最近のいずみ

Last Update:2006/8/31

パートタイムアスリートいずみ 6年目継続中!! 


■2006年8月31日(木曜日)
 学生と夏合宿以来の練習。少しずつ日が暮れるのが早くなり、夕方は 蒸し暑くもなく、そよ風があり、とても練習するには快適な環境だったが、 メニューは韓国式サーキット。環境には関わらず、ほとんどの者が 極限状態まで追い込まれた。9種目を100mのダッシュでつないだ 後の1000mで、吐きそうになる学生が何人かいた。自分も同じような 状況になった。しかし、集団でやるということに意味があり、一人では 絶対にこなせないような練習ができてしまうところがすばらしい。陸上 競技は、個人競技かもしれないが、練習の仲間というのは、とても大事な 存在だということを再認識できた。

■2006年8月30日(水曜日)
 陸上競技指導者研究会2日目。今日は主に博士課程の発表だった。修士に 限らず、博士でも、何を目的にするかということが明確に決まらず、 実験後に、どうするべきかと考える傾向があると思った。研究というと 細かいところばかりに目が行ってしまうが、あるOBからは、「木があって、 枝があって、葉がある。葉ばかりを見ずに幹の部分をしっかり見なさい」と いう指導があった。わからなくなったら、原点に戻るということなのだと思う。
 全員の発表が終わった後、先生からは、3つのことについて話があった。
1.ひどいデータでも味付けによって変わることもある。
2.人の良いところを真似することから始めて、いくつか論文を書いていく うちに自分のスタイルを作り上げること。
3.現場に落ちている疑問を拾うこと。
 とても勉強になる2日間だった。自分の研究についてもたくさんの指摘を 受けたが、今後どうやって修正していこうか頭を悩ますところ。考えれば 考えるほど、逃げ出したい気分になってくる。現実を受け止め前進あるのみ。

■2006年8月29日(火曜日)
 陸上競技指導者研究会が新潟の岩原高原で行われた。この会は、 大学の研究室の勉強会。現役の大学院生が自分の研究について 発表し、それについてOBや先生方から意見や指導をもらうことで、 今後どのようにしていくかを考えるきっかけを作ることができる。
 今年度はあまり研究室へ行っていないため、1年生の名前と顔を 知らなかった。1人、社会人入試で入学した人がいることを聞いていたが 今日が初対面だった。自分よりかなり年上で、話を聞いてみると、 これまでたどってきた人生には壮絶な体験があった。
 以前はヱスビー食品でマネージャーをしていたそうで、16年ほど前、 ヱスビー食品の金井選手と谷口選手が自動車事故で亡くなった時、 まさにその車に乗っていた人だった。その事故は、運転席と助手席に 乗っていた2人が生き残り、後ろに乗っていた4人が亡くなった。 北京アジア大会の壮行会へ向かう途中での事故だった。
 事故後は1週間意識不明で、意識を取り戻したものの、事故については 全く記憶がなく、選手やトレーナーが亡くなった実感が全く、 今でも、お墓の前で何でだろうと考えてしまう、と語っているのが 印象的だった。
 2年ほど話すことができず、手足も自由に動かせず、なんで動かせないの だろうと自問自答の日々が続き、さらに2年後、麻痺していた脚が急に 痛み出し、検査の結果脳幹に傷があるということがわった。脳幹は、人間の すべての神経が通るところらしく、医者も手術することができないため、 この後遺症と一生つきあわなければならい体になってしまった。 それでも、リハビリにより日常生活は問題なくできるようになり、 現在では仕事をしながら大学院へ通っている。
 自分の体が自分の思うように動かせないもどかしさを考えるだけで 涙が出そうになった。自分の子供が骨折で、腕が動かせないもどかしさ を目の前で見ているため、感情移入したのだと思う。
 数々の困難を乗り越え、向上心をもち、常に前進する姿に感銘を受けた。

■2006年8月28日(月曜日)


ズレは治るのでしょうか?
 子供の骨折から半月が経った。1週間に1度病院へ行きレントゲンで 骨の状態を確認している。病院で妻に携帯で写真を撮ってきてもらうが、 その写真を見ても、そんなに変化しているようには見えない。多少、 骨折した部分にうっすらと骨折部分を被うような骨ができているように 見えるが、やっぱり、骨がずれている。回復とともにまっすぐになるのだろうか? すぐに治るわけでもないのに、親としては、すぐに治って欲しいと 思っているために、変化が見えないと不安になってしまう。
 ギブスは3週間で取れるだろうと言われていた。あと1週間。 子供の右腕は、異臭が漂っている。もう少しでこの臭いからも 解放させてあげられる。1週間後が待ち遠しい。

