最近のいずみ

Last Update:2002/2/28

パートタイムアスリートいずみ 2年目に突入!! 


■2002年2月28日(木曜日)
 防衛医大で足の診察があった。予約をしていたはずなのに、行ってみると 予約がなかった。当分待たされるだろうと覚悟しながら、整形の受付へ行き、 予約があったのに予約がなかったと伝えた。
 自分の診察が回ってきたのは予約時間よりは少し遅かったが、考えていた よりもかなり早かった。先生が予約について覚えていてくれたため、ほぼ予約 通り診てもらえた。
 その後、右足首の種子骨のレントゲンを撮り、診察までは2時間近く待たされた。 結局、予約があっても待たされるのには変わらなかった。
 診断は前回と同じで、あまりにも痛みがひどいならば手術をするというものだった。 今は朝起きた時に痛いだけで、走っているときに影響はないので、様子を見る ということで決着がついた。

■2002年2月27日(水曜日)
 最近くしゃみがよく出るのだが、車に乗っているときにくしゃみが出ると、 その瞬間にどうしても目をつぶってしまい、前が見えなくなる。とても ヒヤッとする。頑張って目を開いていようとするがどうしてもできない。急に ブレーキをかけて止まることもできないし、どうしたらいいのだろう?乗らない のが一番か。
 車に乗ってしまうと、便利なので、どこへ行くにも利用してしまう。今までは 自転車で十分、車の必要性なんて全くなかったのに、ちょっとそこまでというときでも 自転車より車。電車も全く使わなくなった。はっきり言って駅まで歩くのが面倒。 あっという間に怠け者に変身してしまった。免許は持っていても車は運転しない、 環境にいいドライバーだと思っていたのに、今は環境を気にしないドライバーに なっている。反省。必要なときだけ利用するように心がけたい。
 人間は、常に楽を追求して発達しているように思う。最後には全く動かなくても 何でもできてしまう世の中になってしまうかもしれない。

■2002年2月26日(火曜日)
 次のトリノオリンピックからショートトラックが廃止になるらしい。 今回のオリンピックの判定があまりにもごたごたしたためなのか、 審判側が誤審といわれるのがイヤで廃止にするのかわからないが、 競技をしている選手はとても気の毒だ。
 長野オリンピックの時は日本人が金メダルを取って、ショートトラックという 種目の存在を知り、今回も日本人のメダルの可能性があったので、注目して 見ていた種目だった。スピードスケートと比べて、戦う相手というものを 意識し、めまぐるしく順位が変わるので、見ていてとてもおもしろい競技だと 思っていた。  せっかくメジャーな種目になってきているのだから、そんなに簡単に 廃止するなんて決めないでほしい。

■2002年2月25日(月曜日)
 職場の通常業務に復帰。初めての車での出勤だった。早朝は車の渋滞もなく、 快適なドライブができた。職場での仕事は1ヶ月半ぶりのため、1ヶ月半分の 印鑑押しが待っていた。すでに腱鞘炎だが、益々ひどくなりそうだった。

■2002年2月24日(日曜日)
 横浜国際女子駅伝を見た。日本は渋井や福士が区間新の走りで他のチームを 引き離し活躍で3年ぶりの優勝。ヨーロッパ遠征で一緒になったノーリツの 小アさんも区間賞を獲得した。
 日本は1区からずっと1位で、2位以下をどんどん引き離していったため 見ている方はあまりおもしろくなかった。どちらかというと、外国勢と 地域選抜の戦いの方がおもしろかった。

■2002年2月23日(土曜日)
 車のCDプレイヤーが直り、池袋まで買い物へでかけた。行った時間が 昼の3時くらいだっため、人、人、人で、車が道を通るなんて常識はずれ という感じで、なかなか前に進めなかった。駐車場を探してもどこも いっぱいで、池袋もはずれの方まで行かなければ駐車できなかった。
 帰るときには路上駐車の車のサイドミラーに自分の車のサイドミラーが ぶつかり、ヒヤッとした。結局相手のミラーに損傷がなく、謝るだけで済んだ。 こんなに多くの人が集まる場所、道の狭い場所へは、車で二度と来たくないと思った。

