最近のいずみ

Last Update:2002/5/31

パートタイムアスリートいずみ 2年目に突入!! 


■2002年5月31日(金曜日)
 所沢スポーツケアセンターで加圧。左股にベルトを巻き、少しの間安静にしていると、 大腿部は張りと赤みが出てきて血流のあることがわかるが、下腿(膝から下)の部分は 張りがなく、だんだんと白くなってきた。膝から下は毛細血管まで血が届ききっていない。 右足も同様なことをしたが、足先まで赤みが出て血がしっかり流れていることがわかった。
どうして左膝で血の流れが悪くなるのかはわからないが、左右の脚の筋力差が大きくなって ゆく原因の一つになっていると考えられる。普段の生活では、膝にサポーターでも巻いて 少しでも温め、血流をよくした方がよさそうだ。 

■2002年5月30日(木曜日)
 五反田のプレシャスタイムで治療。五反田へ向かう途中、代々木駅付近の 線路で煙が上がっているということで、目黒駅で足止めをくらった。少々 お待ち下さいというアナウンスだったので、早くしてよ〜なんて思いながら、 待っていた。しかしアナウンスで、消火活動が始まり、当分動かないということが 判明し、このままの待っていても時間の無駄だと考え、歩いて五反田まで 行くことにした。電車では目黒・五反田間はたった2分なのだが、歩くと 20分以上かかった。
 治療の時間は30分ほど遅刻し、時間が限られてきたため、どうしても 緩和したかった膝の施術だけになり、別の部分は何も施すことができなかった。
 施術が終わったのが9時40分くらい。五反田駅へ行ってみると、まだ 山手線は動いていなかった。仕方ないので、都営浅草線、営団日比谷線・ 有楽町線を乗り継いで池袋まで行き、西武に乗り換えた。家に帰ってきたのは 11時半を過ぎていた。電車の中は立っていたので、治療に行ったのに かえって疲れてた。
 代々木駅の煙はどうやって上がったのだろう?

■2002年5月29日(水曜日)
 アンビバレンス練習会に参加し、10日ぶりにトラックで練習を再開。ハムスト リングスの痛みは相変わらずあり、あまり激しいことはできず、800m×3を 痛みがひどくならないペースで長距離の森本さんと走った。
 走っているときは脚に疲労がくるよりも先に呼吸の方が辛くなった。 全く走ってなかったのだから仕方ない。走り終わってみると、痛みが少し戻ってきた。 もう少し休みが必要そうだ。

■2002年5月28日(火曜日)
 血液検査のため3ヶ月ぶりに平石クリニックへ行った。3月1日に採った 血液検査の結果も聞いていない状態で、随分さぼったという感じがした。 3月の結果は、良好で、基準値を超えている項目が全くなかった。
 帰りがけに六本木交差点の書店前で、防大の後輩に会った。黒のスーツを 着て、ホストっぽい感じ。どう考えても格好が自衛隊っぽくない。話を 聞いてみると、昨年退職して、今はキャバクラの呼び込みをしているのだという。 交差点を歩いているお姉ちゃんをスカウトするという仕事らしいが、まだ お姉ちゃんを捕まえてお店に連れて行ったことがないと言っていた。夕方4時頃 から出勤で朝5時過ぎまで仕事があり、まったく生活リズムの違う世界だが やっと慣れてきたとも言っていた。なんとコメントをしたらいいのかわからず、 がんばれとだけ言って別れた。

■2002年5月27日(月曜日)
 部下から「最近疲れてませんか?」と言われた。確かに疲れているのだが、 どうしてそんなことがわかるのか聞いてみたところ、「最近笑うことが全然 ないから」という答えだった。自分ではそんなつもりはないが、いつも顔を 会わせている人がいうのだから間違えない。ずっと疲労で走ることができず、 気分がくすぶっているのが顔に出てしまっているようだ。なんだか恥ずか しかった。見ている人は見ている。気をつけよう。

■2002年5月26日(日曜日)
 遺跡発掘ねつ造疑惑で、研究は事実上白紙に戻り、約20年前に戻って出直 さなければならなくなったという。これまで注目されていた史跡がなんでもない ものになってしまうのだから、その地域の人たちの失望はあまりにも大きい。 一生懸命やってきた人たちにとっては、何をしてきたのだろうと複雑な気持ちに なっていることだろう。
 どこの集団にもなれ合いや、よくない習慣があるだろうし、それらの結果が 今回の疑惑につながったのだと思う。正しいことは正しく、間違っていることは 間違っていると言うということはとても難しいのだ。

