最近のいずみ

Last Update:2002/1/31

パートタイムアスリートいずみ 2年目に突入!! 


■2002年1月31日(木曜日)


水膨れの処置中
 体育学校は沖縄合宿が明日で終わり。今日は最後のメイン練習で、300m×15を 2セット。1セット目はしっかりと走れたが、2セット目に入り、9本目あたりから 遅れだした。メニューはこなしたが、ついてゆけなかったので、消化不良。両足の 裏に大きな水ぶくれができ、終わった後は痛くて歩けなかった。
 走る前から膝の具合が悪く、そのまま走ってしまい、午後になってから膝が 腫れているのに気がついた。膝を伸ばすと痛みがあり、午後は体育学校の練習には 参加せず、航空自衛隊の方で、サーキットトレーニングの指導をした。というよりも サーキットトレーニングで仲間をいじめた。みんながきつい顔をするとうれしくなり、 ますますきつくしてやりたくなる。これっておかしのだろうか?

■2002年1月30日(水曜日)
 午前はジョッグ。午後はフリーだったので、にこにこ整形外科へ治療を受けに行った。 しかし、にこにこ整形外科は水曜日の午後は休診だったため、行くだけ損だった。 なぜ、診察券を見ていかなかったのだろう?と後悔。
 夜は、元体育学校近代五種班にいた上原くんの家へ森と招待された。まだ1歳になって いないお肌つるつるのかわいらしい子供を見せてもらった。こんなちっちゃな子も 体の機能はほぼ自分たちと同じだというのがとても不思議に思えた。

■2002年1月29日(火曜日)
 午前中は、基地の坂で3度目の芝生の坂登り。体育学校のメンバーはきつかった と言っていたが、自分は今回が一番きつくなかった。余裕を持って練習が できてよかった。
 午後は奥武山体育館でフリーウェイトの予定だったが、体育館がやって いなかったため、60分ジョッグに切り替え、漫湖公園や奥武山公園を 走った。

  

■2002年1月28日(月曜日)
 朝8時20分、輸送機で入間を出て、福岡を経由し13時に那覇へ到着。 空自英語弁論大会で人がたくさん来ているため、那覇基地内の空自外来宿舎から 海自外来宿舎へ追い出されることになり、その移動のため、昼食を食べる時間がなく、 おなかを空かせながら午後の練習をした。
 午後は海自の体育館でサーキットトレーニング。実業団や陸連の合宿でやっている サーキットを少し量と質を落としてみんなにやってもらった。始めて10分くらいで 半分くらいの人が弱音を吐いていたが、みんな身体が痛いと言いながらも全部 やりきった。明日は筋肉痛で動けない人が出てくるだろう。

■2002年1月27日(日曜日)


岡田夫妻
 体育学校の友人、岡田優くんの結婚式が永田町近くのホテルで行われた。 同じ陸上班ではなく、彼は近代五種班だったが、元々長距離選手だった ということで仲がよく、式への招待を受けた。
 結婚式は、ほとんど近代五種班のOB会という感じで、元オリンピック選手が たくさん来ていた。嫁さんは読売巨人軍のファイヤーダンサーだったこともあり、 また、ディズニーランドのパレードのダンサーであったこともあり、その友人の 余興はやっぱりダンスで、かなり盛り上がった。
 2人ともかわいらしく、ほのぼのとした結婚式と披露宴だった。

■2002年1月26日(土曜日)


測定中
 渋谷の岸記念館地下にあるスポーツ科学研究所で、乳酸測定をした。ランニング マシーンの上で20秒間走り、1分半ほど休憩し、マシーンのペースを上げ同じ ことを繰り返すという内容。この測定はどのくらいのペースまで疲労を感じずに 走ることができるかわかる。言い換えれば、どのくらいの強度の練習までは 耐えられるか、また、どのくらいの強度の練習をすれば最も適度なのかがわかる。
 体育学校にいたときに、1度やったことがあったので、要領はわかっていたが、 走る度に耳から血液を採るのが痛かった。
 結果は日本インカレチャンピオンのデータと比べると劣っていたが、走る前から 疲労がたまっていたので、こんなものだろうと思った。

