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Last Update:2005/1/31

パートタイムアスリートいずみ 5年目に突入!! 


■2005年1月31日(月曜日)
 先週末から当直で、今朝まで就いていた。今朝は2時から4時までが駐屯地内の 巡察だったため、睡眠時間は少なく、1日眠気との戦いだった。
 夜には、職場の航空自衛官だけが集まり、1月に昇任した人や、いろいろな試験に 合格した人などのお祝いも兼ねて新年会。お酒を飲んだら、すぐに酔っぱらった。 その席で、一番若い子がなかなか昇任できないということが話題になり、みんなで協力して、 合格できるようにしよう、という合意に達した。この集まりは人数が少ない分、 結束がかたく、すぐに行動できる。良い集まりだ。

■2005年1月30日(日曜日)
 大阪国際女子マラソンをテレビ観戦。今回は、2000年のヨーロッパ遠征で、 一緒になった小崎さん(ノーリツ)と大南さん(UFJ銀行)、合宿で一度一緒に 飲みに行ったことのある弘山さんが出場していた。3人とも前半はトップ集団で 走り、10km過ぎからは大南さんが独走した。
 30km手前で大南さんは失速し、ブロコブツカ選手(ラトビア)に抜かれ、 どんどん順位を落としてしまった。後半盛り返したのが小崎さんと弘山さんで、 小崎さんは2位、弘山さんは3位に入った。
 小崎さんは2時間26分以内で日本人1位という条件をクリアーし、世界選手権 マラソン代表に内定し、弘山さんも2時間26分という条件はクリアーし、代表の 可能性を残した。
 テレビを独占したのが、たまたま知っている人ばかりで、頑張っている姿を 見ることができ、応援できた。自分はかなり競技力が落ちてしまったが、特に 36歳の弘山さんを見ていると、まだまだあきらめてはいけないと思えた。
 この大会にはアンビバレンスから2名が参加していたので、映らないかなぁ?と 期待して見ていたが、一度も映ることはなかった。残念。

■2005年1月29日(土曜日)
 体育学校の選手と久しぶりに練習。メニューは1000m(2'45")、600m(1'30")、 400m(55")、300m(40")。昨日のサーキットトレーニングでかなり体が動いていたので、 うまくいけば、全てこなせるのではないか、と思っていた。
 600mまでは、余裕を持って走ることができたが、400mと300mは全力で、300mは、 痙攣したが、全て設定通りで走り切れた。
 4本とも設定通りでこなせたのは、自分だけ。大きな自信になったが、選手とは 普段の練習量が違い、それまでの疲労の蓄積が違う。毎日こういうレベルのトレーニングでは、 自分もすぐにつぶれてしまう。
 たまにレベルの高い練習をするから、走れるのであって、自信にもなる。自分にとっては、 今の練習のやり方が、もっとも適当な練習なのかもしれない。

■2005年1月28日(金曜日)
 トレーニングはサーキットとペース走。サーキットトレーニングは、久しぶりに 体が動き、3セットでいつもより1分くらいタイムが短縮された。このタイムが 出せていたのは3年前くらいまで。陸上を仕事としている時には、普通に出せていた タイムだが、最近は動きも悪く、全く出せないタイムだった。どうして急に動く ようになったのかはわからないが、良い傾向。
 ペース走は6000m。ペースは3分30秒/km。疲労もたまっていたので、 いつもよりペースを遅くし、ほぼ設定通り走ることができた。
 今週は、毎日12時過ぎに寝て、4時半起きで、朝練をしているため、体が 疲れているが、その割には、今日は体が良く動き、ペース走も気持ちよく走れて、 かなり満足。

■2005年1月27日(木曜日)


