最近のいずみ

Last Update:2001/11/30

パートタイムアスリートいずみ とうとうパートタイムも1周年!! 



■2001年11月30日(金曜日)
   仕事帰りに上司と飲みに行き、刺身をたらふく食べ、日本酒をいくらか飲み、 非常にいい気分になって、帰ってきた。上司と別れるまでは、しっかりした 足取りだったが、駅を出て、自分の部屋に帰るまでに酔いが回って、まっすぐ 歩けなくなっていた。まっすぐ歩こうと思っているのに歩けない、この感覚が 楽しい。しかし、ひとつ間違えれば事故にあうこともある。気を付けなければ・・・

■2001年11月29日(木曜日)
   ハムストリングスが痛くて、走れなかった。歩くだけでも気になる。 昨日の練習の影響なのかもしれない。走れないと、どうも気持ち悪い。先週も 痛く、駅伝で走ることを除いては全く走らなかった。それで痛みはなくなって、 今週から走り始めたが、今日の具合からすると、少し負荷が大きかったみたい。

■2001年11月28日(水曜日)
   1月ぶりに織田フィールドへ顔を出した。ずっとロードでジョッグをするだけ だったので、トラックで走りたくて仕方なかった。
 練習は短距離に混じり、300m×5。張り切りすぎると肉離れになりそう だったので、かなり力を抑えて走った。短い距離の練習は久しぶりで、フォームが ぎこちなく、思った以上に走れなくなっていた。

■2001年11月27日(火曜日)
   部隊でTOEICを受験。たぶん5年ぶりくらい。問題はリスニング45分、 リーディング75分。リスニングについては、問題を読んでいる間に次の問題へ 行ってしまって、答えられなくなることが多かった。リスニングもリーディングも 最初は張り切って始めたが、同じ型式の問題が20問も30問も続くとイヤになり、 集中力が切れ眠気がおそってきた。リーディングは、結局全部問題を見ることが出来ず、 適当にマークして終わった。もう当分やりたくない。疲れる試験だ。

■2001年11月26日(月曜日)
 通常の生活に戻った。先週、百里での走るだけの生活と比べると、1日が とても長く感じる。午前中は天気がよく、意外と気温も高く、ランニング日和 だったが、一番いいときに走ることが出来ず、室内にいなければならないのが つらかった。

■2001年11月25日(日曜日)


青木湖



郵便ポスト上の松本城
 青木湖の周りを散策しようと思ったが、昨日の雰囲気からして、 周りは何もないと判断し、松本まで出て観光をすることにした。
 松本では、2時間500円のレンタサイクルで走り回った。松本は 高校2年生の修学旅行以来。観光案内を見る限り、大きな観光地は 松本城くらい。とりあえず、松本城に行こうと思って自転車をこいでいたが、 途中で、いい雰囲気の商店街を発見し、2時間ほど散策。この商店街には カエル大明神というものがあり、カエルがマスコットになっていた。 カエルグッズや、カエルの石像が至る所にあった。
 松本城に行ったが、中に入ることまではせず、お堀の外から眺め、 旧開智学校は中に入ったが、列車の時間が迫って、ゆっくり見られず 駅まで引き返した。
 レンタサイクルは、2時間しか借りていなかったのに、実際は時間を オーバーして、3時間も借りていた。延長料金を払うつもりでいたが、 店の人は、別にいらないと言ってくれ、払わなくてよくなってしまった。 荷物もロッカーに入れるようにと言わず、あずかってくれたり、本当に 親切な人たちだった。松本って本当にいいところだ。