■2002年1月25日(金曜日)
 午前中は体育学校と合同練習。西ア競技場で400m×5+5000m+ 400m×5。うちのメンバーも練習ができるようにしたのか、みんなの 疲労の度合いを見てか、ペース設定は予定よりも落として走ることになった。 この練習は、この合宿で最もイヤな練習だと思っていたが、ペース設定を 低くしたこともあり、意外と楽に終わった。
 午後は、輸送機の定期便に乗り、入間へ。13時50分に那覇を出発し、 福岡を経由し、入間には17時30分に着いた。いつも輸送機に乗った後は 疲れて何かをしようとする気力がなくなってしまう。今回もやっぱりそうだった。

■2002年1月24日(木曜日)


漫湖
 いったん緩和した手首の痛みがまた痛くなってきたため、外の医者へ行くこと にした。木曜の午後は、休診になるところばかりで、この医者が休診だったら、 あきらめようと思ったが、最後に電話をかけた「にこにこ整形外科」は運良く診察し ていた。
 住所を控え、にこにこ整形外科へ向かったが、場所がわからず、受付に何度も 電話をかけて、やっとのことでたどり着いた。自転車で20分でいける所だった のに結局1時間以上かかった。
 診察前にはレントゲンを撮り、それを見て診察してもらった。手首は、すこし 腫れているので、運動後にはアイシングをして、その後は温めるように指導された。 診断結果としては那覇病院と同じ腱鞘炎だったが、患者の安心する手順をとって 診断し、指導をしてくれた。民間の医者はやっぱりしっかりやってくれるなぁと 思った。

■2002年1月23日(水曜日)
 練習は日曜日にやった芝生の坂登り。体育学校の練習に、うちのメンバーも 加わって、大勢での練習になった。日曜はかなり辛かったが、今回はそれほどでも なかった。うちのメンバーでは何人かが途中で吐きそうになっていたが、全員 最後までメニューをこなすことができた。誰もやめることなく練習ができると 全員が気分が良く終われるので、いいなぁと思う。
 午後からは、奥武山の体育館でウェイトトレーニング。ここ2年ほどは、 しっかりとやったことがなかったので、これまた辛かった。体育館には 韓国のプロ野球選手も来ていた。昨年せっかくハングルを勉強したので、 挨拶しようと思って様子をうかがっていたが、すぐに帰ってしまったため、 声をかけられなかった。

■2002年1月22日(火曜日)


間宮&和泉
 午前中は、ロングジョッグ。基地を出て、海軍司令部壕、豊見城公園、漫湖公園、 那覇空港を回って約100分。最近はこんなに長く走ることがなかったので、辛かった。 ただ、一番後ろで、ダラダラとついてゆくだけだった。終わった時には、もう 歩きたくもないという気分だった。
 夜には、沖永良部島から、那覇に無線の国家試験を受けに来ていた防大の後輩と 食事をした。約3000円で飲み放題、食べ放題のアジア料理の店へ行き、腹一杯 食べた。後輩は腹一杯になると、トイレに行って吐いてきて、また食べるという ことをしていた。沖永良部島ではこれをやらないと飲み会では生きてゆけないという 話だった。島での生活は大変だ。

■2002年1月21日(月曜日)
 朝から風が強く、日中も気温が15,6度で、体感温度は低く寒かった。
 午前中は奥武山競技場で1000m×7。練習が始まる頃には、雨が降ってきて 風が強かったので、走っても全く前に進まず、全く設定タイムをこなすことが できなかった。7本目は、張り切ってスパートしたら、ゴール手前から吐きそうになり、 ゴール後、2回吐いた。久しぶりに気持ち悪かった。
 午後も雨が降ったため、体育館でジョッグと補強。
 金曜からアミノ酸を飲み始めたおかげか、疲れは少なく、手首や足首の痛みが 緩和してきた。

■2002年1月20日(日曜日)


