最近のいずみ

Last Update:2001/8/31

パートタイムアスリートいずみ 活動中!!


■2001年8月31日(金曜日)


大湊駅
 午前中は、三沢基地から大湊分屯基地への移動。三沢から青森方面へ向かい、 野辺地で乗り換えて大湊へ向かった。
 三沢駅の自動販売機で水を買うつもりで100円を入れたら、紅茶が出てきた。 なんていい加減な販売機なのだろう。120円が100円になって20円得した ことは、得したのだけど、このときはどうしても水がほしかった。機械が間違えた のか、人為的ミスなのか?ちょっと腹が立った。
 野辺地では汽車の乗り継ぎで1時間待ち。1日に走る汽車の数が少ないので あきらめて待つしかなかった。
 昼前に大湊駅に着き、午後からはさっそく研修。今回は基地が山の麓にあって、 研修場所が山のてっぺんだった。山を登るのは車で20分ほどかかり、下ってくる のにも同じくらいかかった。帰りは、カーブを曲がるたびにどんどん気持ち悪く なり、吐きそうになった。
 ここでも初日から、歓迎会があり、隊員の人たちと飲んだ。刺身はおいしく、 特に気に入ったのは、ウニ。形が崩れてどろどろした馬糞ウニというもので、 滅多に食べられるものでもないので、ひとり大喜びで食べた。

■2001年8月30日(木曜日)


アメリカンサイズ!!



三沢基地外来宿舎
 毎日、いろいろな部隊を回って話を聞いて、それぞれ切実な問題があることを 実感している。いくつかの職場の労働環境は悪いなぁと思った。早く偉くなって、 この環境をよくしてくれと説明で訴える人もいた。確かにひどい環境で働いている 人もいる。普通の会社と違って我が社は労働基準法は適用されないから仕方ない のかもしれない。精神的なことで病院に通う自衛官が増えているということも 聞いたことがあるし、50年も経つと組織もいろんな問題が出てくるんだなぁと 思った。とにかく、労働環境が少しでもよくなればいいなぁと思う。
 三沢基地は米軍の基地だというのをここに来て初めて知ったが、ただ米軍の基地だ ということではなくて、日本の使用しているところを除いて、すべてカリフォルニア 州だということだった。パスポートがなくてもアメリカには行けるということ。 横須賀にいたときにも米海軍基地はカリフォルニア州だと聞いていたが、それと同じ 状態がここにもあった。ここはIDがあれば入ることができるので、パスポート よりもIDの方が重要みたい。

■2001年8月29日(水曜日)


ホヤ酢



三沢ネオン街!?
 また足が痛くなったので、水泳をすることにした。三沢基地のプールは、でき あがってそれほど経っていないような感じで、とてもきれいだった。利用する 人もたくさんいて、1コースに何人か入って泳ぐような状態。後ろの人に 追いつかれないように必死に泳いだ。休むこともできず、一気に2km泳いだ。 きっと明日は肩が痛くなるだろう。
 夜は奈良の幹部候補生学校の同期2人と飲みに行った。お店に入って最初に 2人がおすすめというものを注文した。この地方ではよく売っているホヤという ものを酢に漬けたもので、貝のようでもあり、海草っぽい歯ごたえもある、謎の 食べ物だった。味もあるのかないのかよくわからない。酢の味しかしなかった。 散々飲み食いしたので、帰ろうかと思ったら、2次会もすることになり、適当な お店がないということで官舎で飲むことになった。いろいろ話を聞けて楽しかったが、 自分の寝る時間がいつも10時過ぎなので、12時前には眠気に勝てず、布団を 敷いて先に寝かせてもらってしまった。ここの官舎は独身者にとっては全部の 部屋を使い切らないくらい広かった。