■2001年11月24日(土曜日)
 懸賞で、長野の青木湖畔にある、ホテルの宿泊券が当たり、今まで宿泊券を 当ても、一つも行くことがなく、もったいないと思い、有効期限も近づいて いたため、行ってみることにした。
 航空公園を10時くらいに出て、西武線を乗り継ぎ、JR中央線、JR大糸線を 乗り継ぎ、3時半頃に青木湖畔のホテルに到着した。ホテルの周りは何もなく、 観光客の訪れるシーズンでもないため、非常に寂しいところだった。山を 越えれば、富山の立山黒部峡谷という、考えられないような山奥に来てしまった と思った。
 ホテルに荷物をおいて、少し落ち着いてから、散策に出かけたが、日は暮れて しまい、営業していないペンションやお店があるだけで、明かりもほとんどなく、 いったい何のために来たのだろう?と思った。結局どこにも行くことができず、 20分ほど道を歩いて、そのまま引き返してきた。
 夜は、ホテルでただテレビを見るだけ。普段よりはくつろげてよかった。 外は寒かったが、空を望めば、東京では拝めないような数の星が拝めた。この 星がなかったら、本当に何しに来たのだろうという感じだった。
 これからはホテルの宿泊券が当たっても、よく下調べしてから行くことにしよう。

■2001年11月23日(金曜日)
 東京新聞のスポーツ欄の特集連載記事「企業スポーツ 変革の行方 第4部」に ”もう一つのフィールドで 陸上クラブ「アンビバレンス」”というタイトルで、 アンビバレンスに関する記事が載った。10月の1ヶ月間、織田フィールドの 練習会に新聞記者の人が取材に来ていて、ひょっとしたら記事になるくらいに しか考えていなかったので、こんなに早く記事になって驚いた。
 学生時代一流半だった選手たちが、卒業と同時に引退を迫られる時代に アンビバレンスが、新しい風を吹き込もうと挑戦しているという内容。  自分の名前自体は記事には出てこなかったが、写真には一番手前でしっかり 写っていた。しかし、たぶんこれが自分だというのは、本人かこの写真に 写っている人にしかわからないだろう。

■2001年11月22日(木曜日)
 昨夜は、所沢の宿舎には帰らず、基地の中に泊まった。今朝になっても、 火事の現場は白い煙が上がっていた。消防の人たちは一晩中、消火活動を していたのだろう。
 約2週間ぶりに職場に戻り、2週間分のツケがまわり、印鑑押しだけでも かなりの時間がかかった。そのほかにもいろんな話が入ってきて、やらなければ ならないことだらけ。どうしたらいいのだろう?と悩むばかりだった。

■2001年11月21日(水曜日)
 百里基地で、中部航空方面隊持続走大会というものが開かれた。ただの 駅伝なのに、なぜ持続走という言葉を使うのかわからない。英語でも EKIDENと呼ばれるのに。自衛隊では、走ることを駆け足と言って みたり、ずっとアスリートをしてきた自分には、違和感のある言葉が多い。
 レースは7区間42.195kmで争われた。自分は1区6km。 航空自衛隊では5kを15分台で走れば速いと言われる。ということで 自分は速い方に分類されるらしいので、スタートから張り切って先頭に出た。 初めから誰も着いてこないので、ずっと一人旅だった。1kmを2分57秒で 通過し、そのまま行けばよかったが、すぐに横っ腹が痛くなって、距離を 追うごとにどんどんひどくなっていった。ペースは落ち、後ろとの差も 縮まってきて、1kmが3分20秒という所まで落ち込んだ。最後まで 走りきってトップでたすきを渡したが、終わった後もずっと腹が痛くて ダウンも出来なかった。
 チームの結果は、2区で4位まで落ち、4区、5区、で1位に順位を 戻し、圧倒的な差で優勝した。
 百里でレースが終わり、閉会式後、入間基地へ戻った。入間基地では 基地の人たちが大勢出迎えてくれ、優勝を祝ってくれた。
 その後、職場へ戻り、帰る準備をしていたときに、大事件が起こった。 昭和16年に建てられたという大きな木造の倉庫が火を噴いていた。 職場からもその大きな炎が見えて、基地内は大パニック。
 全員を呼集し、消火活動などを行い、夜10過ぎには、だいたい火は おさまったようだった。火事の影響で、西武池袋線も止まったらしく たくさんの人たちに迷惑をかけた。なぜ火事になってしまったのだろう?