「おーい お茶」沖縄バージョン
 一日フリーだったが、体育学校は1日練習があったので、体育学校の 練習に参加した。
 午前中は、基地内の芝生の坂登り。約200mの坂を20本。1本目から くじけそうになり、10本目に行くまでが長かった。呼吸は乱れ、足も 張って、まともに動かなかった。結局20本走ったが、もうやりたくないと いうくらいきつかった。
 午後はサーキットトレーニング。奥武山競技場が使えなかったため、 ハードルなどの器具が使えず、中途半端な練習になった。若手は初めての サーキットだったので、それでもきつそうだった。
 夜は防大の同期、金古と普天間まで食事に行った。450gのステーキを 食べ、ついでに自分だけオリオンビールを飲み満足した。帰りは高速道路を 使い帰ってきたが、料金はたったの300円。安い。しかし危ない。なぜなら 酔っぱらい運転の車が何台かいたから。フラフラして、中央へ寄ってくる 車がいたり、左にどんどん寄っていく車がいたり・・・ 金古曰く、夜の 沖縄では半分くらいは飲酒運転をしているのではないか、と。

■2002年1月19日(土曜日)


飛行場と海



太陽と海
 昨日から天気は曇っていて、時々霧雨になる。天気にかかわらず練習はあるので、 できれば沖縄らしいカラッと晴れた青空になってほしい。
 午前中は体育学校のメンバーと糸満市の西崎競技場で練習。身体が細くなったと また言われ、ショックを受けたが、絶対に戻してやるぅ!!と改めて決意。練習は 最後までついてゆくことができたので、問題なし。
 夜には熊谷で一緒だった後輩と食事。いろんな情報を交換できて有意義だった。
 日記を公開しだして今日で2年が経った。最近は変わった出来事が少なく、 身体のどこかが調子悪いとか、練習をしたとか、できなかったとか・・・ 日記を 書いていてもつまんない日々を送っているなぁと思う。日記が不満のはけ口 になっていた時期もあった。読み返してみるそのときそのときの気分を思い出す。 そのときに思っていたことなんて、書き残していないと覚えていられない。 始めた頃は、1日も休まずこんなに続けられるとは思っていなかった。読んで くれる人がいるから続けられるのです。いつもありがとうございます。読者の みなさまに感謝です。<(_ _)>

■2002年1月18日(金曜日)
   午前中は、那覇市内にある奥武山(おおのやま)競技場へ行き、トラック練習の 予定だったが、競技場は、中学生の持久走大会で貸し切りだったため、競技場の まわりでペース走。ペース走だったはずなのに、ビルドアップ走になって、 最後は30代の人に離された。
 右手首の痛みは相変わらず引かず、12月にやった捻挫の痛みもひどくなってきたので 那覇基地内にある那覇地区病院へ行った。1時間近く待った後、やっと診察して もらえたが、症状を話し始めたらすぐに腱鞘炎だから、腕を使うなと言われて、 それ以上話を聞いてもらえなかった。捻挫も同様、動かすな。診察は30秒くらいで終了。 その後治療ということで患部にホットパックをあてて、ただ暖めるだけで終了。 最後に湿布と、痛み止めのボルタレンと胃薬をもらった。
 一緒に病院へ行った他の3人も、あっという間に診察は終わり、患部はみな違うのに、 同じように治療してもらい、薬をもらっただけだった。初診なのだから普通はレントゲンを 撮って診察をするものだと思っていたので、いい加減な診察に見えた。痛いところは 動かさなければいいのかもしれないが、それで済むんだったら、別に医者に行く必要は なかったのかなぁと思う。動かさなくても痛いところは痛い。どうすりゃいいんだ!!

