最近のいずみ

Last Update:2004/4/30

パートタイムアスリートいずみ 4年目に突入!! 


■2004年4月30日(金曜日)


お座り姿勢
 デジタルビデオカメラを購入した。子供が産まれたときから、欲しいと思っていたが、 やっと決断できた。今までいろいろな人から、ビデオで子供の成長を撮っておいた方が いいよと言われていたが、簡単に買えるような値段でもないのでずっと ためらっていた。そしてめらっているうちに半年が経ってしまった。
 機種は、買う前から決めていたので、値段だけが問題だった。インターネット通販の 値段と大型量販店の値段を比べると通販の方が断然安かった。量販店の方は、 20%近くのポイントが付くが、それでも1万円ほど通販のほうが安い。決め手は、 保証。通常メーカー保証は1年だが、量販店では500円ほど余分に払えば、 5年間の保証が付いていた。以前、デジタルカメラが壊れたときに新品に替えて もらったことがあったので、この保証が魅力で少し値段の高い量販店で決断した。
 これでやっと映像が撮れる。次は、この映像を保存するためのDVDレコーダーが 欲しくなってきた。次はDVDレコーダーを目指し、お金を貯めよう。

■2004年4月29日(木曜日)
 日体大記録会に出場。体育学校の選手のペースメーカーとして600mまで 走った。月曜日に急に依頼があって、兵庫リレーカーニバル以来、走っていないので、 不安はあったが、まだ自分を当てにしてくれていることがうれしく、頑張った。
 天気はよかったが風が強く、ペースをつかむには難しかったが、最初の200mが 追い風だったので、意外と走りやすかった。200m通過は25秒0。400mは 向かい風の影響もあり、53秒0になり、設定タイムで通過できた。500mを越えた ころから、身体は動かなくなり失速し、550mで2番手に抜かれ、役目を終えた。 先頭は600mを1分21秒で通過し、ゴールは1分50秒58。
 残念なことに、1位は日大の学生。2位が体育学校の選手だった。体育学校は3人 走っていたが、タイムはあまりよくなかった。トップの学生は、自己ベストで、 今シーズン学生のトップタイムを出した。
 自己ベストを出す選手が出て、ペースを作った甲斐はあったが、主役になるはずだった 体育学校の選手が先頭ではなかったので、なんといっていいのやら・・・

■2004年4月28日(水曜日)
 筋力測定器材の勉強を兼ねて、選手の筋力測定をした。選手が来るまでに、 器材の設定をし、試しに自分が被験者になり、動かしてみた。体幹(腹筋や背筋) の測定は初めてで、力の入れ具合がしっかりとわかっていなかったため、 勢いよく身体を反らせすぎ、背中側を痛めてしまった。ぎっくり腰をやったときほど ではないが、運動に少し支障がありそうな痛さはあった。シーズンが始まり、 レースが続くこの時期に、まずいことしたなぁ・・・と後悔。

■2004年4月27日(火曜日)
 久しぶりに朝霞のスポーツマッサージの治療院へ行った。左足は足底筋膜炎で 朝起きると痛みがあり、右足は2月に捻挫してまだ痛みが残り、身体の背面は 全部が張っている状態。兵庫リレーカーニバルの時に、このままではまずいと思い、 治療院へ行くことにした。
 治療院では、マッサージ、超音波、針など、いろいろな方法をちりばめてもらい、 1時間のところを1時間半近く時間をかけてもらった。しかし時間は足りず、 上半身までは施術はできなかった。
 治療後は、脚が入店前よりも軽くなった。試合が続くので、この感覚もすぐに なくなるだろうが、時間を見つけて治療を入れた方がいいと思った。

■2004年4月26日(月曜日)