■2006年8月27日(日曜日)
 昨日の続き。寛平さんは十種競技を続けているのか気になり、北海道マラソンを 見た後に、チャンネルを変えてみた。なんと彼は続けていた。番組を見たときには、 第9種目のやり投げに入っていた。肩が痛そうな感じだったが、なんとか2投投げ、 最終種目の1500mへ移った。
 1500mは、さすがランニングの寛平さんと思わず言いたくなるほどのすばらしい 走りだった。肉離れがあったことを全く感じさせなかった。タイムはマスターズ 日本記録を上回るタイムだった。しかしこれで「日本新記録」というような文字が 画面に出たときに、ちょっと違うのではないかと思った。十種目の合計が日本記録 であって、日本記録が出たときの競技会の記録が、今回それぞれの種目で 日本記録として掲示されていた。1つの種目で、記録を上回ったとしても それは、日本記録ではない。
 しかし、日本記録が出されたときの記録を2つの種目(砲丸投げと1500m)で 上回った寛平さんはすばらしい。しかも24時間テレビのイベントなので、夜通し 競技会を続けて、本来行われる2日間での競技ではなく実質1日以内に行っている。
 やる前から体がボロボロだったと言っていたが、テレビ局の無茶な企画に もかかわらず、本当に最後までよくやりきったなぁと思う。寛平さん以上に コーチをしていた松田さんが一番緊張していたのかもしれない。最後まで やりきることができて本当に良かった。

■2006年8月26日(土曜日)
 24時間テレビの企画で間寛平さんが十種競技に挑戦するというコーナーが あった。しかもマスターズ日本記録を目指すというキャッチコピー。練習期間が 1ヶ月ちょっとで、すべての種目をこなすことができるのだろうか?と思って見ていた。
 寛平さんは、練習中に肉離れになったが、驚異的な回復力で競技ができる 状態にある、とコーチである松田さん(元日本記録保持者)は話していたが、 最初の種目が100mなので、最初の種目から心配だった。
 100mは、後半脚を引きずるようなフォームになり、残り10mで転倒し、 ゴールには這ってたどり着いた。すでにハムストリングスが限界に来ているように 見えた。大丈夫でしょうか?続けられるのでしょうか?というような言葉が 徳光アナウンサーから発せられていたが、解説の松田さんもコメントのしようが なかったのか、なにも返答はなかった。
 その後は、この番組を見ていないので、競技を続けたのかどうかはわからないが、 この番組は、出演者にずいぶん無理をさせているのではないかと思った。確かに 困難に打ち勝って目標を達成することは、すばらしく、感動も大きいかもしれないが、 無理にそういう企画を作る必要はないのではないかと思う。出演者は、当然 必死に目標を達成しようとしているのはわかるが、無理に感動を作ろうと しているテレビ局の意図があるように思えてならない。人の頑張る姿を 素直に見られない自分も悲しいなぁと思った。

■2006年8月25日(金曜日)


夕方の散歩
 冥王星が太陽系惑星から除外されることが天文学の国際学会で決定された。 冥王星は、アメリカ人が見つけた唯一の太陽系惑星だったらしく、英語名 「プルート」は、この星の発見に感激したことがきっかけで、ディズニーの 犬のキャラクターに「プルート」と名付けるほど、アメリカ人には こだわりがあったらしい。
 今まで、惑星の定義がしっかりしていなかったのが、今回しっかり定義づけ られたことは、天文学の世界では大きな進歩だったのかもしれない。 しかし、勝手に人間が定義しただけであって、冥王星自体には、何の変化が 起こるわけではない。宇宙の広がりを考えると、人間は、なんと小さな事に こだわり、小さな世界に生きているのだろうと思った。