■2002年1月17日(木曜日)
   沖縄合宿初日。朝9時20分発の輸送機に乗り、小牧(名古屋)、板付(福岡)、 高遊原(熊本)を経由して那覇へ16時20分に到着。輸送機の中は、大きな騒音で、 ハンモックのようなものに座っているので座り心地も悪く、これだけたくさん乗り降り していると、何もしていなくても疲れる。那覇へ着いたときには、ぐったりとしていた。 到着後はすぐに夕食で、走ることができたのは夜になってからだった。

■2002年1月16日(水曜日)
   右手首が痛くなって1週間がたった。相変わらず、箸を持って食事をしたり、 走っているときは痛い。屈伸をするときに手を足に添えるだけで痛くなってきた。 症状はどんどんひどくなっている。プレシャスタイムへ電話したが都合がつかず、 結局そのまま。沖縄へ行ったら病院へ行こう。
 12月に受験したカラーコーディネーター2級の結果が戻ってきた。合格ライン に達しているかどうかという自己採点だったが、結果は合格。一夜漬けみないな 感じで勉強しただけで、勉強したことが全く頭に残っていないのが問題だが、 2級カラーコーディネーターという称号を手にした。

■2002年1月15日(火曜日)
   今日から、2月の航空自衛隊持続走大会へ向けた合宿が始まった。チームの メンバーが佐渡(新潟)大滝根(福島)、輪島(石川)、笠取山(三重)、 峯岡山(千葉)、御前崎(静岡)、串本(和歌山)など、散らばっているので、 集まるだけで1日かかった。雪の降っている地方の人が多いので、入間とは 違って練習はずっとできていなかったようだ。今日と明日、入間で練習して、 木曜からは沖縄で合宿が始まる。体育学校の中距離も金曜から沖縄合宿らしい ので、一緒に練習ができるといいなぁと思う。
 
■2002年1月14日(月曜日)
   朝まで当直をして、所沢へ戻り、着替えて体育学校へ向かった。練習内容は サーキットトレーニング。先週の筋肉痛を乗り越え、ある程度の強度の 負荷にも対応できるようになったので、サーキットトレーニングはそれほど 大きなダメージを受けることはなかった。
 休みを返上しての練習。体育学校の時だったらこれは仕事。 自分でもよくやると思う。

■2002年1月13日(日曜日)
   連休の中日だったが、当直のため出勤。特に仕事というものもなく、当直室に 存在することが仕事のようだ。結局1日中当直室で、テレビを見ているしかなかった。
 今日は京都で全国女子駅伝があったので、テレビを見ることができてちょうどよかった。 注目していたチームは自分がいた県。愛知、神奈川、奈良、埼玉。奈良は1区で1位 になったがゴールでは37位くらいまで落ちていた。奈良チームはナンバーカードの 番号29を目標にしているが、今回もダメだった。愛知は途中まで優勝争いをしていたが 最後には脱落。神奈川や埼玉は前半は出遅れたが、最後はある程度まで上がってきた。  北海道のアンカーには森の嫁さんが出ていて、ゴール前ではしっかりテレビに映って いた。ヨーロッパ遠征へ一緒に行った人たちが出ていて、こういうのを見るたびに、 自分もこのままじゃダメだと思う。来週は広島で全国男子駅伝。こちらも楽しみだ。

■2002年1月12日(土曜日)
   朝はあっという間にやってきた。昨日倒れて、10分くらいで目覚ましが 鳴ってしまったような感覚。身体や服はたばこ臭くて、イヤ〜な気分だった。 ついでに歯も磨いてなかったので、口の中もイヤ〜な感じだった。筋肉痛は 少しひいて、歩くことは楽になっていた。
 起きたあとすぐに歯を磨き、酒を抜くため朝練をした。その後、体育学校 へ行き、みんなと練習。メニューは1000m×8。少し遅めのペースでの 練習だったはずだが、筋肉痛や酒が入っていたため、1本目から辛かった。 8本目には、気持ち悪くなり、ゴールが先か、吐くのが先かという状況に なった。結局ゴールの方が先にきたので、吐かずに済んだ。めでたしめでたし。

■2002年1月11日(金曜日)
 のどは痛いし、手首も痛いし、足は筋肉痛だし、食欲もいつもよりないし、 不健康な身体だなぁと思う。その不健康に追い打ちをかけるような 出来事が夜にあった。それは、定年退職者の送別パーティー。
 自分は司会の役目があり、飲み食べはあまりできないのではないかと思っていた。 しかし、会が始まって、司会の合間にけっこうビールをつがれ、途中からはウイスキーの ビール割りとか日本酒まで飲まされて、だんだん頭が麻痺してきた。意識は しっかりあったので、司会の仕事は最後まで果たせたが、電車に乗って所沢へ 帰ってきた頃から、酔いが回ってきて、視力が低下し、ものがはっきり見え なくなり、頭は麻痺し、平衡感覚もなくなり、部屋へ帰ってきたままそのまま 倒れて寝てしまった。

