最近のいずみ

Last Update:2004/7/31

パートタイムアスリートいずみ 4年目に突入!! 


■2004年7月31日(土曜日)
 千葉県印旛村にある順天堂大学で行われた日本運動生理学会に参加。電車で行くか、 車で行くかで悩んだが、電車の乗り換えが面倒で車で行くことにした。
 できるだけ高速を使わずに行こうと思い、川越街道を走っていたが、出発して早々 渋滞があり、ガックリ・・・その後の道も思った以上に混んでいた。結局、高速に は乗らず3時間かかって順大に着いた。
 午前中は大会会長の講演と招待講演。招待講演はアメリカ人だったため、言語は 英語。全くわからなかった。
 午後からは、教場に入ってシンポジウム。教場は私立大学なだけあって施設が きれい。教場にもメインのスクリーンのほかに4つの液晶画面があった。
 シンポジウムは「運動生理学研究の未来を切り開くテクノロジー」というテーマで 5人の先生が話をした。一番興味を持ったのは、「人間は持っている筋肉の何%を 活動させているのか?」という研究。この研究は、下腿三頭筋をつかい、運動前と 運動後でMRIを撮り、筋肉の活動を調べ、3次元の立体にして活動している筋肉を 色で示していた。結論は、もっとも活動していた筋肉(腓腹筋内側頭)で45%。 身体から遠ざかる遠位部がよく活動しているというものだった。今までは、筋肉は 1つの動作をするときに、同じ筋肉ならば均一に活動しているものだと思っていたが、 実は、半分も活動していなくて、活動場所も不均一だった。研究というのは、 細かいことを随分お金かけてやるものなんだなぁと思った。
 帰りは渋滞でドライブも辛いので、どちらかというと千葉に近い東京にある 妻の実家にお願いして泊めてもらうことになった。これでドライブする時間も 短縮するだろうと思っていたが、渋滞がひどく、なかなかドライブからは解放 されなかった。
 横断歩道をおじいさんが渡ろうとしていたので、横断歩道の前で止まったあと、 おじいさんが渡ってしまったので、発進しようとしたとき、2つ後ろの車から 「キキキキキキキーッ」というブレーキの音が出て、「ガシャーン」という感じで、 1つ後ろの車にぶつかった。自分のところまでは玉突きにならずに済んだため、 何事もなく発車した。後ろの車が車間をしっかり取っていなかったら、自分も 事故に巻き込まれていた。
 交通事故は自分が注意しても、周りの人が注意してなければ、何の予防にも ならないと思った。とにかく、事故に遭わなくてよかった。

■2004年7月30日(金曜日)


空いてます
 新宿にある、とんかつ茶漬けがウリのお店へ久しぶりに行った。お店は2階が 喫煙席、3階が禁煙席。2階はかなり混んでいたのに、自分たちの入った3階には 誰もお客さんが来なかった。妻がとんかつを食べる人は、みんな喫煙者なの?なんて わけのわからないことを聞いてきた。自分たちだけのためにわざわざ3階にお客さんを いれなかったのではないかと勘違いするくらい、静かでゆっくり食事ができ、自分たちが お店を出るまで、3階へはお客が来なかった。
 妻はとても気分良く食事をし、子供も泣くことなく元気で、家庭円満で満足な 夕食になった。

■2004年7月29日(木曜日)
 腰痛が緩和し、身体が動かせるようになったので、腰に負担の少ない水泳をした。 初めはクロールと背泳ぎを交互にやっていたが、1000m泳いであきたため、 平泳ぎとバタフライをしてみた。どちらの泳法も呼吸をするときに背中を反る 動作があるため、泳ぎ終わった後は腰や首が疲れた。これだとまた痛みが 出てきそうなので、結局最後はクロールと背泳ぎ。久しぶりに運動ができた。

■2004年7月28日(水曜日)


集合写真
 職場の送別会。8月で4人が転勤することになった。短い人で1年4ヶ月、 長い人は14年の体育学校勤務。異動先の近い人は引っ越しをする必要はないが、 九州へ引っ越す人は、いろいろと手続きがあり、大変。自衛官は引っ越しが多いが、 ずっと転勤がなく、同じ職場にいると、荷物も増え、いざ転勤となったときに、 大量の荷物を、捨てる物と持っていく物とに分けなければならない。14年勤務 していた人は、300kgもの荷物を捨てたと言っていた。この重さはまったく 実感がないので、どれくらいのものかわからないが、とにかく、量は多そう。  子供が大きくなればそれだけ物は増えるし・・・引っ越しを前提に生活を考えると、 質素な生活が引っ越しを楽にするのかなぁと思った。