■2006年8月24日(木曜日)
 産経新聞のテレビCMで「働きバチは1日6時間位しか働かない」という コピーが頭に残った。働きバチといえば、ずっと働きっぱなしなのかと 思っていたから、日本人の平均労働時間(8時間)と比べても少なかった。
 セイヨウミツバチの働きバチの生きている期間は1ヶ月ほどで、その期間 で集める密の量は、ティースプーン1杯程度だとか。貴重な命と引き替えに、 ほんのわずかな蜂蜜を作っているのだと思うと、蜂蜜を大事に使おうという 気持ちになった。

■2006年8月23日(水曜日)
 関東で働いている大学の同期と飲んだ。昨日急に飲もうという話になり、 手当たり次第に電話してみたところ9人も集まった。警察官、経営コンサルタント、 システムエンジニアなど、自衛官ではない人もいて、いろいろな話ができた。
 話題の中心は、最近離婚したという話。円満に別れるにはどうするべきかという ような内容に、全員が聞き入った。別れたばかりという割には、本人は元気そうだった ので、安心した。
 ケニアから戻ってきたばかりの同期は、日本の携帯電話は複雑でよくわからないと 嘆いていたり、警察官をしている同期は、話をしているときの質問が、どうしても 尋問しているように聞こえ、笑ってしまった。

■2006年8月22日(火曜日)
 バスケットボールの世界選手権で、日本がパナマに勝利した。1963年以来 43年ぶりの勝利らしく、もっと騒がれてもいいのにと思った。サッカーよりも 加盟国の多いバスケットボールの世界選手権で、しかも日本で行われている割には、 あまり報道されていないような気がする。テレビでは、ニュースの中のスポーツ コーナーでわずかに映像を見るくらいで、詳しくは、インターネットか新聞でしか 情報が手に入れられない。BSの有料放送で放送があるのかもしれないが、そんな ものは家にはない。
 陸上競技、水泳、サッカーなどは、世界レベルの大会であれば、どこかのテレビ局が 毎日のように放送する。サッカーは、親善試合ですら放送される。バスケットボールは 親善試合が行われていたことすらあまり知られていないのではないか。
 ボクシングは、テレビ局が積極的に支援し、お客が納得しないような判定でも 世界チャンピオンを作り上げ、注目を集め、ファンを急増させている。
 アメリカチームを筆頭に、世界のトップレベルの選手が大勢出場し、レベルの高い 試合がたくさん行われているのに、見られないのが残念。テレビ放送をすれば、 観客の数も増え、競技人口も増えるかもしれないのに・・・ 

■2006年8月21日(月曜日)
久しぶりにトラックでスピード練習。速いスピードで走るのは、8月2日の 予備実験以来。
 メニューは400m+300m+200mをを2セット。8割くらいのペースで走るような ペース設定にしていたが、全力に近い力を使ってやっと設定通りという状態で、 自分の感覚とタイムが全く合わなかった。後半は、吐き気が強くなり、それを こらえるに必死で、気持ちよく走ることはできなかった。
 実験のことで頭がいっぱいで、最近は、走ろうという気分になれないことが 多い。そのため毎日練習をするわけでもなく、このまま走れなくなってしまう のではないかという不安がある。練習をしなければと思う自分と、練習 しようという気になれない自分が混在し、非常に複雑な気分で生活している。
 全日本実業団まであと1ヶ月ちょっと。この状況を立て直すには、まずは、 最も気になる実験を終了すること。多くの先輩が、大学院生と競技者を 両立させているが、どの先輩も偉大だと思う。

■2006年8月20日(日曜日)


仲良しな2人です
 昨日お世話になった友達家族と陸上自衛隊広報センターへ行った。 最近広報センターは、はとバスの観光ルートに採用されたらしく、 駐車場には、はとバスが停車し、観光客をたくさん連れてきていた。
 センター内は、昨年入ったときと内容はほとんど変化なく、一度 行けば十分という感じだったが、子供は、ヘリコプターに近づいたり、 バイクに乗ってみたりして大はしゃぎだった。一番うけていたのは、 画面を押すと自衛隊のラッパがなる装置。我が家の子供は消灯ラッパが お気に入りだった。妻は食事の前になるラッパ。和光市に住んでいた ときには、駐屯地がすぐ隣なので、ラッパがよく聞こえて、家に いれば、ラッパは時計がわりになっていた。妻はそれがとても懐かしい ようだった。

■2006年8月19日(土曜日)


