最近のいずみ

Last Update:2004/5/31

パートタイムアスリートいずみ 4年目に突入!! 


■2004年5月31日(月曜日)
 昨日の捻挫の診断を受けに医務室へ行った。右足の捻挫は今年に入って 3回目。2ヶ月に1度の割合で同じところをやっているので、慢性的な ものだろうと判断され、ストレスをかけた状態でレントゲンを撮った。 ストレスをかけるということは、痛みを感じるところまで足の関節を 曲げるということで、なかなかの苦痛だった。左右を比べるために、 両足を撮ったが、左足の方がどちらかといえばよく曲がった。
 診断は、関節のゆるみは正常範囲で問題なし。痛みが出る間は、 それ程走らないように、ということで、何事もなく安心した。

■2004年5月30日(日曜日)


スタッフと参加者全員
 講習会2日目。今日はメインがオリエンテーリング。始めにコントロールの 記入された昨日使った地図のコピーをもらい、それぞれのコントロールに行く ときの注意点を全て書き出して、地図読みの練習をした。
 ゴール地点まで注意点が記入できたところで、それぞれスタート地点へ行き、 参加者は3分おきにスタートした。
 今回の地図は1/25000の地図で等高線が10m。普段オリエンテーリング で使うのは、1/10000で等高線が5mなので、地図で見て想像した感覚と 実際の現場は全く違い戸惑った。地図上では緩やかに登っているように 見える場所でも等高線が10mなので、実際はかなり登っていた。
 昨日すでに感じていたが、地図上に存在しない道が無数にあり、地形を大きく 見ていないと、すぐに別の道へ行ってしまう。おかしいと思ったときにコンパスで 進んでいる方向を確認し、間違っていたら引き返すということを何度かやった。 それでも正しい道を進んでいるのに、地図とは方向がずれていて混乱した。
 基本的に山の中を走っていたので、下りはかなりスピードが上がった。そして、 また右足を捻挫してしまった。走ると痛みが出るので、後半は歩くしかなかった。 今回は、テーピングを何もしていなかった。油断していた。どういう 時であっても山に入るときにはしっかりとテーピングをしなければならないと いう教訓を得た。

■2004年5月29日(土曜日)
 主に登山者を対象とした「読図とナビゲーション講習会」に参加した。場所は 埼玉県の鎌北湖周辺。講師は、日本のオリエンテーリング第一人者、村越真先生。 先生は全日本オリエンテーリング大会で22回も優勝をしていて、40代に入った 今でも、日本のトップオリエンティアとして活躍されている。
 今日の内容は、日中に講義と実習、夜に講義という3部構成。最初の講義では、 磁北の引き方、整地の仕方など基本技術を習い、実習では現在地把握の方法や、 遠くに見える景色と地図を合わせる方法などを学んだ。最後に夜の講義は、実習の 復習と、危機管理について学んだ。
 地図は1/25000の国土地理院の出している地図を使ったが、実際には 存在しない道があり、存在する道がなかったりしていい加減なものだった。 国土地理院の作っている地図だからしっかりしたものだろうと思っていたが、 実際は、空から撮った写真を地図にしているので、空から見えないものは、 なかなか地図上には出てこないということだった。
 オリエンテーリングの地図では、必ず現地調査をして、しっかりと道を地図上に 記すようになっているので、オリエンテーリングの地図を描く大変さがわかったような 気がした。

■2004年5月28日(金曜日)


久しぶりの同期と
 妻が熱を出し、子供に母乳を飲ませられなくなった。熱を出した状態で ずっと子供と一緒では寝ることができないので、子供を外に連れ出した。
 夜は大学の同期会があったが、今日はキャンセルしようと思っていた。しかし、 子供と外に出ることにしたので、そのまま同期会へ行ってしまった。場所は恵比寿。
 同期会には20人近く集まっていた。8年ぶりに会う人も何人かいて、 懐かしかった。職場の話をしたり、家族の話をしたり、話は尽きなかった。
 途中で子供が眠くなったようで泣き出したが、居酒屋の中なので、泣き声は、 周りの音に消されて、全く響かなかった。それはそれでよかったが、子供が 可哀想なので、途中で家に帰った。

■2004年5月27日(木曜日)