■2004年7月27日(火曜日)
 昨日から急に腰痛になった。ただ朝起きたときに腰が痛かったというだけ。 寝違えた感じもないし、原因がわからない。一昨日の行動を考えてもいつもと 違うことと言えば、高速道路の運転くらい。でも3時間くらいのものだから、 別に身体を酷使したわけでもない。
 昨日は、腰だけの痛みだったが、今朝は首まで痛みが来ていた。首を曲げるのも きつく、まるでむち打ちになった感じ。午前中のうちに首の痛みは緩和してきたが、 腰痛は相変わらず。椅子に座るのがきつい。昨日に続き今日も運動ができず、 精神的に悪い。人からは、顔色が悪いねぇ、今日は無口だけど、何かあったの? と聞かれた。そんなにいつもと様子が違っていたのだろうか?普段はよくしゃべる キャラクターとして見られていたのか?とにかく身体の様子がいつもと違うので、 行動や様子も違ってくるのだろう。
 先週からやっとまともに練習をするようになったのに、1週間で振り出しに戻って しまった。どうやって治そう?寝ているのが一番いい?

■2004年7月26日(月曜日)


東海県人会
 体育学校の東海県人会があった。今回は8月に異動が決まった2人の送別会と 4月から新しく体育学校の選手になった新人の歓迎会。この時期まで歓迎会が 延びてしまったのは、アテネオリンピックの代表選考会が続いていたから。 選考会が終わったら、代表選手の壮行会をする予定にしていたが、結局 東海県人会からはオリンピックの代表選手は選ばれなかった。
 新人に体育学校での目標を聞いたところ、レスリングの2人は日本の チャンピオンを目指すと言っていた。アーチェリーの新人は世界選手権出場を 目標にすると言っていた。それぞれ今よりも上のランクを目指し頑張るようだ。
 転勤することになった方からは、次の北京オリンピックでは、東海県人会 から代表選手を出して欲しいという要望があった。代表選手が出るようにサポート してゆきたい。

■2004年7月25日(日曜日)


スイカとご対面



柵木家にて
 昨夜は窓を開けるだけでそよ風が入り、気持ちよく寝られたが、朝方は 寒いくらいで毛布にくるまって寝ていた。子供も寝苦しくて泣くこともなく 夜は起きることもなく寝てくれた。しかし寝る前と起きたときでは身体の方向が 180度回転していて、なかなかの寝相だった。
 午前中は朝食後スイカを食べた。柵木家には縁側のような廊下があり、 窓を開けて、廊下に腰を下ろし、足を投げ出してスイカを食べた。 スイカの種はそのまま庭に飛ばし、なかなか気分が良かった。自分の家でやったら、 新聞でもしいておかないと、後始末が大変だが、ここではお庭。この種が 育ってスイカが出てきたら、更に楽しいだろうと思った。 久しぶりに「日本の夏」の風景に接することができた。
 夕方になると道路が渋滞するので、昼頃には柵木家を出発した。御殿場インター へ行く前にインター近くの二の岡ハムという有名なお店へ行った。明治時代に 外国人が始めたお店らしく伝統があり、手間暇かけた製品のため、値段は高かった。 たまにはおいしいベーコンやハムを食べてみようと思い、値段には目をつぶって 買った。
 帰りの高速道路は、順調で、環状8号線も渋滞がなく、2時間もしないうちに 和光市まで帰れた。往路の半分の時間。渋滞の影響はとても大きい。

■2004年7月24日(土曜日)