具志堅幸司さん
 ロサンゼルスオリンピック体操男子個人総合で金メダルを獲得した具志堅幸司さんが 職場へ講演にきた。2度の大きなケガを経験し、それを克服するたびに、多くのことを 学ぶことができ、金メダルという結果へつながったという内容だった。
 具志堅幸司さんの名前は、具体的な志を堅く持てば、幸せが司るというすばらしい名前で とても気に入っている、と本人は話し、名前の通り具体的な目標をしっかりと持つことが できたという。そして、イメージをする、考える、思いを込める、言葉が大事だという ことを強調された。
 オリンピックの時には、会場へ向かう途中で、3度も試技のシュミレーションをし、3度とも、 成功して表彰台の一番上に立って日の丸を見て、感動のあまり本番前なのにバスの中で 涙を流していたという。
 また、3ヶ月の入院をしたときには、それまでにできなかった技を想像し、何度も何度も 頭の中で繰り返し、リハビリで筋力トレーニングをしっかりしたおかげで、退院後、技術練習を していなかったのに、すぐにその技ができたというエピソードも紹介された。当時は イメージトレーニングという言葉がない時代。イメージすること、考えるということが、、 トレーニングの一つだということがよくわかった。
 「成功するということは、イメージがわくこと」「与えられている人には、考える力が生まれない」、「やりはじめてからの辛抱が自分をつくる」、「どっちみちやるんだったら思いをこめてやる」、 「本気になれば何かが変わる」、「言葉は現実を作り出す力がある」、「良い言葉をたくさん使う、 これが成功への道」など、印象に残る言葉がたくさんあった。
 久しぶりにいい話を聞けて、本当に得した気分になった。

■2005年1月26日(水曜日)


足の分析シート
 足の寸法や、特徴のわかる分析器で自分の足の測定をしてもらった。
 足の長さは左が277.1mm、右が275.1mm。どちらも標準よりは大きかった。踵の幅は 左右とも標準より細く、アーチの高さは左が標準よりも低かった。いつも市販の靴を 履くと、踵がぶかぶかしている感覚があり、アーチの上の部分にも隙間があるような 感じでフィット感がなかったが、この測定で、その感覚が正しいことがわかった。
 測定をしてくれた人から、革靴と運動靴の違いを教えてもらった。革靴は、足の長さ を基準としてサイズが決まっている。自分であれば、革靴は27.5〜28.0cm。しかし 運動靴は、スポーツ用品の一つとして始まったため、革靴とはサイズの決め方が違い、 靴の大きさがサイズになっている。普段自分は29cmの運動靴を履いているが、靴の 長さが29cm。なんで同じ靴なのに、運動靴と革靴でサイズが違ってくるのか?と 思っていたが、これで疑問が解決した。

■2005年1月25日(火曜日)
 歯医者の日。そして新しい歯をどうするかの決断をする日。
 結論は、セラミックのようには割れないが、見栄えが悪く値段の安い銀歯にすることにした。 ボーナスも使い道が全部決まって、さらに今後は大学院に関連した出費があるため、 30万円という額は出せないし、もし出せたとしても、今回割れた歯のように、 それほど長く保たなければ、さらにお金がかかるので、安いものでいいと思った。
 ブリッジの歯を削ってみると、セラミックの下の部分が少しぐらつき、しっかりと していないことが分かった。全てを取り除き、目の前にある金とセラミックでできた ブリッジの歯は、自分の意識としては、30万円の価値のあったものがただのゴミに なってしまったような感じ。金歯はまた再利用できるのだろうか?できるのだったら、 歯医者がそのまま横取りになるのか?なんていろいろ思ったが、もうどうでもよかった。
 こうやって簡単に価値のあるものがゴミに変わってしまうのはむなしく、詐欺に あったような気分。この怒りはどこにぶつけることもできず、このことに腹を立てることが バカらしい。もとを正せば、自分の小さい頃の歯の管理ということになる。 子供には、同じ思いをすることがないよう、歯の健康には気を付けたい。 