3家族で
 来週予定していた実験が突然延期になり、この2,3週間張りつめていた 緊張が急に途切れたような気がした。
 今日は、もともと実験器材の準備や調整で、朝霞へ行くことになっていて、 妻は友達の家へ泊めてもらう予定にしていた。妻と子供は楽しみにしていた ので、この約束を破るわけにはいかず、和光の友達の家へ連れて行き、 その後、自分は、実験器材の返納で、つくばへ行った。
 久しぶりに東京外環自動車道を走ったが、横須賀からつくばへ向かうことを 考えると、和光からつくばは、とても近かった。
 夜は、泊めてもらう友達の家で、我が家の他にもう一家族を呼んで3家族で 食事をした。同年代の子供が集まると、おもちゃの取り合いが起きたりして、 本当に騒がしいが、とても良い刺激になっているのではないかと思う。我が家の 子供にとっては、生まれたときからずっと一緒だった友達なので、 横須賀での友達よりも楽しそうに遊んでいた。

■2006年8月18日(金曜日)


みんなで記念撮影
 短距離の学内合宿に顔を出した。中長距離の学生は、ある程度顔と名前が 一致してきたが、短距離は、初めて見るような学生もいて、早く名前と 顔を覚えなければと思った。
 ウォーミングアップのドリルを見ていると、3,4年生は、意識したり 強調する部分がわかっているようで、似たような動きにも意識の 違いで動きに変化が見えるが、1,2年生は、先輩の動きを見よう見まね でやっているように見え、あまり意識する部分がわかっていないのでは ないかと思った。4月に入部した時に、それぞれのドリルがどういう意味を もっているのかしっかり理解させるべきだった。自分は短距離を見ていなかった ので、あまり口出しはできないが、来年以降は、4月の時点で新入生に 理解させてできるようにしたいと思った。
 夜は、来週転勤してしまう後輩の家族が遊びに来た。子供が 2人いるので、うちの子供と合わせて3人。かなりにぎやかで、順番に 誰かが泣いていた。親はゆっくり話をしたかったがそれどころでは なく、子供をかまっていたら、食事もそれほど食べないうちに満腹に なってしまった。時間をかけてゆっくりと食事をすれば、それほど量を 食べなくても満足できるものだ。

■2006年8月17日(木曜日)


妙高高原の朝



苗名の滝
 5時半から約1時間の朝練。宿泊先がスキー場の中なので、進むべき道は 上り坂か下り坂しかない。本日は、苗名の滝というところを目指し、最初は坂を 下り、帰りは上るというルートを走った。
 前半の下り坂は、楽だったが、帰りの上りでは、集団が大きくばらけた。 先頭の方はしっかりと走り切れたが、後ろの方は、朝練という感じの強度ではなく、 主練習なのではないかというくらい呼吸が乱れていた。毎日同じコースでは、 力のない学生は、朝練が憂鬱になるのではないかと思った。
 午前練が始まる頃に、自分は、来週の実験の調整があったため、関東へ 向けて出発した。横川から所沢までの間は、何度も渋滞があり、さらに 3台先の車が見えなくなるくらいの豪雨にも4回遭遇した。トンネルを 抜けて大雨だったかと思えば、逆にトンネルを抜けると晴れていたりして、 本当によくわからない天気だった。特に所沢インターを降りた後の 新座では、車のタイヤが全部浸かってしまいそうなくらい雨水が道にあふれて いて驚いた。
 実験の調整が終わり、横須賀へ帰ってきたのは、夜の8時半ごろ。横須賀の 湿度は高く、とても蒸し暑く感じた。高原の暑さは、直に日が当たるという感じ の暑さだったが、湿度が低かった。高原へ戻りたい・・・

■2006年8月16日(水曜日)