レース後

■2001年11月20日(火曜日)
 明日の駅伝大会の選手交歓会というものが食堂であった。VIPの挨拶、 乾杯、各部隊の紹介や意気込み、また最後に乾杯という感じで終わった。 VIPのエスコートに同期がいたので、ずっと話していて、知らないうちに 交歓会は終わっていた。死にそうになったこととか、パイロットでなければ わからない世界を知ることが出来た。戦闘機のパイロットの仕事は大変です。 ホント、尊敬します。

■2001年11月19日(月曜日)
 土曜日に平石クリニックから電話があり、肉離れになる可能性があるから、 運動をするのを少し控えた方がいいと言われたのが気になり、再び平石クリニックへ 出向いた。
 疲労の度合いを示す値(CPK)が、基準値の最大値の6倍。検査を受け持った 会社から、この患者さんは筋ジストロフィーの人ですか?と聞かれたらしい。 先生は柏レイソルのチームドクターで、普通、こんな値が出たら直ちにドクター ストップにすると言われた。この値が出ている時点で、普通は肉離れになって いるから。しかし、自分は、疲労がたまったくらいにしか感じず、特に肉離れにも なっていない。鈍感な体だ。昨年は基準値の20倍以上の値を出しているので、 それほど驚かなかった。このときも、特に怪我をすることもなく、次の月には しっかり値は下がっていた。
 体はそれほど感じていないが、客観的に見るととても危険な状況だということが わかった。毎月この検査を行っているが、大切だなぁと思う。

■2001年11月18日(日曜日)
 陸上競技マガジンの12月号を見ていたら、来年6月の日本選手権の標準記録 が載っていた。800mが1分51秒5、1500mが3分49秒0。どちらも 今年の標準記録よりタイムを落としている。そのおかげで、自分は2種目とも 標準記録を突破し、2種目に出場できる。問題は、3日開催のため、休みを取って 参加しなければならないこと。仕事を休んで参加できるだろうか?
 実業団の冬季合宿も、2月に奄美大島で行われるが、全日本実業団の6位入賞者 までは、全員宿泊費と交通費を出してもらえるため、無料で参加できる資格がある。 自分はその資格を満たしているが、これも休みが10日ほど取れなければ 参加できない。10日も休みをくれる会社なんて普通はない。走ることを仕事に していない選手は、がんばっても、結局そういうチャンスをつぶすことが多く、 上のレベルに上がることができない。しかも最近は実業団チームがどんどん つぶれていくご時世。ますます厳しい環境になってきている。選手にやさしい 世の中にならないかなぁ。

■2001年11月17日(土曜日)


ケーキカット
 高校の同級生の結婚式のため、名古屋へ行った。東京から名古屋まで新幹線 だったが座れず、途中で眠気におそわれ、立ちながら眠り、よろけたりして、 きつかった。
 結婚式は13時からで、いくつものカップルが式を挙げるため、流れ作業的な 段取りで、前のカップルが終わったら、次のカップルが中に入るという感じで、 ちょっとムードが盛り上がらなかった。
 式が終わって、3時過ぎから披露宴。披露宴会場は、とても広く、すべてが ピンクで彩られ、まぶしすぎてちょっと落ち着かなかった。これが幸せの色なの だろう。昼ご飯を食べていないので、おなかが空いて仕方ない。いろいろな人の 挨拶で、時間が経ち、食事が出てきたのは4時前。
 披露宴ではお色直しが3回あり、余興が何組もあって、泣くところは泣いて、 終わったのが7時前。長かった。食べ物もなくなり、あとはひたすら飲んでいた。
 その後2次会にも出席し、懐かしい人たちにたくさん会え、いろいろ話が でき、1日楽しく過ごせた。

