最近のいずみ

Last Update:2004/12/31

パートタイムアスリートいずみ 5年目に突入!! 


■2004年12月31日(金曜日)
 体調がほぼ回復し、食事も普通にできるようになり、関東へ戻ることにした。 今日は昨日までと違い天気が悪く、かなり雨が降っていて、関東では、雪の予報。 小田原を越えたところから、急に外が真っ白な景色になり、横浜へ近づくにつれ 雪が強くなった。北国へ向かっているのでは?と勘違いしそうなほどの強さ。妻の 実家へ寄って、その後、自宅へ車で帰ろうと思っていたが、雪の積もり方を見て、 帰るのは無理だと思った。
 妻の実家へつく頃には、雪から雨にかわり、大きな道路では雪を気にすることなく 運転できそうな感じになってきた。
 4日ぶりに家族と再会したが、相変わらず、子供の目はとろ〜んとして、具合は 良さそうには見えなかった。3日前に、中耳炎で膿を除去する手術をしたのだから 仕方ない。まだ耳の聞こえが悪いのかもしれない。
 雨もほぼやんだので、車で家に帰った。首都高速が全線通行禁止だったので、都心は 渋滞しているのかと思い、覚悟して出かけたが、渋滞に出くわすことはなく帰れた。 家を1週間空けていたので、冷蔵庫の中が心配だったが、野菜が少し悪くなっている くらいだった。
 結婚して初めて迎える自宅での年越し。みんなの体調が悪くなり、あまりいい気分で 過ごすことのできない年末だった。 

■2004年12月30日(木曜日)
 朝は、ずっと寝っぱなしだったためか腰痛がひどく、汗が冷えた感じがして目が覚めた。 起きたときの具合は、熱は下がっていたが、頭痛が少し残っている感じ。昨日は 全くなかった食欲も少しは回復してきて、朝食から鍋焼きうどんを作ってもらい、食べて みたが、1人前の半分も食べられなかった。昨日は、リンゴを少し食べただけで、胃には ほとんど入れていないのだから仕方ない。昨日と比べればかなりの進歩。
 食後に薬を飲んで、また寝ようと思ったが、腰が痛いし、もう眠る気にもなれず、 こたつに入ってテレビを見て1日を過ごした。
 テレビでは、「紀宮様ご婚約内定」の番組が放送されていた。皇室の結婚というのは、 たくさんの人たちのお許しが必要で、自分たちで決められないというのが、もどかしく 思えた。また常に国民のことを考え、行動しなければならない、常に公というものが ついてくる大変さというものを感じた。  ご婚約内定発表と同じ時間帯に「奈良女児誘拐殺人犯逮捕」の臨時特番も放送された。 やっと事件に関係のある人が捕まった。複数犯の可能性もあるということで安心はできないが、 事件解決に一歩近づいた。
 頭痛は1日治らず、今日は関東に帰る予定だったが、延期。いつになったら帰れるのだろう?

■2004年12月29日(水曜日)
 午前中は母の車を借りて、小牧にあるゴールドフレックスへ行き、身体調整。 自分が小牧へ行くときには、必ず、小牧ジャンクションが渋滞になっている。 朝のテレビでは車の流れは順調だと言っていたが、高速に乗ってみると事故渋滞が 発生していた。結局小牧の手前にある春日井で降りて一般道で小牧まで行った。
 ゴールドフレックスへ向かう車の中で、なんとなく吐き気があり、なんだろう? と思いながら運転していたが、身体調整が終わり、帰りの車の中では、更にその感覚が 強くなった。家に近づけば近づくほど具合が悪くなり、なんとかこらえて家に帰ってきた。
 家に着いてそのまま床に仰向けになり吐き気がおさまるのを待ったが、1時間半くらい して、とうとう我慢できず吐いてしまった。昨日からの食べ物が全部詰まっている感じで、 かなりの量が出て驚いた。
 吐いてしまうと、気分は楽になり、スッキリしてしまった。走っていて吐くことはあっても 日常生活で吐くというのは、何年も経験していない不快なことだった。普通ではないので 近くの胃腸科の病院へ行き、点滴をした。その後、診察をしてもらい、「近くで小さい子が 同じような症状をしていませんでしたか?」と聞かれた。自分の子供が感染源だった。 子供が世話になっている妻の実家でも母と妹の2人が同じ症状で具合が悪くなっている。 診断はヴィールス性胃腸炎。インフルエンザよりも、この症状が流行りのようで、点滴を 受けに来る人が途切れることがなく、病院の看護婦さんも忙しそうだった。
 原因はわかり薬ももらったので、あとは、しっかり休養をとるだけ。食べたものを全部 吐いて胃には何も入っていない。元の状態に戻すには時間がかかるかもしれないが、早く 食べ物がおいしく食べられるようになりたい。