■2005年1月24日(月曜日)
 体育学校のOBでオリンピックで2度金メダルを獲得している三宅義信さんが トライアスロン女子のオリンピック代表選手、関根明子さんを連れて、自分の職場へ やってきた。今日は、脚の筋力と最大酸素摂取量を測定することになっていた。
 トライアスロンの選手は、上半身がしっかりしている印象をもっていたが、 関根選手は、陸上選手だったこともあり、想像していたよりもかなり細めの選手だった。 アテネオリンピックでは、水泳で出遅れたが、バイクで巻き返し、6位で通過し、 ランでは順位が上がらず、日本人トップの12位でゴールしている。
 年齢も近く、自分の地元の岡崎にも3年間生活していたという話も聞き、とても うち解けやすかった。
 測定後、測定結果の説明を始めると、途中からは三宅さんが現役時代のことを話し出し、 話題がだんだんずれていった。最終的にはトライアスロンの話に戻ったが、 結論は、水泳の力をどうやって上げていくかということになり、今日の測定では 下半身の測定だけで、泳ぎを見ているわけではないので、それに関してコメントする ことはできなかった。
 競技特性に応じたトレーニング方法を聞かれると、なんと答えて良いのやら・・・。 経験していない競技に対して答えを出すというのは、とても難しい。

■2005年1月23日(日曜日)


大量の仙台限定のお菓子
 7時過ぎにはホテルを出て、仙台駅へ向かった。こんな朝早くだと、お土産も 買うことができないだろうと思っていたが、駅では、8時前から多くの店が 開店していて、仙台名物は何でも買うことができた。牛タンが食べたくて お土産にしようと思っていたが、高かったので、あきらめて、定番の萩の月を 買い、新幹線に乗り込んだ。
 約3時間で帰ることができ、昼前には帰宅。昼食後眠くなり、子供と昼寝。 都道府県対抗男子駅伝をテレビで見ようと思っていたのに、見るのを忘れ、 起きたら2時半。テレビをつけると最終第7区の選手が走っていた。 長野と兵庫がトップを争い、自分の地元の愛知は第4位で頑張っていた。 ゴールまではまだ時間があると思い、テレビをパソコンの画面に切り替え、 自動車保険の見積もりをインターネットでしているうちに、駅伝は終わってしまった。 結局、愛知は4位。3位とは2秒差というのがとても残念だった。 愛知のアンカーはトヨタ自動車の浜野くん。自分と同じ学年だが、テレビでは ベテラン選手という扱いだった。自分の世代はまだ若いと思っているのは、自分たち だけのようで、一般にはかなり年のいった選手として見られているということを あらためて認識させられた。

■2005年1月22日(土曜日)


デザートビュッフェの時間です



3次会が終わったところです
 仙台で大学同期の結婚式。電車に一本乗り遅れ、到着予定よりも30分遅れて仙台についたため、 結婚式に遅刻しそうになったが、ギリギリ間に合った。
 今回は、新郎新婦どちらも陸上自衛官。招待者も大半が陸上自衛官。もちろん代表者のスピーチも 陸上自衛官。とにかく喫煙率が高く、披露宴会場はかなりけむかった。
 式場内では写真撮影が禁止されたのが、気に入らなかったが、それを除けばサービスはよかった。 披露宴では、新郎がウエイターに扮してワインを振る舞ったり、通常キャンドルサービスをする 場面ではビールサーバーを背負って、全員にビールをついで周り、食後のデザートビュッフェ でも新郎新婦が一人一人にケーキを配った。新郎新婦が中央の席に座っていることはほとんどなく、 披露宴中はとにかく動き回る忙しい新郎新婦だった。なかなか話す機会もなく、話せたのは2次会 以降だった。
 2次会、3次会は元自衛官を含む全員が自衛隊関係者で、自衛隊の飲み会という感じ。 こういうときには宴会好きの人が出てきて、うまく仕切ってくれる。なかなか楽しかった。 自衛隊を辞めた同期の中には、会社の取締役をしていて、次の株主総会で解任が決まりそうで、 これからどうしよう、と沈んでいる者もいて、経営者の厳しさを身近に感じてしまった。