■2002年1月10日(木曜日)
   朝から、突然右手首が痛み出した。箸を使って食事をするときや、走っているときに 腕を振るだけで痛い。夕方になっても全く痛みがひいてこなかったので、捻挫の痛みも 見てもらおうと思い、五反田のプレシャスタイムへ行った。手首は筋肉の問題だろう という判断で、いろいろな施術をしてもらったが、あまり緩和しなかった。また ちょっと様子を見て、どうするべきか考えようと思う。

■2002年1月9日(水曜日)
   昨日の筋トレで、極度の筋肉痛。歩くのもできれば控えたい。しかし、怪我をした わけではないし、仕事もあるので、足は動かさなければならなかった。無理して ジョッグしたが、辛かった。
 夜は気持ちを入れ替えて、アンビバレンス練習会に参加。長距離練習はできな さそうだったので、思いっきり足を動かす短距離練習に参加した。メニューは 250m×7。筋肉痛になって、足をあまり動かさず可動域が狭まっていたので、 血流も悪かったが、この練習で、可動域を広くし、血流もよくなり、筋肉痛が 緩和した。歩いているときよりもダッシュしているときの方が楽という、よく わからない感覚になった。

■2002年1月8日(火曜日)
   やっぱり1日、のどが痛く、何となく頭も痛かった。しかし休んでいる 場合ではない。午前中は、訓練で60分ジョッグ。ペースを上げて走る人がいたので ついていったが、20分もしないうちにダウン。全くついてゆけず、結局 ダラダラとジョッグしただけになった。これでは練習にならないので、 その後、一人で筋トレ。体育学校の時は全く辛くなかったメニューだったが、 筋肉は攣りそうになったり痛みが出たりして、ひどい状況だった。とにかく、 はけるようになったズボンが入らない足にするための第1歩と思い、頑張った。
 夜は、基地の隣にある「ふれあい健康センターサピオ稲荷山」で 筋トレ。体育学校の頃の重量は上がらず、これまたひどかった。これも 重量を軽くしてできるところからやっていった。3ヶ月頑張って、シーズン前には 少しは元に戻っていることを期待する。

■2002年1月7日(月曜日)
   相変わらず、のどの痛みは消えず、頭痛も少々。食欲がないのが一番心配。 食べるものがおいしく感じられないとつまらない。改めて、毎日の楽しみは 3度の食事なのだと思った。
 具合が悪いので今日は早く帰って寝ようと考えていたが、自分の部署で 大がかりな作業があったので、夜まで残ることになった。すべてが終わったのが 23時10分頃。もう家まで帰る気力はなく、基地に泊まることにした。
 だんだん咳まで出るようになってきて、朝よりも具合は悪くなっていた。