■2004年12月28日(火曜日)


祖母、叔母、母と
 岡崎へ着いたのは朝5時。首が痛くてしっかり眠れなかった。バスでの睡眠は、 体に悪い。4月にも夜行バスに乗って同じことを思ったはずだが、旅費を考えると これが一番安いのでやめられない。
 駅には父に迎えに来てもらい、家に着いた。父と朝食を食べ、父が出勤した 後9時過ぎまで寝た。その後祖母の家へ行き、近所を散歩したりお墓参りに行ったり した。子供の頃にあった建物はどんどんなくなり、当時は大きく見えた建物が とても小さく見えた。10年、20年と時が経つと町の雰囲気や印象も変わってしまう。
 祖母の家から帰る車の中で母と話していたときに、母と妹が「冬のソナタ」に はまっていたことを聞いた。はまったのは「冬のソナタ」が最初に放送された去年の 話で、彼女たちにしてみれば、今韓流といって騒いでいるけど、今頃何を言っているの? という感じらしい。妹が職場で同僚に今はまっているものを聞かれて「冬のソナタ」と 答えたときに、「何それ?」と聞かれたらしい。
 NHKではこの年末に、「冬のソナタ」の完全版が放送され、今までカットされてきた部分も 見られるというので、母は夜遅くまで見ているが、いつも眠くて最後まで見ずに寝ている らしい。今夜も放送があったので、母と一緒に見た。放送は元々の言語で日本語は字幕。 ハングルを勉強した甲斐あってか、聞き取れる場面もいくつかあり、字幕でそれを確認 でき、勉強にこのドラマが使えそうだった。このドラマでよく出てくる言葉は「ミアナダ」 という言葉。使われ方によって語尾は少し変わるが、ごめんとかすみませんと訳されていた。 1回の放送で、何度も聞き印象に残った。

■2004年12月27日(月曜日)


丸の内
(ミレナリオ終わってました)
 当直が終わった。午前2時から駐屯地の巡察があったため、連続で寝られたのは3時間くらい。 そのまま家に帰って寝ようかと思ったが、ひとっ走りしてから帰ることにして、60分ジョッグ。
 予定では、今日は家族で岡崎の実家へ帰ることにしていたが、自分が当直中に、子供が 吐いたり下痢になったり、ひきつけを起こして救急車で運ばれたりして具合が悪かったため 予定通りには行かなかった。妻と子供はクリスマスを妻の実家で過ごし、そのまま世話に なっていたので、いろいろと助けてもらうことができた。しかし子供の症状が妻の母と 妹にもうつってしまい、かなり悪いことをした。
 職場から家に帰り、すぐに妻の実家へ行った。子供は相変わらず、目がとろ〜んとして、 熱があるようで、全然自分にはかまわず、母親にベッタリだった。父親の顔を忘れてしまった のか?と思うくらい全然相手にしてくれず、ちょっと寂しい思いをした。肝心な時に、 いない父親だからかまってもらえなくても仕方ない。
 夕食を終えた後、家族はそのまま残し、一人で夜行バスに乗り岡崎へ帰った。