フローリングになりました
 畳の部屋をフローリングにした。部屋にある棚やテレビを全て別の部屋へ移し、 畳を掃除して、妻と2人がかりでフローリング用の板を敷いた。下にある畳が 凸凹しているので、フローリングにしてもその凸凹感が残り、部屋の真ん中が 沈みがちで、部屋の角が浮き加減。イメージとはほど遠かったが、畳の時と 比べて、とても涼しげな感じになった。
 妻と2人で床をフローリングにする間、子供は泣きっぱなし。いつか泣き疲れて 寝てしまうのではないかと思っていたが、1時間以上経っても泣きやまなかった。 結局作業が終わっても泣きやまなかった。だっこすると少し泣きやんだが、 完全に腹を立てているようで、いつものような笑顔を見せることがなかった。 赤ん坊も人間だなぁと思った。

■2004年5月26日(水曜日)
 アンビバレンス練習会に参加。メニューは400m×15。トラックでの練習は 2週間ぶり。2週間前の練習から、左下腿部の調子が悪く、肉離れしそうな 雰囲気があった。日曜日以降、少しずつ緩和してきたが、違和感は残っている。 今日は、その痛みと相談しながらの練習だった。そのため、心肺機能にはそれほど 負荷はかからず、気持ちいい汗をかくだけで終わった。脚を除いて調子はまずまず。 次のレースまでまだ1ヶ月ある。ぼちぼちコンディションを上げてゆきたい。

■2004年5月25日(火曜日)
 朝礼前に草むしりをしていたら、蚊に食われた。朝は涼しく、清々しい気分で 初夏っていいなぁと思いながら草むしりをしていたのに、その気分が一気に 冷めてしまった。もう蚊の季節になってしまった。
 1回吸えばもういいだろうと思うのだが、蚊は満足していないみたいで、また 食いついてきた。お返しにたたいてあげたらつぶれて死んでしまった。 こっちも吸われたくないので、ごめんねぇと思いながらの、今年最初の 蚊との戦いが終了した。

■2004年5月24日(月曜日)
 K-1の魔裟斗のお父さんがたまたま職場の上司の知り合いで、上司が職場に 連れて来た。魔裟斗の出身が朝霞市だということは知っていたが、お父さんが 元自衛官だったとは知らなかった。自衛隊は定年になったが、定年後も自衛隊に 関係した仕事をしているということで、朝霞駐屯地内で勤務されていた。
 見た目は普通のおじさんで、このお父さんからは魔裟斗が想像できなかった。 あれだけのスターになるのだから、イチローのように、親が小さい頃からそういう 教育をしていたのかと思ったが、あまりそういう感じはなかった。お父さんは 昔はランナーだったとか。親がいろいろ考えていたとしても、結局、子供は自分の 進む道を自分で決めるものなのだ。

■2004年5月23日(日曜日)


おもしろい駅名を発見!!
 延岡から関東へ戻ってきた。宮崎空港へ向かうつもりで、延岡駅へ行ったところ、 乗る予定だった特急電車が人身事故の影響で40分遅れているということを知らされた。 飛行機に乗る時間に合わせて駅へ来たので、かなり困った。しかしもう1本の 普通電車ならば、飛行機への搭乗時間ギリギリに着くことがわかり、その列車に乗った。 しかし別の便を予定していた人たちは、自分たちよりも離陸予定時間が早かったため、 間に合わなさそうだった。飛行場への前進手段は列車しかないため、結局 みんな同じ列車に乗った。自分たちは、予定通りに空港へ到着できたため、無事飛行機に 乗れたが、その他の人たちはどうしたのだろうか?その後はわからない。
 宮崎を走っている日豊本線は単線のため、1つの列車が遅れると全部に影響が出る。 高校時代にインターハイで宮崎に来たときには、列車が1時間も遅れてきたことが あった。それでも宮崎の人は不満を言うことなく当たり前のように乗っていた。 都会の電車のように分刻みで列車が走るわけでもなく、多くても1時間に3本くらい なのだから、地元の人にとっては、急いでも仕方なく逆にのんきになれるのかもしれない。 こういう時間の流れのなかで生活するのもいいかなぁっと思った。

■2004年5月22日(土曜日)


