最近のいずみ

Last Update:2006/6/30

パートタイムアスリートいずみ 6年目継続中!! 


■2006年6月30日(金曜日)
 大学の陸上部OB総会に出席。職場で会議などがあったため1時間ほど遅れて 会場へ駆け込み、顧問の挨拶ということで突然振られ戸惑ったが、自分の 意気込みなどを出席者へ話すことができた。その後は、多くの方から 話しかけられ、陸上部を強くすることや、卒業した後にしっかりやっていける ような教育をして欲しいなど、いろいろな期待が寄せられ、自分の学生に対する 指導に、多くの人たちが期待をしていることがよくわかった。
 会が終わるまで、ほとんど話っぱなしで、まったく食事ができなかった。それだけ 多くの人と話すことができうれしかったが、明日から試合があることを考えると、 複雑な気分だった。期待に応えられるよう努力します。

■2006年6月29日(木曜日)


お土産で
もらいました
(味は・・・)
 韓国から北朝鮮へ拉致されたとされる金英男さんが韓国の家族と再会し、 拉致ではなかったという会見を開いた。彼の話は、結局北朝鮮当局によって 決められた内容でしかない。横田めぐみさんの遺骨を鑑定したことは、 人権侵害だという内容もあり、実際に人権侵害が行われている国の人が人権侵害 という言葉を出すことには、拉致被害者家族でなくとも驚いたはずだ。
 しかし、時代が違えば、人権侵害ということは、平気で行われていたのではないか と思うと、自分たちも他の国を笑えないような気がしてきた。だいたい今の先進国 と言われる国は、一昔前までは、植民地として、平気で人の国を侵害してきた。また 奴隷として、アフリカの国々では、多くの人たちが、拉致どころではない仕打ちを 受けている。そういうひどい行いをしてきた国々が、今は世界の中心となり 物事を決め、北朝鮮という国ができるきっかけを作っている。北朝鮮という国は、 確かにとんでもない国かもしれないが、今の価値観からすれば、国連を動かしている 大きな国々もとんでもない国だったのではないだろうか?
 現在、北朝鮮やイランが非難を受けることは、核兵器をすでに持っている国々が、 まだ持っていない国に、今後は持つなということで、昔人権侵害していた国々が 今後は人権侵害をするなと言っているのと同じことのように聞こえる。
 今の国際政治は、考えれば考えるほどよくわからなくなってきた。 

■2006年6月28日(水曜日)
 奈良で高校1年生が父親のいないすきに、母親と兄弟を殺害し家に火をつけた事件が あったが、テレビでは、少年の心理状態などについて議論されていた。心理状態は、 本人しかわからないだろうし、事件を起こした後の本人には、事件を起こしていた瞬間の 心理状態は思い出すことができないのではないかと思った。
 レースの時でも、レース前とレース後の心理状態は、大きく違い、レース後にレース前の 心理状態を思い出すことはできない。たった2分前のことですら本人が思い出せない のだから、こういった事件で、赤の他人がいろいろと詮索するというのは難しいというよりも 不可能であるような気がする。しかし、動機などを警察は調べなければならず、 本当に大変な仕事だと思った。

■2006年6月27日(火曜日)


お世話になりました
 学生時代によく世話になった武蔵屋というお店に行った。ここでは、他のお店では 見ることのないドリンクメニューがある。焼酎を何で割るかというのが、普通の お店とは違う。トップガン(コーヒー割り)、バクダン(ラムネ割り)、ゲリラ (リポビタンD割り)、ナパーム(赤ワイン割り)など。このメニューの名前は、 自分たちよりもずっと昔の先輩たちが考えたらしく、代々先輩から後輩へ 受け継がれてきたなじみの店だった。しかし、このお店も今月で閉店になると いう噂を聞き、閉店前にもう一度行ってみようということになり、6年ぶりに 訪れた。
 最近は、先輩から後輩へのなじみのお店の紹介もなくなってしまい、 武蔵屋を知っている学生がいないようで、少し寂しい気がした。
 久しぶりに、行ったお店は、昔と全く変わらず、良い雰囲気で、昔話に 花を咲かせることができた。