■2004年12月26日(日曜日)
 全国高校駅伝男子の急速なスピード化に驚いた。1区の上位はほとんどが ケニアからの留学生。その中で仙台育英の佐藤選手は健闘の第3位。彼の トラックでのベストタイムは、実業団のトップ選手とも引けを取らないもの。
 3区で区間新記録を出した仙台育英のワンジル選手は、初めの1000mが 2分33秒だった。日本記録を上回りそうな勢いでのスタート。その後も ずっとダッシュをしているのではないかという走りで驚きのタイムをたたき出した。
 3区以降は全て仙台育英の選手が区間賞を獲得。トータルのゴールタイムも 昨年出した大会記録を大きく上回る2時間01分32秒。自分の高校生の頃は、 2時間05分を切れば、優勝争いをしていたが、今回は入賞争いにしかならなかった。

■2004年12月25日(土曜日)
 「猟奇的な彼女」という韓国映画がテレビで放送されていた。つまらなそうな 映画だなぁと思いながらも、ボーっと見ていた。
 初めは思った通りつまらなく、主人公もさえないなぁと思っていたが、 話が進んでいくうちにだんだん引き込まれ、主人公の見え方が変わってきた。 最近ドラマなどのストーリーのある映像を見ることがなかったので、 はまり出すとはまってくる。「冬のソナタ」にはまったおばちゃんたちの 気持ちがわかりそうな気もした。
 印象に残ったセリフは「運命とは、努力した人間に訪れる偶然の架け橋」という感じの 言葉だった。努力しようがしまいが、自分の運命は変わらないと消極的な考え方を する人がいるかもしれないが、この言葉はとても前向きな雰囲気があり気に入った。

■2004年12月24日(金曜日)
 NHKBSで「イチロー4年間の軌跡」という番組をやっていた。スポーツを するということは、頭を使うことだと思った。
 イチローは常に多くのことを総合的に判断し、頭の中でイメージを作っている。 プレーがうまくいくときは、イメージと同じプレーをしている。
 他人が見てこのプレーは失敗だと思っても、本人はそう考えていない場合も ある。一番大事なのは本人の感覚。感覚が鈍っていなければ、結果が悪かったと しても全く気にしない。ヒットが全く出ない日が続いたとしても関係ないという。  前の年までは反応できなかった変化球に反応できるようになり、頭では 打てないと思っていても体が動いてしまう。そうなると、逆に結果には結び つかず、スランプと言われる時期が続いた。しかし、頭と体の感覚が一致してくると 自然と結果はついてきた。
 自分のミスで打てなかった場合には、ミスを直せば結果がよくなる可能性が 高いと言っていたが、それは当たり前のこと。しかし、普通の人にはミスを直す ということが難しい。彼はそれができるということで、毎年すばらしい成績を 残せるのだと思った。

■2004年12月23日(木曜日)
 レスリングの全日本選手権最終日がNHKで放送された。今日は、オリンピックの メダリストが出場する階級が多く、我が社の井上謙二も男子フリー60kg級に エントリーしていた。
 テレビでは決勝のみの放送だったが、期待通り井上は決勝まで進出し、日体大の3年生と 決勝を戦った。第1ピリオドで相手にリードされ、第2ピリオドは0対0の同点で、延長戦。 コイントスで、不利な状況からのクリンチで延長戦が始まり、終了1秒前にポイントを 取られ、勝負が決まった。オリンピックのような強さは見られず、元気がなかった。 初優勝を狙っていたが、残念な結果になってしまった。
 この大会からルールの変更があり、選手それぞれが初めてのルールでの試合。 オリンピック代表選手が敗れる階級が他にもあったが、圧倒的な強さを見せる代表選手も いた。オリンピックが終わりモチベーションが下がっている選手もいれば、維持できている 選手もいたということなのかもしれない。
 今日から月曜日の朝まで当直。家の大掃除ができず、クリスマスのパーティーもできない。 家族にはどこかで埋め合わせをしなければ・・・

■2004年12月22日(水曜日)
 アンビバレンス練習会に参加。練習は短距離でやらせてもらい、メニューは 500m+100m×5を3セット。全てジョギングでつなぐという短距離の 選手にとってはかなりきついメニューだった。
 最初の500mでくじけそうになり、息が上がり本当に3セットもできるのかなぁ、 と思うほどだったが、本数が増えるにつれ、呼吸も整い、8割くらいの力で、 気持ちよく走ることができた。
 短距離にとってはジョギングでつなぐ練習はもっともやりたくない練習。 大勢でやらなければ、途中で止めてしまうかもしれない。若手の選手も みんなでまとまって練習をしたために、きつそうな呼吸をしながらも 引っ張られ、全部メニューをこなしていた。良い傾向だ。