■2002年5月25日(土曜日)


軍歌「同期の桜」熱唱中
 入間基地の基地運動会があった。自分は年齢別リレーで200mを走った。 ハムストリングスが痛くて、この1週間全く走っていなかったが、痛みは 緩和せず、痛いまま走ることになった。とにかく怪我をしないようにと思って いたが、その場に立てば、たくさんの応援があり全力で走らざるを得ない。 結果としては自分のところで1位に迫る2位につけ、次の人がトップに立ち、 それ以降3人つないだ結果4位となった。怪我もせず、トップに立つ場面も 作り、盛り上がったと思う。
 夕方、浜松の中部航空音楽隊が入間航友会創立40周年記念で演奏をすると いう話を聞いていたので、基地近くの入間市産業文化センターという所へ行った。 行ってみて驚いたのは、年寄りしかいないこと。どうやら航友会という組織が 航空自衛隊を応援するような組織らしい。演奏の前に式典があったので、 みんなそのまま残っているだけで、わざわざ見に来る人などいなかった。
 演奏内容も強烈だった。昭和20年代のヒットメドレー、坂本九メドレー、 軍歌も盛りだくさんだった。軍歌などは知っている人は歌って下さいという 指示まででた。
 演奏が終わったあとは、普通演奏者が全員退場したあとで、拍手をして アンコールするものだが、指揮者も退場しないうちに誰かがアンコールと 言ってみたり、もう一曲と言って手をたたいている。信じられない光景だった。 聴衆の態度に指揮者も困惑気味だったが予定通り、カルメンなどを演奏した。
 すべての演奏が終わったあと、指揮者が退場しようとしたら、また「待った」が かかり、元防衛政務次官だったという知事が出てきた。そして「昨日は亀井静香と 石原慎太郎と飲んで歌ってきた」とか、「戦時中浜松で二等兵をしていた」という ような話をし出し、演奏に感動したからプレゼントをしたいということで、演奏者を その場にとどまらせてしまった。困った指揮者は、また気を利かせて急遽、 軍艦マーチを演奏させ、その場を持たせていた。
 演奏内容やその後の出来事すべてが考えもつかない展開で、異文化を体験した ようだった。しかしあのアンコールの態度はちょっと許せない。

■2002年5月24日(金曜日)
 昨日のトレーナーさんは全国を飛び回っているので、当分予約が取れないと いうことで、今日は、所沢スポーツケアセンターのマッサージを予約していた。 しかし今日も、昨日と同様に機材のトラブルで早めに帰ることができず、 終わったのが9時半前。また治療はあきらめるしかなかった。2日連続でこうなると ちょっと気分がへこむ。まったく走っていないのに、明日は基地の運動会で 走らねばならない。怪我はしたくな〜い。

■2002年5月23日(木曜日)
 実業団合宿の時に世話になったトレーナーさんが、基地の近所で開業している ことを知り、治療の予約を入れた。しかし職場で機材のトラブルがあり、直る まで帰れないので、予約時間を遅くまでずらしてもらったが、終わったのが 10時だったため、治療には行けなかった。
 機材のある部屋は、機材の保護のためエアコンが稼働していて、けっこう寒い。 そのままエアコンの風が当たるところに半袖でいたので、身体中が冷えた。 脚の痛みが昨日よりひどくなってしまった。明日以降は防寒対策を考えた方が よさそうだ。

■2002年5月22日(水曜日)
 昨日の銭湯のおかげで、脚の疲労は少し緩和し、歩くのは苦にならなくなった。 しかしストレッチは痛くてできない。まだ走るには早すぎるので、また練習はせず、 銭湯へ行った。
 痛みが緩和したなぁと気分良くなって、帰りがけにちょっと古本屋に寄って しまった。ずっと立ちっぱなしで本屋の中をうろうろしていたら、身体が冷えてきて 脚の痛みも戻ってきた。意味ないじゃん。

■2002年5月21日(火曜日)
 昨日のマッサージのもみ返しはなかったが、脚の痛みはあまり緩和せず、今日も練習 はしなかった。その代わり、近くの銭湯でゆっくりした。お湯に浸かって冷水に入ってと いうサイクルとサウナに入って冷水に入るというサイクルを繰り返した。風呂を出た ときにはいくらか痛みも緩和していた。