■2006年6月26日(月曜日)
 公共交通機関では、雨の日になると傘の忘れ物が急増する。普段は持っていない 傘を手に持って出かけるからで、バスや電車の中でボーっとしていて、急いでバス停や 駅を降りると忘れやすい。今日は、そういう理由で、電車とバスで1回ずつ傘を置き 忘れた。
 最初は、つくば駅に着いたとき。駅を出てから気がつき、駅員さんに事情を話し、 列車の中に戻ることで見つけることができた。つくば駅が終点だったので、折り 返し出発するまでに時間があったため助かった。
 2度目は、帰りのバス。つくばセンターのバス停を降り、つくばエクスプレスの 改札を通った後、たまたま公衆電話を見たときに、傘が立てかけてあったので、 誰かが忘れたんだなぁと思った瞬間、自分の手に傘がないの気がついた。また 駅員さんに頼んで、外に出してもらい、急いでバス停へ戻った。バスはすでに いなくなっていたが、循環バスは、1度回った後は、休憩しているはずなので、 急いで自分の乗ったバスを探した結果、乗っていたバスが見つかり、傘を取り戻す ことができた。
 しかし、傘の置き忘れはこれだけでは終わらず、学校帰りに平石クリニックへ 寄ったときにも、傘立てに傘を置き忘れてしまった。ビルから出る前に、今日は 手元に何かを持っていたなぁと思った瞬間に「傘だ!!」と思い出すことができ、 置き忘れずになんとか自宅へ持ち帰ることができた。
 最初の2つの失敗は、到着まで完全に寝入っていたこと。急に目を覚まして急いで 降りようとするから失敗をする。もう少し落ち着いた行動をするように心がけ たい。3つ目の失敗は、完全に忘れていた。今日は、雨の降りそうな天気だったが、 自分が外に出ている間は、全く雨が降らなかったため傘を必要としなかったのが 原因だった。天気予報は注意深く見るべきなのかもしれない。また、こういうときは、 手持ちの傘よりも折りたたみでバックにしまえるものがいい。
 とにかく、同じ日に3度も置き忘れをしたことは初めてで、心も体も少し お疲れ状態なのかなぁと思った。

■2006年6月25日(日曜日)


心理検査について説明中





1500mで2位の田中くんと
 横須賀陸上競技選手権2日目。一般男子400mに出場。400mのレースは 約1年ぶり。このレースには、昨日800mで優勝した林くん(すぱっつ)も 出場するということで、来週からの県選手権の前哨戦になった。うちの学生も 多数エントリーし、顧問も自分を含めて2人ということで、後輩たちとの勝負 というレースでもあった。
 予選は7組あり、タイムレースで上位8名が決勝に進出できるという、昨日同様 競泳形式のレースだった。予選から全力で走らないと予選落ちの可能性出てくる。 予選前の心理状態は、無気力。本当に今からレースがあるのだろうか?という ような心境だったが、スタートしてみれば、100m通過時点で先頭を走って いて、適度なペースで気持ちよく走り切れた。タイムは51秒71。昨年の ベスト記録を上回り全体の2番目のタイムで決勝に進出できた。うちの学校の 関係者は、学生1名と顧問2名が決勝進出。決勝に残った学生の数が 顧問よりも少ないという状況なので、なんとも言えない心境だった。
 決勝は、予選のタイムから、林くんと自分と国士舘大学の学生で3位以内 を争うことが予想できた。結果は、予想通りで、前半は、自分が先頭を走っていたが、 第3コーナーから林くんが先頭に立ち、自分は2番手を走った。最後の直線で 少しずつ差が開きながら残り5mで国士舘の学生にかわされ3位でゴール。 タイムは51秒07。シーズンベストは更新できたが、ゴール直前で抜かれた こと、来週の前哨戦という位置づけで敗れたこと、子供の目の前で優勝できなかった ことなど、満足できる結果ではなかった。
 自分の指導している学生では、1500mで田中くんが2位に入ったのが 最高順位。2日間で中距離メンバーの半分の学生が自己記録を更新したので、 まずまず成果ありの試合であったと思う。

■2006年6月24日(土曜日)


一般男子800m決勝
(赤いユニフォームです)




女子800m(3位入賞)
 横須賀陸上競技選手権大会が不入斗(いりやまず)競技場で行われた。自分の 指導している学生が800mに出場するということで応援に行った。
 エントリーミスを除いてメンバー全員がエントリーでき、残り300mから スパートをかけろ、というこちらの要求を、できるだけ満たせるように学生たちは 奮闘した。
 男子800m予選は、タイムレースで上位8位が決勝進出。なかなか厳しい 競泳形式のセレクションルールだったが、2名が決勝に進出できた。決勝に 残れなかった学生も、ほとんどが先月の記録会よりタイムを伸ばしていたので 安心した。
 決勝は、林くん(すぱっつ)が独走し、2位以下は、全く違うレースなの ではないかと思うくらい差をつけ1分54秒前半の大会新で優勝。来週は 県選手権で一緒に走ることになるが、相変わらず今年も強いなぁという 印象を持った。
 うちの学生は、田中くんが残り300mからスパートをかける意志は 見せてくれ、3位に入りそうな順位をキープしていたが、結局4位でゴール。 もう一人の堀川くんは、1周目で完全に気持ちが切れジョッグ気味で完走した。
 女子では、西さんが予選も決勝も自己ベストを更新し、3位に入賞して 表彰台に上がることができた。
 タイムを狙うなら残り300mからペースを上げろという指示を、みんなが 必死に守ろうとしてくれたのがよかったのだと思う。しかし、今のところ 実際にペースが上がっているわけではないので、今後は、本当にペースが 上げられるようにトレーニングをしていかなければならないと感じた。

■2006年6月23日(金曜日)