■2001年8月28日(火曜日)
 3週間ぶりに朝練を再開した。雨が降っていて走りにくかったが、 走ったあとの朝食は、起きたてで食べるときと比べておいしく感じる。 三沢の食事は、どの料理も味が濃い。これが東北地方の味付けなのかなぁっと 思った。みそ汁は関東と比べ塩分が高い。ずっとこの食事をしていたら 塩分のとりすぎになるのではないかと思った。
 足の方は、相変わらず疲労が取れないが、肉離れの痛みは少なくなってきた。

■2001年8月27日(月曜日)


盛岡上陸!!
 大滝根を9時に出発し、三沢へ向かった。大越から郡山へ行き、新幹線の 待ち合わせで1時間休憩し、盛岡まで新幹線、盛岡からはスーパーはつかりで 三沢まで行った。三沢に着いたのは3時過ぎ。移動だけで1日が終わってしまった。 列車の中でいろいろやろうと思っていたのに、気がつくと寝ていて、とっても もったい1日になった。
 三沢基地は自衛隊とアメリカ軍の共用の基地だと思っていたが、実はアメリカ 軍の所有だったみたい。自衛隊は使わせてもらっているだけ。日本国内なのに、 日本じゃない。なんか寂しい。
 明日からは、三沢基地の研修。分刻みでいろんなところに行くらしい。

■2001年8月26日(日曜日)
 昨日は山で腐っていたが、今日は郡山の友達が山まで来てくれて、下山できた。 久しぶりにボーリングをし、85というハイスコアーを叩き出し、落ち込んだ。
 その後、郡山の東洋健康センターというところへ行き、ゆっくり湯に浸かった。 夜は友達の家で夕食をするため、友達の嫁さんが健康センターまで迎えに来て くれるはずだったが、迎えに来る途中で事故ったという電話があり、タクシーで 現場まで行った。事故は追突の物損事故で、100%相手が悪かった。こちらの 車はトヨタのプラドで、バンパーの塗装がちょっと落ちただけで、ほとんど無傷。 しかし、追突した方の軽自動車は、渋滞のため徐行運転で、全然スピードが出て いなかったのに、見事につぶれていた。軽自動車はこんなに簡単に壊れてしまう ということを初めて知った。
 車を直すのにけっこうお金がかかるんだろうなぁと思いながら、警察の対応を 見ていた。慣れた手つきで、事故証明を作っていた。保険屋やディーラーに 電話したり、事故を起こすといろいろ面倒だ。追突した女性は、事故のショック で放心状態。別れ際は泣きそうだった。事故を起こしたら、物心両面にダメージ があるのだなぁと思った。とても勉強になりました。

■2001年8月25日(土曜日)


ごろごろしてます
 朝7時に起きて、食堂で食事をし、また寝て昼になった。昼食後、WOWOWで プライベートライアンをやっていたので、そのまま見てしまった。激しい戦闘 シーンで、4月に見たスターリングラードを思い出した。第2次世界大戦は、この 世の生き地獄だと思った。最後は泣いた。
 映画を見終わったら4時前。このまま1日が終わってしまうのは寂しいので、 一緒に部屋で腐っていた後輩と運動することにした。昨日よりも足の具合もよく なっていたので、また軽くジョギングをした。そのあとは体育館で激しい筋トレ。 散々後輩をいじめて、最後にはそのままいじめ返された。絶叫しながらの筋トレは 久しぶりだった。寝返りをうつと筋肉がつりそうになるし、食事で箸を持とうと すると腕が振るえてきた。今日の時点で筋肉痛がきているので、明日、明後日は どうなってしまうのだろう?と心配になった。

■2001年8月24日(金曜日)




大滝根から見下ろす雲
 朝起きて、まず外を見ると、空は雲がまったくなく、きれいな青空。外に出て山の 下を見ると、雲海が広がってとても神秘的な光景だった。自分が神になったような 気分。それと同時に思えたことは、なんというところに来てしまったんだろう・・・  修行僧になった気分。
 朝食後、研修前にランニング。肉離れで痛かったが、参加しなければならなかった ので、参加。無理して走ったが、まだ走れる段階ではないことがわかった。
 午前、午後と基地内の施設を見学させてもらった。
 夜はやることが何もなく、厚生課で後輩がビデオを6本も借りてきたので、それを 見ていた。初めに見たのがアニメ。北斗の拳。約2時間の中にすべてを詰め込むので 無理しすぎて、設定が無茶苦茶。原作とは全く違う話になっていてつまらなかった。 そのあとはジャッキー・チェーンの映画。歯も磨かず、見ている途中で寝てしまった。
 大滝根の研修は今日1日で終わり。たった1日のためにこれから2日間、この山で 休日を過ごさなければならないのが辛すぎる。

