最近のいずみ

Last Update:2003/3/31

パートタイムアスリートいずみ 3年目に突入!! 


■2003年3月31日(月曜日)


トレーニング中
   入間の勤務最後の日。今日も若い隊員の体力測定の向上トレーニングの指導をした。 走り幅跳びは、走り方、跳び方、着地の仕方を教えて、かなり向上した。今後も継続して トレーニングしてくれれば、いい結果が出るのではないかと思う。  夜は所沢スポーツケアセンターで加圧トレーニング。先週は、質の高い練習をしたので、 2週間前よりは加圧に耐えることができた。しかし先生からは、「前回よりは、 かなり良くなったけど、去年の夏の6割くらいの力だね。」と言われた。元に戻るには まだまだかかりそう。

■2003年3月30日(日曜日)


西武ドーム
   西武ドーム開幕第3戦、西武ライオンズ対日本ハムファイターズのゲームを見に行った。 1回から見ると疲れるので、西武ドーム近くの狭山湖を散歩して6回に入ってから ドームへ入った。
 自分たちがドームへ入ったときにちょうど西武が得点を入れていて、ゲームの勝敗を 決定づけていた。その後は、大きな動きもなく、終わってしまった。西武はこの3連戦で 2勝1敗。主砲のカブレラがいなくて、ちょっとさびしかったが、シーズンの初めとしては 悪くない勝敗なのではないかと思う。

■2003年3月29日(土曜日)
   体育学校で練習。メニューは400m+300m+200mを4セット。こんなに 本数の多い練習は今年になって初めて。ペースも1500mにあわせたペースなので 結構速い。
 2セット目までは設定タイム近くで走れたが3セット目の400mで痙攣し、 300mを危険し、200mで復活。最後のセットも何とかこなして、練習を終わった。 早稲田大学で練習していたときは意外と走れて驚いていたが、今日は思っていたよりも 走れず、また危機感を持った。

■2003年3月28日(金曜日)
   国産ロケット「H2A」の5号機の打ち上げが成功した。今回は偵察衛星を載せている ということで少しは注目されるのかなぁと思ったが、アメリカとイラクの戦争の話題が あまりにも大きく、影の薄い話題になってしまった。
 打ち上げ失敗から立ち直って5号機まで連続で打ち上げが成功し、信用も戻ってきた。 軍事的なものではなく、平和のために利用されるようになってほしいものだ。

■2003年3月27日(木曜日)
   昨日に続き、早稲田大学で練習。初めは1000m×5の予定だったが、走る学生が いなかったので、1500mの選手に混じって600m+300mを走った。昨日の スピードと同じで距離が長くなっている。
 学生は合宿に続いて練習を継続しているので疲れていて、600mも300mも 最後は自分が先頭を走っていた。今日も意外と走れて驚いた。

■2003年3月26日(水曜日)
   早稲田大学で早稲田のOB、現役学生と一緒に練習。メニューは400m+400m+ 200mを2セット。自分はこの1ヶ月くらい、怪我のためジョギング程度しかやって こなかったが、学生はすでに試合に出ていて、4月の初めにも6大学対抗などの対抗戦が あり、新しいシーズンが始まっている。そういう中でのこの練習なので、質も高く、 今の自分のレベルでは、ついてゆくのが難しいように思えた。しかし、走ってみると 意外についてゆけて、最後は、みんなを振りきってしまった。たまりバネというものか? レースペースまでは上がっていないけど、走っていない割には良く走れた。明日以降、 筋肉痛がきて動けなくなるのでは・・・と恐れている。

■2003年3月25日(火曜日)
   所沢スポーツケアセンターでマッサージを受けた。昨日の練習で全身疲労になり、 動くのが辛かった。昨日の練習は、質は高くなく、今までだったら、ジョギングに近い ものだったのに、それでもダメージが大きい。マッサージは、痛くて苦しんだ。 先生は、「明らかに練習不足だね」と言われた。確かにその通り。最近はジョッグが 多く、ペース走を1週間に1回やるくらい。シーズンインまでもう1ヶ月を切ってしまった。 スピード練習をもう少し入れていこう。

■2003年3月24日(月曜日)
   早稲田大学で練習。グラウンドに着いたのが夕方なので、アップをしているうちに 暗くなって、モチベーションも下がってきた。メニューは8000m。前回8000m を走ったときに、走れば走るほどペースが落ちて、練習にならなかったので、 今回は、少し抑えめのペースで最後まで走ることにした。
 6000mまではほぼ一定のペースで走っていたが、6000mを過ぎた時点で、 急に走れなくなった。呼吸が激しくなり、身体も固まってしまった。まだまだペースが 速かったみたい。