■2002年5月20日(月曜日)
 所沢スポーツケアセンターでマッサージ。左のもも裏内側だけは疲れが それほどなく、右のももは張りと痛みがひどく、歩くのも辛い状況だっった。 先生からは両足を見て、左右の大きさが全く違うと言われた。走っているときに 左足はほとんど使っておらず、ただ地面に足をつけているだけになっているのでは ないかという推測だった。確かに走りの強度が高くなると、走りがぎこちなくなる ような感じがあった。右の緊張緩和、左の強化が必要だ。

■2002年5月19日(日曜日)


800m
 東日本実業団2日目。800m予選は午前中の最初にあり、眠い目をこすりながら 競技場入りした。800m予選は2組あり、3着までと4着以降タイムのいい人2人が 決勝進出になっていた。自分の組には自衛隊体育学校が3人もいて、8人のうち自分を 含めた4人が自衛隊。昨年までの力であれば、自分は全く問題なく決勝へ進めるの だが、今年は昨年とは違い、練習ができていなくてしかも疲労しているという状態 のため、全力で行っても予選通過できるかどうかわからなかった。
 スタートはゆっくりしたペースで余裕を持って走っていたが、1周したところで 疲労が来た。通過は58秒。2周目に入っても誰もペースを上げないので、残り300m から自分が先頭に立ち、レースを引っ張ったが、あまりペースが上がらなかった。 残り100mで一気に3人に抜かれ、必死に走ってやっとのことでゴール。タイムは 1分54秒28で4位。2組目のトップのタイムが自分のタイムより遅かったため、 決勝に残ることができた。
 決勝も出場8人中自分を含めた5人が自衛隊。体育学校チームは組織としてのレースを 展開し、若手をペースメーカーにして1周目を52秒で通過した。自分は8番手の通過 で53秒台。2周目はただ離されるだけで、レースには参加できず、ジョギングをしている ようだった。残り100mで1周目を引っ張った川上を抜き、7位でゴール。タイムは 1分55秒30.高校時代のタイムと変わらない。上位3人は1分49秒台の大会新。 トップとは対照的な結果で、まともに走れなかった自分に腹が立った。原因は練習不足、 極度の疲労、精神状態などいろいろあるが、そんなことよりも、次につながるような レースができなかったことに後悔。
 大会の最終種目に4×400mリレーがあり、第3走者としてバトンをつないだ。 1,2走が2位でバトンパスし、自分のところでトップにたったが、4走でかわされて 2位。タイムは3分18秒62。1位はWAVE TC、3位は自衛隊体育学校。実業団の 自衛隊体育学校には勝ったが、同じ川崎のクラブチーム「WAVE TC」に負け、複雑な 気分だった。

■2002年5月18日(土曜日)


餃子専門店みんみんの餃子
 東日本実業団対抗選手権が宇都宮で行われた。朝になってバタバタと準備をして 電車と新幹線を乗り継いでなんとかアップの時間には間に合った。
 1500mは2組タイムレース決勝。スタート直後からギタヒ(日清食品)が ハイペースで引っ張り、その後ろに徳本(日清食品)がついてゆく展開。自分も1周半 だけ3番手で走っていたが、脚の疲労で徐々にスピードが落ち、気がつけば最下位を 走っていた。残り100mで自衛隊体育学校の選手に追いつきそうだったので、 がんばり、なんとか彼を抜いてゴールした。最後は彼には絶対負けたくないという 意地だけで走っていた。結果は3分53秒55で総合9位。脚の状況を考えると こんなもんだと納得。
 夕方に4×400mリレー予選が予定されていたが、棄権するチームが出たため、 明日の決勝だけになった。午後からは暇になり、宇都宮といえば「餃子」ということで 餃子を食べにゆき、名物を堪能した。
 その後アンビバレンスの応援に来てくれていた方の実家が近くで、彼女のお父さんが 手打ちそばを20人前作って待っているというので、一人3人前くらいは食べようと いいながら、大勢でつめかけた。
 出てきた食事は、そばが出てくる前に、大量の天ぷら、刺身、あゆの塩焼き、煮物、・・・。 そばは一人分食べるだけでおなかいっぱいだった。しかしその後も炊き込みご飯、菓子パン、 まんじゅう、デザートなどがどんどん出てきて、食べきれなかった。手打ちそばは、 麺もつゆもすべて手作りで、食べた全員が、お店を開いても売れるという意見で一致する ほど、すばらしいおいしさだった。
 明日も試合なのにこんなに動けないくらい食べてよかったのだろうか?とちょと後悔した。