■2002年2月22日(金曜日)
 朝8時に自分たちの荷物を積んだトラックが入間へ向かい、自分たちは、 昼の2時半過ぎに輸送機の特別便が出るため、午前中は暇をもて余していた。 部屋のテレビをボーっと見るしかなく、他に何かないかと売店へ行き、基地の図書館へ 入り、レンタルビデオがあったのでそこで映画を1本見た。
 浜松からの特別便に乗り3時半には入間に着いた。基地では出迎えがあり、みんなが 準優勝を祝ってくれた。
 5時半からは基地内で慰労会があり、職場の上司を始めたくさんの偉い人たちが 来てくれた。食べ物はあまり食べられず、ずっとビールをつがれるばかりで、1時間 もしないうちに酔っぱらった。
 その後は基地の外で2次会。スナックへ行ったため、ここでもほとんど食べ物は なし。お客の自分たちは誰も吸わないのに、隣に座る店員のおねぇちゃんたちは 全員たばこを吸うので、煙くて苦痛だった。
 結局そのスナックをで出たときには深夜1時をまわっていた。煙くて早く出たかった が、タイミングをつかめずこんな時間になってしまった。昨日走ってからずっと 腹痛で、結局今日も治らなかった。

■2002年2月21日(木曜日)
 平成13年度航空自衛隊持続走決勝大会当日。個人戦と団体戦があり、個人戦は 早朝8時過ぎから始まり、団体戦は9時過ぎから始まった。団体戦は7区間 42.195kmのレースで、自分は団体戦に出場し、6区を走った。
 うちのチームは優勝候補に上げられ、1区からいい位置につけ、2区で1位に 上がり、3区では先頭集団、4区、5区では独走態勢を確立し、自分の所へ タスキが来たときには2位と38秒差もあった。
 自分の区間は約6.43km。膝は悪いし、ハムストリングスもおかしいので、 できるだけの力で走った。初めの1kmは2分56秒で悪くなかったが、2位の 選手との差は33秒に縮まったと聞かされた。相手はあまり考えず、同じリズムで 走っていたが、2km、3kmと進むにつれて、自分の後ろから応援の拍手が 近づき、4km過ぎで追いつかれた。自分は1kmを3分10秒を切るペースでしか 走れないが、相手はずっと3分を切るペースで走っている。5kmまでは付いて いったが、徐々に離され始め、残り1kmからは、どんどん離れていった。 結局タスキを渡したときには1位と35秒差の2位。
 7区の選手が一生懸命追ったが、それほど差は縮まらず、結局2位でゴールした。 チームは7区間で3つも区間賞を獲得したのに、たった一人の人にひっくり返される という結果に終わった。オーダーもレース展開も完璧だったので、これ以上は どうしようもなかったように思う。しかし、自分のところで勝負が決まって しまったというのがとても辛かった。
 自分の筋力を考えて練習を決めてゆかないと、身体を壊すだけの練習になってしまう。 今回は、このことを体感した。少し休んで、また出直したい。

■2002年2月20日(水曜日)
 オリンピックを忘れるくらい衆議院予算委員会がおもしろかった。田中真紀子 さんの答弁では、小泉批判も盛り込まれ、野党側も半分彼女を応援しているようで、 すんなりと終わったが、鈴木宗男さんに対しては、激しいやりとりが多かった。 結局、言った、言わないというのは、はっきりせずに終わったような気がした。
 その後、小泉さんへの答弁でも野党はしきりに、どちらがウソを言っているのか という質問ばかりで、とにかく自民党の誰かを悪者にしようと一生懸命だった ように見えた。なんだか子供の喧嘩のようだ。全員が本当のことを言えば、 それで終わりなのに。なかなか言えないのが大人の世界・・・

■2002年2月19日(火曜日)
 期待していたスキーのジャンプ団体は5位に終わった。長野の時は日本で 行われていたためか、盛り上がり方がすごかったが、今回は淡々と選手が ジャンプしてゆくようであまり感動もなかった。きっと1位争いをした ドイツとフィンランドは盛り上がったのだろう。原田選手は自分の子供と 勝負できるまで続けたいというコメントを残した。まだまだ現役を続けて ゆくようだ。ボロボロになっても飛んでいるあなたしか知らないのだから、 いつまでも続けていてほしいという奥さんのコメントも印象的だった。