野尻湖



後ろに牛がいます



クロスカントリー
 妻と子供の具合が悪いのに、タイミング悪く陸上部の合宿が新潟県の妙高高原で 行われるため、現地へ行った。自分の立場は自衛官なので、家族の都合で、参加 しないというわけにはいかなかった。災害などがあれば、当然、自分の家族は 家族に任せて出勤しなければならない。
 軽自動車でのロングドライブは辛いが、思ったよりも景色を楽しめ 苦痛ではなかった。時速80kmで走っていたので、どんどん後の車に 追い抜かれるのは気分は悪かったが、飛ばして走るよりは、かなり ガソリンは節約できた。時速80kmは1kmが45秒かかる計算。 走るのは、1kmが3分が基準なので、車って速いなぁと改めて感じた。
 約5時間かかって妙高高原の宿泊先に到着した。到着後、宿では昼食が 出たが、メニューはカレーライスのみ。野菜もなく、合宿のメニューとしては かなり厳ししかった。この雰囲気では、昼食は、毎日一品しか出ないかもしれない・・・
 午後は、宿泊先から約8km山を登ったところにあるクロカンコースでジョッグ。 牧場の中にコースがあり、半分は、日の照ったところを走らなければならなかったが、 残りの半分は、湖や森の中で、いくつものせせらぎを聞きながら走ることができ、 かなり癒された。しかし標高は1300mくらいあるということで、ジョッグで あってもかなり呼吸の乱れる者もいた。
 夜は、夜練ということで、スタビライゼーション中心の補強。前段合宿から 2週間くらい期間が空いているので、振り出しに戻ってしまった者もいたが、 多くが、以前よりは姿勢が良くなっていて、全体的には進歩しているように 感じた。
 高原の夜は、明かりがほとんどなく真っ暗なため、星がもの凄くきれいだった。 普段は見ることのできないような弱い光の星もしっかりと見ることができ、 たまには、こういうところに来るのも良いなぁと思った。妻と子供にも見せて やりたかった。

■2006年8月15日(火曜日)
 朝起きると、妻のまぶたが腫れ上がり、具合が悪そうだった。子供に続いて 妻まで具合が悪くなるとマズイので、病院へ行くことを勧めた。
 自分は、体育学校で実験の調整があったため、1日妻と子供の世話ができず、 昨日から泊まりに来ていた妻の妹たちが、世話をしてくれた。
 妻の病院での診察結果は、眼球が傷つき充血しているということで、アレルギーと 充血の薬をもらって帰ってきたようだった。昨日泣いたときにこすったのだろうか? そんなに激しく目をこすったようには見えなかったが、原因はそれくらいしか 考えられない。薬を飲んだ後、頭痛や吐き気がして、耐えられない状態に なったらしく、帰りのバスでは、なんとかこらえ、家に帰ってから嘔吐した ということだった。それを見た子供は、「何これ?」と言ったらしい。
 妻は、昨日の出来事にかなりのストレスを感じていたのだと思う。病院で 薬をもらうときに、強い薬ですからと言われたようだが、病院へ行く前から 吐き気があったようなので、薬だけが原因ではないはず。今は、子供のことで 精一杯だが、妻も自転車で一緒に転んでいるので、いろいろなところにダメージが あってそれに気が付いていない可能性もある。子供だけでなく、しっかりと 妻をサポートしなければならないと思った。

■2006年8月14日(月曜日)


昨日のレントゲン







骨折にも負けません
 昨日見つけておいた病院へ初診の受付の始まる時間に行き、医師の診察を受けた。 昨日病院で渡されたレントゲンを見せたが、もう一度レントゲンを撮ることになり、 固定していた添え木を取り払った。指を動かすように医師から指示を受けたが、 子供は、あまり反応がなく動かすこともなかった。前腕は、少しくの字に曲がっていた。 医師が触ると泣きそうな顔になった。
 レントゲンを撮影したあと、最も気になっていた手術するかどうかという話が 始まった。結論は手術はせず、レントゲンの映像を見ながら骨の位置を正しく直し、 そのままギプス固定ということになった。2歳では、手術はやりづらく、本人も 大変だということも理由にあった。とにかく手術がなくなったので、妻と2人で 安心したが、それであれば、昨日行った病院ですぐに骨の位置を直して固定して くれれば、2度手間にならなかったのに・・・と思った。
 骨の正しい位置への戻しは午後から行われた。子供は、昨日からしっかりと 寝ていないようで、病院へ行くまでに寝てしまい、寝たままTV透映室という 部屋へ連れて行かれた。その間、妻と自分は、外で待つことになった。画像を 見ながら、麻酔なしで腕を引っ張ったりして骨の位置を戻す作業をするというのが、 自分たちのイメージ。想像するだけで、子供がかわいそうになってくる。医師や 看護婦の話では、すぐに終わるということだったので、少しの我慢だと思っていた。
 作業は2時にはじまり、早速子供が泣き出した。寝ているところに、いきなり 知らない人たちに囲まれ、痛い腕を握られ、それだけでもかなりの恐怖だったと 思う。3分もすれば終わるだろうと思っていたのに、5分経っても終わらず、 だんだん子供の叫び声が、聞いていられないくらい激しくなってきた。「ママー!!」 「痛い!!」など、親としては耐えられない助けを求める声だった。 妻は、この世の終わりのような泣き崩れ方をしていた。
 結局10分近くかかり、ようやくTV透映室から子供は抱きかかえられて出てきた。 出てきたときにも、嘔吐しそうになるなど、異常な状態だった。妻に抱きかかえ られ、少し落ち着いたようだったが、もう一度レントゲンを撮るということで、 また大泣きをした。
 作業後のレントゲンは、作業前よりは、まっすぐに骨がつながったように見えるが やっぱり、きちっとつながったわけではなく、少し曲がっているのが気になった。 しかし、あれだけの時間麻酔なしで子供は耐えたのだから、これ以上はできない。 この状態で、成長していった場合、何らかの機能が損なわれるのではないかと いう気がし、子供には、「ごめんな」という気持ちで一杯になった。
 診察が終わった後は、子供の大好きなゼリーをご褒美として食べさせた。 本当にさっきまで泣き叫んでいたのだろうかと思うほど、食べている顔は、 いつものにこにこした顔で、親としては、その顔に救われ、癒された。子供の 笑顔ほど親を元気づけるモノはない。