東大寺



鹿を見つめる子供



おばあちゃんと
 子供が昨夜寝てから1度も起きなかったためゆっくり眠れ、妻も自分も 目覚めがよかったので、散歩に出かけることにした。
 旅館の目の前が猿沢の池。隣には興福寺という環境。少し歩けば東大寺だったので、 東大寺方面まで行ってみた。東大寺まで行くと、正倉院や、二月堂、 三月堂など、次から次へと行動範囲を広げてしまった。最後に行ったのは、 春日大社。藤がきれいで、望遠レンズの付いたカメラで撮影をしているカメラマンが たくさんいたのが印象的だった。
 ホテルに戻ると、チェックアウトの時間。無理矢理荷物をバッグに詰めて、 チェックアウトした。
 チェックアウト後は、奈良の繁華街をブラブラして、昼食後、大阪の富田林へ 向かった。富田林には妻の曾祖母がいる。90歳を越えるおばあちゃん。2年前に 兵庫リレーカーニバルの後に寄ったことがある。なかなか関西へ行く機会がないので、 今回も同じようにして子供を見せに行こうということになった。
 奈良から富田林までは1時間もかからなかったが、富田林から出ているバスが 1時間に1本しかなく、30分ほど待った。
 おばあちゃんには2年ぶりに会ったが、全く変わっていなかった。具合が悪い 時期があったようだが、そういう雰囲気はなく元気そうで安心した。おばあちゃんに 会って、子供が何度もニコッとしておばあちゃんを喜ばせた。本当に連れてきてよかった。 新幹線の時間がだいたい決まっていたため、1時間半ほどしか滞在できず、別れ際は 名残惜しかった。

■2004年4月25日(日曜日)


1周目通過



ゴール前
 兵庫リレーカーニバルに出場。今回は6組タイムレース決勝。自分は3組目。 組では自分がトップタイムを持っているので、自分が引っ張ることになると 思ってスタートしたが、昨日の調整と同様、あまり進まず、学生が先頭を引っ張って くれ、自分は3番手で走っていた。1周目は56秒台で通過し、残り300m から学生がスパートした。2番手以降はそのスピードについて行けず、 集団のまま順位も変わらずゴールに入った。タイムは1分56秒28。タイムは 高校時代よりも悪い。しかし内容としては、最後まで集団の中で我慢でき、昨日の 調整からすると意外と走れたという感覚だった。総合は36人中29位。よくない。
 野村さんは2分くらいかかると予測していたようで、意外と走れたんじゃないか、と 驚いていた。
 レースが終わった後は、奈良へ戻り、野村家から興福寺近くの飛鳥荘という 旅館へ移った。ならまちへ来たのは8年ぶりだったが、商店街などはあまり 変化がなく懐かしかった。

■2004年4月24日(土曜日)


実家の五月人形



野村さんと
 朝8時半頃には家族を連れて岡崎を出発し、奈良へ向かった。奈良には昼頃に着き、 昼食を食べた後、鴻池陸上競技場へ行った。競技場では、小学生の陸上クラブの練習会が あり、その練習会に入れてもらってレースの最終調整した。今日は、関西外語大の学生が、 一緒に走りたいということで最終調整に付き合ってくれた。
 メニューは300m+200m。風が強かったので、なかなか進まなかったが、 それ以前に身体が重く、風がなくても進まないイメージで、試合の前日としては、 かなり悪いイメージだった。
 宿泊は、奈良にいた頃に世話になった野村家へ泊めてもらった。自分を息子のように かわいがってくれているので、子供も孫のようにかわいがってくれた。
 野村さんに身体の状態を見てもらったが、どこを触られても痛みがあった。 身体の裏側はどこもパンパンに張っていて、本当に明日走るのか?と言われるほどだった。 そうとうひどいらしい。自分では全く自覚がなかった。ただうまく調整走が走れなかった だけだと思っていた。

■2004年4月23日(金曜日)
 仕事が終わってすぐに実家へ帰った。といっても実家までの道のりは約4時間。 6時頃に出発しても家に着くのは10時頃。子供が一緒にいないので、乗り継ぎで 走れて、予定よりも一本早く列車に乗れたりして、行動しやすかった。
 東京駅では、ひかりに乗り、自由席が空いていなかったため立つしかなかったが、 三島でこだまに乗り換えてからは、自由席の空きも多く座ることができた。その後、 新幹線の中ではずっと寝ていて、あっという間に豊橋に着いてしまった。
 実家へ着いたのは10時頃。妻と子供は1週間実家にいたので、1週間ぶりに 会えると思っていたが、子供はすでに寝ていて、がっかりした。