■2002年5月17日(金曜日)
 3日連続でプレシャスタイムへ行った。毎日その場では脚の痛みが緩和するが、 1日経ってまた施術を受けるときには元に戻っているという感じ。毎日違った 施術を試してもらい、3日前よりは歩くことは苦にならなくなった。明日から 東日本実業団。肉離れにならなければいいが・・・

■2002年5月16日(木曜日)
 基地の医務室で健康診断があった。健康診断の用紙にはたくさんの検査項目が 並んでいたので、かなりの時間がかかると思ったが、検査をしたのは3項目だけ。
 歯科では3本がIMPと言われた。IMPってなんですか?と聞いてみたら、 親不知がまっすぐに生えず、隣の歯を圧迫するなどあまりいい状態ではないので、 治療に行くようにということだった。ここ1ヶ月、親不知の伸びが気になっている ところだったので、やっぱりという感じだった。
 眼科は問題なく両目とも1.2。あっという間に検査は終わった。
 最後に血液検査。血液を抜く係りの人が針を刺すのを失敗して、血液がほんの 少ししか出てこなかった。係りの人は、「出てこないですねぇ」なんて言ってる。 「そりゃ、血管に針が入ってないからだよ」と言いたかったが、こらえて「そうですね」 と答えた。針を刺している時間が長く、上腕2頭筋の方から絞り出そうとするので 痛くなり、我慢できず、「逆の腕にしましょう」と申し出て、逆の腕は問題なく 血液が採れた。

■2002年5月15日(水曜日)
 アンビバレンス練習会だったが、練習会には参加せず、久しぶりに五反田の プレシャスプレイスへ出かけた。プレシャスプレイスにはいつも身体の状態が 悪いときにしか行かず、行ったときには運動療法をたくさん行うので、先生の 方が疲れてしまう。本当に申し訳ない。
 施術後は施術前より楽になり、歩いているときの痛みはなくなった。しかし ハムストリングスに力を入れると痛くて仕方ない。ストレッチをすると切れそうな 感じがする。まだまだ回復までは時間がかかりそうだが、週末は試合のため、 木曜日も、金曜日も治療に通うことにした。治療で少しでも痛みが緩和することを 願うだけだ。

■2002年5月14日(火曜日)
 今日は温度計の日だとラジオで聞いた。最近は天気が悪く、気温も上がらず 気持ちも落ち込み気味だったが、今日は久しぶりに晴れて気温も高かった。 気持ちよく走りたかったが、ハムストリングス(もも裏)が痛くて気持ちよく 走れず、歩くのも痛いのでマッサージへ行くことにした。
 先生からはよく腹痛を起こさないか?と聞かれ、その通り腹痛を起こすことが 多かったので、なんでわかるのか不思議に思った。腰と脚をつないでいる筋肉が 固まって腸を圧迫しているらしい。疲労がひどいので、これでは走れるわけはないと 言われた。疲労回復に努めるしかない。今週はずっと走れなさそうだ。

■2002年5月13日(月曜日)
 スキー複合の荻原健司が引退を表明した。世界の一線で10年過ごし、初めの 5年は競技前半のジャンプの比重が高く、ワールドカップで19勝を挙げるなど順風 だったが、後半5年はルール改正によって、飛距離がまったく貯金にならず、苦しんだ。 多くの選手がこのルール改正で引退していったのに彼はあきらめず、97年の世界選手権で 見事に金メダルを獲得した。続けるのがイヤになることが何度かあっただろうに、 彼はあきらめなかった。引退は中途半端が望ましくないということで完全引退を宣言した。
 オリンピックに出る人でも生活に苦労する時代なので、日本では競技人口の少ない この種目は、これからは勝つことがますます厳しくなるだろうが、彼の跡を継ぐような 選手が出てきてほしい。

■2002年5月12日(日曜日)
 結婚式の写真の焼き増しや、結婚報告のハガキ作成をしなければと思い、作業に 取りかかった。結婚式の写真はかなりの量があり、焼き増しの枚数も半端じゃない。 写っているものを全部あげようとすればきりがない。どこで線を引くかが難しかった。 ハガキの作成はワープロソフトが自分の思うように扱えないため、本当に納得のいく ものができなかった。
 作業中に焦げ臭い匂いがして、火の出そうな場所の匂いを嗅いで原因を探したが、 見つからなかった。下の階から来ているのでは?と思い、下の階まで確認しに行ったが、 やっぱり原因はわからず。窓を開けても匂いが残っていて、机の上にいるときが 一番臭うので首を傾げていたところ、ふと、机の上にあるデジカメを臭ってみると、 焦げ臭〜い臭いが漂っていた。電池を取り出すと熱くて手では持てないほどになっていた。 電池の+と−を間違えたのか?今後デジカメが動作するかどうかが心配だ。