■2001年8月23日(木曜日)


郡山市民プラザ



大越駅
 今日から、大滝根、三沢、大湊の研修へ出発。研修は9月4日までの予定。 昨日の台風の影響で、今日は電車に影響があるのではないかと思われていたが、 全く影響なかった。予定では昼前に出発だったが、台風の影響を考えて昨日の 時点で出発を朝早くに変えられていた。大滝根分屯基地からの定期バスが 最寄りの駅に来る時間が決まっていたため、その時間に合わせるため、郡山駅に 着いてから4時間も時間をつぶさなければならなくなった。もう少し柔軟に 計画してくれよぉと思う。
 郡山駅近くの市民プラザで時間をつぶし、インターネットしたり新聞や雑誌を 見ていた。意外と早く時間が経った。
 大滝根分屯基地の最寄りの駅は郡山からいわき方面へ約40分で着く大越駅。 大越駅の周りは田圃や山しかなかった。とてものんびりとした良いところ。 大滝根分屯基地へは駅から車で約35分。ひたすら山を登ってゆく。基地の標高は 1000mを越え、雲が見下ろせたり、雷が下からや横からやってくるという ことを聞いた。
 基地に着くと夕方4時半。これで1日が終わってしまった。基地に着いて早々、 歓迎会が大越駅の寿司屋であるということを聞かされ、登ってきたばかりなのに、 また下山しなければならなかった。下りのバスも定期便で、スピードを出しながら カーブを曲がってゆくのですぐに酔った。麓に着いたときには気持ち悪くて 動きたくなかった。
 歓迎会が終わったあとは、また登山。バスはないのでタクシーで基地まで登った。 タクシー代は約5000円。初乗り料金は東京より安いのにこの値段。下手すると 飲み会より高くなるところだ。なんと不便な基地に来てしまったのだろう・・・

■2001年8月22日(水曜日)
 台風が和歌山の方から上陸し、関東地方も夕方には上陸すると天気予報で 聞いていたので、雨のやんでいる間に軽くジョッグをし、そのあと室内で 下半身の筋トレをした。急にやりすぎたためか、ももの裏が突然攣り、 痛みが消えなくなった。歩くのも痛い。肉離れっぽい。

■2001年8月21日(火曜日)
 夏休みが終わり、いつも通りの生活が始まった。普段の生活に戻ると 休みの時以上に眠い。授業中、教官がスクリーンに向かって指し示す レーザーポインタが1つのはずなのになぜか2つに見えてしまい、 自分の目を疑った。どうしても2つに見えてしまう。でもハッと気がつくと 1つの時もある。とにかく眠らないようにと、目を開けていることだけに 意識を集中しエネルギーを使い、右の目と左の目が違うところ向いて 焦点が合っていなかったのだろう。何もしていないのに食事の時間になれば おなかが空いてくる。なにやってんだろ・・・ 自己嫌悪。