■2005年1月21日(金曜日)
 子供に言葉が通じるようになってきた。「お座りして食べなさい」と言えば、座って 食べる。「ちょうだい」と言えば、持っている物を渡してくれる。今までは全く通じ なかった言葉が通じるというのは、なかなかの感動。
 話す言葉は、「マ、マ、マ」や「パ、パ、パ」という感じ、「アンパンマン」は 「アンマンマン」など、完全な言葉になっていないが、少しずつ言葉に近づいている。
 言葉を習得するには、はじめは大量のインプットがあって、聞き取りができるようになり、 その後、話せるようになってくるということを実感した。外国語習得も同じような順序を たどっていくことが最も自然なのだと思う。

■2005年1月20日(木曜日)
 今週は、脳が眠った感じで、特に一人でのトレーニングには集中できない。 トレーニングをしているときには、人から「かなり疲れてる?」と聞かれ、 「顔がなんか青いぞ」と言われた。そう言われて、その後のトレーニングはやめた。 調子の悪いときにトレーニングしてもケガをする可能性が高くなるだけだから。 自分では顔が青くなるほど、体調がおかしいとは考えていなかったが、自分が考えている よりは、体調は悪そうだ。
 昨日から立ったままの姿勢での仕事が多く、そのまま眠気で倒れそうになることが 何度かあった。今週は朝練もしていないし、普段よりは睡眠時間は取れているはず なのに眠い。血液検査をした方が良さそうだ。 

■2005年1月19日(水曜日)
 アンビバレンス練習会。短距離の練習に参加。メニューは500m+300mを 3セット。先月までの練習のようにジョッグでつなぐわけではなく、ウォーキング だったため、中距離の練習としてはつなぎの休憩が長すぎた。そのため回復した 状態でスタートでき、気持ちよく走れた。
 先週は、もの凄く寒かったが、今週は、先週と比べれば温かく、体も動いた。

■2005年1月18日(火曜日)
 新年になってから、冷たい飲み物を飲むと歯のしみる部分があり、虫歯だと思い、 歯医者へ行った。
 初めは歯茎と虫歯のチェックをし、その後レントゲンを撮った。虫歯の可能性の ある歯はいくつかあったが、歯のしみる部分は、何ともなく知覚過敏ではないかと言われた。
 それよりも大きな問題だったのは、7,8年前にブリッジ状にして入れた、セラミックの 歯が割れていたこと。特に痛みや不都合があるわけではないが、放っておくと、 さらにセラミックは割れてくるので、早めに新しいものに替えた方がいいと 言われた。しかし、このセラミックを入れ替えるには、ブリッジにした他の2つの歯も 取り除かなければなければならず、今入れているような歯にすると30万円はかかると 言われた。実際、今入っている歯も30万円はかかった。虫歯よりも優先した方が いいということで、決断は来週。どうしよう・・・

■2005年1月17日(月曜日)


もらったビール
 今年は2005年。100年前の1905年はどういう年だったか?と職場の人に 聞かれた。自衛官の話だから、日露戦争のことだと思った。答えは日露戦争の 日本海海戦だった。
 この日本海海戦で、日本の連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊38隻中34隻を 沈め完勝し、これを機にロシアはポーツマス条約を受け入れ終戦になった。
 日本の勝因は、船に当たらなくても爆発する信管を開発したり、戦法を研究したりしていた ことと、ロシアのバルチック艦隊が半年かけて日本海へやってきたときには、乗員が疲労や 訓練不足に陥っていたということがあった。
 この勝利によって、日本は大艦巨砲主義の時代に入っていたが、その後のアメリカとの 戦争で「大和」が沈み、最終的に敗戦となった。日露戦争後はこの大勝利を40年間 引きずり、大きな進化がなかったことが敗因につながっている。
 今回の話では、今日勝った戦い方に進化がなければ、いつかは負けるということだった。 昨日できなかったことが、今日できるとか、昨日知らなかったことを今日は知っているという 何でも良いから少しでも自分が進歩していることが生きていくのに大事なことだと思うが、 なかなか思うようにはいっていない。それに比べ、子供は日々進歩している。毎日子供を見る 度に、自分は反省。昨日よりも今日。努力しよう。