■2002年5月11日(土曜日)


妻の家族と
 午前中は近所の陸上仲間を連れて体育学校で練習。メニューは1000m、600m、 400m。タイムは2分30秒、1分20秒、50秒の設定。1000mはペースが 安定していて設定通りだったが、600mは残り200mからからだが動かず、1分22秒。 400mはスタートで両足を攣り、走りきれなかった、日頃の練習不足がもろに出た。 しかし、1000m、600mが意外に走れていたので、それほど落ち込むことはなかった。
 午後からは妻の家族が全員家に来た。女性が4人もいるととても騒がしい。お父さんは この20年ほどいつもこんな環境にいたのだから、大変だったなぁと思う。

■2002年5月10日(金曜日)
 入院している部下のお見舞いに行った。入院が長く、普段は家族しか面会していないので、 とても歓迎された。具合が悪いときに面会するのも悪いと思って、早めに切り上げるつもり だったが、話しているうちに本人が元気になってきたというので、そのままおしゃべりを続け、 気が付けば、病院へ入って6時間も経っていた。昼ご飯もせずに夕方になっていたので、 自分でも驚いた。これで少しでも勇気づけられていればいいなぁと思う。

■2002年5月9日(木曜日)
 浜松へ出張。3月まで自分の上司だった人の所へ挨拶に行き、夜はその元上司と 大学の同期と自分の3人で飲みに行った。行ったお店は自衛隊官舎の近くで、 店の中は自衛隊機のポスターが張り巡らされ、利用者の9割以上が自衛隊員 というところ。メニューは浜松でしか食べられないとかいう小エビなど、店の おばちゃん任せにして、あとは3人でおしゃべり。意外なところで意外なつながりが あったり、世の中狭いなぁと思うひとときだった。
 話は変わるが、今日はアイスの日だったらしい。アイスの店サーティーワンでは 無料でアイスを配っていたとか。アイス協会なるものも存在し、そのホームページでは 懸賞などもあるみたい。いろんな協会があるもんだ。

■2002年5月8日(水曜日)
 「研修医がアルバイトをしなくても生活できる額を」という記事を読んだ。 現在の研修医は賃金や身分に関する統一の規定がなく、過酷な勤務が過労死や 医療事故を引き起こした例も指摘されている。
 自分にも研修医をしている友達がいるが、話を聞く度に、辛い職業だと 思っていた。アルバイトをしないと生活できないし、休みであっても患者に とっては休みはなく、結局呼び出されて出勤することになる。そういう環境で も、いつも患者に対しては優しく接しなければならない。
 坂口大臣の方針によって少しでもこの環境が改善されればいいなぁと思う。

■2002年5月7日(火曜日)
 体育学校で4ヶ月ぶりくらいにサーキットトレーニング。すべての動作を 正確に素早く行おうと思いながらやったが、動きは想像以上に鈍かった。 自分が体育学校で毎週やっていたときよりも負荷が重くなっているのが 一つの原因だが、それ以上に自分の筋力が落ちていることが大きい。

■2002年5月6日(月曜日)


レース後(菅野・和泉・三澤)
 水戸国際に出場。疲労がひどかったためこの2日間は完全休養し、静岡の時よりは 体調はよかった。今回は出場者が多く、4組タイムレース決勝だった。
 レースは静岡の時と同様、日立電線の松本くんが積極的に引っ張ったが、300mを 過ぎたところで肉離れを起こし、コースアウト。その後、オーストラリアの招待選手が 引っ張ったが、風が強いためまったく上がらず、集団で600mを通過し、残り150m くらいから集団がばらけ、自分は遅れていった。結果は1分53秒55の6位。総合は 14位。
 群馬リレーカニバルよりはタイムは上がっているが、目標の1分52秒には届かなかった。 これで春期サーキットはすべて終わってしまった。シーズンの始まりとしては、あまりにも 不安すぎる滑り出しだった。次は2週間後の東日本実業団。疲労抜きをしたほうが良さそうだ。
 ちなみに水戸国際の放送がテレビ東京で12日(日)早朝3時15分〜5時まで あるそうだが、自分が映ることはないだろう。