ラスト50m付近



競技場内で花火



旭化成の高尾君と
 ’04ゴールデンゲームズ in のべおか800mに出場。このレースは 4年ぶりの出場。今回のレースは800mでオリンピック参加標準記録B突破を目指し、 自分はペースメーカーをした。具体的には400mを51秒中盤で通過するという役目。
 走る時間は日が沈みかける時間帯で、メインイベントが夜にあることを考えると、 お客さんが少しずつ増えてくる時間帯。思ったよりお客さんの入りは少なかったが、 十分、中距離という競技を楽しんでもらえる内容になった。
 レースの前に、ミーティングで、200mごとのラップタイムが決められていたので、 2人のペースメーカーがその設定通りに走り、最後の200mで富士通の笹野くんを 中心とする先頭集団がスパートすることになっていた。
 最初の100mを12秒0、200mは25秒1で通過。思ったよりも気持ちよく走れ、 次の200mも後ろを気にしながらスピードを調整して走ることができた。1週間 全く運動していなかった割には、身体がよく動き、余裕があった。400m通過は51秒9。 400m通過で自分はアウトレーンへ出て、先頭を譲って、ジョッグした。その後集団が 通過した後に再度インレーンへ入り走り始めた。
 先頭は日大の中田くんが600mを1分19秒台で通過し、最後の200mで笹野くん が先頭に出て、独走でそのまま逃げ切った。笹野くんは1分47秒56でオリンピック 標準には0秒56とどかなかったが、今シーズン日本最高記録。自分は、残りの 400mをジョッグのように走り、2分01秒54。高校以来12年ぶりの2分台だった。
 この大会は、延岡市民の間では、お祭りのようになっていて、陸上を知らない、おじさん おばさんでもビールを飲みにやってくる。ビールのつまみにレースがあるようなもの。 全てのレースが終了した後には、競技場内で花火までやった。競技場内で花火をやるなんて 普通はできなさそうなのに、なんでもできてしまうのがこの大会なのかもしれない。


■2004年5月21日(金曜日)
 先週末のオリエンテーリングで、左下腿部を痛め、日曜以来全く運動をしていなかった。 明日はレースなので、少しは身体を動かさないとまずいと思い、身体を動かすことにした。 しっかり休んだこともあって、痛みが緩和し、ジョッグはできるようになった。しかし、 スピードを上げたスプリントの動きは恐くてできず、ジョッグだけで終わった。
 午後からは、宮崎県延岡市へ向かった。羽田空港まで1時間ちょっと。羽田から宮崎まで 1時間半。宮崎から延岡まで1時間半。昼前に家を出たが、ホテルに着いたのは6時を 過ぎていた。
 延岡には4年ぶりに帰ってきた。駅前の商店街にあった商店街一大きかった百貨店は 全てがなくなり空き地になっていた。駅前には以前はなかったコンビニができていた。 その他はまったく変わりのない商店街だった。商店街から少し離れたところにあった ダイエーは、看板がなくなり、建物だけが残っていた。時の流れを感じる、駅からホテル までの道のりだった。

■2004年5月20日(木曜日)
 オリエンテーリングの女子の日本代表になっている方が毎週、地図を読む技術 を向上させるための勉強会を開いているということを聞き、参加した。
 今回はチェコの大会で使われた地図を使用して、ルートを検証した。参加した人は 全員女性で、ほとんどが学生。ユニバーシアード代表だったり、外国でレースの 予定があるような人たちだった。地図読みの能力は自分が一番低く、場違いな 感じもした。
 今回は、渡された地図を見て、1分以内にそれぞれがルートを決めて、発表した。 自分は行き先までのルートが決まらないうちに時間が終了してしまい、他の人の コメントを聞くばかりだった。レースをそれほどこなしていないので、地図上に 表示してある藪の色分けなどの実感がわかない。それぞれのコメントを聞くことが 勉強だった。

■2004年5月19日(水曜日)


400m優勝飯野くん



元チームメイトの豊間根さんと
 第8回全自衛隊陸上競技会が体育学校の陸上競技場で開催された。自分は、昨年 同様、役員でスターターをやった。スターターといっても、公認審判の資格を持っていない ため、スターターの格好をしていても、スターターの補助をするだけだった。来年は 公認審判として働けるように、審判資格を取りたくなった。
 今回の大会は、日本陸連公認の大会になり、記録が公認されるのが特徴。今までは 自衛隊の中でしか通用しなかったので、いい記録が出してもあまり価値がなかった。 公認になったことで、陸連に登録しなければならなくなり、自衛隊内だけで走っている 人にとっては、面倒くさいことだったかもしれないが、多くの人が登録し、登録していない 人はオープン参加という形になった。
 今回の大会で、特に注目していたのは男子400mと女子幅跳び。400mは過去7回大会で 6度の優勝をしている飯野くんが、7度目の優勝。幅跳びは、防大の後輩にあたる中島さんが 2度目の優勝をした。
 注目はしていなかったがすばらしい記録が出た種目は、男子100mと10000m。 100mは11秒00の電気計時の大会新記録。10000mも大会記録を40秒近く 上回る30分04秒で航空自衛官が優勝した。
 この大会は、陸海空の自衛官が集まるので、普段会うことのない知り合いにも たくさん会うことができ、いろいろな情報が交換できてとてもよかった。午後から天気が 崩れて雨になったので、残念だった。