■2004年4月22日(木曜日)
 大学を出て即戦力として自衛隊の教育を受けず直接体育学校へ入ってきた選手たちの 教育を担当した。教育内容は運動生理学。与えられた時間は3時間。細かいことを 話すと3時間は短いし、大まかなことを話すと時間が余るので、大まかなことを 話し、残った時間で、栄養とアイシングについて話した。
 授業を受ける側は、しっかり聞こうという姿勢はあるが、座っているとどうしても 眠くなるので、眠そうな人が出るたびに、きりのいいところで話を中断し、雑談をした。 雑談になると不思議と目が覚めてくる。自分が選手をしていたときの話は、結構 興味を持って聞いてくれた。
 栄養の話では、ペットボトルや缶の清涼飲料水は、1割は砂糖だという話をした。 選手の一人は、毎日缶コーヒーを飲んでいるということで、200mlのコーヒーで たとえ話をした。200mlのコーヒーにはおよそ20gの砂糖が入っている ことになり、3gのスティックシュガーが6〜7本分ということになる。それを聞いて、 この選手は、かなりのショックを受けていた。トレーニングをしてもなかなか痩せないと 思っていたようだが、痩せない理由の一つに缶コーヒーが関係していることがわかった ようだ。
 それぞれの選手に、それぞれ知らなかった知識が入ったようで教育した甲斐があった。

■2004年4月21日(水曜日)
 アンビバレンス練習会。メニューは250m×3と300mタイムトライアル。 250mは気持ちよく走れたが、300mは全力で走れなかった。脚に疲労がきていて、 気持ちも乗らず、ただ走っているだけという感じだった。自分を全力で走るように 追い込めないというのは、試合前なので、あまりよくない。体や気持ちが疲れすぎなのか? 練習不足なのか?原因はどっちも当てはまりそうだが、あまり深刻にならないことが 一番の解決法かなぁ。まぁ適当に(about? just?)。

■2004年4月20日(火曜日)
 水泳の日本選手権が始まった。我が社でも7人の選手がアテネオリンピックを目指し、 参加している。初日は、400m個人メドレーに期待がかかったが、我が社の谷口くんは、 残念ながら4位。トップの三木選手は日本新記録。3位の選手までがオリンピック 標準を突破し、1位と2位の選手がオリンピック出場権を得た。
 100m平泳ぎでは北島選手が圧倒的な差をつけて決勝へ進出した。我が社の仲下くんは 準決勝で5位となり、決勝進出はならなかった。
 強い選手は、スタートで飛び込んだところからリードしている。スタートで差がつくと 泳ぎで挽回していくのは難しい。
   水泳や陸上は1つの種目が悪くても別の種目で再挑戦できる。明日以降、次の種目で オリンピック出場権を獲得してほしい。

■2004年4月19日(月曜日)
 北京で日本のセブンイレブンができたというニュースを見た。北京では第1号店。 おにぎりは飯団子という名前だった。漢字にするとなるほどぉ〜と思う。
 開店日は、夕方を過ぎても入場制限ができるほど人が並んでいた。北京では、 24時間のコンビニ(あちらの言葉で便利店)が少ないため、かなり流行りそうな 感じだった。
 上海ではローソンが160店も出店していて、成功を収めているが、北京では 今までなかったらしい。日本的なやり方で、どうやって北京に通用させるかが勝負所。 中国独自の商品も出てくると、地域に根付いた店になり、うまくいくんじゃないかと思った。