町内会の盆踊り大会
 朝6時半から体育学校の長距離が30qを走るというので、自分も一緒に 入れてもらい、20qを走ることにした。入りの5qから4分/q以上の ペースになり、距離が伸びるほどスピードは落ちてゆく・・・ペース走を やっているというよりもジョッグをしている感じ。結局最後まで走りきれず、 15qでやめた。
 練習後、家に帰って朝食を食べたらすぐに御殿場へ出かけた。出発したのが 10時くらいで、環状8号線は渋滞。東京インターへ行くのに普段の倍以上 時間がかかった。東名高速道路へ入っても川崎から厚木までが渋滞。ずっと ノロノロ運転で疲れた。厚木を越えた後は順調で、家を出てから4時間くらい で御殿場へ到着。
 御殿場へ来た目的は大学同期の柵木くんのお家へお泊まりするため。 柵木家には、埼玉から彼の両親も来ていて、やっと自分の子供を見せることが できた。
 御殿場は、昔から避暑地として利用されているだけあり、涼しかった。 クーラーはいらないし、扇風機もほとんど使っていない。自然の風だけでいい。 夏は涼しいが、冬は寒い。国家公務員は静岡で寒冷地手当をもらっているのは けしからん!!ということで、なくなる方向で検討されているようだが、 御殿場の冬はもの凄く寒い。寒冷地手当をなくすといっている人は、御殿場で 生活してからそういう発言をしてほしい。北海道へ行かなくてもこんなに 近くに涼しいところがあったのかぁ、と新しい発見をした気分だった。

■2004年7月23日(金曜日)
 月曜から本格的に練習を再開し、トラックでも練習をするようになった。 今日は800m、600m、400m。全力ではないが、気持ちよく走りきれる くらいのペースで走るようにした。しかし、3本とも出だしは気持ちよく 行けるが、後半は、身体が固まり、全力で走っているのと変わらない状態に なった。それだけフォームもよくないのだろうし、持久力もないのだろう。 少しずつ、トラックでの練習に身体を慣れさせ、1ヶ月後の関東選手権では 走りきれるようにしたい。

■2004年7月22日(木曜日)


納涼祭の雰囲気



花火にくぎ付け



ナイアガラの滝
 駐屯地納涼祭があった。仕事はいつもより30分早く5時で終わり、職場によっては 5時過ぎから乾杯が始まっていた。催し物としては、ラッパ隊や音楽隊の演奏、盆踊り、 仮面ライダーショー、花火があった。駐屯地のグランドは、自衛官の家族を中心に、 外からのお客さんが大量に入ってきて、人にぶつかって真っ直ぐ歩けないほどだった。
 うちの妻と子供も遊びに来て、子供は、いろいろな人に愛嬌を振りまいていた。 愛嬌を振りまきすぎて疲れたのか、抱っこをしているうちに寝てしまった。あまりに も人が多く、泣き出すのではないかと思っていたが、すんなり寝てくれて、親としては 助かった。
 子供が花火を初めて見ると、大きな音が出ているので、驚いて泣き出すと聞いていたが、 うちの子は、泣くことはなく、ジッと花火を見ていた。
 家に帰っても、その興奮は変わることなく元気で、夜寝かせるのが大変だった。

■2004年7月21日(水曜日)
 昨日は東京で気温が39.5度。実際には地面からの照り返しがあるので、 どう考えても外の気温は40度を越えていた。今日も気温は38度だったので、 40度は越えているはず。自分が子供の頃は、気温が30度を越えれば、暑い という感覚だったが、もう今では30度なら涼しい方だという認識になってきた。 昨年は冷夏でクーラーは全く使わなかったが、さすがに今年はクーラーを 使わざるを得なくなった。電気代、いくらかかるんだろう・・・

■2004年7月20日(火曜日)
 昨日、知人の奥さんがガンで亡くなられた。ガンだとわかってたった1ヶ月。 30代で、身体の細胞が元気なためか、ガン細胞にも勢いがあり、亡くなるまで の期間があまりにも短かった。
 自分の部下が亡くなったときは約半年。人によっては余命3ヶ月と言われて 10年以上生存している場合もある。運といえばそれまでだが、この急激な 変化には、見守る人たちの気持ちがついて行けない。自分の家族が同じような 状況になったら、当分立ち直れない。喪主には、かける言葉がなかった。気を 落とさずにと言っても、なんの力もない。明日のことは誰にもわからない。 あらためて家族を大事にしようと思った。

■2004年7月19日(月曜日)