■2004年5月18日(火曜日)
 国会議員の年金未納問題がずっと騒がれている。国民年金が義務化される以前の 話をとやかく言ってもしょうがないし、払っていなくても2年間しかさかのぼれないの だから、どうしようもない。責任問題とか言って、辞める、辞めないなんて議論する よりも、誰もがわかる制度を作ることを優先した方がいいのではないかと思う。  政党内の対立、政党間の対立など、次の選挙を視野に入れた、自分たちの立場を 固めるための議論ばかりで、本当にお国のためにやっていることなのかなぁ?と思う。

■2004年5月17日(月曜日)


明治神宮と代々木公園



風鈴に喜ぶ子供と
 休みを取って新宿の整体へ行った。土日のダメージが大きく、左脚のふくらはぎ はかなり張っていて痛みがある。じっとしていても痛みがあるので、かなりの重症 だと感じていた。整体では、かなりリンパが腫れていると言われた。これほどの 痛みは今までになったことがないので、人からの指摘で自分の思っているとおりの 状態だということがわかった。
 今回は、マッサージが中心で、先生の圧が強すぎて、かなり痛かった。自分の 筋肉が反応しすぎなのかもしれないが、先生はなかなか圧をゆるめてくれなかったため、 痛みに耐えるという感じで、全くリラックスできなかった。今日の先生は、 ハズレだった。先生を指名しなかったのだから、自分が悪いということで納得した。
 せっかく日の出ている間に新宿へ来たので、東京都庁の展望室へ行った。都庁へ 入ったのは大学以来。富士山が見えることを期待していたが、遠くは曇っていて わからなかった。うちの子供は、景色をジ〜ッと見ていた。どういう感覚だったの だろう?最後はお土産屋の風鈴が気になって、風鈴をジ〜ッと見ていた。何を 見ても新しい発見なのだろう。

■2004年5月16日(日曜日)


日本代表選手の指定
 オリエンテーリング世界選手権代表選考会2日目。会場は富士市にある 富士山子供の国。種目はスプリント。地図上の距離が2.5kmくらいで、 優勝タイムが12〜15分程度になるように設定されている。
 この種目は、予選と決勝があり、決勝に進出できるのは上位7人。天候が、雨と 霧で、最悪のコンディション。
 予選は、9番目のスタート。最初のコントロールに行くまでに、道を間違え、現在地を 把握できず、昨日と同様かなりのロスがあった。第1コントロールについた時には、 自分より後からスタートした選手に追いつかれていた。その後は、ずっとその選手の 背中を見るような感じで回った。途中で、もう一人の選手も一緒になり、ゴールまで 3人がかたまりで争いながら走った。結果は、14分36秒で13人中11位。 10位の選手は14分35秒。どこかでもう少し頑張って走れば、順位が上がっていた。
 11位なので、予選通過はできず、B決勝に出ることになった。B決勝の出場者は6人。 こちらは、ほとんど人に会うことなく、自分一人で走った。中盤までは、自分の 思っているように走れていたが、ある一つのコントロールで迷い、そこからは、 遭難者のようになってしまった。後半は霧が濃くなり、5m先は何も見えなくなった。 本当に自分が何処にいるかわからなくなってしまった。公園の中なので不安には ならなかったが、もしこれが山の中だったら確実に遭難していると思った。
 結局ゴールしてみると、コントロールを一つ通過していないことがわかり失格になった。 順調にいっていればいっているほど、一つミスをすることで、集中力が切れ、レースを台無しに してしまうのだなぁと思った。まずは最初のコントロールを確実に見つけ、少しずつ ペースを上げていって、大きなミスをしないように回ることが必要なように感じた。
 世界選手権への道は、本当に遠いが、また来年この大会に出られるよう、頑張りたい。

■2004年5月15日(土曜日)