■2004年12月21日(火曜日)
 ひとりで4000mペース走。この1週間ほとんど走っていなかったので、 1kmが3分30秒くらいのペースで走ればいいと思ってスタートしたが、 実際はそれよりは少し速く、距離が進むに連れてビルドアップし、最期は 3分19秒まで上がった。ゴール前にまた、吐き気で気持ち悪くなり、 ゴール後は、吐いてしまった。以前はこんなにきついはずはなかったのに・・・ 無酸素的な能力だけでなく有酸素的な能力もかなり低下している。

■2004年12月20日(月曜日)


我が家の新しいプリンター
 昨日買ったプリンターのドライバーを家にあるノートパソコンに インストールしたが、パソコンがなかなかプリンターを認識してくれない。 パソコンを起動するたびにUSB2.0のドライバをインストールする 画面が出る。指示にそって「次へ」というボタンを押していくと、 結局必要なドライバがどこからも見つからず、「インストールできませんでした」 というコメントが出る・・・
 パソコンはウインドウズ95を98SEまでバージョンアップしたものだから、 これが原因かとも思ったが、適当にいじっているうちに、認識するようになり、 印刷ができた。
 これで、なんとか年賀状の印刷が間に合う。

■2004年12月19日(日曜日)


新旧のテレビ
(大きくなりました)
 1年くらい前からテレビの調子が悪く、突然画面が真っ黒になったり、電源が切れて しまったりしていた。最近は、妻がスイッチを入れるといつもつかないという状況が 続いて、自分がつけると8割くらいの確率でつくという、人を選ぶわけのわからない 機能が働くようになった。テレビがつかないというだけで毎日それが続くとストレスが たまってくるので、とうとうテレビを買うことにした。
 テレビを買うにあたってついでにハードディスクレコーダーやDVDの編集もできるものがほしいと 思い、思い切ってテレビの見られるパソコンを買うことにした。
 店で商品の説明を聞いてみると、一体型でパソコンを起動しなくてもすぐにテレビが付く 機能のあるものは1つしかないということで、選択肢はなく、それに決めた。またプリンターの 調子も悪かったので、こちらも考えようと思い商品の説明を聞いてみると、結局最上位 機種が欲しくなってしまった。ボーナスも出たことだし、今しか買える機会はないと思い、 両方買ってしまった。
 今までの液晶テレビはノートパソコンと同じ12型だったが、今回は17型。かなり 大きな画面になった。妻は大喜び。子供も指をなめた手でベタベタとさわり喜んでいた。

■2004年12月18日(土曜日)


智光山公園(散歩中)



サイボクハム(豚みてます)