■2001年11月16日(金曜日)
 昨日、一昨日の練習で、足の疲労はひどくなり、ジョッグをしても、走る というよりも歩くという感じになってきた。久しぶりに練習で足を痛めつけた。 昨日までと比べると、気温が高く走りやすいのに、走るのが苦痛になっていた。
 自分の感じる疲労度はかなり高くなっているが、客観的に見て、実際どの くらいひどいのか知るために、夜、六本木の平石クリニックへ血液検査に行った。 9月、10月の血液検査の結果をもらっていなかったので、見せてもらうと、 先生に「この血液では素人だよ」と言われた。アスリートの血液ではないらしい。 タンパク質をしっかり取りなさいと指示を受けた。今回の結果は、もっとひどいに ちがいない。

■2001年11月15日(木曜日)
 今朝は一段と寒さが増し、朝練が終わった後は手がかじかんで、 朝食の箸がうまく持てず、食べ物を何度も落とした。
 メイン練習は2km×3。ペースは6分。1,2本目は6分を切ったが、 3本目は1km以降撃沈し、6分11秒かかった。終わってしまえば、 あっという間の練習だったが、走っている時はとても長く感じた。

■2001年11月14日(水曜日)
 午前中は80分ペース走。もちろんロードなので、足へのダメージが大きい。 走り終わった後は、足が棒のようになって歩くのが辛い。少しずつ練習から 脱落してゆく人が出てくるので、自分も止めたくなる気持ちと、自分だけでも 最後まで続けようという気持ちの葛藤が出てくる。この葛藤が辛いのだが、 走っているなぁと実感できる瞬間でもある。辛いかもしれないが、楽しい。 走っている時というのは、相反する感情が同時に出てくるので、おもしろいと 思う。今日は朝と午後のジョッグを含めると30km以上は走ることができた。

■2001年11月13日(火曜日)
 来週の駅伝の選手選考で5kmを走った。ロードは自分のペースがまったく つかめず、距離もよくわからないので走りにくい。2.5kmの折り返しで 7分36秒だったので、15分ちょっとでゴールできるかと思ったが、ゴール してみると15分28秒くらい。ずいぶんベースが落ちてた。
 今年は、5000mを14分30秒で走るのが目標なのだが、あと1分も 上げないといけない。なかなか厳しい。でも11月1日よりは30秒上がってる。 とにかく、練習できるときにやっておくしかない。

■2001年11月12日(月曜日)
 1日フリーだったので、朝霞駐屯地まで行き、体育学校で練習した。朝から 強い雨で、外を走るのが苦痛だったので、体育館で走り、その後はサーキット トレーニング。7ヶ月ぶりのサーキットで、前よりもバーベルとダンベルの 重さが重くなっていたのに、知らずに今まで通りの回数で行ったため、 時間が掛かり、負荷が大きかった。明後日くらいから筋肉痛が起こるだろう。
 午後はそのまま百里基地へ帰ろうとしたが、夜までは時間があり有効に 使うべきだと思い、また英会話学校へ行くことにした。しかし午前中の 練習が効いているためか、テープでリスニングをしている間に寝てしまい、 全然勉強にならなかった。気が付くとテープは終わって、時間も経ってしまい、 その場にいるのが恥ずかしくて出てきた。レッスンを1回分無駄にしたのか、 消化できてよかったのか・・・ とにかく時間を有効に使えなかった。

■2001年11月11日(日曜日)
 たまたま貿易実務の本を目にする機会があった。何かを輸出入するとき には、大変な苦労があることを知った。いろいろなところで、いろいろな ペーパーが取り交わされ、輸出者、輸入者の信頼が成り立って、やっと 取引が出来る。条約とか議定書とか法律など、多くの決まりがあって、今 ニュースでにぎわっている、WTOとか京都議定書なども関係があるっぽい。 商社の人たちは、常に世の中の動きを注視してしないとやっていけなさそうだ。
 ワシントン条約に引っかかる、絶滅しそうな動植物の取引には経済産業大臣の 承認が必要で、兵器などの取引では経済産業大臣の許可が必要らしい。承認と 許可の違いっていったい何なのだろう?なんとなく同じように思えてしまう。 日本語って難しい。
 新しく会社を作って、取引をしようとすれば、銀行の信用を得なければならない。 でも実績がないのだからどうやって信用を得るのだろう?という疑問も生じた。