■2005年1月16日(日曜日)


出走前(父と)







チームのみんなで
 市民駅伝当日。コースは30.1kmで一般と高校の部は6区間。中学生は9区間で 走る。自分はアンカーへつなぐ5区。父はここ何年かこの大会に参加し毎年5区を走っている。 今回も同じく5区で出場。親子で初めて同じ大会に出で、しかも同じ区間で走ることができた。
 駅伝がスタートしてから、自分のところにタスキが来るまで、チームの順位は、全く分からず、 いつ来るのかも予測できなかった。一般のトップは、豊川工業高校Aチーム。豊川市の高校へ 通っている岡崎市民の集まりで、年末の全国高校駅伝の準優勝のメンバーが3人いた。 自分と同じ区間は副将の子でもちろん準優勝メンバーの一人。去年は別の区間で区間記録を 作っていた。トップが通過して10分近くたってやっと自分のチームが来た。あまりにも豊川 工業が速いので繰り上げになるかと思ったが、繰り上げは免れた。
 スタートしてすぐに、一般の2チームを抜き去ったが、その後は、中学生と高校生ばかり。 いくら抜いても一般チームは見えなかった。沿道の応援はタスキをもらってからタスキを 渡すまで切れ目がなく、後半の上り坂では、家族や知り合いの応援もあり、久しぶりに 大歓声の中で走れ、気持ちよかった。家族の応援を通り過ぎたあとに、嘔吐してスピードが 落ちたが、最後の曲がり角を曲がってから残りの50mくらいはかなりスピードを上げることが できた。
 結局自分が何位でタスキを渡したのかは分からず。ゴールへ行ってみて、チームが9位だった ことが分かった。区間順位は2位。タイムは11分24秒で、去年の区間1位よりは30秒ほど 速かったが、今回の区間1位は、自分より30秒くらい速く区間新記録で、豊川工業の 子だった。
 繰り上げはトップが通過してからの時間で決まっていて、豊川工業があまりにも速すぎる ため、最後の第5中継所は半分以上が繰り上げになっていた。みんなお祭りのように楽しみで 参加しているのに、タスキがつながらないというのは、可哀想な気がした。

■2005年1月15日(土曜日)
 明日の駅伝へ向けて、朝練は、コースの試走。距離は3.7km。走るコースは実家から 近かったので、ジョッグで行って、コースに入ったら少しペースを上げて走ってみた。 タイムは15分11秒。最後は少し登り坂になっていて、苦しかった。明日は12分くらいでは 走れそうな感じ。
 午後からは、チームの顔合わせ。今回のチームは高校のOBチーム。自分よりも5,6歳年上の 人たちの集まりで、全く顔の知らない人たちばかりだったが、メールでメンバーの写真は 見ていたので、問題なく会うことができた。
 集まった者だけで話しながらジョッグし、その後は、各自の調整。思っていた以上に走れそうな メンバーだった。

■2005年1月14日(金曜日)
 家族を連れて車で実家へ帰った。年末年始に家族で実家へ帰れなかったのと、 今週末に地元の駅伝に出場するすることが重なったため、家族での帰省となった。
 今回は、妻が車を運転。免許を取ってから初めての高速道路。環八を運転しているときは、 普通の運転で、特に問題はなかったが、高速に入って、スピードを上げはじめたら、 「恐い」を連発。そんなことを言われると、助手席に乗っている自分の方が恐いと思った。 静岡に入るくらいからは、呼吸がおかしくなり、体がハンドルにもの凄く近くなり、 だんだん周りが見えないような状態になってきた。そして、子供はお腹を空かせたようで、 泣き始め、妻の混乱は更に上乗せされたのかもしれない。初めはスピードも控えめだったが、 急激にスピードが上がり、車線を変更してきたトラックにぶつかりそうになったり、 車線をまたぎそうになりながら走行するなど、見ている方が恐かった。
 富士川サービスエリアで休憩をし、運転を交替したが、自分で運転する方が楽だった。 夜の東名高速道路は、トラックが多く、後ろから蛇行しながら、車線を空けるように 圧力をかけてくるなど、普段見られないような運転をする人がいた。また、猛スピードで 突っ込んでくる車は、恐かった。彼らはいったいどれくらいのスピードを出しているのだろう? どのくらいまでスピードのメーターが刻まれているのだろう?軽自動車に乗っている者と しては、全く想像ができない。