やきとり横丁にて
 埼玉パークオリエンテーリングツアー2004川越OLC大会に参加。場所は 狭山市の智光山公園。今回は家族連れで行き、妻も2度目のオリエンテーリングに挑戦。 妻は子供を連れてのオリエンテーリングなので、初心者コースを散歩する感覚で スタートした。
 自分も2人がスタートした30分後にスタート。捻挫をするのがイヤで、今回は テーピングを巻き、さらに内反捻挫予防のサポーターでがっちりと締めて走った。
 智光山公園は、起伏が少なく基本的には道を走ればいいコース設定だったため かなり走れた。しかし捻挫予防をしっかりしすぎて中盤からは歩くだけでも足が 痛くなった。大きなミスは2カ所あり、一つは茂みの中で全くわからず、もう一つは 道間違い。全体としては悪くない感じでひょっとしたら1位になれるかも、と思っていたが、 現実はそれ程甘くなく、結果は2位。しかし、このツアー最高順位。確実に速くなっている。
 自分が競技をしてるときに、妻とすれ違う瞬間があり、まだ競技をしているんだなぁと 思って通り過ぎたが、ゴールしても、なかなか2人は帰ってこなかった。心配して電話すると、 まだ前半のコントロールで迷っているということだった。子供も寝てしまって、1時間 以上歩いて疲れて帰りたくなったけど、現在地がわからないらしかった。電話で連絡を取り合い、 自分が迎えに行き子供を預かり、妻は競技を続けた。妻が迷っていたコントロールは、 自分も茂みのなかでわからなかった場所。はっきり言って子供を連れて入れる場所では なかった。コントロールの設定場所について「子供連れて行けるわけけないじゃないのぉ!!」 とかなりお怒りのご様子。オリエンテーリングなのだから仕方ないが、初心者コースで 子供を連れてスタートしているのだから、役員の人が一言注意してくれればよかった。 結局妻のタイムは2時間14分台。マラソンを走っているようなもの。ご苦労様でした。
 競技後は公園近くのサイボクハムで食事し、放し飼いにされている豚を見て帰ってきた。
 夕方からは、2年前に体育学校で一緒に勉強した仲間と飲み会。集合をかけた幹事が 来ると言ってたのに姿を見せず、店の予約もなく、誰か来るかもわからないという 今までにない事態が発生し困ったが、集まった者だけで楽しく飲めた。

■2004年12月17日(金曜日)
 火曜日にやったウエイトトレーニングの筋肉痛をいまだに引きずり、 動くのが辛い。火曜日は上半身だけのトレーニングだったので、今日は 下半身をメインにトレーニング。下半身も上半身と同様、全体的に 前回までの重量が重く感じた。明日以降は、上半身と同じように筋肉痛に なるだろう。

■2004年12月16日(木曜日)


千本射中



高見盛と
 アーチェリーの選手たちが朝から千本射をやっているというので見学に行った。 千本射というのは、字のごとく千本矢を撃つこと。だいたい100本放つのに 1時間かかるというので、千本だと約10時間。この時間も慣れている者と 慣れない者との差は大きく、慣れていない若手は朝3時前から撃ち始めていた。 途中で、それぞれが食事や休憩を入れ、それぞれのペースで撃っていた。
 矢を放つ姿を見ていると簡単にやっているが、実際にアーチェリーを引かせて もらうと、引いた状態で止めることができず、ブルブルと手が動き安定しなかった。 手がふるえていては、当然的には当たらない。千本射の大変さがよくわかった。 初めてアーチェリーを触って安定するような人がいれば、すぐにアーチェリーを 勧めると監督は話していた。確かにその通りだ。
 午後は駐屯地の売店で高見盛のサイン会があると聞き、高見盛を見に行った。 サイン会場は、本当に売店の中で人が並ぶことを考えるとどう考えても狭い。 自分がサインの列に並んでいたら、妻と子供も来た。子供を抱っこしてもらい、 写真でも撮ってもらおうと思っていたら、売店の人のはからいで先に写真を 撮らせてもらえることになった。
 高見盛は思ったより大きくなくテレビで見たままの人に見えた。子供は抱っこ される前から固まり、いつ泣き出してもおかしくない状態だった。

■2004年12月15日(水曜日)


もちつき中



もちつき大会
 職場では年末恒例のもちつき大会。午前中は、ひたすら交替で餅をついた。 その後、お昼から1時間はついた餅などを食べながら会食。国会議員の招待者の 挨拶や余興があった。天気は曇り気味で、気温は低く室内でも寒かった。
 自分は会食が始まってから寒気を感じるようになり、会の後半は、首回りが イヤな感じになってきた。温かいそばもあったので、そばをすすったりして できるだけ体が温かくなるように頑張ってみたが改善されず、会食が終わり、 すぐに片付け。
 片づけが終わった後は、通常の勤務に戻り、そのまま帰ることができず、 午後はずっと我慢。
 解散後はすぐに家に帰り、そのまま就寝。一度夕食時に起きて食事をしたが、 その時も変化はなし。一晩しっかり寝るしかない。家族の風邪がうつったのだろうか?