■2002年2月18日(月曜日)
 スピードスケート女子1000mを見た。1位と2位はアメリカ。ともに世界新。 日本人では外ノ池選手が日本新記録だったが、メダルにはとどかなかった。前半は 世界記録を上回るペースで滑っていたが、最後は体が動かなくなっていた。陸上の 800mでも最後は同じように身体が動かなくなるのを経験しているので、あの 状態と、その気持ちがとてもよくわかった。
 不思議なのは、出場者のうち20人近くがオリンピック新記録。今までの オリンピック記録というのは何だったのだろうか?
 500mではインからのスタートとアウトからのスタートのがあり、2日間 かかるが、1000mは1日で、1本だけの勝負。インからスタートする選手の 方が何となく有利に見えた。これで公平になっているのだろうか?

■2002年2月17日(日曜日)
 またゴールドフレックスへ行った。なぜか木曜日の時よりも体の状態は ひどくなっていた。骨盤はまだ歪んでいて、尻の筋肉は左右で悪いところが違い、 左は中殿筋、右は梨状筋がおかしく、極端に言えば足をまっすぐに出して 歩くことができていなかった。また、インナーマッスル(身体の内部の筋肉)の 腸腰筋(大腰筋と腸骨筋)が完全に収縮して固まっていたため、足の筋肉すべてが 胸の方へ引っ張られ、いろいろなところに痛みが出ていることがわかった。 これらの痛みが最初に出たのは3ヶ月も前だったので、処置をするのが遅すぎ、 短時間で緩和するようなものではなかった。ある程度緩和したところで終わら ざるを得なかった。今日は休みなのに自分のために開けてくれ、先生に感謝。

■2002年2月16日(土曜日)


浜松のバスの中には花
 チームの練習に復帰する予定だったが、ジョッグを始めたときに膝に違和感を感じ、 ダッシュをしたときに痛みがはしり、練習中止。沖縄で感じた痛みと同じ。歩くだけでも 痛くなってきた。また休まなければならない。
 夕方、実家へ帰る前に高校の同級生に駅まで迎えに来てもらい、夕食を食べに行った。 彼に会うのは1年半ぶり。メールで連絡を取っていたのでそれほど久しぶりという ことでもなかったが、彼がまた別の同級生を呼んでくれ、高校卒業以来の再開をした。 誰が今何をしているという話をし、いろんな道に進んでいるのだなぁと思ったが、 意外と地元に戻ってきている人が多いことに驚いた。

■2002年2月15日(金曜日)
 水曜日から航空自衛隊持続走決勝大会の会場、浜松へ来ている。基地の中は、 大会に出るランナーだらけ。毎日風が強いので、みんな向かい風に向かって 前に傾きながら走っている。もう少し弱くなってくれればいいのにと思う。
 昨日身体調整をしてもらい、今日は無理に身体を動かさない方がいいので、 ジョッグや水泳をした。これで明日からチームの練習に戻れそう。
 夜は、浜松にいる同期と同期会。全員で6人集まった。毎日深夜2時とか 3時まで仕事があって、睡眠時間が1時間から2時間しかないという人がいた。 全く人間的な生活ができていない。顔もやつれていて、みんなで心配した。 これで給料が皆同じというのがとても気の毒だった。

■2002年2月14日(木曜日)
 小牧のゴールドフレックスへ行き、身体調整をしてもらった。足首の捻挫や、 種子骨の痛み、膝蓋靱帯炎、ハムストリングス(もも裏)の痛みなど、痛いところ だらけの状態で行ったので、今まで見た中で一番重傷だと言われた。見てもらうと、 痛いところはその他にも出てきて、超音波を当ててみると、いろいろな ところで炎症が起きていることがわかった。足の指は縮み、骨盤が歪み、足の長さは 左右で違い、本当にひどい身体だった。人に見てもらってやっと自分の身体が わかるなんてホント鈍感だと思う。