■2002年5月5日(日曜日)
 貴乃花が5場所ぶりに復帰するらしい。彼は昨年、場所中に半月板を損傷し、 歩けない状態で武蔵丸との1番にのぞみ、見事に優勝。小泉首相も「感動した」 と言ったように、国民を感動させたあと、ずっと表には出てこなかった。 フランスで手術を受け、1から稽古をしなおし、あきらめることなくやっと ここまでたどり着いた。この1年間は本当に辛かったと思う。相撲は15日間 集中しなければならないし、精神力は相当なものだろうが、横綱はその中でも 飛び抜けて精神力が強いのだろうと思う。

■2002年5月4日(土曜日)


埼玉県立近代美術館
 午前中に友達の家を出て、北浦和にある埼玉県立近代美術館へ行った。 近代美術館なので、また訳のわからないものが展示してあるのかと思ったが、 ルノアールやモネの絵が常設展示されていて、無料の割にはかなり楽しめた。
 その後、妻のおばあちゃんの家を訪れた。こちらのおばあちゃんも90歳を 越えているが元気で、やっぱり食事をしっかりしていた。時に物忘れをして しまうのがかわいらしいと思った。

■2002年5月3日(金曜日)


富士山
 静岡国際陸上に出場。朝7時過ぎに家を出て東京駅に着いたのが8時40分くらい。 8時46分発のひかりに乗ってみたが、連休の始まりなのであまりにも人が 多くて1本遅らせて乗ることにした。次の新幹線は9時13分発のこだま。10時半 までには着くだろうと思っていて、座ったまま寝てしまい、10時半頃に目が覚め、 たまたま駅に停車していたので、人をかき分けあわてて降りてみると、まだ三島。 とても恥ずかしい思いをした。結局、静岡へ11時前に着き、競技場へはアップを 始める時間ギリギリに到着した。
 今日のレースは1500m。組は2組あり、自分は速いほうの組に入っていた。 目標は3分50秒。流れに乗れば、行けるだろうと思っていた。しかしアップの時から ハムストリングスが痛くて動きが悪く、明らかに、昨日、一昨日の練習の疲れがあった。
 スタートして1周目は気持ちよく走っていたが2周目からはハムストリングスが 痛くて足が動かず、そのままゴールまでジョギングのような状態でしか走れなかった。 タイムは4分03秒43。組では最下位の16位。総合は24位。ちょっと想像できない 結果だった。今の自分にとって強度の高い練習を詰め込みすぎたことを反省した。
 レース後は、サッと片づけて友達の実家のある行田へ向かった。夜はそこで騒いで レースのことはすっかり忘れてしまった。

■2002年5月2日(木曜日)


自然乃湯
 午前中は体育学校で練習。メニューは600m。前半300mを42秒、後半300m はフリー。前半はついてゆけたが、後半200mは失速。タイム的には後半の方が 上がっているが、体が固まってしまい、感覚としては撃沈したような感じ。大学時代の ベストタイムのレベルまで戻ってきたので、悪いなりに進歩はしている。
 午後は、先週家の近くにできたばかりの銭湯へ行った。平日は700円。少し高いが、 ギリギリ我慢できる金額。回数券を買えば1回400円まで安くなる。20回以上分なので そんなに入るかといったら、考えてしまうため回数券は買わなかった。銭湯の中はいろいろな 湯があり、露天風呂やサウナも大きく、すべてがきれいだった。また行ってもいいかなぁと 思う。

■2002年5月1日(水曜日)


織田フィールド
 久しぶりに、五反田のプレシャスタイムへ行った。主に見てもらったのは足の裏。 自分では足底筋膜炎だと思って痛がっていたところ。初めのうちはいろいろ施術を してもらうが、まったく効かず、緩和もしないのではないかと思ったが、途中から 眠気におそわれ、なんとなく指示された動作をしていたら、施術の終わり頃には 痛みはかなり緩和していた。
 夜は2週間ぶりにアンビバレンスの練習会に参加。予定では300m×5だったが、 一緒に走る相手がいなかったので、結局短距離の300m+200m+100mを 2セットというメニューに変更。久しぶりのスピード練習で、8〜9割くらいの力で 走ったが、300mでは2回ともシーズンベスト。800mの1周目までは対応できる くらいのスピードを出すことが出来た。また久しぶりにケツ割れにもなって、充実した 練習だった。


[昔のいずみ]