■2004年4月18日(日曜日)
 第22回京葉オリエンテーリング蓮沼公園大会に参加。昨日23時30分に岡崎から 夜行バスに乗り、東京駅には5時40分に着いた。1時間ほど東京駅近辺で朝食をしながら ブラブラし、電車に乗って千葉経由で成東へ向かった。成東からはシャトルバスに乗り 蓮沼海浜公園へ行った。バスで酔い、気分が悪く競技をするという気分ではなかったが、 競技をするためわざわざ岡崎から来たのだから、競技を止めるわけには行かなかった。
 公園の周りは、畑か田んぼばかりで、千葉らしい風景だった。しかし公園内は、ほとんどが 森で、オリエンテーリングをするためにあるような施設だった。
 今回は、M21Sというクラスにエントリーした。つまり男子21歳以上のスプリント(短い距離) というクラス。スタートは、だいたい1分おきで、いろいろなクラスが同時にスタートする。 スタート直後は、すずらんテープで地図上のスタート地点まで連れて行ってくれるので、 テープに沿って良いペースで走れた。今回は地図と現地がうまく整地でき、調子がよかった。 しかし、あらかじめわかっているコントロール番号と実際に発見したコントロール番号が 合わず、悩んだ。何度も行ったり来たりして、地図と現在地を合わせ、間違いがないのに、 番号が違い、そのポイントを通過することができなかった。30分ほど悩んだ結果、 女子のクラスW21Sという地図を持っていることがわかった。
 あわててスタート地点へ戻り、係りの人に地図をもらいスタートし直したが、また、 実際にあるコントロールの番号と、あらかじめ示されていたコントロール番号が違い、 よく見るとM21クラスの地図だった。やられたぁ!!と腹がたったが、スタートに戻って、 地図をもらわないと競技が続けられないので、また一生懸命戻った。2回目の再スタートの 時点ですでに45分もロスしていた。優勝設定タイムは30分。すでに最下位が確定という 感じだった。
 2回目のスタートでもう棄権しようかとも思ったが、自分の技術を磨くためにも、全力で やってみようと思い、ひたすら走った。正しい地図は、自分の思ったとおりにコントロールが あり、ほぼ自分の思ったように進めた。思い通りに行くというのは気持ちよく、楽しい。
 競技の後半では、エリートクラス(一番上のクラス)の人たちと、コントロールが重なっていた。 走力では自分が上なので、コントロールをうまく見つけられさえすれば、かなり良い勝負が できることを感じた。
 最後はエリートクラスの選手とスパート勝負をしながらゴールし、1時間15分14秒で ゴール。ロスの45分を引けば、優勝設定タイムになり、優勝も可能な走りだった。
 地図を2度も間違えるなんて想像もしなかったが、確認しなかった自分が悪い。あきらめず、 競技を再開したことによって、エリートクラスの選手と一緒に走ることができ、地図と現在地の 整地も学ぶことができた。結果は13位で最下位だったが、実のある大会だった。
 優勝した選手は34分38秒だったので、優勝できたのではないかと思うと悔しかった。

■2004年4月17日(土曜日)


新郎新婦



妹たちと



園児に囲まれる新郎新婦
 妹の結婚式に出席した。午前中に教会で結婚式があり、親類として、初めて 一番前の席で結婚式を見た。この式場は、カメラが使用禁止になっていて、 写真を撮ることができないのに、会場に備え付けのカメラは作動し、 パシパシと写真を撮っていたのが腹立たしかった。写真を撮ることができない ので、妹はあらかじめ写真屋に頼んで写真を撮ったらしい。なんかもったいない。  披露宴の招待者は50人ほどで、披露宴会場は招待者の人数の割には、 かなり広々としていた。
 ケーキカットして、お色直しを2回、次にキャンドルサービス、新婦の両親への 手紙というような流れで、途中に余興が何組か入った。余興は、かなりの大音響で 耳がおかしくなりそうだった。その中で、うちの子供は、披露宴開始直後に、 離乳食に少し口をつけただけで、そのままコテッと眠りに入り、披露宴が終わるまで、 ずっと寝ていた。よくこの大音響の中で眠れるなぁと誰もが不思議がった。
 妹は、幼稚園の保母だったため、披露宴の中盤には、20人くらいの園児と その両親が余興でやってきた。一生懸命歌を歌う園児には、なかなか泣けてきた。 子供は、ややこしいしがらみがなさそうで、純粋だなぁと思った。本当のところは わからないが・・・
 手紙の朗読は、両親も涙をこらえながら聞いていて、感動的だった。話せば 口げんかになるような感じで、いろいろ迷惑をかけていたが、これで帳消しに なったかなぁと思う。しかし、今後の実家との関わり合い方次第だが。
 披露宴が終わった後も、園児が次から次へと駆け寄ってきて1時間近く写真撮影を していた。ほとんど芸能人。自分たちにもこんな時があったんだなぁと 懐かしく思った。

■2004年4月16日(金曜日)


新幹線の座席でくつろぐ息子
 妹の結婚式があるので、休みを取って、実家へ帰った。正月休みは、車で帰省したが、 長時間のドライブは疲れるので、今回は新幹線にした。自分が運転しないので列車の方が 楽と言えば楽だが、荷物の持ち運びや、子供のベビーカー、子供が泣き出すことを考えると どちらも同じようなものだった。
 東京から新幹線に乗ると、始発なのでだいたい座ることができる。品川に新幹線の駅が できたが、品川から乗ると、自由席には座る場所がほとんどない。値段を考えると品川の 方が若干安いのだろうが、座れる方がいい。
 子供は泣くこともなく寝ることもなく、ずっとご機嫌だった。明日も泣かずに披露宴に 出てくれるといいなぁ〜。

