日として 選ばれたのが始まりだと聞いている。でも日にちをずらしてしまえばこんなもんか?
 昼まで寝ていて、何もしないのはとてももったいないので、目黒にある、ある 喫茶店へ行った。なぜ喫茶店かというと、知り合いの写真展が開催されていたから。
 場所は、京王井の頭線の駒場東大前駅から徒歩10分以内にある音楽喫茶 「カフェ・アンサンブル」。 クラシックの流れる静かな空間。展示してあるのは「光と影のデザイン」と題して、 雄大な自然や荘厳な建築物のその場の雰囲気を、デザイン画を描くような感覚で 切り取った写真。特に気に入ったのはサンディエゴの海岸と地中海の夕暮れの写真。 光があるおかげで影も出来て、すばらしい写真にもなるのだなぁと思った。光と 影は切手も切り離せないということを実感した。みなさんオススメです。
 Jin Akino Photography の「写真展「光と影のデザイン」開催のお知らせ」をクリックしてみてください。

■2001年10月7日(日曜日)


ステンドグラス博物館
 昼過ぎにコテージを出て、バスと歩きで、那須の観光をした。バスと歩きでは、 いろいろなところにはいけず、不便だったが、車があっても道は渋滞ばかりで 似たようなものかなぁと思った。
 観光した場所は、フィンランドの森とステンドグラス博物館。フィンランドの 森はムーミングッズと、なぜかトトログッズが売っていた。フィンランドで 売っていた、ムーミングッズがいくつか売っていて懐かしくなった。ステンドグラス 博物館は、博物館内のチャペルで結婚式が開かれて、勝手に中まで入って、 見てしまった。博物館の入場料が高かったので中を見ず、結婚式だけを見に行った ようなものだった。

■2001年10月6日(土曜日)


田んぼの稲がきれいでした
 那須へ遊びに行った。移動で昼過ぎまでかかり、半日も時間はなかったが、 日が暮れてボールが見えなくなるまでテニス三昧。7月の合宿以来の テニスだったが、それほど張り切ってボールを打つことはなかったので、 気持ちよく汗がかけ、心地よい疲労ですんだ。これなら筋肉痛にもならず、 走るのにも影響せず、いちばんいい選択だったのかなぁと思った。
 人里離れた森の中のコテージを借りたため、夜、買い出しに行こうとしたときに、 明かりがなく、真っ暗で道が見えず、とてもこわい思いをし、光のありがたさを 実感した。空は晴れ渡り、余分な明かりがなく、すばらしい星空を眺められる ありがたさも実感できた。

■2001年10月5日(金曜日)
 朝6時半から仕事が始まり、終わったのは夜7時だった。長くて疲れたためか ボーっとして歩いていたら、自転車置き場で頭をぶつけて、そのまま倒れた。 視界が真っ暗になった。そんなに勢いよく歩いていたわけではなかったが、 かなりの衝撃で、しばらく立ち上がれなかった。あまり味わったことのない 痛みで、放心状態。頭蓋骨という丈夫なものがあってよかった。でも脳の 細胞はたくさん死んでしまったのかなぁなんて考えたり、ラグビーやアメフト、 剣道なんかはもっとすごい勢いで、頭を打ったりするのかなぁなんて考えたり していた。
 普段使わない自転車置き場だったので、知らなかったが、頭をぶつけたところ には、黄色と黒のストライプのテープが貼ってあった。今までにも何人かが 頭をぶつけてきたのだろう。時間が経ってくると、噛む動作をするだけで頭痛に なる。コブまでできてきた。この痛みが今日だけで終わってくれることを願う。 久しぶりにドジなことをしてしまった。

■2001年10月4日(木曜日)
 基地の中を走っていると、あるポイントに来る度に、異臭が漂う。何の臭いかと いえば、秋になればよく見かけるギンナンだった。基地にはたくさんのイチョウの 木が植わっているので、よく臭うのも仕方ない。ギンナンを見るたびに今度たくさん 拾って、食べようと思うが、その場から去ってしまうと、わざわざ拾いに行こうとは 思わなくなる。
 ワープロでイチョウとギンナンを漢字に変換するとどちらも銀杏と なるのは、ちょっと不思議な気がした。しかしもともと同じものなのだから、納得 出来るような気もする。

■2001年10月3日(水曜日)
 織田フィールドで、400m×10。設定ペースは60秒。試合の疲れか、 昨日の疲れか、今日も全く動かず、設定通りに全く走れず。最近は疲労が取れなくて 走れないことが多い。昨年までは、疲労回復のために治療院などにマメに通えたが、 現在は1ヶ月に1回行ければいいほうで、それが競技にも影響している。練習後、 食事の時にあんず酒を1杯飲んだところ、それだけで酔って、歩いている時にも 寝てしまいそうな状況になった。疲労回復、これを怠ると怪我にもつながってしまう。 実際8月には疲労が故障につながって走れなくなった。これからは疲労回復がますます 重要な課題になってくるように思う。

■2001年10月2日(火曜日)
 熊谷総合運動公園へ練習に行った。競技場は土というよりも砂。一歩一歩走る たびに滑って走りづらい。競技場内は小学生が埋め尽くして、なんとなく練習しづらい 雰囲気だったが、せっかく来たのだから、無理矢理トラックに入っていった。 入ってみれば自然と1レーンは空けてくれ、練習は出来た。メニューは 12000mビルドアップ走。あまりペースは上がらず、ただ疲れただけ。 途中から小学生が応援してくれたためやめることが出来ず、最後までこなした。

■2001年10月1日(月曜日)
 全日本実業団が終わり、今シーズンが終わってしまった。また来年陸上が 続けられるのだろうか、1日中そんなことばかり考えていた。この1年、練習は 完全に無計画だった。その日練習が出来るかどうかもわからなかったため、練習 メニューはその日に決めていた。まったく長期的な視野をもつことが出来なかった。 もう1年同じようなことをしていては、維持も出来ず、衰えていくように思う。 10月17日からは職場が変わる。これから練習にどのくらい時間が取れるのか 行ってみなければわからないが、練習計画を立てられるような環境になることを 願っている。



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