雪のない富士山



安斎先輩と
 オリエンテーリングの世界選手権代表選考会(静岡チャレンジ)に出場した。 今日はミドルという種目。地図上の直線距離としては約5q。優勝タイムが38分という 設定。場所は富士市の岩倉学園という養護学校のある地域。
 天気が悪くなるのではないかと心配していたが、よく晴れて富士山がきれいに見えた。 山の中も意外と水はけがよく、水たまりが少なかったため、泥だらけになることが なく良い環境だった。
 競技は2分おきに1人ずつスタートし、決められたコントロールを回ってゴールする というポイントオリエンテーリング。
 自分は1番目のスタート。初めのスタート地点からは、すずらんテープで地図上の スタート地点まで連れて行ってくれ、そこで、現在地を確認するが、中途半端に 確認して、最初のコントロールを目指したため、いきなり迷った。
 たぶんここだろうという感覚で、自分で目指した特徴物に進んだところで、地図と 現場をすりあわせたら、全く違う場所だった。来たルートを戻ってみるが、うまく戻れず、 どんどん深みにはまった。とにかく大きな特徴を探し、地図上でそれらしい場所を発見し、 現在地を割り出し、やっとこのことで最初のコントロールを突破した。
 その後は、地図をよく確認して、進むことによってスピードは出なかったが、 大きく迷うことはなかった。途中で、自分より後からスタートした選手も何人か 見かけ、彼らを追いかけながら走った。彼らの動きは、できるだけロスの少ない ルートをたどっているので、ナビゲーションの勉強になった。
 最終結果は13人中12位。1人はコントロールを一つ回り忘れて失格なので、 実質最下位。トップは36分台。自分は59分台。日本のトップレベルとの差(特に ナビゲーションの差)は歴然としていた。しかし区間トップを2区間取れたことは 大きな自信になった。

■2004年5月14日(金曜日)
 大学の同期が脳腫瘍で亡くなった。学生時代に1度具合が悪くなって、脳に 問題があったと聞いていたが、その後は回復したものだと思っていた。しかし 実際は、進行していたようで、家族にはその時点で、あと8年ほどしか 生きられないと告げられていたらしい。そして、8年が経って、医者の告げた 通りになってしまった。
 大学を卒業してからは1度も彼には会っていないが、調子の悪い時期が あったことは聞いていた。この8年間何を思って生活してきたのだろう?
 人はいつまでいきられるかわからない。明日の自分はどうなるかは誰にも わからない。次の瞬間どうなるかさえわからない。今を一生懸命、自分の満足 行くように生きることが一番いいのかなぁと思った。

■2004年5月13日(木曜日)
 オリエンテーリングではオリエンテーリング用のシューズがあるのだが、日本製はなく、 多くは北欧から輸入してくるらしい。自分はいつもランニングシューズで走っていたが、 それでは山の中は危ないと言われたため、山で走れるような靴を池袋まで探しに行った。
 日本ではオリエンテーリングシューズを扱っている店は少ないが、最近は山を歩いたり 走ったりするためのトレイルシューズというものも売り出されているということで、 最初に行った店ですぐに見つかった。しかし、一番大きいサイズが28cmだったため 買おうか買うまいか悩んだ。
 普段履いている運動靴が29cm。革靴は27〜28cm。実際に履いてみると、少し 指先がつまるような気がする。しかし気にしなければ気にならないような気もする。 どっちなんだ?と、とても中途半端な感覚だった。
 結局、週末に競技をするので買った。色はグレーとブラックの2種類があり、 山で汚れてもいいように黒を買おうと思ったが、同じサイズのはずのグレーより 小さく、指が曲がる感覚があったため、グレーを選ぶしかなかった。
 靴のサイズって、結構いいかげん?それとも自分の足がいいかげん?

■2004年5月12日(水曜日)
 アンビバレンス練習会。今日は、オリエンテーリングのナショナルチームの メンバーがたくさん練習に来ていた。なぜなら、ゴールデンウィーク中の 合宿でコーチをしていたフィンランド人のイーキスが来ていたから。 アップをしているときに、ナショナルチームのスタッフと一緒になり、 イーキスを紹介してもらった。自分のことを日本の秘密兵器だと紹介され、 うれしいやら恥ずかしいやら・・・まだ全然オリエンテーリングの選手という ほどの技能がないのに・・・
 彼は自分より2つ年上なのに、コーチ歴はもう10年になるベテランコーチ。 オリエンテーリングだけでなく、陸上競技やクロスカントリースキーなどの コーチもやっている。フィンランドのオリエンテーリングでは30位くらいの 力らしいが、日本人よりは圧倒的に強い。
 彼とジョッグをしながら、いくらか話ができた。会話はお互い母国語でない英語。 外国人とコミュニケーションをとるのは久しぶりでドキドキして、冷や汗を かきながら走っていた。相変わらず数字への反応が鈍く、最後には、イーキスが 指で数を示してくれる始末・・・自分の言いたいことを表現できないということは 本当にもどかしい。片言の英語でしか話せないのが残念だった。
 練習はは短距離パートでスプリント練習。メニューは200m+200m+ 100mを2セット。最後に300mのウインドスプリント。
 先頭が23秒台で走っているので、自分も引っ張られて25秒切りで走っていた。 ほぼ全力のため、疲労困憊になり、最後の300mは脚がつるのをこらえながら 走った。やりきった満足感はあったが、明日以降のことを考えるとやり過ぎだった。
 練習後、オリエンテーリングの方に顔を出し、イーキスから、来年の世界選手権 で会おう、と言われた。本当にオリエンテーリングで通用するのだろうか? 今はできるだけの努力をしてゆくしかない。