きれいな海に見えるけど・・・
 日の出ている間に家に帰り、子供と海を散歩した。相変わらず砂で遊ぶのが 好きで、親がかまわずとも黙々と遊んでいた。
 だんだん暗くなってきたので、砂遊びをやめさせて、海沿いの道を歩きながら 帰ることにした。「たくさんゴミが海に泳いでるねぇ」と子供が言い出し、 ハッとさせられた。表現が的を射ているというか、自分にとっては新鮮な表現だった。 確かに海には、ゴミがたくさん浮いてあまりきれいではない。浜辺もたばこの 吸い殻を筆頭にいろいろなものが落ちている。人がゴミを捨てなければ、子供が こんなことを言うこともなかった。人は、自分で自分たちが生活しづらくするような ことをしているようで悲しくなった。今度からは、散歩に行くときは、ゴミを 拾えるようにゴミ袋でも持っていき、砂浜をきれいにしようかなぁという気分になった。

■2006年6月22日(木曜日)
 ある番組を見て、倫理について考えさせられた。「なぜ人を殺してはならないか」 という質問に、正面からきちっと答えられる大人がいないという。確かにそうかも しれない。善いか悪いかという「善悪」で考えれば、それは時代により変化する ことになる。そのため、人を殺してはならないと言い切ることのできない時代が あったとも言える。しかし、倫理として考えると、殺してはならないことになる。 倫理は、人間が「生きる」という、まさにそのことに根ざすものであるから。
 「倫理」ということについて、この番組で出てきた例えは、トンカツ屋の主人だった。 トンカツ屋の主人は、毎日同じことを繰り返し、倫理なんていうことを気にすることは ないかもしれないが、それは、毎日トンカツをおいしく作ることで心が一杯なだけで、 他のことを考える余裕がないからだという。しかし、このトンカツは、万人の舌の感覚を 説得する何かがある。つまり、人間の感覚に逆らわない技術がある。ここに何か大切な ことが潜んでいるのではないか、これが倫理につながるのではないかということだった。
 わかったようなわからないような説明だが、人間がよりよく生きたいという思いが 倫理の源泉であり、自分なりに、よりよく生きるための「問い」と「答え」を持つ ことで倫理がその人のものになるのではないかという。人を殺したらよりよく生きられる ようになるかどうか・・・
 「生」は「死」があるから存在すると養老孟司氏は言っていた。一方だけが 成り立つことはなく、両方の存在があって成り立つもの。よりよく生きるという ことは、よりよく死ぬこととも言える。人を殺したら、殺された人は、よりよく 死ぬことにはならない。
 自分にとってよりよく生きるということは、力を入れずいかに自然に生きるか ということになると思う。答えを常に模索し続け、答えが見つかるのは、自分の 最期の瞬間なのかもしれない。
 世の中はどんどん多様化し、無秩序化しているように思う。その結果が「人は なぜ殺してはいけないのか」という質問なのだと思う。人が伝統的に作ってきた 共同体は、資本主義によって崩れかけ、やっと人の「心」とか「気持ち」という ところに注目が集まるようになった。荒廃したこの状況を克服することで、人々の なかに倫理がもどり、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問自体が無意味 になることを願う。
 「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に、今のところ、自分はきちっと 答えるすべがない。

■2006年6月21日(水曜日)
 夏至となった。梅雨の割には、曇りが多く、どんよりとして蒸し暑さが少し 気ななる天候が続いている。夏至と言われても、お日様を拝むことができず、 ずっと曇っているので、1年のうちで日が最も長いという感覚はない。 これからまた1日のうちで日の出ている割合が減ってくるかと思うと残念で ならない。
 北欧の夏は、夜の10時でも明るい。0時近くなってやっと夕方。 仕事が終わった後も、アウトドアライフが楽しめる。ほんとうに夏は、 ゆっくりと家族と過ごすことができていいなぁという印象がある。 日本では、日が長くても7時には暗くなってしまうため、なんと日が 短いのだろうという感覚になる。緯度が違うのだから、文句を言っても 仕方ないが、この季節になると北欧の夏を思い出し、あの生活にあこがれる 自分がいる。

■2006年6月20日(火曜日)


一本歯の下駄で演奏



趺居での演奏
 古武術を取り入れてフルートの演奏を行っているというフルート奏者の白川さん による講演があった。前半は、フルートの生演奏があり、後半は、古武術を どのように活用してきたかということを実技を交えて説明された。
 フルートの演奏を目の前で見るということはほとんどない。どんな音色が いいのかということもよくわからない。しかし、古武術で言う、「ふんばらない」 「ねじらない」「ためない」というような体の使い方をした場合の演奏は、 何となく音がマイルドに聞こえる。さらに足場が不安定であればあるほど、 良い音色が出るということで、一本歯の下駄を履いた状態での演奏やあぐらを かいたような状態でつま先で立つ趺居(ふきょ)の姿勢での演奏が行われたが、 趺居での演奏が最も良い音色が出ていたように感じた。
 講演の内容とは関係ないが、音楽というものは、それを作った人が亡くなっても 作品は紙に残され、すばらしいものは、後世の人たちによって演奏され生き残っていく。 生き残っていく作品は、人に何らかの感動を与える力を持っている。その作品の 何が人を感動させるのかよくわからないが、それは人間にとって普遍的なものなのだ と思う。作曲した音楽が演奏されるうちは、作者は亡くなっているが、その意志は ずっと生き残っているような気がする。そういうことを考えながらフルートの 音色を聞き、音楽というものは、すばらしいなぁと思った。