■2004年12月14日(火曜日)
 韓国合宿に行っていたために11月から続けていたウエイトトレーニングを休んでいた ため、2週間ぶりに再開。
 休んでいた割にはデットリフトは以前上げていた重量が楽に感じられ、2週間前までの トレーニングの効果が出ているのかも、と思ったが、ベンチプレスは、逆に上がらなく なっていて、がっかりした。全体的には、2週間前より重量が重く感じられ、2週間 やらなかった結果が出ているように感じた。上がらなくなったのは仕方ない。また これからやり直せばいい。

■2004年12月13日(月曜日)
 12月も中旬になり、年賀状を書かなくてはならない時期になってきた。 毎年、ギリギリになって年賀状を作り出す。今年もそろそろ作らないまずいと思い 作り始めた。
 最近は、デジカメで撮った写真をそのままハガキに印刷ができるので、年賀状だけの 友達には、近況報告のできる年に1度の機会。今年は、子供中心の生活になったため 載せる写真も子供だらけ。いつもは1週間くらいかけて作るが、ソフトの使い方に 慣れてきたためか今年は、1日でできあがった。
 問題はプリンター。印刷しても、期待していたとおりに印刷されない。インクが 少なくなってきたためか縞模様が入って、全然きれいに見えない。インクのクリーニングを 何度も行い、印刷の質が少しよくなってきたなぁと思ったらインク切れ。4色のインクを 全て買うと1万円ちかくなる。もう一回インクを交換したら最新のプリンターが1台 買えてしまう。エプソンやキャノンというメジャーな会社のプリンターであれば、 すぐにインクも手にはいるが、ブラザーではすぐには手に入らない。しかもインクは高い。 なんでブラザーにしてしまったのだろう・・・と後悔。今年は、このままいくしかないが、 将来的には、別のプリンターを買うことを考えよう。

■2004年12月12日(日曜日)
 韓国合宿へ行っている間に、妻も子供も風邪を引き、妻は中耳炎になってしまった。 子供も今朝起きたときから機嫌が悪く、しきりに耳を触っていたので、おかしいと思い、 耳鼻科へ連れて行った。耳鼻科では、看護婦さんが、頸椎がずれてしまうのでは? と思うくらいの強烈な力で子供の頭を押さえつけ、子供は泣きながら診察を受けた。
 結果は軽い中耳炎。今飲ませている薬に加えて、更に炎症を抑える薬をもらうことになった。
 午後は、日体大長距離競技会の5000mに出場。年に1度の5000m。先週まで 合宿で、しっかりトレーニングしていたが、今週は、昨日までのJISSでの会議もあって、 3日間まったく走っていない。かなり不安な状態だったが、目標は15分切り。
 スタート直前に、スパイクを出してはこうとしたら、スパイクのピンがなんと土用( 三角錐のとがったピン)。なんでこんなピンがついてるの・・・出てくる言葉もない。 どうしよう・・・と思ったが、持っているのは底の厚い重たいアップシューズのみ。 仕方なく、このシューズで走ることに。
 スタートして1周目は71秒。ペースは理想的なペース。1000mは2分56秒台で通過し、 前から5,6番目に位置して走っていた。1000〜2000mまででペースが少し上がり、 だんだん辛くなり、少しずつ順位が落ちていき、2000m通過が5分59秒。まだ目標タイム は狙える状態だったが、ここから、手足が固まってきて呼吸も激しくなってきた。
 3000m通過が9分21秒。2000〜3000mまでは3分21秒もかかり、ペース走 状態。気が付けば、後ろから2番目の32位。3000mを通過した後は、最下位まで落ち、 これ以上ペースが上げられないので、やようかと思ったが、現実をしっかりと見極めるため、 完走することだけを目指した。
 3000〜4000mまでは3分29秒。もう歩いているようなもの。はっきりいって 止めた方がいい。見ている方も、見ていられないという感じかもしれない。残り2周に なったところで、1周速い先頭が近づいてきた。1周差にはなりたくないと思い、少しペース アップし、頑張ったが、残り450mくらいで1周差をつけられ、先頭は14分43秒台で ゴール。残り1周は、更にペースを上げたが、ゴールは31番目で16分03秒61。
 16分という思わぬ記録に、ショックを受け、かなり落ち込んだ。16分台が出るなんて 全く考えていなかったため受け入れられない気分。ここまで落ちなくても・・・という感じ。 もう陸上をやめた方がいいかもしれないとも思えてきた。脚は水膨れが大きくでき、 歩くのも痛い。肉体的にも精神的にも疲れた。
 スパイクを間違え、出かける前から集中力はなかったのかもしれない。合宿の疲れは、 ないと思っているだけで、実際はかなりあるのだと思うしかない。また明日から出直し。