■2003年3月23日(日曜日)
   結婚1周年記念日。結婚1周年は紙婚式と言うとか・・・
 自分の実家からの土産を持って、妻の実家へ行った。家族で近くのイオンまで 買い物に行き、自分は妻の父とコーヒーを飲んで買い物が終わるのを待っていた。  話すことといえば、自分が自衛官なので戦争の話になる。戦争が始まって大変 だろうというとよく聞かれるが、自分たちが戦争に行っているわけではないので、 コメントを返すのが難しい。戦争はテレビで見るだけなので、職場での普段の仕事 に影響を与えるかといえば、自分たちのところではそれほど影響がない。別の 職場では影響があるのかもしれない。とにかく早く戦争が終わることを願う。

■2003年3月22日(土曜日)
   昼前には実家を出発し、所沢へ向かった。連休の中日なので、新幹線は それほど混むこともなく、座って帰ることができた。新幹線に乗るときは、 長旅になるので、いつも本を読むぞぉ!!という意気込みで入っていくが、 座ってしまうと、どうしても寝てしまう。しかもその睡眠が心地よいかと言えば そうでもなく、座ったままの姿勢が苦しく、降りるときには疲れている。 普通の電車ならば、熟睡してしまうこともあるのに、新幹線の中では全然できない。 なんでだろう?

■2003年3月21日(金曜日)


小牧城
   小牧にあるトレーニングジム「ゴールドフレックス」へ行った。昨年8月以来。 今回も身体調整のため。昨年、全日本実業団女子駅伝で第一生命が優勝したが、 先生は選手の身体調整をして、優勝に貢献したという話を聞いた。
 今回も、足を中心に見てもらった。この2ヶ月くらいじっとしていても 右足の薬指に痛みがあって困っていたが、指が引っ込んでいて長さが短くなって いたようだった。指の付け根辺りを触られ、痛みに耐えながら指を元の状態に 戻してもらった。

■2003年3月20日(木曜日)


中日新聞の号外
   火曜日に続き、また休暇を取って自分の実家に帰った。新幹線に乗っているときに、 列車内の字幕ニュースでアメリカのイラク攻撃が始まったことを知った。
 テレビでは、戦争反対を叫ぶデモのニュースばかりが映され、戦争を賛成するのは アメリカ人だけのように報道されているが、日本も国民はどうかしらないが、日本国と してはアメリカを支持するということになったよう。支持をして具体的に何をするのだろう? いまのところ具体的に何をするということを聞いていない。何かすることになれば、 我が社の出番なのだろうか?
 実家の岡崎に着いて、駅を出たところで号外を配っていた。中身は全部カラーで、 写真や図を用いて現状がわかるように書いてあった。どこまでが正しい情報なのだろうか?

■2003年3月19日(水曜日)
   職場の送別会があった。今の職場には2年5ヶ月在籍した。といっても、熊谷や 朝霞に行っている期間があるので、実際に職場にいたのは1年間。でもその1年間 だけでも自分の部下が亡くなったり、辞めていった人がいたり、いろんなことがあった。
 送別会はでは、できるだけたくさんの人と話そうと思い、ビール瓶片手にテーブルを 回ったが、時間までに回りきることができなかった。今日、初めて話したひともいた。 とにかく、多くの人に支えられて仕事をしてきたということを感じた。

■2003年3月18日(火曜日)
   溜まっている有給休暇を消化するために休暇を取った。練習は打撲や捻挫をして ほとんどがジョッグだったので、久しぶりにしっかりした練習がしたいと思い、 自衛隊体育学校へ行った。
 体育学校の練習はヒルトレーニング。ヒルというのは丘という意味で、公園にある ちょっとした丘を走って上がることを繰り返す練習。ペースがそれほど速くなかったので、 15本すべてついてゆけた。
 午後からは60分ジョッグ。体育学校内ではちょうど近代五種の試合をしていた。 ソウル国際大会への出場権をかけた大会だそうで、体育学校の選手が半分を占めていたので 応援した。平日に自分が体育学校にいるので、「なんでいるの?」と何人かに聞かれた。 もちろん「近代五種を応援するため休みをとって来た」と答えておいた。

■2003年3月17日(月曜日)
   5ヶ月ぶりに所沢スポーツケアセンターに行き、加圧トレーニングをした。 大腿部に巻くベルトの圧を以前よりはゆるめにしたのに、以前より簡単に 追い込めた。結局それだけ筋力が落ちていたということになる。先生からは、 「前は、こんなんでは死ななかったのにねぇ」と言われた。辛い一言だったが、 今回は現実がよくわかった。がんばり甲斐がありそう。