■2002年2月13日(水曜日)
 ソルトレイクオリンピックのスピードスケート男子500m2日目を見た。 注目の堀井選手は初日にスタートで出遅れ、課題の最終コーナーも膨らんでしまい、 うまく滑れなかったので、今日こそ成功してほしかった。
 今回はスタートが初日よりよく、まずまずの滑り出しだったが、やっぱり 最終コーナーは辛そうだった。身体が大きい人ほど、コーナーの滑りというのは 難しいものなのだろう。清水選手も今日はコーナーで膨らんでいた。それがなければ 金メダルに届いたのかもしれない。
 堀井選手は初日よりタイムはよかったが、結局上位のタイムには追いつけず。 メダルには届かなかった。まだ1000mが残っているので、そちらの方を注目したい。

■2002年2月12日(火曜日)
 航空自衛隊持続走の選手選考会があり、6.4kmのタイムトライアル。 一人ずつ30秒おきにスタートした。幹部は必ず一人参加しなければならないため、 自分は幹部なので初めから選手に決定していて、無理をすることはなかったが、 走り始めればそんなことは考えられなくなっていた。
 初めの1kmだけは3分を切って入ったが、それ以降はどんどんペースが落ち、 昨日よりひどい状態になり、もがきながら走りきった。一生懸命走ったが、 女子マラソンと変わらないようなペースで、センスのなさを感じた。
 結局全体では2番目のタイムでゴールしたが、5kmまでのラップでは4番目。 周りからは体育学校の選手だったということもあり、圧倒的な力の差を期待されて いるため、なかなか辛いものがあった。あと大会まで1週間、少しでも期待に 添えるようにしたい。

■2002年2月11日(月曜日)
 府中駅伝に出場。先週までは膝の痛みがあったので、走れないと思っていたが、 土曜日に痛みなしで練習ができたため、走ることにした。
 アンビバレンスからは男子が2チーム、女子が1チーム参加。コースは 多摩川沿いの土手で、男子は80チーム以上が参加し、6人で各区間5.7kmを 走るレースだった。
 自分は1区。人について行くだけでよく、あまり無理はしないように走った。 スタートから高校生が元気よく飛び出し、それに一般選手が着いてゆく感じだった。
 途中で橋の下を通過するために土手の下へ降りる場面があり、そこが極端なS字 カーブで転びそうになったり、折り返しも道幅が狭く、向かってくる選手に ぶつかりそうになったり、サイクリングの親子連れや、自転車に乗った買い物 おばちゃんが出てきたりして、非常にローカルで危険なコース設定だった。
 5,7kmがとても長く感じられ、止めるつもりは全くないが、何度も やめたいという気持ちになった。筋力だけでなく、気持ちも弱くなったなぁなんて 思いながらタスキを2区に渡した。総合8位、一般では5位だった。
 その後チームは6位争いをしながら最終区まで行き、最後は7位でゴール。 入賞は逃したが、最後までいいレースができ、楽しめた。女子チームは3位に 入り表彰され、みんなで喜んだ。普段の個人レースとは違い、沿道にはたくさんの 応援があり、駅伝の楽しさを改めて感じることができた。

■2002年2月10日(日曜日)
 東京国際マラソンを見た。最近の民放はある選手だけを注目して全く他の 選手を撮ってくれない。やっぱり陸上競技は全体を見せてくれるNHKの 放送がいい。ちなみに今回の注目選手は初マラソンの森政(中国電力)と 神屋(駒沢大)だった。しかし、彼らは中盤以降崩れてジョッグに近い状態で 苦しそうだった。
 優勝はケニアのワイナイナ(コニカ)。オリンピックではアトランタで銅、 シドニーでは銀をとり、他の2つのマラソンでも優勝し、マラソンを走れば 必ず3位以内。2位になったスペインのフッタドも35歳で2時間9分を 切ってきた。3位、4位もスペインで、本当にマラソンの強い国だ と思った。
 日本人トップは5位の間野(八幡麺屋)。一時はYKKで実業団選手として 走っていたが、結果が出ず、辞めた後、市民ランナーの延長のような感じで 練習を続け、ここまで来た。こういう人を見ると、自分も頑張ろういう気持ちに なってくる。

■2002年2月9日(土曜日)
 昨日手に入れたばかりの車で朝霞駐屯地へ行き、体育学校の練習に参加。 練習復帰2日にして、400m×10をした。膝が痛くなれば、すぐにやめようと 軽い気持ちで走ったが、膝は全く痛くならず。久々の練習できつかったが、 結局全部こなしてしまった。これでもう2,3日何ともなかったら、完全復帰と 言えるだろう。