■2004年5月11日(火曜日)
 体育学校の森と4000mペース走。3分20秒くらいのペースで行く予定に なっていたが、入りの1000mが3分09秒。ペースはそれ程落とすことができず、 3分13秒、3分13秒、3分08秒で行った。自分が選手として走っていた頃は、 3分20秒を切っていけば、かなり良いタイムだった。タイムだけを見ると、当時 よりもレベルは上がっている。しかし800m、1500mのタイムはどんどん 落ちている。結局、練習で走れていても、本番で結果が出なければ、評価されることはない。 練習で走ってみれば、意外と走れるのだから、精神面が弱ってきているのかも しれない。

■2004年5月10日(月曜日)


吹き出し中
 最近子供に2本歯が生えてきた。それが気になるのかよく口に指を突っ込んで いじっている。また口を閉じて吹く動作をよくする。ツバがいろんなところへとんで、 服や床が汚れまくっている。赤ん坊は日々変化があっておもしろい。
 親がしゃべっているだけで、喜んで奇声を発する。何がおもしろいのか親には サッパリわからない。腹が空いたり、おしめを替えて欲しければ泣く。気に入ら なくても泣けばだいたい解決する。幸せなやつだと思う。赤ん坊はうらやましい職業だ。

■2004年5月9日(日曜日)


ゴール直前



海鮮丼



兼六園にて
 2004日本選抜陸上・石川大会800mに出場した。昨日の筋肉痛は緩和し、 思った以上にコンディションはよかった。天気は雨だったが、体の状態がよかったので、 気にならなかった。今回は、6月の日本選手権の標準記録を突破するための 最後のチャンス。どうしても1分51秒50を切りたかった。アップの状態もよく、 十分チャンスがあると思った。
 プログラムでは3組タイムレース決勝で、自分は2組目だった。自分より持ち タイムのいい選手ばかりだったので、組もよかった。しかし、実際は、欠場者が 多く、2組になってしまい、自分は遅い組に入ったため持ちタイムが上の方になって しまった。メンバーを見ると先頭を引っ張ってゆく選手は1人もおらず、 自分でペースを作るしかなくなった。
 スタートして、周りを見ると、予想通り積極的に行く選手はいなかったので、 自分が先頭に立った。走りは、アップの時と同じで、良い感覚だった。 200m通過が27秒4。このままのペースを続ければタイムが出るので、 そのままのペースを維持した。
 400mを55秒7で通過し、まだ気持ちよく走り、今日はいけるという 確信を持ち、残り300mからペースを上げた。
 600m通過が1分23秒9。この辺りから後ろの選手が並びかけてきて、 走りづらくなった。あとから抜けばいいや、と思い、並びかけた選手を前に出した とたん、リズムが悪くなった。残り100mからはいつものもがきの走りに なり、急激にペースが落ちた。最後に体育学校の五十嵐にも抜かれ、3位でゴール。 タイムは1分53秒89。総合は14人中9位。
 一瞬の弱気がレースを決めたように感じた。600m過ぎまでは、最近には ない、余裕のある良い感覚だった。最後まで攻めの気持ちで走っていれば、 リズムを崩さずにいけていたはず。
 今年の日本選手権への出場は果たせなかったのは残念だったが、600m過ぎ までの感覚が心地よく、今後のレースにつながるものだったので、意外と悔しさは なかった。
 試合後は、福井から応援に駆けつけてくれた高校の友達と金沢市内にある、 近江町市場で海鮮丼を食べ、金沢城と兼六園を散歩した。天気が悪かったためか お客も少なく、ゆっくりでき、久しぶりに日本の風情というものを感じることができた。 