■2003年3月16日(日曜日)


艶の屋



やなぎや
   秩父のそばが食べたいという妻の声に答え、秩父へそばを食べに行った。秩父は 山奥だから相当時間がかかるのではないかと思っていたが、1時間ちょっとでつき、 東京に遊びに行くのと変わりはなかった。
 はじめに行ったそば屋は、通りを歩いていて何となく発見した店。名前は「艶の屋」 (つやのや)。入り口が狭く、入り口を入ると普通の民家に出た。そこから店の主人が 出てきて、掘りごたつのある普通の部屋へ案内された。本来は店のほうへ案内する ところを寒いから部屋で食べていったらどうかという主人の取りはからいだった。 別のお客が来たときには、また別のこたつのある部屋に案内していておもしろかった。
 そばは、つけそばで、こしがあり、手打ちっぽく麺がくっついて団子のようになっている ものもあり少々食べづらかった。妻はおいしいと言っていたが、自分はそう思えなかった。
 2件目は「やなぎや」というとことへ行った。ここはつゆにくるみを溶かしたくるみ汁 につけて食べるのが名物らしく、妻はくるみ汁のそばを注文し、自分は温かい天ぷらそばを 注文した。自分は温かいものが食べられて満足だったが、妻は艶の屋の方がおいしかったと 言っていた。同じそばでも人によっておいしいの感じ方が違うことがよくわかった。

■2003年3月15日(土曜日)
   久しぶりに早稲田大学に行って練習した。早稲田大学は春の休みに入り、グラウンド では競争部の学生が練習していて、少し入りづらい雰囲気があったが、知ってる学生が いたので、問題なくグラウンドで練習できた。
 メニューは8000mペース走。長い間まともに走っていなかったので、ペース設定 を守れたのは始めの1000mだけ。1000m以降は、ペースは落ちるばかり。
残り2000mで、競争部の長距離が練習を始めたため、後ろから追われる状態になり 必死に走り、抜かれたところで後ろについて頑張った。
 長距離の練習には、三井海上の小林雅幸くんも来ていて、久しぶりに間近で彼の走りを 見られた。また今年の箱根駅伝を欠場した早稲田のエース空山くんも故障から復帰して 練習していた。練習は3000m+2000m+1000mを3セット。先頭はばらける ことなく1000mを3分のペースで確実にこなしていた。来年は、箱根のシード権を 取り戻して欲しい。

■2003年3月14日(金曜日)
   昨日同様に体力検定向上訓練の指導をした。自分の職場は、24時間営業のため 大半がシフト勤務で不規則なため、この訓練に参加できる若い隊員も毎日違う。 そのため、昨日やったことを今日応用していくということはできず、毎日、同じように 1から教えなければならない。
 今日はハンドボール投げを中心にやった。みんなあと1歩という距離まではいくが、 それ以上が行かないので、投げ方をかえさせた。練習するうちに、これも距離が 伸びるかもしれないという希望が出てきた。しかし、みんな筋力がないためか、 ボールを投げる力強さが足りないように感じた。筋力をつけてゆけば、まだまだ 向上の余地があるので、指導のし甲斐がある。

■2003年3月13日(木曜日)
   今日から、完全な職場復帰。4月に異動が決まっているため、入間に出勤するのは 2週間ちょっと。そのため特に仕事がない。窓際族になった気分だったが、ちょうど 若い隊員の体力検定向上のための訓練が行われていたため、その指導をすることになり、 さっそく体育学校で学んできたこと活かせた。
 特に走り幅跳びは、適当に跳んで、記録が出ない人が多いので、助走、ジャンプ、 空中動作、着地の仕方を教えた。実際に動作をやってもらうと、走り幅跳びらしい雰囲気も 出てきて、ひょっとしたら記録が伸びるかもしれないと希望が、本人たちの中にも出てきた ようだった。

■2003年3月12日(水曜日)


卒業式後
   体育学校卒業の日。午前中に幹部体育専修課程の卒業式があり、先月の15km ロードレース歴代記録更新で表彰された。トロフィー、盾、タイピンセットをもらい、 予想外のお土産ができた。陸上競技をやっていてトロフィーや盾をもらうことは あまりないので、うれしい反面、予想もしていなかったものなので、荷物が増えて 持って帰るのが面倒だと思った。
 5ヶ月間一緒に生活してきたみんなとはこれでお別れで、それぞれ陸海空の 部隊に散っていった。仲間が急にいなくなってしまい、ちょっと寂しくなった。
 夕方には入間の職場に戻り、帰ってきました、と隊長に報告。なんか急に 現実に引き戻された気分になった。