■2006年6月19日(月曜日)
 スポーツの世界では、選手に対してよく、リラックスしろという檄が飛ぶ。 力が入りすぎるとなぜいけないか?それは、反射が使えなくなるためというのが 一つの考え方らしい。
 反射は、いくつか種類がある。例えば、目の前で誰かが手を叩いたときに 無意識に目を閉じてしまうのは瞬目反射、気を付けの状態から肘を直角に曲げ、 手の平を上にしていた時、急に上から重たいものが落ちてくると、一瞬肘が 伸ばされるがすぐに元に戻ろうとするのが伸張反射。これらの反射は、 生体の防御反応の一種であると考えられ、人は、日常生活の中で無意識に 反射を利用して生活している。それは、まさにリラックスした状態で行われている。
 しかし、スポーツ場面において、緊張が強いられる場合、必要以上に過緊張 すると反射が使えなくなる。つまり、素早い切り替えをするような体の使い方 ができなくなる。このようなとき、動作が硬く見えるため、リラックスしろと 言われることになる。
 逆にスポーツ場面では、反射をわざと抑制しなければプレーができないことも ある。例えば、ボクシング。パンチが来るたびにいちいち目を閉じていては、 試合にならない。サッカーのキーパーも同じ。抑制するときには、抑制するための 筋を働かさなければ良いプレーができないこともある。
 リラックスするとはどういうことかというと、筋の力を抜くということ。つまり 筋活動が減少したり、出現しないようにするということ。力を上手に入れるよりも 上手に抜く方が難しい。運動の発達は、抑制の発達とも言えるのかもしれない。 日常動作やスポーツ動作のほとんどは、最大の筋出力を求めるのではなく、実は、 最大下の筋出力を調整することによって良いパフォーマンスを実現している。 とはいえ、どうやって力を抜かせるか・・・昔であれば、疲れるまで動作を繰り返し、 力を入れようとしても力が入れられない状況を作ることだった。疲れてくると 力は抜けてくるが、そのときには、その力の抜けた動きを感じることができず、 記憶に残らない可能性がある。力の入っている人と、入っていない人の差は、 最大の力を100%としたとき、大体3〜5%の違いでしかないらしい。しかし そのたった3〜5パーセントの違いがパフォーマンスの違いを生む。ただ単に リラックスしろと言っても、筋の出力の差を感知する能力が低ければ、言っても 無駄ということになる。何をしたら自然にリラックス状態が作れるか?どうしたら 筋出力の微妙な調整を感じられるようになるか? 具体的な答えは今のところ 何もない。こういったことを今後考えていく必要がある。

■2006年6月18日(日曜日)


生卵とプリンのセットです





割ったばかりの中身です
 「普通の生卵かな?と思いきや・・・割ると中からプリンが!!」という フレーズに引き込まれ、インターネットで卵の衝動買いをしてしまった。 1度も割られることなく、特殊技で作る不思議なプリンらしく、外見は もちろん卵そのもの。生卵を割るように、卵を割ってみたが、薄皮の 弾力によってなかなか簡単には割れなかった。潰してしまうのでは ないかと思いながら恐る恐る指を突っ込むことで割ることができた。
 中身は、元々白身と黄身からできた100%の卵なので、味は、当然 卵そのもの。つまり、それ自身には味はなく、ただ濃厚な感じがするだけ。 付属のカラメルソースをかけると、完全にプリンの味になる。
 説明書には、カラメルソースの代わりに、このプリンをご飯の上に盛って 食べるとウニ丼になり、海苔で巻けば、軍艦巻きになると書いてあり、 それぞれ写真まで載っていた。
 うちの子供にこの卵を目の前で割って食べさせたが、妙な顔をしていた。 「何の味がする?」と聞いてみたが、はっきりしないような顔で「ブドウ」 と答えた。子供の感覚は、見た目とのギャップがあると、何を食べているの かわからなくなるということがわかった。このプリンは、味がないので、 付属のカラメルソースがなければ、大人でも何なのかよくわからないかも しれない。
 プリンと一緒に購入した卵は、黄身にもの凄い弾力があり、爪楊枝で 指したくらいでは潰れないような強さがある。目玉焼きにして食べてみたが プリン同様濃厚な味がした。
 高い金額を払ってそれだけの価値があったかどうかを考えてみたが、 期待していたほどの感動はなく、話題を提供するネタができたというくらいで、 少し高いお金を払ってしまったかなぁという感じがした。

■2006年6月17日(土曜日)


観音崎の灯台です



お山を崩しています
 午前から子供を連れて外に出て、一緒に砂遊び。子供は一人で集中して遊んで いるので、その間に、子供を横目で見ながら自分のトレーニング。少し目を 離したスキに近くの水道を見つけ、水遊びを始め、服が濡れて大変な状態に なっていた。暑かったので、ちょうど良い遊びになったが、水の流れ落ちる側溝に 砂を入れてみたりして悪さを働いていたので困った。
 午後からは、観音崎の砂浜に行き、天然の砂で砂遊び。最初は、山を作ったり 壊したりしていたが、途中から、自分で自分の足を埋めだして、もっと砂をかけてくれ とせがんできた。遠慮なくバケツで砂をかぶせてやったら、そのバケツの形の残った 砂を見て「ケーキ、ケーキ」と大喜び。子供は、何をしても楽しくて、いいなぁと思った。
 その後も、何度も体を砂に埋めるようにせがまれ、何度もやったが、こちらは、 洗濯が面倒になるとか、帰る時間をいつにしようかとか、そんなことばかり考えて 子供に接していた。子供は、本当に楽しかったのだろうか?と、後になって反省。 子供が一生懸命遊びに集中しているのだから、こちらもそれにはまって一生懸命 あそんでやれば、きっともっと楽しかったに違いない。