■2001年11月10日(土曜日)
 午後からフリーになり、ずっと基地の中に閉じこもっているのが耐えられなくて、 外出。ちょうど駅まで車で送ってくれる人がいたので、送ってもらい、常磐線、 山手線を乗り継ぎ、約2時間半で池袋まで出た。
 池袋では、10月まで休学していた英会話学校へ行った。半年ぶりのため、 また”Long time no see!!”と先生に言われ、初めて会う先生には、 ”Nice to meet you.”を連発された。日本人の先生には、「これからは 続けてこられますか?」と質問され、「わかりません」と答えた。困った 生徒だなぁと思ったことだろう。
 3時間のレッスンは、とても長く、途中で眠くなったり、ボーっとしてみたり、 英語を勉強している時間は意外と短かった。昨年、お金は払ってしまっているのだから、 なんとか、続けて行き、無駄にならないようにしたい。

■2001年11月9日(金曜日)
 午前中は、1500m×4。雨が降っていて、ビショビショになりながら メニューをこなした。
 午後は、フリーだったので、基地のレクリエーションセンターにある 健康維持室というところで、バイク。5年ぶりにミドルパワートレーニングをした。 30秒間を3セット。セット間は2分という単純なものだが、30秒間全力で こぎ続けるという動作がとにかく辛い。残り10秒くらいで動かなくなり、 あとはどれだけ我慢できるかが勝負。昔やった時には、足が棒のようになり、 全く歩けない状態になったが、今回は、そこまでは行かず、思ったより追い 込めなかった。

■2001年11月8日(木曜日)
 筋肉痛がひどい。昨日、一昨日のロード練習が、かなり効いている。 今日は、激しい練習はなく、ジョッグばかりだったので、なるべくロードを 避けた。百里基地には、なぜかゴルフ場があり、普段は誰も使っていない ようなので、大半はゴルフ場で走らせてもらった。
 昨日までの練習がトラックでの練習だったら、何でもない内容で、疲れは 残らないはず。これだけで足が痛くなってしまうことを考えると、 ロードでの練習は、本当に足の故障を招きやすいのではないかと思った。 マラソンランナーは、いつもロードで練習して、耐えているのだから、すごい。 尊敬します。

■2001年11月7日(水曜日)


百里基地内
 27回目の誕生日が来た。一昨年の誕生日は、9月に腰痛になって、一人 奥多摩へ傷心旅行。昨年は、入間のボロい部屋で一人寂しくしていた。 今年は、持続走訓練。この3年間では、一番自分の好きなことが出来ている のかもしれない。
 朝練の時に四つ葉のクローバーを見つけて、また午前の練習の後、別の ところでまた見つけた。朝のニュース番組の占いはさそり座がもっともよい 運勢だった。27歳の年は何かいいことあるかなぁ?

■2001年11月6日(火曜日)
 朝練をしているときに、灰色の公衆電話を発見しパソコンに接続できることが 判明。HPの更新もこれで出来る。
 午前中は、80分ロード走。ペース走だったはずだが、だんだんペースが上がり、 落とすことが出来ず、結局ビルドアップ走となってしまった。こんなに長い時間、 走るのは久しぶりで、思った以上にロードでのダメージは大きく、走り終わったら、 足はパンパンになっていた。明日はきっと筋肉痛。
 百里基地では、朝食が3種類あって選択式になっていた。パンか、ご飯か、うどん。 なんでうどんなんだろう?と思った。しかも昼はラーメン。朝も昼も麺だった人が たくさんいたことだろう。