■2004年5月8日(土曜日)
 飛行機で石川入りし、午前中のうちに競技場へ行った。競技場の隣では、 重量挙げの全日本大会が開かれていて、我が社の選手が多数出場していた。 練習の前に、少しベンチへ顔を出したが、オリンピック出場が有力視 されていた選手が昨日2位になり、オリンピック出場がならなかったので、 非常に暗い雰囲気だった。
 昨日は、良い気分でペース走ができていたが、今朝になってから、昨日 やった筋トレの筋肉痛が出てきて、体中がだるかった。300mを1本 やろうと思っていたが、結局30分ジョッグでやめた。明日更に筋肉痛が ひどくなっていないことを願う。
 ホテルに入りテレビをつけると、大阪国際グランプリを放送していた。 ちょうど室伏の2投目で、1投目を上回る記録で会場は盛りあがっていた。
 400mハードルでは為末が久しぶりに快走し、100mでも朝原さんが 10秒17という好記録を出していた。女子の4×100mリレーでも初めての 43秒台の日本記録を出し、オリンピック出場の可能性が出てきて、気分が良かった。 日本人選手もやればできるなぁなんて思っていたが、一番驚いたのは、 110mハードルの劉翔選手。20歳の中国代表選手だが、昨年の世界選手権では 3位で、この種目では最も注目される若手選手。30歳を越えてもずっと世界の トップにいつづけるアメリカのアレンジョンソンに競り勝った。アジアの選手が この種目で黒人選手に勝つというのを初めて見た。本当に痛快だった。アジアの 選手でもやればできる。見ていて、勇気がわいてきた。

■2004年5月7日(金曜日)
 静岡国際以来のトラック練習。オリエンテーリングで山の中は走っているが、 トラックでの走りと違うので、久しぶりに走るという感覚。また週末にレースが あるので、最終調整になるのだが、そういう気分ではなかったので、4000m ペース走で、今の状態を確かめてみた。
 昨夜整体に行って、仙腸関節の動きを元に戻してもらったためか、股関節の 動きがよく、体調はあまりよくないと思っていたのに、タイムだけはかなりよかった。 1000mごとに3'12"9, 3'13"1, 3'13"3, 3'10"9。自分の全盛期の頃と変わらない タイム。これはなかなかいいぞぉと思い、最後に200mのウインドスプリントを したが、気持ちよく走れず、きつかった。
 200mの感覚はよくなかったが、4000mは思っていた以上にタイムが 出て気分はよかった。しかし日曜に走るのは800m4000mは全く関係ないのが 問題。今のところ気分は良いにこしたことはないと思っている。さてさてどうなるやら・・・

■2004年5月6日(木曜日)
 米軍によるイラク人捕虜の虐待がニュースでかなり大きく取り上げられている。 米軍は海外へ出かけることが多いので、捕虜への対応などはしっかりと 教育されているのだと思っていた。しかし現実は、それ程教育はされていなかった。 普通に考えても、捕虜を裸にして写真をとるなんて、おかしいと思うが、ああいう、 戦争状態の中に入ると、常識的な判断もままならなくなってしまうのか?戦争に行っていない 自分にはわからない。上司の命令であれば、逆らうことができないだろうし、この 非常識な行動をすることとなった兵隊も気の毒な人なのかもしれない。
 昔、日本は捕虜への不当な処置によってたくさんの戦犯者を出した。しかし、これは、 戦争に勝った側からの判断。戦争に勝った側は、裁かれることがなく、自分たちの 行った虐待が明らかにされなかっただけなのかもしれない。
 「勝てば官軍 負ければ賊軍」という言葉があるが、負けた側は常に悪者にされるのが 現実で、悪者には何をしても良いという感覚が虐待を指示したり行ったりした軍人の中に あるのではないかと思う。
 戦争なんてなければ、そんなことも考える必要がないのに・・・仲良くしようよ。

■2004年5月5日(水曜日)
 富士へオリエンテーリングの練習に行った。5月中旬に世界選手権代表選考会 があり、その大会への出場を推薦された。この大会は、強化指定選手と オリエンテーリング協会が推薦する者しか出られない。かなり貴重な大会へ 参加できることになった。
 今日は、オリエンテーリングの技術練習のために、選考会会場近くの練習場へ 行ってきた。オリエンテーリングは始めて1年なので、自分はナビゲーション能力が低く、 一人で練習はできないため、専門の方に時間を作ってもらいコーチしてもらった。
 天気は雨。山の中に入るには最悪のコンディション。しかし、雨でも競技は行われる ので、山の中へ入っていった。練習は、現地と地図を合わせながら、目標とする コントロールを見つけていく、通常のオリエンテーリングと同じ方法。そのなかで、 必要とする地形や特徴物をどうやって確認するかを中心にコーチしてもらいながら 走っていった。
 一人でやっていると、見なければいけない地形や特徴物を見過ごして、進むべき 方向からずれるが、コーチにそのたびに止めてもらい、指導が受けられた。これに よって、いろいろなものが見えてくるようになった。結局、広い視野を持つことが 重要。今までは、一つの方向しか見ず、周りが見えていなかった。この 練習が、今度の大会に結びつけば、ラッキー!!