■2006年6月16日(金曜日)
 免許証の住所を変更していなかったため、お昼休みに近くの警察署へ行った。 しかし、警察署へ入って免許の担当部署へ行ってみると、「次の受付は1時からです」 という立て看板があり、住所変更の手続きも当然対応してもらえず、なんとなく ムカムカした気分で職場へ戻った。普通に働いていたら、手続きできんだろう!! ということで腹立たしくなったのだが、免許の住所変更には、代理も可能なので、 妻に代理でやってもらえば済むこと。とにかく、警察も免許の部署に関しては、完全な お役所仕事なのだと思った。
 しかし、最近の市役所では、働いている人がお昼休みにも各種の手続きが できるように、お昼休みの時間にも営業しているところもある。これが市民への サービスというものだろうと思えてくる。
 自分の立場に戻ってみると、教員は学生へのサービスということを考える必要が あるのではないかと思った。学生の積極的な姿勢がわき上がってくるようなサービス。 何のことなのかよくわからないが、学生がさらにやってみたいと思うような授業を できるよう、毎年毎年工夫に工夫を重ねる努力が必要であり、それができなければ、 教員は失格なのかもしれない。

■2006年6月15日(木曜日)
 普通にまっすぐ立った状態から、そのまま姿勢を変えずに前に倒れていく。 単純なことだけど、これをやるには、結構意志がいる。なぜなら倒れることに 恐怖感があるから。倒れようとして、足首の角度を小さくしていくと、体を 倒れないように、つい足が踏ん張ってしまい一生懸命耐えている自分に気がつく。
 この動作をしてみて感じたことは、普段立っているときや歩いているときにも、 恐怖心を感じることはないかもしれないが、同じようにどこかで踏ん張っている 瞬間があるのではないかということ。無意識のうちに、体に無駄な力が入り、 それが積もり積もってなんだかよくわからない疲れになっているような気がする。 自分でも気がつかない恐怖感というものをどうやってそぎ落としていけばいいのかは 全くわからないが、それをぬぐい去るだけで、疲労も少なくなり、思わぬ力が 発揮されるのではないかと思う。

■2006年6月14日(水曜日)
 30歳を過ぎて、中距離を競技としてやっている人は、それほどいないのでは ないかと思っていたが、インターネットでいろいろと見てみると、意外と競技を 続けている人は多く、30代後半になっても800mで2分を切っている人がいた
 どうやってモチベーションを保っているのだろう?というのが、とても興味の あるところだが、それぞれ、大きな目標があって、さらに、もう少し達成可能な 目標を持っていて、その目標があるから、なんとか続けられているように思えた。 達成可能な小さな目標としては、それぞれ具体的なタイムがあったりするが、 大目標は、何歳になっても自己ベストという感じがした。競技者としては、やっぱり 自分の極限を目指す人が多いということ。自分も同じなんだなぁと思う。
 昨年までは自分の目標は、全日本実業団に10年連続出場だったが、今のところ 病気や仕事が入らない限りは、11年連続出場まで達成可能な状態になった。次に 何を目指そうか?と思っていたところに東京選手権での走りがあり、もう一度 日本選手権を目指したくなった。年代別日本記録というものもあるが、今のところ、 日本のトップで走っている体育学校の森くんがいるし、自分は趣味の範囲でしか 競技はできないため、その上に行くことは不可能。細々と維持して、何年後かには 追いつければいいなぁと思っている。同じ学年の森くんが、まだまだ頑張っている というところが、自分のモチベーションを最も高める要因となっているような気がする。

■2006年6月13日(火曜日)


品川駅のポスト
 早朝の電車は、ほとんどが男性。よく親父臭と言われるが、そういう感じのにおいが 充満している。その空間に入ると気持ち悪くなってしまう。自分もそろそろ中年の域に 入ろうとしているので、自分からもすでにその臭いが出ている可能性もあると考えると ショック。加齢に伴い、イヤでもそうなるのであれば、受け入れるしか選択肢はないが・・・
 秋葉原からつくばへ向かうときに、上り列車で女性専用だった車両に乗ったら、 今度は化粧臭く、これもやっぱり気持ち悪くなってきて耐えられず、別の車両に移った。 しかし移動した先は移動した先で、上りで男性ばかりの乗っていた車両なので親父臭い。 結局どちらに行っても我慢するしかなかった。
 早朝の電車に乗るときには、なぜか臭いに敏感になる。そしてすぐにその臭いに 反応し気分まで悪くなってしまう。これは、横須賀からつくばへ通うようになってから。 気分が悪くなる原因は、京浜急行の揺れでもあるし、体質の変化なのかもしれない。 とにかく、最近は、電車に乗るのが憂鬱な感じがある。朝5時には起きて5時半には 電車に乗らなければならないのも原因の一つなのかも。
 そうやって考えていくと、電車に乗ると気分が悪くなるというように自分の中で 決めつけてしまっている自分に原因があるように思えてきた。しかしこの状態を 脱するには、もの凄く自分を変えていかなければならない。時間が掛かりそう・・・