■2004年4月15日(木曜日)
 イラクで拉致された日本人3人が解放された。今回の事件は、自衛隊撤退 要求や実現しなかった24時間以内の解放など、現地のテレビ放送に振り 回されていた。3人がとにかく無事でよかった。
 たった3人の行動が、世界中を動かし、国の政策にまで影響を及ぼしかねない のだから、国外へ出て行動することの自覚や責任というものは、計り知れないものが ある。観光旅行であっても、同じようにしっかりと自覚ある行動をとらなければ ならない。国外へ出れば、日本人として見られ、日本人の代表となるのだから。
 日本人は無事に解放されたが、同じように軍の撤退要求のあったイタリアは、 拉致されていたイタリア人が殺害された。この事件を日本も深刻に受け止めなければ ならない。日本人は無事だった、よかったでは片づけられない。これを機にさらに 危機管理がうまくいくようなシステムを構築する必要があると思う。

■2004年4月14日(水曜日)
 久しぶりに本格的な雨になり、アンビバレンス練習会には行かなかった。 ここ1週間くらい、左足が足底筋膜炎になってきて、朝起きると足裏の踵付近が痛い。 1日中痛く、辛いときは足を冷やし、痛みが引いてきたら温めて、というような 中途半端な処置をしている。前に右足で同じ症状になったときは、回復まで1年近く かかった。そのときは何も処置をせず、一時期歩くのも辛くなったことがあった。 それと比べれば、まだ軽い方。毎日寝不足なのと雨という理由で運動する気分になれず、 練習しなかったが、少し休んで足の具合をよくしなさいということなのかもしれない。

■2004年4月13日(火曜日)


フリー優秀選手(井上謙二)



プレーオフ(安原 VS 豊田)



プレーオフ(伊調 VS 坂本)

 全日本選抜レスリング2日目。今日は各階級の3位決定戦と決勝戦が行われた。 体育学校は14階級中6階級で決勝に進出していた。我が社の注目はオリンピック 国別代表枠を獲得してきたフリースタイル60kg級井上謙二くん。予選では 緊張のためか、あまりいい動きではなかったが、決勝では、自信あふれた堂々とした プレーで、見事優勝し、アテネオリンピック代表に決まった。
 体育学校内でもっとも盛りあがったのは、グレコローマンスタイル55kg級安原隆くん。 国別代表枠は別の選手が取ってきたが、この大会で優勝し、代表枠を取ってきた選手 にプレーオフで勝てば、オリンピック代表になれる可能性があった。決勝は、国別代表枠 を取ってきた選手との決勝だった。見た感じでは相手の方が強い印象を受けたが、何とか 戦い、少ないチャンスからポイントを取り、判定で優勝した。しかし大会終了後のプレー オフでは、力の差が出て、判定負け。惜しくも代表権を逃してしまった。
 男子のプレーオフ後、女子のプレーオフもあった。マスコミの注目は、 このプレーオフで、女子48s級の代表決定戦。対戦したのは、伊調千春と 坂本真貴子。2人とも中京女子大の選手で、セコンドには、それぞれの姉妹がついていた。 伊調の妹はアテネの代表に決まっていて、坂本の姉は元世界チャンピオン。
 試合は、あまり盛りあがる場面もなく、ちょっとしたチャンスをものにした伊調が 勝ち、代表権を獲得した。
 女子の方がメダル獲得の可能性が高く、注目されるが、男子の方も注目したい。

■2004年4月12日(月曜日)


大井 VS 永田

 全日本選抜レスリングの応援に行った。この大会はアテネオリンピックの最終代表選考会 で、国別の枠を獲得している階級は、代表権争いがあるため注目が集まった。
 今日は、1回戦と、準決勝。オリンピックの枠を取ってきた選手は、力の差を見せつけて テクニカルフォール勝ちをしたり、大差の判定勝ちをしていた。しかしその他の選手は あまり力の差はなく力が拮抗していた。国内で力の差を見せつけるくらいでないと オリンピックに出るのは難しいし、出場できても上位にはいるのも難しいのではないか と思った。
 特にマスコミの注目が集まったのは、グレコローマンスタイル74kg級の永田克彦選手 (新日本プロレス職員)。シドニーオリンピックの銀メダリスト。1回戦では体育学校の 大井くんと戦ったが、圧倒的な強さだった。
 レスリングは、バランスを崩されてからどう対処するかが大事なように見えた。不利な 状況になっても一瞬でチャンスになる場合がある。常に攻める気持ちを持たないと、 不利な状況からのチャンスはない。走っていて体幹が大事だなぁと思っていたが、レスリングも 同じだった。
 試合を見ていて、どちらがポイントを取ったかわからなくなることが多くあった。 審判の判断は正確だろうが、応援している側が不利なジャッジをされると、ムッとくる。
 力のある選手が相手を完全に持ち上げてぶん投げると気分がいい。普段はそんな風に 思うことはないが、人間というのは、潜在的に暴力的な面を持っているのかもしれない。