■2002年2月8日(金曜日)


ムーヴの中古車を買いました
 1週間ぶりに走った。午前中はジョッグを20分ほど。午後はホンダ狭山が4人, 稲荷山公園へ練習に来たので、それに混じって10kmのクロスカントリーをした。 ジョッグを初めたばかりで、少し強度が高いように思ったが、膝の痛みはなく、 無事走りきった。1週間我慢した甲斐があった。
 夜には、マイカーを手に入れた。免許を取って7年半。ほとんど運転をした ことがなくとても危険だが、いつかは乗らなければならない。店の人も心配していたが、 乗ってすぐにやらかした。サイドブレーキを引いたまま発進させた。店の人に言われて 気がつき、恥ずかしい思いをした。
 乗ってしまえば、自転車や走りでは遠かったところがとても近所に思えてきた。 安全運転を心がけ、うまく付き合ってゆこうと思う。

■2002年2月7日(木曜日)
 防衛医大病院へ行き、膝と足首を見てもらった。予約がないので、朝6時半過ぎに 病院へ行き、番号札をもらい、8時過ぎから病院の待合室で待ち、8時半から受け付け。 番号札は3番を持っていたのですぐに呼ばれ、カルテを整形外科へ持っていった。
 予約の人がいるため、その合間に予約なしの人が呼ばれる様子。自分の診察が回って きたのは10時半頃。先生はとても丁寧に見てくれたが、レントゲンを撮影することになり、 レントゲン室へ。
 レントゲンは比較的早く終わったが、レントゲンを提出した後、また1時間ほど 待たされ、やっと先生の診察を受けられた。
 膝の方は膝蓋靱帯炎だからあまり無理しないように言われ、足首の方は、舟状骨の ところに種子骨という普通はないはずの骨が出っ張っていて、痛みを発していると 言われた。あまりにも痛ければ手術になるらしい。当分は様子を見るということで 診察は終了した。
 その後、会計のところで30〜40分ほど待たされ、結局終わったのは1時近くだった。 あまりにも人が多すぎ、いるだけで疲れる病院だった。
 夜には五反田のプレシャスタイムへ行き、膝と足首と手首の治療を受けた。膝と足首は ほぼ痛みがなくなるまでになったが、手首の腱鞘炎の方は、期待していたほど痛みは 取れなかった。

■2002年2月6日(水曜日)
 膝の具合はよくなったのかどうかわからず、痛みがなくなったという確信が もてないため、今日も走るのをグッとこらえた。自分の持っている本を見ると 膝蓋靱帯炎は2週間ほどの完全休養又は練習の質と量を落とす必要があると 書いてあった。完全休養と練習の質と量を落とすというのでは全然違うような 気がするけど、どうしたらいいのだ?何となく痛みが出るのだから痛みが 全く出なくなるまでは走るのを我慢することにした。

■2002年2月5日(火曜日)
 9時に那覇を出発し、高遊原(熊本)、板付(福岡)、小牧(名古屋)を経由し、 15時半に入間へ到着。昼は運搬食ということで缶飯と、謎の魚の天ぷら缶詰が出た。 天ぷらの缶詰なんて初めて見た。どうも開けて食べようという気になれず、 結局昼飯は、缶飯ではなく菓子パンを食べた。それでもおなかが空き、持っていた 55%増量になった明治アーモンドチョコレートを食べ出したら、全部なくなって しまた。小牧から入間の間は気持ち悪くなり、何度か吐き気の波がおそってきたが、 こらえきって無事入間に到着できた。アーモンドチョコはおいしいけど、 食べ過ぎには注意!!