■2006年6月12日(月曜日)
 今年もまた蚊と闘う季節になった。先週から、蚊に刺されたような跡が 腕にできたりしていたので、そのうち遭遇するだろうと思っていたが、とうとう 我が家で遭遇してしまった。シーズンが始まったばかりなのに、かなり大きな 蚊で、動きもなかなか。こっちは、シーズン最初の闘いということもあって、 動きが悪く、なんとしても潰してやろうという、やる気満々な姿勢で臨んでいた。 その雰囲気で気配がわかったためか、蚊はこちらの動きをうまく読んで、 ほとんど触らせてくれなかった。3時間の間に4回闘ったが、完敗。たった 1匹なのに捕らえることができなかった。失敗するたびに、さらに闘志が湧いて しまい、冷静に気配を消すことができず、やる気満々な自分に反省。
 サッカーワールドカップの日本対オーストラリア戦も、同じように、逆転された 日本は、なんとか点を入れてやろうという雰囲気で、やる気満々で攻めていった 結果、逆に自陣にボールが入ってしまったときに守りがほとんどいない状況に なり、取られる必要のなかった3点目を取られてしまった。やる気満々という姿勢は、 冷静さを失わせ、相手に動きをよく読まれる原因になる。いかに気配を消しながら うまく動くかという、サムライの精神で臨むことが大事だなぁと思った。

■2006年6月11日(日曜日)
 毎朝、子供が自分に質問することがある。「パパ、今日はどこもいかない?」 平日は、仕事に行くので、答えの大半は「今日はお仕事に行くんだよ」と答える。 機嫌の良いときは「行ってらっしゃい」という返事が返ってきて、機嫌の悪い ときは自分も一緒に行くと言い出す。できるだけ、家にいるときは、子供と 遊んでやりたいと思っているが、大学院に通っていることもあり、休日でも 自分のやりたいこととやらなければならないことがいろいろとある。結局妻に子 供を見てもらい、自分は自分のことをする場合が多い。
 今日は、夕方、家族3人で散歩に出た。一緒に散歩に出るだけでも子供は 大喜びで、ずっと手をつないで散歩をする。指を握りしめる力も以前よりも 力強く、短い間でも着実に成長していることを実感する。接する時間は、少ない かもしれないが、成長を見逃さないように生活していきたいなぁと思った。

■2006年6月10日(土曜日)
 学生と練習。内容は、400m×3+3000m+400m×3。前半の400mは8割くらいの 力で気持ちよく走り、3000mは3'10"/kmのペースでのペース走、後半の400mは 前半の400mよりも速く走るという設定で行った。
 前半の400mは、気持ちよく走るつもりでスタートを試みるが、全然気持ち よく走れず、気持ちにも余裕なく10割の力で走っている感覚と変わらなかった。
 3000mを走る頃には、気温が急激に上がり始め、暑さに勝てずペースはどんどん 落ちるばかりでペース走にはならなかった。
 後半の400mは、前半に比べ、気持ちに余裕がありながら前半よりも速いペースで 走れ、やっと設定通りに行けたという実感がもてたが、2本目のゴール後は吐いて しまい、自分の体にとって、かなり強度が高くなっているということにそこで 気がついた。
 量としてはそれほど多くなく、設定通りに走ることもできなかったにもかかわらず、 すべてをやりきったときの充実感はかなりのものがあった。

■2006年6月9日(金曜日)
 職場の測定機材の操作方法と自分の今の能力を知るために運動負荷試験をした。 測定項目は、血中乳酸値、血圧、心電図、酸素摂取量など。方法は、トレッドミル 上で、徐々にスピードと傾斜角が上がっていくなかで、これ以上走り続けられない というところまで走ったら終了。傾斜角の変化ができるトレッドミルで走るのは 初めてで、平地を走る感覚とは少し違っていた。特に角度が上がるにつれて、 大腿前部(大腿四頭筋)への負荷が高まり、呼吸は何とかなるけど耐えられない という感じになってきた。
 結局、測定開始後13分くらいで終了した。瞬間的には、酸素摂取量が 61.0(ml/kg/min)まで上がったが、データ10個分の移動平均をとった値では、 最大酸素摂取量は58.5という結果になった。マラソンランナーでは70前後の値が出るし、 中距離選手でも65前後はあってもいい値なので、この結果には、ショックを受けた。
 職場にあるトレッドミルの最高速度はそれほど上がらないため、傾斜角を上げる ことで負荷を高めるしかない。この測定は、平地での測定とは条件が違うので、 どのくらい信用できるのかわからないが、一つの指標にはなるだろう。