■2005年1月13日(木曜日)
 感染性胃腸炎が流行っている。我が家は年末に、子供と自分が同じような症状が出て、 下痢と嘔吐と発熱で苦しんだ。流行の最先端、流行に敏感な体だったのかもしれない。 ニュースでは全国の236施設で7821人が感染し、ノロウイルスが検出された人は、 疑い例も含めて5371人になっているという。亡くなった方は16人。箱根駅伝の 中継スタッフも弁当で96人が感染した。
 まだまだ感染者は増えそうな勢い。口から感染するのがほとんどで、食中毒として 診断される。うがいと手洗い、あとは生ものや子供のオムツには注意したい。 

■2005年1月12日(水曜日)
 今年最初のアンビバレンス練習会。メニューは10000mビルドアップ走。 最近は長い距離を走っていないので、距離を走るだけで、精神的な負担があった。 前半は4分/km切りくらいから入り、後半は3分30秒/kmを切った。 最後の4000mは一人で走る4000mのタイムより速く、かなり追い込めた。 人と一緒に走ると、良い練習になる。

■2005年1月11日(火曜日)
 テレビをつけたときに「母親のうつ」という内容の番組がやっていた。最近は、 テレビを見る機会が少なく、子供がNHK教育を見るくらいなので、スイッチを入れると だいたいNHK教育が映る。
 今回は、産後の母親に起こりやすいうつ病ということで、多くの体験談が語られていた。 子供を産んで1ヶ月もしないうちに、うつだとわかりその後は、子供を周りの人たちに 育ててもらいながら治療をしている人もいた。深刻になると自分の命を絶ちたいと思う 人やストレスをそのまま子供にぶつけてしまう人もいる。最近、子供の虐待についての ニュースをよく聞くが、うつになっている人が多いためなのかもしれない。
 妻にしても、気分の落ち込むときがあるし、母親になった誰もが陥る可能性のある 病気なのかなぁと思った。

■2005年1月10日(月曜日)
 第1回全日本トレイルオリエンテーリング選手権大会と埼玉県協会大会に参加。 場所は昨日と同じ国営武蔵丘陵森林公園。
 午前中はトレイルオリエンテーリング。トレイルは、道に沿って歩き、コントロール付近に つくと、3〜5本のコントロールフラッグがあるので、地図に載っているコントロールは どのフラッグかを正確に当てることを競う。かかった時間は関係なく正確性を競う。 正解はない場合もあり、その時には正解なしというところにチェックする。
 トレイルは、4回目なので、かなり慣れ、目印になるところから角度を見たりして、 スムーズに進んだ。タイムチェックというところでは、1分間で答えを出さなければ ならないところもあり、間違うとかかった時間に60秒が加算される。最終的に正解の数で 順位がつき、同点であれば、このタイム差が順位の差になる。
 結果は42位。13問中8問正解。タイムは81秒だったので、タイムチェックは不正解。 正解率は思ったより高かったが、56人中42位なので、正解率は後ろの方。まだまだ 経験を積まないと成績は上がってこない。
 午後の埼玉県協会大会は、埼玉パークオリエンテーリングツアーの最終戦。 今回はフリーポイント制。地図上にコントロールの○が書いてあるだけで、どうやって回るかは 自分次第。とにかく全てのコントロールを回って早くゴールへ戻ってきた人の勝ち。森林公園は 昨日走ったばかりで、以前にも走っているので、ミスも少なく、今回はいい結果が出ただろう と自信を持っていたが、結果は3位。トップは全日本チャンピオンの松澤さん。3分近くも 離された。
 最終的なツアーの総合ランキングは2位。オリエンテーリングにも慣れて、順位も悪くなく、 おもしろくなってきた。