■2001年8月20日(月曜日)
 夏休み最終日。平日にしかできないことを今日中にしようと考え、動き回った。 初めは池袋へ行き、壊れて修理に出していた携帯電話をお店に取りに行ったが、 まだ開いていなかったため、近くのまんが喫茶へ。やらなければならない課題の 資料を集めていたら3時間経ってしまった。この時点で昼になっていた。
 マンガ喫茶を出て携帯電話を代用品と交換してもらったあとは、5ヶ月ぶりに 英語学校へ行き、勉強せずに休学届けを書いてきた。これで当分行かなくても 授業数はなくならない。
 池袋を出て有楽町の東京商工会議所へ行き、カラーコーディネーター3級の 合格証をもらった。これでアシスタントカラーコーディネーターという称号を 手にした。そしてその場で2級のテキストと問題集が売っていたので買って しまった。この2冊で約7千円。高すぎる。次も絶対に受からないと損だ。
 東京商工会議所でインターネットのできるところがあったので、近くの 温泉を検索してみたが行ってみたいところがなかったので、池尻大橋まで行き、 東山温泉で休憩した。ここは休憩室があって仮眠がとれるのでお気に入りの場所。 1時間ほど眠って、そのあとは六本木の平石クリニックへ。血液検査をして もらって、上野へ行き夕食を食べて籠原へ帰った。動きすぎ。疲れた。

■2001年8月19日(日曜日)
 神奈川県の国体選考会に出場。場所は横浜の三ツ沢競技場。思っていたよりも 気温は上がらず、秋の空という感じで、走る環境としては最高。問題は自分の 足の痛みがどうかということだけ。
 昨日は1分半でアキレス腱が痛み出したので、アップは昨日よりも慎重に ゆっくりと始めた。15分ジョッグして、痛みはなかったが、久しぶりに 走ったので疲れた。ストレッチと動き作りをし、100mを2,3本 流してみたらゼェ〜ゼェ〜と息を切らしてしまった。走る前からすでに 疲労。
 選考会は6人くらいいたが、予定していたとおり、法政大の足立原、 愛川町役場の渡辺さん、そして自分を入れた3人だけの戦いだった。 1周目から足立原が先頭を引っ張り400mを56秒台。そのままペースは 上がらず順位も入れ替わらず、残り100mまできて、スパート勝負に なったが、足立原は最後まで先頭を譲らず1位でゴール。タイムは 1分52秒19。自分は渡辺さんにかわされ3位。タイムは1分52秒79。 スタートからゴールまでずっと同じペースで走っていた。足の痛みはなかったが、 終わったあとの疲労や脱力感はひどかった。昨日までのことを考えると、 完走できただけでよしとしなければならないのかなぁと思った。

■2001年8月18日(土曜日)
 朝7時過ぎに起きて、後輩を誘って食堂へ行ったが、食堂は開いていなかった。 食堂で働いているおばちゃんに聞いてみたところ、昨日のうちに朝食は配られて いると言われ、あきらめて部屋に帰った。食べるものが何もなかったので、 あきらめて眠気の残っているうちにまた寝た。次に気がついたのは11時半。 昼食前に走ろうと思い、準備をして走り始めたが、右のアキレス腱が痛み、 走り始めて1分半でやめた。先週痛めた左足と同じ場所。またまた困った。
 12時からは昼食で、また後輩を誘って食堂へ行った。今度は食事にありつけた。 おなかがすいていた割にはあまり食べられなかった。
 夜になって五反田の治療院へ行き施術をしてもらい、右足の痛みは取れた。 1週間全く走れなかったが、明日はレース。ぶっつけ本番でがんばるしかない。

■2001年8月17日(金曜日)
 昼頃に一昨日行ったプールへ行った。プールが空いているか、混んでいるかも 確認せずに300円のチケットを買い、中に入った。プールの中は親子連れが 多く、結構混んでいた。
 一昨日は50mのプールは50mのプールとして使えていたのに、今日はなんと 50mのプールは50mのプールではなかった。50mのプールを横切るように 15mくらいのプールにされていた。ショック。これじゃ泳げやしない。ターン ばっか。あきらめて、何往復かもも上げをして出てきた。こんなんだったら 来るんじゃなかった。

■2001年8月16日(木曜日)