■2004年4月11日(日曜日)
 たまたまテレビをつけたら、マラソンの中継をやっていた。マラソンランナーの 谷川真理さんがインタービューしながら、市民ランナーと走っている映像だった。 変わった放送だなぁと思いながらしばらく見て、長野マラソンの中継だとわかった。
 普通マラソンの中継は、映像が先頭集団ばかりで、優勝が決まってしまうと 優勝者のインタビューがあって、そのまま放送終了になるのだが、この中継は 変わっていた。谷川真理さんが走りながらインタビューしていたり、給水所を ずっと映してみたり、たくさんの市民ランナーを映すことで、競技と言うよりも、 お祭りみたいな映像になっていた。通常トップランナーの出るレースは、 標準記録を突破した者しか出られないが、この大会は、オリンピックに出ている選手と 一緒に、ウォーキングに近いジョギングをしているランナーが同じスタートラインに 立って走ることができるというのがすばらしい。放送も、注目選手だけでなく、 市民ランナーを多く映していた。NHKだからできることなのかもしれないが、 他局でも一部の人だけでなくたくさんの人を映すような放送をして欲しい。
 印象に残ったのは、バルセロナオリンピック女子マラソン金メダリストのエゴロワ 選手が2時間半くらいで走っていたこと。39歳という年齢なのに、アトランタオリンピック 金メダリストのロバ選手についで第2位でゴールしていた。br>  金メダリストが2人も来ているというかなり豪華なレースだったが、その割には、 あまり注目されず、自分もテレビをつけるまでは知らなかった。こういう、トップ ランナーから一般市民まで一緒に出られる大会が増えるとマラソンがさらに盛んに なるように思う。

■2004年4月10日(土曜日)


今年30歳になる3人
(小林、森、和泉)
 金栗記念選抜陸上中・長距離熊本大会1500mに出場。この大会は5回目。 過去は3位、3位、2位、2位、8位という結果。今回は、シーズン始めのレースでも あり、今の状態を確認して次のレースにつながるような走りをするということに 重点をおいて走った。
 出場者は15人。ペースメーカーがいることは知らされていたが、スタートして初めて 2人もいることを知った。2周目くらいまで熊本大学の学生が引っ張り、3周目を 体育学校の五十嵐が引っ張った。ゴール付近に設置してあるタイマーが動いていなかった ため、ペースが全くわからず、自分は中盤辺りに位置して何となく走っていた。
 先頭はペースを守って走っていたようだったが、ペースメーカーについてゆく選手が いなかったため、ペースメーカーがいなくなった後、残り300mからは、 大集団でスパートが始まった。1500mが苦手な笹野くんは自分の後ろから もの凄い呼吸と足の回転で迫ってきて、自分を追い抜いていった。自分は、なんとな〜く スパートについていって、少しずつ先頭から離れていった。がんばっても追いつかず、 先頭争いから脱落した人を1人とらえるのが精一杯だった。
 第9位でゴールし、タイムは3分55秒17。順位は、過去最低の順位だったが、 タイムは、今の状況では、よく走れたほうではないかと思う。走ってみて、体幹が かなり弱いことを実感した。なにか対策を立てねば・・・

■2004年4月9日(金曜日)