■2006年6月8日(木曜日)
 400m+300m+200mを3セット。久しぶりにスパイクをはいての 練習だったが、アップシューズで走るのと変わらないタイムで、ショックを受けた。 感覚としても、前に進んでいる感じがなく、スパイクをはいたことで、逆に ブレーキが大きくなっているような気がした。1セットごとに、感覚は変わらない ながらもタイムは少しずつ上がり、最後は、自分の設定したタイムには近づくことが できた。2週間前にまともに走れたのが不思議なくらい走れなくなってショックを 受けたが、これが本来の走りなのかなぁと思った。

■2006年6月7日(水曜日)
 学校の授業が、うまく成り立たないのは、学生が悪いのか先生が悪いのか? というような話題がラジオから聞こえてきた。うちの職場では、なんとなく 学生は悪くないという雰囲気が上の方の人たちの考え方にあるので、先生が 非難されやすい。学生を退屈にさせる先生の授業のやり方にも問題はあるかも しれないが、受ける側が何も悪くないかと言えば、そうではないように思う。
 学生の単位は、授業への出席の他に、自宅での自習時間も考慮されて取得 できるもの。だから家でしっかりと勉強をせずに授業に出るだけであれば、 学生にも問題がある。どっちが悪いというものではない。お互い問題の解決に 歩み寄る姿勢がなければ改善は難しい。
 最近は、良いか悪いかというオンとオフの結論を急ぐような風潮があるが、 それもおかしい。世の中は割り切れないことがたくさんあるはず。割り箸だって、 うまく割れることの方が少ない。単純なことですら割り切れないのに、 それを割り切ろうとするから世の中がギクシャクすることになる。いろいろな ことに結論を急ぎすぎず、割り切れないこともあるという認識を持ちながら、 解決に向かうことができればなぁと思う。

■2006年6月6日(火曜日)
 学生と韓国式サーキット。20人以上の大人数だったので、2組に分けて行い、 自分は両方の組を回りながら指導しつつ自分も一緒に実施した。
 今回は、長距離の学生が初参加。長距離のレベルの高い方の学生たちは、中距離の 学生よりもスピードも持久力もあり、中距離の学生は力の差を見せつけられた。 せっかく中距離に挑むつもりだったのに、まったく抵抗がないとかわいそうなので、 途中から自分が長距離の学生たちを引っ張り練習強度を上げていった。普段、あまり 追い込んでいないので、後半はきつそうだったが、先頭を走る学生は、かなり強かった。 1セットが終わるごとに1000mを走ることになっていたが、3セットとも2分40秒 ちょっとで走り切り、誰もついて行くことができなかった。彼は、まだ5000mで 15分を切ったことがないそうだが、間違いなく14分台は出るのではないかと思う。

■2006年6月5日(月曜日)
 視覚、聴覚、触覚の中で最も反応が早いのはどれか?実際に、光、音、触れることで、 どれだけ素早く反応できるかという実験をした。光に対しては、約180ミリ秒、 音に対しては約160ミリ秒、触れることに対しては約140ミリ秒という結果が 出た。目で見るよりも、皮膚に触れられたときの方が反応が早い。
 最近は、テレビやインターネットをはじめ、目から入ってくる情報が多すぎ、 視覚に頼る生活に偏っている。それを如実に現すのが、開眼片足立ちテストと閉眼 片足立ちテストのタイム差。目を開けていればある程度は立っていられるが、目を 閉じてしまうととたんに立っていられなくなる人が出てくる。これは、あまりにも 視覚に頼った生活をしている証でもある。目で見て反応するよりも優れた感覚が あるのに、それを使わないというのは、もったいない。年を取ってきたときに、 自分が倒れたことが目を開いてわかっていても反応ができないということになる かもしれない。
 筋感覚は、さらに素早い反応ができ、視覚のおよそ3倍の素早さがある。例えば、 目を閉じて、右と左の人差し指を離した状態からくっつけるという動作。筋感覚が 優れていれば、何でもない動作だが、視覚に頼っていると、指と指はくっつかない。 目で見て反応するのではなく、筋肉の感覚で反応できれば、きっと年を取っても 転ばずに済む。
 赤ん坊が安心感を得るのは、触覚刺激や聴覚刺激であって、視覚刺激ではない。 だから、母親に抱かれると安心するし、母親の声を聞くだけで泣きやんだりする。 夫婦であっても、新婚の時は、手をつないだりしてお互いを確かめ合うが、何年か するとやらなくなってしまう。つまり、夫婦間の触覚刺激というものは乏しくなる。 夫婦の間でも常にふれあうということが大事なことなのではないだろうか? スポーツの場面では、特に球技において接触プレーというものがあるが、相手に さわられることで、多くの情報が得られる反面、いろいろな妨害を受けたりもする。 選手は、あえてその刺激をカットすることでプレーしている。そうでなければ、 触られただけで、それが気になって、プレーに集中できなくなってしまう。
 とにかく、日常生活において、自分の内観力が高められるように、視覚だけ でなくもっと別の感覚を大事にしてみることが必要なのではないかと思った。

■2006年6月4日(日曜日)