多摩川上流
 足の痛みばかり気にしていて、気分が滅入っていたので、気分転換に 奥多摩へせせらぎを聞きに行った。電車を乗り継いで3時間近くかかり 奥多摩駅へ行き、そこからバスに乗って、奥多摩湖へ行った。奥多摩湖は 2つくらいの村をつぶしてできたものらしく、完成するまでに20年以上 かかったそうで、87人の方が亡くなったということだった。
 奥多摩湖は、結構人が多く、あまり気分転換にならなかったので、 奥多摩駅まで戻って、多摩川の上流になる川へ行き、ボーっとした。 人はそれほどいないし、とても静かな空間だった。
 夕方にはまた五反田へ行き、足を見てもらった。触った感じでは 痛みを感じないくらいまで回復し、治るのも時間の問題のように思えてきた。

■2001年8月15日(水曜日)
 夜9時まで営業している屋外プールを発見し、夜8時頃に行った。お客は 少なく、監視員の方が多いくらいだった。プールの長さも50mあり、水温も 温かくとても泳ぎやすかった。8時半を過ぎると泳いでいるのは3人ほどになり 8時45分にはとうとう自分一人になった。一人になってからもも上げで 2往復した。監視員からは相当変なやつに見えたことだろう。最後は監視員の 冷たい視線に我慢できなくなり、プールから上がった。プールの中では足は 痛くなかった。

■2001年8月14日(火曜日)
 何となく世界陸上のビデオをボーっと見て半日を過ごしてしまった。TBSの 放送の仕方にやっぱり腹が立った。
 あっという間に半日が過ぎてしまい、昼食後もボーっとしていたら、3時過ぎ になった。6時から五反田に行くことになっていたので、あわてて基地を出た。
 五反田には時間通りに到着し、昨日と同じように施術してもらった。昨日よりは 痛みが緩和し、ひょっとしたら、週末のレースに出られるかもしれないという 希望がもてるようになった。

■2001年8月13日(月曜日)


蒲田温泉
 足の痛みがひどいので、今日から治療に専念することにした。まずはいつも 通っていた治療院へ行った。その治療院が五反田に引っ越したので、五反田へ 行くつもりだったのに、なぜか目黒へ行ってしまい、駅を降りたところで 間違えがわかった。
 すぐに五反田へ行き、治療院のあるビルへまっすぐ進んだ。そこまでは よかったが、このあとまたボケた。治療院は13階で13階に行こうと 思っていたのに、エレベーターで9階へ行って、治療院がないと焦り、なぜか 8階へ行ってまた同じように治療院を探して焦った。ハッと我に返り、13階 だったと思い出し、やっと治療院にたどり着いた。足の事で気が動転している。
 施術をしてもらって、すこし痛みがなくなったように感じたが、施術後 2時間くらい昼寝をさせてもらったら、また元通りの痛みになっていた。
 このままではダメだと思って、今度は温泉に行くことにした。いろいろ 検討して、蒲田にある蒲田温泉へ行った。この温泉はアルカリ泉で、酸化した 皮膚を中和し、上部角質を溶かし、肌をすべすべにするということから 美肌の湯と呼ばれているらしい。そんなことはどうでもよく、コーヒーの ような黒い湯が、印象的だった。自分の体に何か作用してほしい。

■2001年8月12日(日曜日)
 昨日痛めたアキレス腱が、はっきりとした痛みになってきた。特に階段を 下るときに痛みがひどい。階段はなるべく避けたいと思う。走ることは もちろんできなくなったし、しゃがむのも辛い。
 気晴らしに、懸賞で当たった映画を見に行った。題名は「ゴシップ」。 スウェーデンで好評だった映画らしい。内容は、9人の女優がある映画の 主演を争い、決定の前日から当日までのそれぞれの生活を描いたもの。 結局、主演が9人の中から選ばれないという訳のわからない結果で 終わってしまった。とても消化不良で意味のわからない映画だった。 よけいに気分が悪くなった。なんかついてない。

■2001年8月11日(土曜日)