同期の柵木くんと
 大学の同期が週末、朝霞の演習場で訓練をしていて、今日終わったと聞き、 朝霞駐屯地内の宿泊している施設へ冷やかしに行った。訓練中は、ずっとレトルト食品 ということで、野菜が食べられず、便秘で苦しんだそうで、駐屯地の食堂で 夕食を食べ、やっとまともなものにありつけたと言っていた。ひげそりを持ってきて いなかったため、ヒゲはかなり生えて、本当に疲れてやつれた顔をしていた。 しかも訓練中、風邪を引いていたらしく、体力の消耗は激しかったらしい。 日中は相当暑かっただろうし、この時期の訓練は、本当にご苦労さんとしか 言いようがない。

■2004年7月18日(日曜日)


学校創立記念式典
 自衛隊体育学校43周年記念式典とアテネオリンピック代表選手壮行会が行われた。 国務大臣や国会議員3人が来賓で祝辞を述べられた。
 国務大臣の小野清子さんは、昔は体操選手としてローマと東京のオリンピックに出場し、 銅メダルを獲得している。今では国家公安委員長という、スポーツとはまったく かけ離れたお仕事だが、日本女子レスリング協会の会長だと紹介されていた。その 他にもいろいろな組織や団体の長をされているのだろうが、日本オリエンテーリング 協会の会長でもある。体育学校の競技種目にはないので、それは紹介されなかった。
 最近はスポーツ選手が国会議員になるとマスコミの話題になるが、昔から、スポーツを 極めた人が政治の世界に入ることがあったことを知った。これからも勉強だけを してきた人でなく、スポーツを極めてきた人が政治の世界に入り、国を動かして いって欲しいと思った。

■2004年7月17日(土曜日)
 「たばこを吸う人は、吸わない人より10年も早死にする」という調査結果がイギリス で発表された。男性約34000人を50年間にわたって追跡したというのだから、 調べる側も調べられる側も完全にじいさんになっている。よくそこまで調査したなぁと 感心してしまった。
 喫煙者は肺ガンによる死亡率が非喫煙者の15倍。40歳までに禁煙すれば、寿命は 非喫煙者とほとんど変わらず、50歳からの禁煙でも、喫煙者よりは平均6年は長生きする。 そのため、中年以降の禁煙でも効果がある。というもの。
 よく考えると、50年前は、タバコも中身が違っただろうし、これだけ長い調査の 間には、いろんな環境が変わってしまっているので、そのままこの結果を受け入れて いいのだろうか?と思った。

■2004年7月16日(金曜日)
 昨日から当直で、昨夜は深夜に駐屯地の見回りがあって、寝るのが遅かった。 その割には朝早く目が覚めたため、久しぶりに朝練をしてしまった。 といっても30分ジョッグ。でも普段は朝練をしていないので、自分では すごいことをやっているような感覚になった。
 睡眠時間は少なかったので日中はずっと眠気があり、集中力がなかった。 夕方、60分ぐらいジョギングしようと思って走ってみたが、30分したところで きつくて歩いてしまった。以前のように睡眠時間を削ってトレーニングする 身体ではなくなっている。しっかり寝よう。

■2004年7月15日(木曜日)
 NHKのBSでオリンピックに関連した番組が連続で放送された。柔道の古賀選手、 マラソンの瀬古選手、ロシアのシンクロチームの特集。
 古賀選手はアトランタオリンピック決勝で、相手に警告が与えられたため、 このままいけば勝てると思い、守りに入ったことが負けにつながった。 このレベルの選手は精神面は当然強いものだと思っていたが、どんなに トレーニングができていても最後は、精神的な面で攻めていけるか守りに 入るかで勝敗が変わってくるのだなぁと思った。
 瀬古選手は、朝10kmの朝練をして、午後は20000mのレースで 59分台だったため、納得できず、夜10時から30kmを走ったという エピソードが紹介されていた。自分を追い込みすぎではないかと思えるほどの 練習量で驚いた。ロサンゼルスオリンピックは、練習のやりすぎで結果が 出なかったのではないかと思えてきた。
 ロシアのシンクロチームは、子供の頃から、シンクロの学校でたくさんの 選手が世界を目指しトレーニングしていた。シンクロをする土壌が日本より しっかりしているので、日本が今の環境で世界のトップチームとして戦って いるというのは相当な努力があるように感じた。