■2002年2月4日(月曜日)


ゴーヤーチャンプルー定食
 朝から雲が少なく星がよく見え、日中もいい天気になった。せっかく走りやすい 環境になったのに、膝の痛みのため走ることができず、歩いた。午前中は80分 ウォーク。
 痛みはそれほどでなかったため午後からは少し強度を上げてバイク。減量 メニューというのがあったので、これなら低強度で長い時間続けられるものだろうと 思い、減量メニューのボタンを押してバイクをこぎ始めた。5分までは少しずつ 負荷が上がってゆくが強度は低く、調子がよかったが、5分を過ぎたとたんに 負荷が倍になりペダルをこぐのが困難になってきた。3分は我慢してこいでいたが、 だんだん膝が痛くなり腫れてくるのがわかり、すぐに止めた。
 氷がなかったので水で冷やしたが、歩くのも痛くなってしまった。いつ走れる ようになるのだろうか?これで沖縄合宿も終わり。天気も最後の2日だけよく、 そのときに限って走れなくなり、気分の良くない終わりになった。

■2002年2月3日(日曜日)


万座毛(左から高田、和泉、佐野)



部瀬名(左から和泉、石若、高田)



中日ドラゴンズ北谷キャンプ
 沖縄に来て初めて沖縄のイメージらしい天候で、最高のお出かけ日和。しかし、 膝の具合がよくないので、午前中は部屋の中で腐っていた。
 昼食の時にたまたま空自英語弁論大会に来ていた同期に会い、午後から出かける 話を聞かされた。午後からは、テレビで別府大分毎日マラソンを見ようと思っていたが、 同期とは滅多に会うことがないので、一緒に出かけることにし、沖縄にいる同期に 車を出してもらい、英弁大会に来ていた2人と自分の4人基地の外に出た。
 まずは万座毛。高速道路を使って1時間かからないくらいで到着。天気がよく海が 真っ青で、断崖絶壁が連なるすばらしい光景を眺めることができた。
 次に、沖縄サミットが開催された地域に連れて行ってもらい、部瀬名岬にある ホテルへ行き、そこのビーチでくつろいだ。このビーチはゴミがない真っ白な砂浜で、 沖縄のイメージそのものというビーチだった。
 続いて北谷まで南下し、たまたま中日ドラゴンズがキャンプをしている球場が あったので、キャンプを拝見。山田監督が見守る中、福留がフリーバッティングを していた。あれは見守るというよりもジロジロと監視されているようで、あまりいい 感じはしなかった。お客もそれほど多くなく、ちょっと活気のない寂しいキャンプに 見えた。
 最後に那覇市内へ戻り、焼き肉の食い放題へ行った。食い放題へ行くといつも これ以上食べられないというくらい食べてしまうので、今日はセーブして食べた。 まわりはこれ以上食べられないというくらい食べて苦しそうだったが、自分は 腹八分という感じで、また明日も食べたいというくらい清々しく食べ終わった。
 沖縄を満喫でき、とてもいい気分転換になった。
 今回一緒だった同期3人は、いままで一緒にどこかへ行ったりしたことも なかったが、同期というだけで、こうやって仲良くやれるということがとても うれく、有り難い存在だと思った。

■2002年2月2日(土曜日)


国際通りの市場本通街
 朝から大雨で、雨が横から吹き付けるため傘があっても意味がなく、 ビショビショになりながら食堂へ朝食を食べに行った。ただの雨でさえ こんな状況なのだから、台風の時は外なんて出歩けないだろう。
 あまりの雨の強さに練習はフリーになり、ほとんどの人が疲労回復のため 練習はしていないようだった。自分も膝を動かせないので部屋でじっとしていた。
 1日中部屋にいると、気分が悪くなってくるし、体を動かさないとかえって 疲労回復にはならないため、夜は車を持っている同期を捕まえて国際通りまで 散歩に出かけた。雨のためか土曜日なのに人は少なく歩きやすかった。

■2002年2月1日(金曜日)
 にこにこ整形外科で膝のレントゲンを撮り、診断をしてもらい、右足首、 右手首、左膝の治療をした。膝は膝蓋靱帯の炎症で痛みが出ているのだろう ということだった。しばらく練習は休んだ方がよさそう。
 夜は団結会。基地クラブに全員集まり飲んだ。780円でビールが飲み放題。 みんなすごい勢いで飲み干していた。自分は全く飲まなかったが、ゴーやチャンプル など、沖縄の料理を楽しむことができた。宴会で2時間半ほど座っていたが、 じっとしていても膝が痛い。手首の方はまた少し緩和してきた。



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