ドラえもん
 熊谷基地で練習。サーキットトレーニングをするつもりで、アップを始め、 ジョッグが終わる頃、アキレス腱に鈍い痛みが出た。気にしなければ忘れるだろう と思って、そのままメニューをこなしたが、改善せず。昼寝をしても痛みは 変わらず。困ったことになった。
 世界選手権男子400mハードルの為末が驚異的な日本新記録で3位に入った。 準決勝でも鳥肌が立ったが、決勝レースはもっと鳥肌がっ立った。外人との 身長差など彼には全く関係なかった。いちいち世界最小ハードラーなんて 報道する必要もない。TBSの報道の仕方には本当に腹立たしく思う。織田 裕二は、この人には勝たせたくないとか、勝手なことを言うし、選手の イメージを勝手に悪く印象づけている。陸上競技の放送はNHKにやって もらいたい。

■2001年8月10日(金曜日)
 今週はずっと疲労がとれず、今日もまだハムストリングスが痛くて、早い動きが できず、練習はジョッグだけ。ジョッグも途中からきつくなり歩きそうになった。 先週土曜日に体は楽になったはずだったのに、今回は何か違う。来週は国体選考会。 それまでにはなんとか疲労を取り去りたい。

■2001年8月9日(木曜日)
 世界陸上、男子400mハードルの為末がすごかった。48秒10の日本新で 決勝進出。スタートからトップにたち、ゴール直前で抜かれたが、たった 100分の2秒差。誰にもトップを譲らなかったといってもいい。決勝で 同じように走ればメダルも見えてくる。見ていて鳥肌が立った。日本人でも こんな風に戦えるんだなぁとうれしくなった。

■2001年8月8日(水曜日)
 午前中は試験をしたあと、最後の研修があった。
 昼食後、浜松基地を出て熊谷基地へ向かった。新幹線では寝なかったが、 高崎線では寝てしまった。寝てしまうと、起きたときに首が痛くなったり 肩が凝り、かえって疲労がたまってくる。
 基地へ着いたのは5時前。今日はアンビバレンスの練習会だったので、 5時過ぎには、すぐに外出して代々木競技場へ向かった。高崎線で帰って きたばかりなのに、来た道をまた戻っていた。なんと無駄な動きをして いるのだろう。
 練習は短距離のメニューに合わせようと思っていたが、走ってみると ハムストリングスの疲労がひどく、ちょっとがんばると肉離れになり そうな雰囲気があったので、長距離でゆっくりとペース走をすることにした。 長距離で一緒に練習したあと、体が温まったので短い距離を走って みようとしたが、練習前と同じで肉離れしそうだったため、走れなかった。 先週の疲れが今頃になってやってきたのだろうか?

■2001年8月7日(火曜日)
 昨日の同期会で食べ過ぎ飲み過ぎで、昨日と比べると体重が3kgも アップしていた。胃はもたれているし、朝も昼もあまり食べられなかった。 どうしてこんなに飲んで食べてしまうのだろうと自己嫌悪。
 それなのに、夜は、浜松にいる後輩たちが熊谷から来た自分たちの歓迎会を 開いてくれ、また飲むことになった。明日で帰るというのに歓迎会というのも おかしな話だが、とりあえず飲む理由は歓迎会だった。
 場所は宿舎の近くのお店。メニューはホルモン、ハツ、レバー、タン、 ナンコツのみ。あとはビールと生のキャベツだけ。とてもシンプルな お店。けっこうボロくて汚〜い感じだったが、昔っぽいいい雰囲気のお店だった。 ただひたすらメニューの5品を頼んで平らげた。自分は昨日の反省もあり、 ちょっと大人になって、腹八分目でやめておいた。すると後輩から元気が ないと言われてしまった。どうしてよく食べるというイメージが植え 付けられているのか?なんでだぁ〜!!