■2002年1月6日(日曜日)
   西武新宿線に乗り所沢へ帰るとき、荷物が大量にあったのでリュックサックを 座席の上の棚に置いて、新聞を読みながら時間を過ごしていた。新聞の中身が なかなかおもしろかったので、時間もあっという間に過ぎ、気が付いたら降りる 駅に来ていた。あわてて降りて、助かったぁと思いながら駅をあとにした。
 部屋に着くまでに、リュックを背負っていないことに気づき、またまたあわてた。 電車の棚に置いたままだった。すぐに駅へ戻り、駅員さんに通報。荷物は 本川越駅で無事保護されているということだった。
 すぐに本川越駅まで出向き、リュックを手にすることができた。この荷物を 発見してくれたのは駅員さんではなく、乗客の人だった。中身はパソコン、 デジカメ、CDなど。結構な額だったし、これがなくなっていたら多くの人と 連絡が取れなくなるところだった。気が付いてくれた人がいい人でよかった。 また、日本でよかったと思った。昔と比べれば、治安は悪くなっているが、 日本もまだまだ捨てたのもではないと思った。
 部屋に戻り一安心して、テレビを付けると、スピードスケートの堀井学選手の コーチのドキュメントが放映中だった。堀井選手は、長野オリンピックで結果を 出せず、会社を退社し、プロになり、苦労してスポンサーを捜し、コーチにも頼んで 会社を辞めてもらい専属のコーチとしてついてもらい、今回のオリンピックの 代表を勝ち取った。堀井選手もコーチもスポンサーからお金が出るのはオリンピックが 終わるまでで、それ以降の契約はない。つまりその後は収入がなくなってしまう。 コーチは家族を半ば犠牲にして、今回のオリンピックに賭けた。
 夢にかける人生って輝いているなぁと思う。自分も陸上をまだ続けたくて仕方ない ので、こういう生き方には憧れる。でも日本代表になるまでのレベルに届いて いないので、会社を辞めるなんてことはどう考えてもできない。そんなことを 考えながらテレビを見ていた。今回のオリンピックは堀井選手を注目したい。 がんばれ、堀井選手!!

■2002年1月5日(土曜日)
   3日の夜からのどが痛くなり、昨日から熱っぽかったため、ほぼ1日寝たきりだった。 起きているとのどの痛みが取れてくるが、また寝るとのどの痛みが戻ってくる。 熱もほぼ平熱になるのだが、首まわりがどうも風邪引きの状態で気持ち悪い。 昨日の誓いはどこへやら・・・ 治ってくれないと走れないじゃないかぁ!!

■2002年1月4日(金曜日)
   外を出歩くのに温かいズボンがなかったので買いに行こうと思ったが、 高校時代にはいていたものを母親がタンスから出してきたので、試着してみた。 これらのズボンは、昨年、足の太ももが入らずはけなくなり、捨てる ことにしていたものだった。まだ捨ててなかったのかぁと思いながらはいてみると、 驚くことにちょうどいい。それだけ足が細くなってしまっていた。かなりの ショックだった。約3年かけて、身体を作りやっと日本のトップで走れるように なったのに、たった1年でこんなに足は細くなり、現状維持も難しくなって きたとは・・・ とても悔しいので、もう一度頑張ろうと思った。これらの ズボンがまたはけなくなるくらいになってやろうと。

■2002年1月3日(木曜日)


東海地方は雪が降りました
   箱根駅伝の復路があった。昨日ほどの衝撃的なシーンはなかったが、 9位のシード権争いは、最終区までもつれ込んでおもしろかった。 しかも2校の争いではなく、5校が絡んでいたから。本人達は勘弁してほしい という状況だったが、見ている側としては本当におもしろかった。
 小牧のジムで一緒になった、駒沢大学の揖斐くんは3年連続区間賞とは ならなかったが、すばらしい走りで優勝に貢献していた。知っている人が 走っているととてもうれしい。また来年もどんなドラマが生まれるか 楽しみだ。

■2002年1月2日(水曜日)
   箱根駅伝をずっと見ていた。最近の箱根駅伝は、レース中に、足の故障を 起こしてしまう選手が多い。今回も2区で法政大の徳本が走り始めて6kmで 肉離れになり、棄権となった。区間賞は確実だったのでかわいそうだった。 他にも、いろいろな選手が足を押さえたり、たたいたりしながら何とか 走りきっていた。
 今回は、いろいろと順位が入れ替わり、見ていておもしろかった。往路優勝は 神奈川大となったが、2位、3位もそれほどタイム差がないので、復路もおもしろく なりそうだ。

■2002年1月1日(火曜日)


日の出は見られず・・・
   全日本実業団駅伝を観戦。昨年までは現地で応援していたが、久しぶりに テレビで応援した。今年、体育学校チームは前半に強い選手を固め、全員が 失敗せずうまくタスキをつないだので、前半は10位前後に位置し、中盤まで シード争いをしていた。来年の大会のシード権は15位までで、結局18位と なった。最近はずっと20番台が続いていたので、この順位はすばらしいと思う。 来年こそはシード権をとってほしい。



[昔のいずみ]