■2004年7月14日(水曜日)
 3週間ぶりのアンビバレンス練習会。この1週間はスピードをあげるような 練習はせず、ゆっくりと長い距離を走るだけで、どちらかといえば今までの疲労を 抜くための練習という位置づけだったが、長く走ったことによって逆に疲労が たまってしまった。
 今日のメニューが8000mのビルドアップ走。3分50秒くらいから入り、 1000mごとに5秒ずつくらいあげて、最後は3分13秒。残り1000m くらいから気持ち悪くなり、何度も吐きそうになった。そのたびにグッと呼吸を こらえなんとかゴールまで走った。もう少し気持ちよく走れると思っていたが 追い込みすぎた。最後に600mのウィンドスプリントをしたが、スピードは 上がらず、フォームはバラバラ。後味の悪い練習になってしまった。

■2004年7月13日(火曜日)
 関東地方も梅雨が明けたとか。今年の梅雨は、梅雨らしい天気がなかった ような気がする。いったいいつ雨が降ったのだろう?という感じ。これだけ雨が降った という感覚がないと、この夏は水不足になるのではないかと心配してしまう。
 昨日は広島の呉で水道管が破裂し、何万人かの人に水が供給されず、ニュースに なっていた。普段は蛇口を回せば水は出るものだから、当たり前のものとして 認識しているが、断水になってしまうと、どれほど重要なものだったかを思い出す。 普段から水はしっかり確保しておこう。

■2004年7月12日(月曜日)
 アテネオリンピック陸上競技の日本代表選手が全て決まり、女子ハンマー投げの 室伏由佳も代表に加わった。女子の投擲でオリンピックに出る日本人選手は今まで あまり見たことがなかったが、今回は砲丸投げの森千夏と室伏の2人が出場する。 男子ハンマー投げのようにメダルに届くレベルではないかもしれないが、外国人 選手の刺激を受けて、日本記録を更新して欲しい。

■2004年7月11日(日曜日)
 デサントのバーゲンが東京ビッグサイトで開催された。昼過ぎに行ったので、 朝早く並んだ人たちは帰ってしまい、バーゲン会場はそれ程混雑はなく、ゆっくりと 商品を見ることができた。朝早く出かけた人たちと比べると、人気のある商品は、 減ったりなくなっているためか、自分の欲しい商品は一つもなかった。かなり期待して 行ったので、行って損したと思うほど、期待はずれだった。バーゲンは朝一で行って 周りのお客さんと戦うくらいの意気込みで行かなければ、自分の欲しいと思うものは 手に入らないのかもしれない。

■2004年7月10日(土曜日)
 体育学校の長距離選手が朝7時から30kmを走るというので、一緒に20kmを 走らせてもらった。6時台は思った以上に涼しく、20kmを走るのもペースが速く なければ、結構楽に走れるのではないかと思ったが、7時を過ぎて、気温と湿度が 上がり、4分/kmを切るペースで走っていくのが辛かった。前半の10kmを 3分50秒/kmで行ったが、後半10kmはペースが落ち、ジョギングのようになった。 最後は5分/kmを切るぐらいでしか走れなかった。
 走り終わった後、体重を量ってみると3kgも落ちていた。最近体重が重かったので これはいい減量になったと思ったが、夜になったら元に戻っていた。

■2004年7月9日(金曜日)
 拉致被害者の曽我ひとみさんと家族がインドネシアで再会することができた。拉致が なかったならば、こんな面倒くさい人生は送らずにすんだ。曽我さんがその日にお母さん と買い物に出かけなかったら、別の人生を歩んでいただろうし、夫のジェンキンス氏に ついても脱走兵ということを日本で知られることもなかったし、そのまま北朝鮮での 生活を送っていたに違いない。なんでもない日常生活における、ちょっとした選択が、 その人の人生を大きく変えてしまうことがあるのだから、1日、1日、その瞬間 その瞬間を大事にしなければなぁと思う。

■2004年7月8日(木曜日)