■2005年1月9日(日曜日)


埼玉県総合2位(左)



埼玉県チーム集合写真
 全日本リレーオリエンテーリング選手権大会に参加。この大会は、都道府県対抗の 大会で、選手権クラスから、シニア、ジュニアなど、9クラスに分かれ、各クラス別と 都道府県総合の順位を競う。1チームは3人。自分は一番上の選手権クラスに 埼玉県代表の第2チームとして出場。埼玉県は2チーム出ているので、結果の良い チームが都道府県対抗の総合順位に絡んでくる。
 埼玉県第2チームは1区で12位、2区も12位。アンカーの自分は、すぐ前に 走っていた神奈川県チームを抜いて11位に上がったが、その後は同じクラスの選手 を見ることなく、中盤まで来た。後半は、地図と現在地をしっかりと一致させなかった ためにミスして、気が付けば愛知県の松澤さん(全日本チャンピオン)が近くにいた。 松澤さんについてゆけば確実だと思い、後ろを付いていったが、必ずしも同じコースを 回るとは限らず、方向が一緒だというだけだったので、自分のコントロールを探している うちに松澤さんを見失い、一人旅。後半、宮城県に追いつき、抜いた後、またミスをして、 気が付けばまた宮城県が前にいた。最終コントロール前で宮城県を抜き、そのまま ダッシュでゴールまで駆け込み、結局12位。
 埼玉県は優勝したクラスはなかったが2位が多く、結果は総合2位。1位は日本代表が たくさんいた東京都。3位は神奈川県。関東勢が上位を独占した。
 自分のコース順位は34人中15位。23区間中1位が2区間、2位が4区間あったが、 20位以降が8区間もあり、大きなロスを何度もしていた。しかし、一番上のエリート クラスで中盤の順位なので、まずまずだと思う。
 

全日本リレー選手権クラススタート直後

■2005年1月8日(土曜日)
 体育学校の三澤くんと外環沿いの歩道でヒルトレーニング。200mくらいの 坂を12本ダッシュ。お互い年明け後、最初のスプリントだったので、前半は 抑えめに行ったが、全力で行っても抑えめにいっても、あまり変わらない感じで、 かなり心肺機能には大きな負荷がかかった。8本目からは急にスピードも上がり、 だんだん気持ち悪くなってきたが、最後まで吐かずに走れた。
 明日は、全日本リレーオリエンテーリング。坂道は今日よりきついことはないだろう。

■2005年1月7日(金曜日)
 練習はサーキットトレーニングとペース走。サーキットトレーニングは、火曜日 よりは、タイムは上がり、脈の最大も低かったが、まだまだ本調子ではなかった。
 ペース走も火曜日よりはタイムは上がっているが、中盤、なかだるみがあり、後半 頑張ると、やっぱり吐きそうになる。まだまだ心肺機能が運動に適応していない。 前向きに考えれば、鍛え甲斐があるってことか。

■2005年1月6日(木曜日)


同じテーブルで記念撮影
 職場関係者の定年退官パーティーに出席した。年に1,2度こういうパーティーに 出席するが、定年になった日から突然、生活環境や生活リズムが変わってしまうのだから、 どんな感じなんだろう?と考える。自衛隊では定年の年齢になった日、つまり自分の 誕生日が定年の日になる。それを境に今まで毎日通ってきた場所へ行く必要がなくなる。
 再就職した人は、早ければ次の日からその会社へ出勤する。30年くらいで作られた 人間関係も全てが白紙。また1から人間関係を構築する必要がある。人によっては、 今までの人間関係の影響がなくなり楽になる場合もあるかもしれないが、普通は、 この急激な変化は、大きなストレスなんじゃないかなぁ?と思えてならない。
 再就職しない人は、急に暇になる。何か自分の趣味でも持っていないと、暇を もてあますだろう。毎日がそんな感じだとこれもまたストレスになるような気がする。
 自分が定年する頃は、もっと定年の年齢も上がり、年金もどうなるかわからない。 好きなことをたくさん見つけて、それを軸に生活していくことが、快適な生活への道なのかなぁ と思う。貯金をしっかりとしておいた方がよさそうだ。