■2001年8月6日(月曜日)
 1ヶ月半かかるという内容の授業をたった6時間で受けなければならず、 かなりの強行軍。あまり休憩もなく、1日ずっと授業という感じで、 体の具合が悪くなった。
 夜は防大の同期と同期会。店に行くと値段が高くつくというので、先週 世話になった同期の家へまた行くことになった。久しぶりにクリームシチューが 食べられ、満足。

■2001年8月5日(日曜日)
 朝起きたのは10時半。11時間も寝た。いつもの睡眠時間から言えば、 2日分。久しぶりにゆっくり寝られた。起きてからは新聞を読んで、 昨日の世界陸上のビデオを見た。黒人と比べると日本人は本当に細く見える。 その中でも100mの朝原さんは10秒06で準決勝へ進出し、がんばっていた。 是非決勝まで行ってもらいたい。
 1日中ダラダラして、実家で久しぶりにゆっくりできた。

■2001年8月4日(土曜日)
 小牧のゴールドフレックスへ行き、身体調整をしてもらった。競技場で 3日連続の練習をしたあとのため、かなりの疲労があった。ちょっと触られる だけで、痛くて叫びをあげるので、超音波をあてて体をほぐしてもらってから 身体調整をしてもらった。特にひどかったのは下半身と、首。約3時間で 体が楽になった。
 調整中、世界陸上の男子マラソンを見ていた。1位はシドニーオリンピック 1位、エチオピアのアベラ。日本人最高は油谷で5位。それほど速いペースでは ないように見えたが、途中からの坂でみんな脱落していった。油谷は一度離れ ながらもまた先頭に追いついたが、35km過ぎからはきつかった。メダルは 取れなかったが、最後まで良く粘ったと思う。


実家から見えた岡崎の花火

■2001年8月3日(金曜日)
 3〜4日かかる内容の授業をたった6時間でしなければならないという 昨日とは全く違った意味で辛い1日だった。教官が時間がないのにあまりにも 細かいことまで教えようとするので、午前中は与えられた時間では終わらない のでは、と不安になった。午後からは教官も進度があまりにも遅いのが わかったらしく、突然ペースがあがり、どんどんページをとばして授業を していった。その結果無事に時間内に授業が終わった。
 夜は四ツ池競技場。昨日、一昨日の練習で疲れがたまり、全く体が 動かなかった。というか動かせなかった。誰か練習相手がいれば、質は 変わってくるのだろうけど、そんなことを言っても仕方ない。自分の 精神的な弱さが出た結果なのだと思う。

■2001年8月2日(木曜日)


浜松四ツ池競技場
 4時間で終わってしまう内容の授業を昨日から1日半もかけて聞かなければ ならなかったので、授業時間よりも休憩の方が長いという、かえって疲れる 1日となった。そのため授業は15時で終わり、そのまま外に出させてもらって、 バスと徒歩で四ツ池競技場へ。自分の気分は合宿2日目。昨日は長い距離を 走ったので、今日は変化を加えたインターバル練習。体は疲れているが、 いつもと比べると本当に質の高い練習ができた。途中でつぶれそうになり ながらもなんとかこらえて最後まで走りきれた。この充実感は本当にひさしぶり。

■2001年8月1日(水曜日)
 浜松四ツ池競技場に電話してみたところ、夜9時まで使えるということで、 授業後、後輩に車で送ってもらい、先週金曜日以来のトラック練習。 競技場へ行ってみてわかったことは、明日も明後日も9時まで開放している ということ。3日連続でトラック練習ができる。こんなにトラックで練習が できるのは航空自衛隊に戻されて初めてのこと。たった3日間だけれども、 初めて練習計画を立てて練習ができる。毎日日中は眠くて疲れるけど、 浜松に来て良かった。自分の気分としては、3日間の浜松合宿!!という くらいの気分。仕事のあとはいつもだるくて走るのがイヤになるけど やる気がわいてきた。
 競技場ではスズキの長距離が練習していた。知り合いもいて、自分が 浜松に来ていることを不思議がっていた。中距離なのに1週間で30kmを 3回走らされて、怪我をしたと彼はぼやいていた。こちらから言わせれば、 それで飯食ってるんだし、練習できて幸せじゃん。
 練習のあとは、同期の家でお食事。後輩に競技場の送り迎えをして もらったり、周りのみんなに支えられているなぁと思う。皆様に感謝です。



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