■2004年5月4日(火曜日)
 2日前に車の後輪のパンクがわかったときに、サービスで洗車をしてもらった。 久しぶりにきれいになって気分よく運転していたのに、今朝、車を見たら、 洗車前の状態に戻っていた。昨日は、午前中に霧雨で午後からは晴れてきたが、 そんなに汚れるような感じには見えなかった。たった1日で元通りになってしまっては、 洗車をする甲斐がない。洗車は滅多にやらないが、これではますます洗車しようと は思わなくなった。自分のいる地域の空気が汚いのだろうか?洗濯物は外に干しているが、 ひょっとしたら、干しているだけで相当汚くなっているのかもしれない。洗濯物を 外に干すのもイヤになってきた。

■2004年5月3日(月曜日)


草薙陸上競技場
 静岡国際陸上1500mに出場。ウォーミングアップの時は、調子よく 身体が軽かった。しかしスタートしてみると、身体は重く感じ、1周目の 62秒というペースが辛かった。2周目は64秒になり、ペースが 落ちたにもかかわらず、更に辛くなった。3周目もそれ程ペースが 上がらず、残り300mからの勝負になった。
 2,3年前ならば、ここからスパートして逃げ切ることもあったのに、 今は、全然頑張れない。ついてゆくことができず、どんどん離されるだけ。 もっと頑張れるはずなのに、自分を辛い状況に追い込ませないように、 自分で調節して走っているような感じだった。
 ゴールは3分55秒73で8位。2組タイムレース決勝だったので、 総合は19人中17位。
 練習で追い込むことがなくなっても、一時期は試合では追い込めていた。 今は、練習でも試合でも全く追い込めなくなった。走っていてもどかしい。 何かを変えていかないと、どんどん運動のレベルが落ちてゆく。来年、 この大会に戻ってこられるかどうか・・・。何かを変えなければ・・・。

■2004年5月2日(日曜日)
 毎週木曜日か金曜日に、無料の情報誌が新聞受けに入る。その中に読者が 「譲ります」や「差し上げます」というコーナーがある。毎週何があるかなぁ? と楽しみにしていて、気になる品があれば、電話をしている。今までは抽選に なったりして、1度も手に入れることができなかった。
 今回は「ナチュラル木目のパソコンデスク」というのが気になり、妻が 電話をかけてみたところ、譲りますよと、一発返事。いつ取りに行けば いいか聞いたところ、今日なら空いているということで、さっそく取りに行った。
 行き先は川越で、車にガソリンがなかったため、近所のガソリンスタンドによって ガソリンを入れた。そのときに、店のおにいちゃんに、タイヤの点検などを無料で やっていると言われ、じゃ〜お願いしますなんて軽く頼んだところ、後輪がパンクしている ことがわかった。パンクしたままかなり乗っていたようで、もう少し乗り続けていたら、 かなり危険だと言われた。
 そこで車を一通り見てもらい、バッテリーやオイルもかなり悪い状態だとわかり、 タイヤとともに交換してもらった。ガソリンで2000円くらいの予算を見積もっていたのに、 ふたを開けてみると25000円。現金では払えず、仕方なくカードで払った。
 ガソリンスタンドで1時間ほど時間がかかったため、川越へ着いたのは日が暮れる 頃になってしまった。
 実際にパソコンデスクを見せてもらったところ、まだそれ程使っていない 新しいもので、妻も自分も気に入って譲ってもらうことにした。
 我が家はデスクトップパソコンを持っていないので、今のところノートパソコンを 置くくらいだが、将来的には、このデスクにデスクトップが置けるようになればいいなぁと 思う。
 とにかく、この無料情報誌が新聞受けに入っていなかったら、タイヤのパンクが原因で 事故に遭っていたかもしれない。自分の命は、何が助けてくれるかわからないものだ。

■2004年5月1日(土曜日)
 EUが拡大し、旧東欧圏の国が加わり25カ国、4億5千万人以上の巨大な 経済圏ができた。テレビではハンガリーの状況が映像として映し出されていた。 実際に自分の行ったことのあるブダペストの英雄広場の映像は印象的だった。 ハンガリーはヨーロッパの中でも物価が安い国の一つで、バナナが1kg60円、 500mlのペットボトルは70円くらい、映画は100円もかからないくらい だった。EUに加盟することによって、この物価がどう変動するのかが気になる。 ブダペストでフェンシングの修行をしている友人がいるが、物価がどう変動して ゆくのか聞いてみたいなぁと思った。



[昔のいずみ]