■2006年8月13日(日曜日)


骨折直後
 妻と子供は、妻の実家に帰省しているため、久しぶりに朝起こされることなく ゆっくり寝ることができた。優雅に新聞を読み、気が付くと正午。たまには、 これくらいゆっくりするのもいいなぁと思ったが、やることは山のように あるので、昼からは職場へ行き、実験の準備を始めた。
 夕方になり妻から電話があり、子供が骨折したことを告げられた。折れたのは 右腕の前腕部分。尺骨と橈骨の両方だった。妻が子供を自転車に乗せていて そのまま転んだのが原因で、すぐに救急車で病院へ運ばれたということだった。
 病院では、添え木で固定してもらっただけで、炎症が治まった2,3日後に 地元の病院で手術を受けるように指示されたということで、あわてて、 横須賀市内の手術可能な病院を把握し、妻と子供を実家へ迎えに行った。
 妻の実家に行ってみると、子供は、話し方が弱々しかったが、骨が折れている 割には意外と元気だった。今の状況がわかってかわからずか、右腕は動かさない ようにおとなしくしていた。痛くてずっと泣いているのかと思っていたが、 前腕を固定して動かさなければ、痛みはないようで普通にしていられるらしい。 とにかく、思っていたより元気で良かった。

■2006年8月12日(土曜日)


車のアンテナにとまるトンボ
 筑波大学の研究室で、実験で使う乳酸分析器の操作法について教えてもらった。 うちの研究室では最近購入したばかりで、研究室の何人かが業者の説明を聞いただけで 実際に使ったことがなかった。業者の説明から4ヶ月くらい経っていたため、 説明を聞いた人たちもかなり忘れていたため、結局うちの研究室だけでは 操作法がわからず、運動生理の研究室の人に来てもらい、準備から測定のできる 状態までの流れを教えてもらった。
 この器械は、常に電源を入れておかなければならないらしいが、うちの職場では 電源は入れておらず、ケースに入ったままになっていることを思い出し、使えるか どうか不安になってきた。

■2006年8月11日(金曜日)
 練習のために学校に残っていた学生が帰省するということで、夏休み前段合宿 は最後の日となった。メニューは韓国式サーキット。
 練習前は曇っていて少し涼しいくらいだったが、練習が始まる頃 から急に晴れてきて、夏らしい暑さになってしまった。各種目間は100mの 全力走をすることになっていたが、暑さと今までの練習の疲労のため、 全く体が動かず、1000mのペースと変わらないくらいのスピードでしか 走れなかった。ただ辛さに耐えるというだけの我慢大会に近かったが、 暑ければ暑いなりにできる範囲でやるしかないと自分にも学生にも言い聞かせ、 なんとか最後までやりきった。

■2006年8月10日(木曜日)