リンカーン大統領と



小樽運河
 昨日はレース中心の行動だったが、今日は、観光モード。レンタカーで小樽へ行った。 高速道路はお金がもったいなかったので使わず、ゆっくり小樽を目指した。途中で 北海道銘菓「白い恋人」のテーマパークを発見し寄ってみた。施設内には、全ての商品が 置いてあり、観光客が群がっていた。ベンチには歴史的な人物が座っていて記念撮影が できたり、ブリキのおもちゃの博物館や、1日に何回かは大きなからくり時計が動き、 注目を集めていた。「白い恋人」はJリーグコンサドーレ札幌のメインスポンサーで、 このテーマパーク内には、コンサドーレの公式練習場もあり、コンサドーレファンには たまらない施設ではないかと思った。
 小樽では妻が見たがっていた北一硝子の店を何軒も回った。北一硝子という店が 1件あるだけなのかと思っていたら、それぞれテーマがあって、数え切れないほど 多くの店があって驚いた。
 最後は、飛行機の時間を気にしながら、小樽運河を散歩。ただの古い倉庫が並んで いるだけだが、とてもいい雰囲気だった。
 帰りは残された時間が少なかったので、高速道路で千歳へ向かった。こちらの高速道路は、 車の数が少なく、全く渋滞はなく、飛行機の時間には十分間に合った。

■2004年7月7日(水曜日)


1周目



2周目



小林史和くんとうちの子供
 ホクレンディスタンスチャレンジ2004第5戦札幌大会1500mに出場。 この大会はアテネオリンピック参加標準記録を突破するための最後の大会。
 最近は週末も平日も家を空けることが多く、特に妻には迷惑をかけているので、 今回は家族を連れての遠征。
 朝5時半に出発し、羽田まで車を走らせ、9時の飛行機に乗り11時前には新千歳空港に 到着。あらかじめ予約しておいたレンタカーに乗り、札幌へ向かった。レンタカーに 装備されていたカーナビが1kmを1分で走破するように設定されていたため、時間が 見積もれず、競技場へ着いたのは、ウォーミングアップを始めようと思っていた 時間ギリギリ。かなり焦ったが、間に合ってよかった。
 ペースメーカーは、800mまでを川上(体育学校)、その後は、ダビリ(流通経済大) が行くことになっていた。参加人数は9人。800mのような人数だったが、 タイムを狙って行くにはちょうどいい人数だった。
 自分の目標は3分53秒台。先頭は3分38秒切りを目指しているので、 張り切ってついてゆくことはしなかったが、先頭が速いので、それにつられて 1周目が58秒くらい。600mを過ぎたところで力尽きジョッグ状態になった。 しかし後ろから来た2人の選手の後ろで我慢して走った。2周目の通過が2分01秒。 ペースが落ちたが通過のタイムはかなりよかった。そのまま残り1周になるまで、 ジョッグのような感じで我慢しながら走り、残り1周の通過が2分50秒。あと1周を 60秒で回れば3分50秒が見えると思い、前の2人を抜いてスパート。 自分では今出せる最高のスピードを出したが、全然前には進まず、ラスト1周は64秒。 6位でゴールし、タイムは3分54秒03だった。
 先頭はペースメーカーのダビリがそのまま逃げ切り3分38秒72。2位はNTNの 小林史和くんで、3分38秒90の自己新。日本国内では5年ぶりの3分38秒台の レースだった。5年前のレースにも自分は偶然出場していて、国内で2度もこういう レベルのレースに出ているのは自分だけではないかと思った。
 シーズンベストだったが、全日本実業団の標準記録が3分54秒0なので、 わずか100分の3秒足りず、目標に届かなかった。また次のレースで頑張ろう。

■2004年7月6日(火曜日)
 本州のほとんどの地域で、この夏一番の暑さを記録したらしい。 東京も32℃を越え、かなり蒸し暑かった。外はかなりの暑さなのに、 部屋の中は相変わらず極寒で、長袖を2枚重ねて着ても寒かった。 クーラーがオンとオフしかないのが本当に困る。1日部屋で座っていると、 頭痛になってくるし、外に出たときの怠さは、普通ではない。まだまだ 夏は始まったばかり。このままこの状況が続くと思うと、気が重い。

■2004年7月5日(月曜日)
 捻挫の痛みがずっと残り、変化がないので、また医務室へ行って診てもらった。 今回は別のストレスをかけてレントゲンを撮った。結果は、左右とも正常範囲と いうことで問題なかった。どうしても痛いのなら注射をうてば、痛みはなくなる そうだが、痛みが消えるのは1日か2日くらい。あまり意味がないので、注射は やめてもらった。時間が経って、自然に痛みを感じなくなるまで待つしかない ようだ。