■2004年12月11日(土曜日)


「ドイツのサポート体制」





「北島選手を中心とした
競泳サポート」
 会議2日目。午前中はドイツとロシアの研究者の講演。発表は英語。全然わからないので 同時通訳があり、イヤホンで日本語を聴いた。同時通訳は話の切れ間がなくとても聞き づらかった。翻訳している人の焦りや大変さが、にじみ出ていて、本当にご苦労様と思った。
 午後からはメインイベント「北島選手を中心とした競泳サポート」という特別シンポジウム。 「チーム北島」と呼ばれた、北島選手とそのスタッフが演台に登った。司会の浅見先生 (JISS長)が「チーム北島」ではなく、コーチの名前を取って「チーム平井」では ないかということから話が始まった。
 内容は、北島選手が中学生のころから始まりアテネオリンピックで優勝するまでの話。 その合間に、それぞれのトレーニングを担当した人の話や、同席していた中村礼子 選手が銅メダルを獲得するまでの過程が入ってきた。
 サポートする側の役割というものは、「コーチの決断をサポートする」ことだという。 つまり、決断の答えはコーチが元々持っていて、サポートとは、決断において選択肢があり、 困っていた時に、どちらの方がよりよいかをアドバイスする程度でしかない。 ということは、コーチはいつでも決断には具体的なイメージを持っていなければならない。 コーチとは大変な仕事だと改めて思った。
 JISSには60人の職員が在籍しているが、正規の職員が15人で残りの45人は契約職員 で構成されている。契約職員は、長くても3〜5年でいなくなるので、長期に選手を サポートすることを考えると、この契約職員の制度は継続的なサポートが成り立ち にくくなる制度だという意見があった。今回の「チーム平井」も来年の3月で スタッフがいなくなるため解散になるという。せっかくここまで来たのに、JISS でのサポートを継続するとなると、新しく入ってきた研究員とゼロから人間関係を 構築していかなければならない。なんとエネルギーのいることか、と思った。
 将来的にはJISSの隣に、ジュニア育成のためのナショナルトレーニングセンターや コーチ養成の機関を作る構想があるという。こういう施策をどんどん進め、日本が スポーツ先進国に近づくようになればいいと思う。

■2004年12月10日(金曜日)


JISSの駐車場(木の部分、
どうやって駐車するの?)




JISSは変わった建物です




村木先生講演中
 国立スポーツ科学センター(JISS)で行われた、第2回JISS国際スポーツ 科学会議2004に参加した。今回のテーマは、「アテネからトリノ、北京へ」。 2日間、アテネオリンピックへ参加した選手へのサポートをどのようにしてきたかと いうことが主に発表されることになっている。
 初めは基調講演があり、筑波大学の村木先生が「コーチングと科学的サポート」という 内容で講演された。内容が難しく、全然理解できなかった。来年からこの先生に 学ぶ可能性もあるので、今の知識ではまずいと思った。
 わかったことは2つあり、三段跳びはホップ・ステップ・ジャンプというが、 どの区間がそれに当たるかという認識が自分はとても古かったということ。今では 足が地面についたところで分けるのではなく、振り込む脚の動きによって区間を 分けている。自分にとっては新しい発見だった。
 もう1つは、全力発揮ということの難しさ。先生の言葉で言い換えれば 「体力と技術の相互性」。どんな場面でも、全力ではなく最大下の動きであれば、人は、 いろいろなことが制御可能でうまく動けるが、全力になると、他のことには注意が 向かなくなり、多くのことが制御できなくなる。
 陸上競技の投てきでは、全力発揮した瞬間失投になるという。アテネオリンピックの 陸上競技の結果では自己記録を達成できたのは3割しかいなかったというデータもある。 オリンピックだから頑張ろうと思い、全力でぶつかるとかえって自分の体を制御できなくなり 本来の力が発揮できないということ。なるほどと思った。何事も8割くらいの力で やるのがいい結果を出す秘訣なのかもしれない。
 基調講演の後は、オリンピックでのJISSのサポートについて、いくつかの競技団体 の発表があった。「VICONを利用したスキル向上へのサポート」という発表を最も 注目してした。発表者の中に自分と同じ学年の土江選手(富士通)がいた。彼は、 JISSの器材でフォームチェックをしたことをきっかけにフォームの改善に取り組み、 30歳になった今年、100mで自己ベストを出し、アテネオリンピックへ出場した。 100mは、とても単純な競技に見えるが、このフォームの改善についての話を聞いて、 思っていた以上に奥が深いことを認識した。