観音崎と月
 10年ぶりに横須賀米軍基地のオフィサーズクラブへ行った。オフィサーズクラブ というのは、米軍将校専用のレストラン。防大の学生は特別に出入りを認めて もらえ、学生時代は、何度かステーキを食べに行ったことがあった。値段の割には、 ボリュームがあったため満腹感もあったことを覚えている。居残りで練習している 学生が一度も行ったことがないというので、行ってみようということになった。 昔の記憶を頼りに、基地内を歩いていったが、オフィサーズクラブは10年前と まったく変わりはなかった。
 客が多く外のソファーで長い時間を待つというイメージがあったが、今日は 平日のためかお客は1組しかおらず、もの凄く寂しい感じがした。しかし、周りの お客を気にすることなくゆっくり食事ができて良かった。
 注文したのは、サラダとステーキとスープ。さらに今日はデザートが無料という ことで、チーズケーキも注文した。
 サラダは2人前といってもいいくらいの量で、ステーキが食べきれるだろうか? と不安になったが、ステーキは意外と小さくすんなり食べられた。しかし最後に 出てきたチーズケーキは、こってりとして2口目以降はくどかった。さらに、ケーキに かかっているブルーベリージャムによりさらにくどさが助長された。以前は おいしいと思っていたはずなのに、今回はそうでもなく、ずいぶん大味な気がした。 年を取ってきたということなのだろう。だんだん肉食が合わなくなってきた。

■2006年8月9日(水曜日)
 2歳女児虐待で母親が逮捕された。拳で頭を殴り意識不明という報道だった。 しつけのためであり、半年くらい前からなつかないのでやったということだった。 2歳児や3歳児は、親の言っていることがわかるようになり、わざと、 親の言うことを聞かないことがよくある。なんでも否定したくなる年頃なのだから 仕方ない。
 我が家では食事の時に最も困っている。食べるように言うといらないと言い、 食べなくてもいいと言えば食べないという答えが返っくる。暑い季節なので、 水分だけを欲しがり、最後には泣く。これが毎食ごとに起こる。日中 話を聞かない子供と2人きりでいる妻のストレスは計り知れない。
 一時期は中高生の少年犯罪がテレビを賑わしていたが、最近は、自分たちのような 親になったものの犯罪が多い。外で、子供をしかると、虐待をしていると 勘違いされることがあり、妻は真剣に子供をしかれない時があると言っていた。 しかし、他人が自分の子供をしかってくれるわけではなく、ほとんど無関心。 「子育ては孤独だよ」と妻はつぶやいていた。
 子供は褒めれば、とてもうれしい顔をし、その顔をみるだけで親もうれしい。 何事も褒めてあげたいところだが、そうはいかないので難しい。

■2006年8月8日(火曜日)


横須賀の夕焼け
 2,3日前から妻と子供が急に咳をするようになった。咳の周期がもどんどん 短くなり寝ているときも辛そうだったので、昨日は病院へ行ってもらった。 診断は風邪。何日間か涼しいというよりも寒いくらいの夜が続いていたため なのかもしれない。
 昨日から薬は飲むようになったが、妻は変化なく、子供は咳の周期が少し 長くなってきたくらいで、鼻水は相変わらず続いている。その鼻水を腕や 手でぬぐって、いろいろなところに擦りつけるので困る。鼻水を擦りつけるなと 言っても無意識にやることが多いので、全く効果はない。咳をするときは、手で 口を押さえることを教えたが、これもほとんど無意識なので手で押さえることは たまにしかやらない。
 こちらは風邪になっていないので、冷たい飲み物を飲んでしまうが、妻と子供は 飲むことができない。しかし子供にとっては、そんなことは関係なく、親が 冷たいモノを飲んでいればどうしても飲みたくなる。妻はやらないでというが、 それだけで子供は泣きそうになるから、ややこしい。
 そのうち自分もうつされてしまうのではないかという不安があと何日続くのだろう? 2人とも早く治ってくれ。

■2006年8月7日(月曜日)