■2003年3月11日(火曜日)
   明日が卒業で、授業はなく、やることと言えば今まで使ってきた施設や部屋の 掃除だけ。掃除も午前中にはすべて終わってしまい、午後もボーっとしていて、 これではいかんと思い、60分ジョッグ。
 夜になると、周りの人たちは、これで最後とばかりに、大半が飲みに出かけた。 自分は、午後にしっかりした練習ができなかったため、ウェイトトレーニング。 ここ2週間は、捻挫や打撲で、ほとんど走っていないため、脚力が落ちてきて いることを実感した。

■2003年3月10日(月曜日)
   お世話になった学校の職員を招いて謝恩会をした。ちょうど同じ時期に卒業する 格闘の学生と合同で行ったため参加者は100名を超えた大謝恩会になった。そのため 会場内はうるさく、ステージに立った人の話を聞く者は少なかった。話す側としては、 聞いてくれる人がいないとすごくむなしさが残る。
 1次会が終わったあとは格闘と分かれ、体育専攻の学生と教官で2次会をした。 こちらは、ずっと一緒にやってきた仲間なので、話をすれば、大半は聞いてくれた。
 教官と話した中で、自分の印象は、すばやい動きはすばらしいかったが、球技種目 ではボールをもらってからが鈍いと言われた。やっぱり陸上選手だなぁと思った。 球技で自分がやっていたものと言えば、軟式テニスだけ。ここ10年は走るだけだった。 だから横の動きに弱くなり捻挫をしやすくなったのかもしれない。

■2003年3月9日(日曜日)
   次の水曜日で体育学校を卒業するため、体育学校にある荷物を整理して家に持ち帰った。 体育学校では5ヶ月間生活したが、その割には、荷物は少なかった。家には、使っていない 大量の荷物が段ボールに入っているが、5ヶ月間は必要としなかったことから、 これらは、引っ越しの度に持ち歩き、開けることはないのかもしれない。特に、表彰され たときのトロフィー、賞状、メダル、盾などは、捨てるにも捨てられず、どんどん増えてゆく 感じがする。もらうときはうれしいが、その後は、荷物だなぁと最近は思ってしまう。 感動がなく冷めた人間になってきてしまったのか?

■2003年3月8日(土曜日)


森下夫妻と
   防大同期の結婚式で大阪まで出かけた。大阪の電車の流れがわからず、環状線に 乗ったつもりが、気がつくとユニバーサルスタジオに向かっていて、途中で引き返し、 迷いながらもなんとか披露宴会場にたどり着いた。
 披露宴は、思ったよりも人数が少なく、その中で自分が選ばれたのが不思議な感じだった。 新郎の希望で、同期や職場の人たちは自衛隊の制服だった。一人だけ航空自衛官だったので、 目立った。
 新郎の奥さんになる人は、アメリカの大学を出てパイロットの資格を持っているという すごい人。招待者にはアメリカ人も来ていて、インターナショナルな披露宴だった。

■2003年3月7日(金曜日)
   基礎体力測定があった。自分は、一昨日のサッカーの打撲でスネが腫れて痛みが あるので、できることだけやった。やった種目は、握力、上体起こし、長座体前屈。 そのほかに立ち幅跳び、反復横飛び、シャトルランがある。自分は、入校した頃の 結果と比べてあまり変化はなかったが、他の人たちは、基礎体力はかなり向上していた。
 この5ヶ月間は、新しい知識を得ることができ、人によっては基礎体力も向上し、 実のある5ヶ月間だったように思う。

■2003年3月6日(木曜日)


発表中
   自分がやってきた研究の発表会があった。先々週の日曜日には、1日中苦しめられた 課題。20分間で一通り説明し、5分間の質疑応答という内容。
 発表の原稿は作っていなくて、パワーポイントのスクリーンを見ながら、その場で 説明したため、途中で言葉に詰まるところもあったが、うまく20分で終えることができた。
 統計処理の説明をしたため、聴講者は難しく感じたのか、あまり質問がなかった。 統計処理については自分も完全に理解できているわけでもないので、その状態で 知らない人にもわかるように説明するのは、とても難しい。