飛行機から見えた富士山

 休みを取って熊本へ行った。午前中にレースの最終調整をしたかったので 朝一の便に乗り、10時には熊本へ着いた。空港から競技場までは不便で、 バスや電車がないため仕方なくタクシーに乗り高い料金を払った。タクシーに 乗って、運転手に行き先をKKWINGまで、というように大会会場の名前を出して 伝えたが、運転手は場所を知らず、こちらが場所を教えることになった。 地元なのに国体をやったメインスタンド名前もしらないタクシー運転手がいるのが ショックだった。
 競技場では、すでに体育学校の選手が調整していた。三澤くんの動きがよく、 調子が良さそうだった。
 自分の調整は、300m+300m。45秒ペースで走るつもりだったが、 はじめの300mは42秒台。後半は45秒台。後半の300mは、疲れて 走りのリズムが悪くなってのタイムだったので、あまりいい感覚ではなかった。 相変わらずタイムと感覚が合っていない。
 午後からは昼寝と50分ジョッグ。子供の夜泣きで寝不足だったので、 久しぶりに熟睡できた。妻には悪いが、試合前日から熊本入りできてよかった。

■2004年4月8日(木曜日)
 先月下旬に新しい部署に異動し、その部署も4月1日から編制がかわり、 新しい名称になった。そこで新しく入ってきた人の歓迎と、職場の団結会を 兼ねた飲み会があった。
 自分は新しく入ってきた側なので、歓迎される側だった。今回の部署は、 13人で構成され、自分が最も若い。11人が40歳以上なので、自分が 元気を出して職場を盛り上げなければならないと思った。
 今回の職場は、もともと希望していたところで、スポーツ科学を土台として、 選手の測定・分析を行い、フィードバックする部署。しっかり勉強して、 多くの選手の役に立つような仕事をしたい。

■2004年4月7日(水曜日)
 アンビバレンス練習会に参加。メニューは1000m+300mを3セット。 1000mは3分、300mは45秒くらいで、気持ちよく走ろうと思っていたが、 ペース感覚がなく思うように走れなかった。ペースが落ちているという感覚が 強く、必死に頑張ったため、設定よりも速いタイムで走ってしまった。悪くはないが、 感覚とタイムが合わないというのが頭の中ではとても気持ち悪い。3月は、あまり 走ることがなかったのだからペース感覚がないのは当然。レースは目前だが、 レースという感覚というよりも練習の一環で臨んだ方が良さそうだ。

■2004年4月6日(火曜日)
 子供の夜泣きが始まったみたい。おむつを替えても乳を飲ませても、全く 泣きやまない。ようやく寝ても一晩に1回とは限らず、何度か起きては、 泣き続ける。だっこして落ち着かせようと、やさしく声をかけてみるが、 全く効果がない。どうしたらいいのか?これが夜泣きなのかぁと実感した。
 ある人は泣きやまないからよく深夜にドライブへ出かけたという。車の中だと 眠るのに、家へ帰ってくるとまた起きるなんてこともあったらしい。 イライラいらして、子供の虐待へ進む親もある。少しだけそんな気持ちが 理解できるような気がしたが、それじゃ〜まずい。
 泣きたいだけ泣かせるというのも方法の一つかなぁと思うのだが、 こっちの精神がおかしくなってしまう。穏便におさめる方法はないのだろうか?

■2004年4月5日(月曜日)
 久しぶりに一人でトラック練習をした。メニューは4000mペース走。 はじめは6000mにしようと思っていたが、練習を始めたのが、辺りも暗くなる ころで、風も強くなってきたため、やる気が下がってしまい、妥協してなんとか 4000mにとどまったという感じ。
 3分30秒/kmで行こうと思っていたが、最近は一人で走っていないため、 ペースがわからず、入りが3分12秒。速すぎると思ったが、落とすわけにも行かず、 次の1kmが3分10秒で、意外と調子よく走れた。しかし、後半は落ちてきて 3分16秒と3分17秒。ゴール手前150mくらいで、気持ち悪くなり、 咳と一緒に吐いてしまった。
 今の状態ではペースが速く負荷が強すぎた。週末はレースで1500mを 走ることになっているが、このペースで吐いているようでは、かなり厳しい・・・。

■2004年4月4日(日曜日)
 子供が突然熱を出した。夕方までは機嫌がよく、絶えず笑っていたが、夜になって 急にうなりだして機嫌が悪くなった。泣くまではいかないので、放っておいたが、 頭を触ったときにいつもよりも熱いことに気がついた。熱を測ってみたら38.8度。 いつもなら37度台。数字を見てやっと異変に気がついた。とりあえず乳を飲ませて、 おとなしくなったので、そのまま寝かそうかと思ったが、処置を誤るとまずいので、 夜間の救急病院に電話して、どう対処すべきかを聞いた。
 子供が暴れたりせず、おとなしいのであれば、何もすることがなく、いつも通り、 寝かせてやればいいという。体を温めようと厚着にさせたりする人がいるが、 その必要はなく、子供が暑がるのならば、涼しい格好にして、部屋を少し暖めて やるような処置をすればいいということだった。生まれて半年も経たないような 子供には、はっきり言って決まった対処の仕方はないらしい。
 とにかく、おとなしく眠ってくれたのでよかった。明日は予防接種を予定していたが、 止めた方が良さそうだ。