■2005年1月5日(水曜日)
 2分ダッシュ+2分ジョッグを12セットの48分変化走。北風が強く、 風上に向かうときは全然進まなかった。ニューイヤー駅伝も後半の区間は 風の影響がかなりあったが、こんな感じだったのかなぁ?と思いながら走った。 12セットが終わったところで、やっぱり吐きそうになった。心肺機能が 弱っているし、当分はこの吐き気ともお友達で頑張るしかなさそう。
 今日は小寒。今日から「寒の入り」ということで、節分までは1年で 最も寒くなる時期になる。年末年始も寒かったが、当分は、この寒さとも お友達にならないとトレーニングができない。仲良くしてね。

■2005年1月4日(火曜日)
 3ヶ月半ぶりにサーキットトレーニング。この2ヶ月間、いくらかウエイト トレーニングをやってシャフトを持っているためか、意外とスムーズにできた。 心肺機能は対応しきれず、脈は200拍/分を越えた。
 サーキット後は4000mペース走。3分20秒/kmで走るつもりだったが、 風も強く、3分30秒/kmが精一杯。やっぱりゴール後は、吐いた。病気で 吐くより、練習で吐く方が、かなり楽。もう病気で吐くのはイヤだ。でも 練習で吐くのもやっぱりイヤだ。

■2005年1月3日(月曜日)
 妻の熱が高くなり、また救急の病院を調べた。今日は近所の病院がやっていたので、 すぐに妻を病院へ連れて行った。
 妻が病院へ行っている間に、一人で家事。久しぶりに布団を干し、掃除をした。 掃除機に子供がまとわりつき、きれいになっていない床にねっころがったり、 昨日までとは別人ではないかと思うほど元気だった。久しぶりに元気な姿を 見ることができ、うれしかったが、元気なら元気で、いろいろなものに興味を持ち 手を出し食べようとするので、逆に大変だった。毎日こうやって子供と格闘しながら 家事をこなしている妻の大変さを実感した。 

■2005年1月2日(日曜日)


雪を気にしてる
 また、子供の具合が悪く、朝から泣いてばかりだった。耳を気にしているようだったので、 また中耳炎かも知れないと思い、病院へ行くことにした。しかし近所でやっている病院は なく、所沢まで行くしかなかった。
午前中に病院へ入ることができたが、病院は混んでいて、診察は昼を過ぎた。 和光へ帰ってくると15時近く。初詣にも出かけていないので、そのまま近所の神社へ。 昨日の夜から妻も発熱し、具合が悪いようで、お参りしてすぐに家に帰ってきた。
 みんなが順番に体調を崩し、家族全員で去年の病気を引きずっている。今年の目標は、 家族全員が健康に過ごすこと。簡単なことのようで難しい目標だ。

■2005年1月1日(土曜日)


体育学校32位でゴール
 全日本実業団の応援。群馬まで電車で行ったが、高崎線や、高崎から前橋方面へ 向かう電車は1時間に2本くらいしかなく、乗り継ぎの度に30分くらい待たなければ ならなかったため、前橋へ入るのに、3時間半もかかった。電車の移動はつらい。
 レースは、1区から、黒人選手の走るチームがリードし、いつも上位に入っている チームがあまり入っていないという、厳しいレース展開。我が社は、1区は28位。
 2区で、松村さんが16人抜きで12位まで、順位を上げ、今年もシードがとれるかも しれないと思ったが、3区以降は、全員が区間30位台という走りで、結局ゴールは32位。 昨年と比べると、かなり悪い結果となった。しかし、1区でトップ通過したJALが33位 という結果に終わったのが一番の驚きだった。

群馬県庁からの眺め(遠くに見える山は赤城山)



[昔のいずみ]