■2004年12月9日(木曜日)
 子供の運動能力の成長は著しい。先月末は、やっと歩けるようになったばかりで、 進むのは少しずつだったのに、10日くらいで、かなりのスピードで歩けるようになった。 もう走り出してしまいそうな勢い。歩きは、重心を前に崩しながら、倒れないように 進むという感じで、人間の一番自然な歩き方なのかもしれない。
 進歩することがあれば、なかなか進歩しないこともある。子供にとっては、毎日の歯磨きが イヤでたまらないらしい。歯ブラシで歯を磨こうとすると、嫌がり、歯ブラシを渡すと、 歯ブラシの毛を噛んでむしってしまう。歯ブラシでは歯磨きができないので、結局 親がガーゼを無理矢理口の中に入れて歯をこすることになる。それに必死に抵抗し、 よく指を噛まれる。「歯磨きシュッシュッ」と言うと、歯磨きをする動作を嬉しそうにするのに、 実際に始めようとすると、顔を背けてしまう。機嫌の悪いときにすると、夜はなかなか 寝てくれなくなるので、できるだけおだてて始める。毎日が戦い。いつまで続くのだろう・・・

■2004年12月8日(水曜日)
 アンビバレンス練習会に参加。メニューは300m+200m+100mを5セット。 短距離にしてはめずらしく、全てをジョッグでつなぐ有酸素的な要素を取り入れたメニュー。 前半は15人くらいの大人数で走っていたが、後半は、半分くらいに減っていた。 短距離選手にとっては、つなぎのジョッグがきついようだ。自分は、普段のジョッグよりも 遅いため、ジョッグをしているうちに回復し、呼吸も元に戻った。1本1本、ほぼ同じ力で 走れ、久しぶりに気持ちよく走れた。
 韓国合宿の直後なので、疲れが出て走れないかと思ったが、疲れはほとんどなく、 合宿でやった練習のきつさを味わっている分、今日は楽に走れた。

■2004年12月7日(火曜日)
 「明日は、日本が大東亜戦争に突入した日だ」という話をした人が職場にいた。 その話を聞いて、真珠湾に攻撃を開始した日かぁ、と自分は思った。
 最近、歴史に関わることがなくなった。高校時代は、地理を専攻し、歴史は やらなかった。まともに勉強したのは中学くらい。大学では、大学の特異的な 授業で防衛学を履修したため、いくらか戦史をやった覚えがある。はっきり 言ってそれくらい。日本の歴史をしっかりと認識していない気がする。
 今日の読売新聞のコラムには、ある大学の先生が学生に「真珠湾はどこに ありますか?」という質問をしたところ、「三重県」という回答が帰ってきて 驚いたという内容が書いてあった。そのくらい、この国では、歴史というものが 軽視されてきているのかなぁと思った。昔の日本人が行ってきたことが土台となって 今がある。そう思うと、先祖を大事にするには、歴史を学ぶ必要があるなぁと思った。

■2004年12月6日(月曜日)
 11月30日から12月6日までは 韓国合宿日記をご覧下さい。



[昔のいずみ]