■2001年11月5日(月曜日)
 昨日の残りのご飯を食べるため、早めに起きて朝食をするつもりだったのに、 目覚ましを止めてそのまま寝てしまい、気が付いたら6時10分。6時に出勤 する予定だったので、かなり焦った。乗るつもりだった電車には乗れず、朝食も 出来ず、週の初めから何やってんだろう?と自己嫌悪。
 今日からいつもの職場を離れて、茨城県にある百里基地で持続走大会の合宿。 久々に走ることを考えるだけの生活に戻れる。
 午前は、百里へ移動。午後は60分のジョッグ。百里基地は「陸の孤島」と 呼ばれる基地で、駅まではタクシーで4000円〜6000円くらい、周りは 商店街も住宅もなく、とても寂しい地域。その代わり、戦闘機は、騒音を気に せず飛行できるという特徴がある。
 PHSは電波が届かず、公衆電話もISDNの電話が一つもなく緑色の電話。 当分、HPの更新や、メールも出来なくなる。あ〜あ・・・

■2001年11月4日(日曜日)
 先週、電化製品を買うのに散々悩んだため、何も買うことが出来なかったが、 自分の部屋でご飯を食べたかったので、炊飯器を買いに行った。機能は特に こだわらず、米が炊ければそれでいいという方針でもの選び。遠くに行くのも 面倒で、近くのダイエーで売っていた一番安い商品に決めた。
 カセットコンロと土鍋を手に入れたので、その勢いで、牡蠣鍋の材料を集め、 夜は牡蠣鍋を作った。春菊に小さな虫がたくさん付いていて、知らずに鍋に 入れてしまったため、鍋のつゆには大量の虫の死骸がでてきた。つゆは 味噌で味付けをしたので、色は濁って、少しは虫も見えなくなり、貴重な タンパク源と思ってそのまま虫も一緒に食べた。味には影響なく、おいしく 食べることが出来た。次からはしっかり食材を洗おう。

■2001年11月3日(土曜日)
 英語教材モニターの集いがあり、川越へ行った。集まったといっても、みんな 都合があるため、全員は集まれず、4人だけだった。スタッフ4人にモニターが 4人。先月の集いではスタッフ4人にモニターが1人だったらしい。
 内容は、1時間くらい教材について善し悪しをしゃべって、その後はゲーム。 全部英語で説明するので、みんな考えている時間の方が長く、ほとんどが ガーナ人のスタッフが話しているという感じだった。日本人は頭の中で、 日本語を英語に訳して話し、聞いた英語を日本語に訳して理解しようとするので、 返答が遅くなってしまう。英語を英語で理解するということは、他の国の人は、 意外と簡単に行っているらしい。
 ゲームは、ジェスチャーで単語を当てるとか、英語で説明をして単語を当てる ということをした。これも自分の言いたいことが思うように言えないつらさを感じた。 英語も走ることと一緒で、毎日の継続が大切なのだとわかってはいるが、なかなか そこまで入り込めていない現状を再認識した。

■2001年11月2日(金曜日)
 自転車で家路についている途中で、職場から器材が壊れたという電話があり、 そのまま職場に戻った。自分の部署は通信機器のメンテナンスをするところなので、 壊れたときには大騒ぎになる。器材の事は専門の人に任せて、自分は見ているだけ なのだが、何も出来ない自分がもどかしい。指揮官という立場なので、わかっていても 手出しをすることはできない。なかなか難しい立場なのだと思った。

■2001年11月1日(木曜日)
 今、職場では、訓練の点検というものが行われている期間で、今日は、 5km走の計測というものがあった。自分は特に苦とは思わないが、走るのが イヤな人は相当な苦痛だろう。しかも基準タイムというものが設定されていて それを切らないといけないらしい。
 5km計測は、アップもあまり出来ず、コースも全く知らず、いきなりスタート という感じ。自分の年齢の基準タイムは、24分くらい。自分の感覚では、ゆっくり ジョギングしても走れるので、この設定がよくわからなかった。陸上自衛隊では もっと設定が高いような気がする。
 1kmごとのラップが3分05秒、3分15秒、3分19秒、3分12秒、3分05秒。 トータルは15分58秒だった。かろうじて15分台だったが、力はずいぶん落ちている。 今年の冬も5000mでベストを更新したいが、練習環境を考えるとなかなか厳しい。



[昔のいずみ]