■2004年4月3日(土曜日)


最初の状態



マイナスイオン吸入10分後
 買い物へ行ったときに、マイナスイオン発生器を紹介しているコーナーがあり、 300円で自分の血液の状態を見てもらえるというので、それなら安いと思い、 見てもらった。
 採血方法は、指に小さな穴をあけて、ほんの少し血を採り、それを顕微鏡にのせる だけ。顕微鏡から画面に映像が出るようにしてあって、それを見るというもの。 顕微鏡があれば、いつでもできる。
 テレビでよくドロドロ血なんていわれて、赤血球がくっついて離れないような 映像を見ることがあるが、実際に自分の血を見ても似たようなものだった。
 汚い空気を吸っていると活性酸素が多く発生し、血液中の赤血球は、本来の 弾力ある丸みを失い、トゲトゲしたものになって重なりやすくなり血の流れが 悪くなるらしい。しかし、自然にも存在するマイナスイオンを吸うことにより、 トゲトゲした赤血球が本来の弾力を取り戻せるという。
 今回のマイナスイオン発生器は、滝などで発生するマイナスイオンの 2000倍もの量を発生させることができるらしく、その辺の空気清浄機とは 比べものにならないほど性能がいいというのがウリ。実際に10分間その発生器の 前でイオンを吸った後に血をみたところ、赤血球に弾力が戻り重ならなく なっていた。これはすばらしいものだと思ったが、この威力が続くのはせいぜい6時間 ほど。結局常に吸っていないと血液はサラサラの状態にはできないということだった。
 日常生活では、常に空気は汚いし、森にいるのではないからマイナスイオンも 吸うことはない。本当に体をよくしたいのなら森の中や滝のある場所に住めばいい。 器材で自然の2000倍ものマイナスイオンを吸うことが体にとっていいことなのか? その辺も少し疑問に思えてきた。健康を維持するというのは難しいことで、お金は かかるし、大変なことだ。

■2004年4月2日(金曜日)
 テコンドーのシドニー五輪銅メダリスト、岡本依子選手のアテネ五輪出場を めぐる問題で、テコンドーの2つの団体が3月31日までに統一されなかったため、 五輪出場は絶望的になった。しかし日本オリンピック委員会は、昨日の会見で、 さらに期限を4月28日まで伸ばし、なんとか出場の可能性を残した。
 テコンドーの2つの団体の意見は全くかみ合わず、相手を批判するだけで、 子供のけんかにしか見えない。本来は選手や競技普及のための団体であるはずなのに、 選手は無視されている。こんな団体ばかりでは、いつまで経っても競技は普及しない だろうしメジャーな競技にはなりえない。そんな団体しかないのならつぶしてしまえ!! と思う。
 苦労して勝ち取った五輪出場権。無駄にならないような結果になることを願う。

■2004年4月1日(木曜日)
 近くのスーパーへ行ったら、商品の値段が、1円単位まで、細かく表示 されているので、計算するのが面倒に感じ、今までこんな表示の仕方を していたのかなぁ?と考えてしまった。
 ニュースを見ると、今日から店頭では税込み価格を表示しなければならなく なったとかで、店によっては、1円よりも細かい銭単位で表示している ところもあると言っていた。小さなことだけど、切り捨て、切り上げで お店が儲かるか、お客が儲かるかという話しも出てくるので、そういう 表示もあっていいのかなぁと思ったが、値段を見るのが面倒になった。
 消費税が始まってからは、商品の計算が面倒になったが、慣れてしまうと、 頭の中で3%なり5%を上乗せして計算し、それで問題がなかった。その 流れが少し変わっただけで、どこか抵抗を感じてしまう。
 自分は、新しいことをどんどん取り入れて変化を求める傾向が あると思っていたが、実際は、変化を受け入れるということが好きではない、 保守的な人間なのかも知れないと思えてきた。



[昔のいずみ]