■2004年7月4日(日曜日)


決勝(800m通過)



山崎、中村、和泉
 神奈川県選手権最終日。1500mの予選と決勝があった。予選は4組あり、 3着までと3着以降タイムの速い者が3名決勝進出。
 予選は、たった7人で、スローペースだったため走りやすかった。最後の 200mくらいでペースは上がったが、まったく焦ることもなく、無事トップで 決勝進出した。タイムは4分08秒15。体力測定で走るタイムとそれほど 変わらない。
 決勝は、5時間後。1時間半くらい昼寝をしても十分時間があった。決勝も 予選と同じような展開で、最後に頑張れば優勝できるものだと思っていたが、 現実は予想通りにはいかなかった。1周目から飛び出す選手がいて、1周目を57秒。 あまりにも速すぎたが2番手でしっかり後ろについてしまった。2周目も1分59秒 くらいで通過し、先頭はそこで棄権。残された自分は、先頭になり、急激にペースダウン。 少しして高校生が先頭に出たので、負けてはまずいと思い、頑張ってついた。
 残り250mで3番手にいた平塚市役所の選手がスパートを仕掛けてきて、 全くつけず、ゴール手前まで3位。このまま3位だと思ってゴールをしたら、 フィニッシュで日大の学生にかわされ4位でゴール。タイムは3分59秒04。 ペース配分は悪いし、気持ちもまったくのっておらず、最悪のレースをしてしまった。 トップは3分55秒台。残り250mで先頭に4秒も離されたがさらにショックだった。
 自分の結果は反省ばかりだったが、アンビバレンスは、このレースで4,5,6位を 占めた。5位は昨年までは日産で選手をしていて今年からメンバーになった山崎くん。 6位は、今年高校を卒業してメンバーに入ったばかりの野沢くん。表彰台には 誰も上がれなかったが、自分を含めて3人が関東選手権へ進むことができた。

■2004年7月3日(土曜日)
 明日のレースの調整をしようと思い、グランドに出たが、ウォーミングアップで ジョッグをしているうちにやる気が失われ、20分ジョッグで終了。蒸し暑さで 走る気力がなくなってしまった。
 気分を入れ替えて、少し水泳でもやってみようと思い、プールへ行った。 久しぶりに水泳をして、ゆっくり泳いでいるのに上半身はパンパンに張って、 筋力トレーニングをしているようだった。レースの調整としてはあまりよくなかった。

■2004年7月2日(金曜日)


イラクへ行く同期と



防大陸上部OB会後
 大学の陸上部OB総会に参加。仕事が終わったのが遅かったので、急いで 駅へ向かっていたら、滅多に会うことのない大学の同期を駅前で見かけた。 時間はなかったが、何でここにいるの?と声をかけてみたら、明日から イラクへ行くという返事が帰ってきて、驚いた。出国前日という、すごい タイミングで会ってしまった。半年後、無事に帰ってきて再会できることを 祈る。
 陸上部OB総会では、OB会や防大生の活動状況、50周年記念誌作成 計画などが発表された。陸上部のOBでも明日からイラクへ向かう人が 6,7人いて、紹介があった。その後は立食パーティー。部長や知っている 先輩と話して、あっという間に時間が過ぎた。
 隣の会場でも航空自衛隊の補給関係のパーティーがあり、陸上部の先輩や 後輩が出席していた。こういった会合が重なったときって、どちらに行くか 難しい。やっぱり仕事に関係のある方が最優先。でもこちらの会合のおかげで、 卒業以来会ったことのなかった後輩に会うことができた。

■2004年7月1日(木曜日)


富良野にて
 滝川から富良野経由で旭川空港へ向かった。富良野では、ふらの果汁工場で試飲、 ミルクアイス工房でジェラートを食べ、チーズ工房でも試食し、あとはラベンダー畑を 見れば、富良野を観光したことになるだろうと思っていたが、飛行機の時間に間に合わなく なりそうになり、ラベンダー畑は見ることができなかった。
 滝川から富良野経由で旭川空港まで100km以上はあった。少しは観光できたが、 ほとんどは車に乗っていた。涼しい気候、どこまでも続きそうな真っ直ぐな道や 畑を見ることができ、北海道に来たという気分になることができた。



[昔のいずみ]