■2003年3月5日(水曜日)
   サッカーの最終授業があった。昨日と同じく、前半は試験で後半は試合。
 前半の試験はは、トラップとパス動作、リフティング。リフティングは、試験の直前までは 最高8回、平均5回しかできず、30回という目標に遠く及ばなかった。しかし、 試験の時だけ、20回続いた。自分の中ではすごい進歩だった。周りでは200回を 超える人もいて、喜んでいる場合ではなかった。
 後半は昨日同様、教官チームを交えて試合。学生が審判をしたため、あまりファール を取れず、コンタクトプレーが多くなり、熱くなった。試合中、学生の一人がスライディングを し、足が本来とは違う方向を向いて倒れた。どう見ても骨折。そのまま救急車。医務室経由で、 自衛隊中央病院へ運ばれていった。腓骨(スネの辺り)骨折と脱臼で、来週には手術をするという 話だった。
 大きなけが人が出たところで試合を中止すれば、問題はなかったのに、試合はそのまま 続行され、教官対学生でもう1試合するということになった。学生は選抜チームで、自分も そこに呼ばれた。
 運の悪いことに、ゴール前でシュートを狙いボールを蹴ろうとしたときに、自分の スネとディフェンスの人のスネが見事にかち合った。弁慶の泣き所をやられ、痛みで 転がっているうちにスネが腫れだし、まずいと思い、すぐに医務室へ行った。レントゲンの 結果は骨に異常なしということでホッとしたが、当分歩くのも痛そう。
 自分が医務室へ行っているときに、別の学生は大きな捻挫をして、松葉杖をついていた。 とても危険な最終授業だった。傷害保険に入っておかないと、安心できない気がしてきた。

■2003年3月4日(火曜日)
   ハンドボールの最終授業があり、前半は試験、後半は試合があった。日増しに右手首が痛く なるため、ボールを握っていられなかった。そのため、試験でパスをもらってシュートする 動作もぎこちなく、不完全燃焼。
 後半の試合は、教官チームを含めて4チームの対戦。試合になると、手首の痛みは 忘れ、必死になって動いていた。特に教官チームには、負けたくないという気持ちが あったため、誰もが必死だった。教官チームも同じ気持ちなので、とても熱くなった。 そのため今回もコンタクトプレーが多くなり、また軽い捻挫をして、捻挫がひどくなった。 テーピングなしには動けなくなってきた。困ったぁ・・・

■2003年3月3日(月曜日)


森、和泉、松村、小出
   体育学校陸上班の送別会があった。今回は、6人の人が陸上班を卒業する。自分から やめていく人がいれば、結果が出ないということで無理矢理やめさせられる人もいる。 いろんな人がいるので、送別会も盛り上がるという感じではなく複雑だった。
 自分も無理矢理やめさせられたので、今回卒業していく人たちのやりきれない気持ちが よくわかる。どうしてもやりたかったと思っている人は、部隊に行ってからもなんとか 続けて、もうひと花咲かせ、体育学校の選手を負かせるくらいになって欲しい。

■2003年3月2日(日曜日)
   びわこ毎日マラソンをテレビで見た。前半からいいペースでほぼ3分/km ペース。体育学校の松村さんもいい位置で走り、途中で、解説の谷口さんに 紹介されていた。しかし27km地点から遅れ、その後はテレビに 映らなくなってしまった。
 後半は、バラバラと集団から人数が減ってゆき、残ったのは、外国人 2人と日本人2人。結局ケニアの選手が1位、スペインの選手が2位。 3位が中央大学の藤原選手。初マラソン日本記録、日本学生記録、世界 選手権代表権の3つを獲得した。4位になったNTT西日本の清水選手も 2時間8分台でゴールし、世界選手権代表に近づいた。
 藤原選手は初マラソンだったが、レース後のインタビューでは、世界 選手権代表を狙っていて、外国人選手2人に負けたが、世界選手権では、 勝負ができるようにトレーニングしたい、ととても堂々とした受答えを していた。目標は高く、初マラソンとは思えないレース内容だった。 世界選手権がとても楽しみになってきた。

■2003年3月1日(土曜日)
   米軍横田基地方面の瑞穂町にあるショッピングモールへ行った。この前 行ったカルフールと比べてとても大きく、ただ店内を全部歩くだけでかなりの 時間がかかった。面白いお店が何件もあり、昼ご飯を食べるのも忘れ、 ウインドウショッピングをしていた。
 気になった商品は、本屋にあったポテトチップス。大きさは普通の ポテトチップスと同じなのに、値段は450円。今までにこんなにおいしい ポテトチップスを食べたことがない、というようなキャッチコピー。 そんなに高いポテトチップスは食べたことがなく、そんなにおいしいもの なら、食べてみたかったので、買ってしまった。



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