一生懸命水くみしてます



みんなで砂の埋め合い



みんなで
 防大同期の家族と久里浜でバーベキュー。こちらは子供が1人の3人家族だったが、 同期の家族は、子供が3人の5人家族。3人とも男の子ということで、にぎやかだった。
 うちの子供は、最初はあまりとけ込めず、一人で砂遊びをしていたが、時間が経つと 自然と3人のお兄ちゃんの中にとけ込み、それほど言葉が話せるわけではないのに、 うまくなじんでいた。お兄ちゃんたちが動くと、一生懸命それに合わせてついていこうと する。今日初めて会ったばかりで、全く知らない者同士なのに、言葉は通じなくても、 子供たちはうまくコミュニケーションをとっている。それが不思議でたまらないが、 これが子供の世界。大人にもこの柔軟性があったら、些細なことで対立することも ないだろうに、と思う。
 子供たちはずっと砂浜で遊んでいたので、大人は大人でゆっくり話をしながら、 食事ができた。久里浜は、江戸末期にペリーが上陸したところとして有名で、まさに その上陸した浜辺でバーベキューをしていた。近くには、ペリーの上陸記念館という ものがあり、それについて同期とおかしいという話で盛り上がった。日本の体制が 崩されたきっかけなのに、なぜそれを記念にするのか?終戦記念日もやっぱり 日本が負けた日なのに、なんで記念日と言うのか?日本という国家を中心に考えて みると、自虐的な発想としか考えられず納得いかない、などなど・・・。歴史的な 土地において歴史に思いをはせながらゆっくりと時を過ごすことができ、 スローライフだなぁと思った。
 1日、日の当たる場所にいたため、バーベキューが終わって家に帰ると、 子供の疲労は大きかったようで、夕方の5時には、寝てしまった。ちょっと早過ぎな 気もしたが、外で思いっきり遊び、疲れて眠られるなんて幸せだなぁと思った。

■2006年6月3日(土曜日)


花がきれいでした
 子供と観音崎へ散歩に行った。山を登ったり下ったり、公園内の遊具で遊んだりして、 2時間くらい休むことなく動き回った。子供は大人が気にしないような小さなことを 気にする。花が咲いていると、花の色を言ってみたり、落ちている落ち葉を拾って、 「どうしてこの葉っぱは黄色いんだろうねぇ?」と質問してみたり。その度に、 大人は、全然周りを見ていないということに気づかされる。そして、多くの疑問に 大人は答えられない。確かに、そうやって質問されるとなんでだろう?ということが多い。 研究者の研究というものは、こういう単純な疑問が発展したものではないだろうか? そう考えると、子供はとてもすばらしい視点を持った研究者なのではないかと思えてきた。

■2006年6月2日(金曜日)
 ボールを投げられない学生が増えている。どうしたらいいのだろう?と考えて しまう。うちの学校では、年2回体力測定があり、基準に満たないとクラブの時間を 使って、トレーニングをすることになる。特に1年生は、それに合格できないと クラブには参加できないし、正規の体育の授業が受けられない場合もでてくる。  正規の体育の授業は、いろいろなスポーツ種目の実技であり、体力測定とは、 直接関係あるとは思えない。体力測定は、体力というものを考えた場合の、 ほんの一部の能力だけを測定しているのであって、体力すべてを示すものではない。 走るのが遅くても、ボールが投げられなくても剣道や柔道は十分できる。だから 体力測定の結果が体育の授業にまで影響するというのは、よくわからない面もあるが、 すでに決められていることなので仕方ない。
 なんとかして合格させたいが、1〜2週間トレーニングして再測定では、 投げるフォームを変えさせ、記録を伸ばすことは難しい。
 うまく投げられる人だって、小さい頃に何度も繰り返し投げた結果できあがった フォームであって、短い期間でできるようになったわけではない。大人になって、 なかなか動作の習得というものが難しい時期に、短時間で成果をださなければ ならないのだから、投げられない本人たちは、本当につらいことだろう。
 とにかく、いろいろな決まりが最初にあって、それに従わなければならない ので、その範囲内で、教える側はできる限りのことをして支援していくしかない。

■2006年6月1日(木曜日)
 昨年1年間の全国の自殺者が8年連続で3万人をこえたらしい。もっとも多いのは 全体の57%をしめる50歳以上だったようだが、30代は過去最多ということだった。 自分の世代が増えているというのが、複雑な気分。
 交通事故の死者は毎年7000人前後。死亡率だけを見れば、交通事故で亡くなる よりも自殺で亡くなる確率の方が高い。交通事故の裏には、100万件以上の 死亡事故にならなかった事故が隠れている。そう考えると交通事故より死亡率の高い 自殺については、いったいどのくらいの自殺未遂が存在するのだろう?
 自分で命を絶とうとするのだから、全く何も考えていないが、もの凄く深く 考えた上での行動なのだと思う。人間はいずれ死ぬし、死があるから、生が存在する。 すべてをひっくるめて人間と考えると、自殺を否定して良いかどうかよくわからない。 しかし、世の中には、何かそういう行動を起こさせるような要因があるはず。 自分のことだけでなく、周りのことにも注意を向け、自分に対しても周りに対しても ちょっとした変化に気づく力を備えることで、少しは対処できるのではないかと思う。



[昔のいずみ]