横須賀と富士山
 NHKスペシャルで硫黄島の戦闘で生き残った人たちが当時の状況を語るという 放送があった。硫黄島は、日本でも最も南方に位置する地域にあり、グアムや サイパンから日本へ向かう時にちょうど中間点にあるため、戦時中は、アメリカに とっても日本にとってもとても意味のある島だった。日本は、この島を死守する ということで、多くの軍人を送り込み、島の中に無数の壕を掘り、アメリカ軍を 待ちかまえた。アメリカ軍は、島中を爆撃し上陸したが、日本軍の無数の壕からの 攻撃に苦戦した。さらに当時の日本軍は、どうせ死ぬなら自ら敵に突っ込んで死ぬ という戦闘をしていたが、硫黄島の日本軍は、自ら死ぬことを禁じられたため、 持久戦となった。結果的に、この島でのアメリカ軍の死傷者は、日本軍の死傷者を 上回った。
 日本軍の壕の中は、硫黄の臭いがたちこめ、温度は40度以上でとても湿度の 高い空間だったため、そこにいるだけでもぐったりとするようなところだった。 11年前実際に硫黄島の壕へ入ったが、1分も入っていれば、体中汗まみれになり、 呼吸も苦しくなり、早くここから出たいと思うくらいの環境だった。
 持久戦なので、当然食料はなくなり、水もない。水があれば、取り合いになる ような異常な精神状態で、見方の死体を盾にして敵と戦ったということが語られた。 自分が死んでからも、見方の盾になるということは、死んでからも戦争を続けなければ ならないのか、という言葉が印象的だった。アメリカ軍が優勢になり、 投降を呼びかけてもほとんど投降する者はいなかった。投降したら、裏切り者と して見方に撃たれてしまうから。想像もつかない環境と精神状態で、まさに 地獄そのものだったにちがいない。なかなか口を開かなかった激戦地からの生還者 の言葉は、戦争が、どれほど人間を狂わせ不幸にするかということが伝わってくる。 二度と戦争を起こしてはならない。
 しかし、世界中で戦闘が続いている。最近は、イスラエルがレバノンを攻撃し、 毎日のように死者が出ている様子が報道されている。戦争をすれば、ほとんどの 人は不幸になることは過去の戦争からも十分わかっているはずなのに、 政治的、宗教的な理由で、対立は続いている。犠牲者の多くは、関係のないはずの 一般市民。戦いをするのなら、人が誰もいないところで戦場を設けて、命令に 従わなければならない軍人ではなく、命令をする人間だけが戦い、関係のない 人たちが犠牲にならないようにして欲しい。

■2006年8月6日(日曜日)
 ここ2週間くらいの間に、いろいろなスポーツでドーピングの問題が ニュースになっている。今朝の新聞には、今年度のツール・ド・フランスの 優勝者に疑いがかけられ、ドーピング違反で失格という記事が出ていた。 先週は、男子100mの世界記録保持者のガトリン選手に疑惑が持ち上がったり、 アテネオリンピック女子円盤投げ金メダリストのドーピング違反の記事を目にした。 昨年は、世界記録保持者だったモンゴメリー選手に疑惑が持ち上がり 引退に追い込まれた。アテネオリンピックのハンマー投げも衝撃的な結末だった。
 今回のツール・ド・フランスでは、大会直前に、優勝候補の選手がドーピング 疑惑で出場ができなかったということがあって、さらに優勝者が失格というのは、 最悪の結末ではないか!!
 競技スポーツの頂点では当たり前にドーピングが行われているのだろうか? 日本が外国に勝てないのは、ドーピングをしていないからだと言われるくらい ドーピングが行われている種目もあるという噂を聞いたことがある。その種目では、 世界選手権には出場してもオリンピックはドーピングの取り締まりが厳しいので、 出場しないという国があったらしい。
 低酸素トレーニングなどがドーピングにあたるかどうかという議論が 以前あったが、なにが人間として自然なことなのかの境界がだんだん はっきりしなくなり、選手も誰を信用していいのかわからなくなって きているのかもしれない。
 今回は禁止薬物といっても、体内では作られている 男性ホルモンだった。今は人工で作られたモノかどうかまで判断できる らしいが、厳密に取り締まれば取り締まるほど、違反の境界線というものは はっきり示せなくなってくるような気がする。

■2006年8月5日(土曜日)
 子供と1000円の床屋へ行った。待合いの席には、「時間を無駄にせず、 効率を重視すれば利益が上がる」というような格言が張ってあり、 洗髪をせず、掃除機でカット後の髪を吸い取るなど、モノを扱うように 人を扱う感じがあった。無駄なものをどんどん省き、成功を収めるというのが この会社のアピールする部分らしい。
 人間が人間らしく生きるということがだんだん難しくなり、効率の良い ことが良いという風潮があるのだろうなぁと思った。自動車工場の生産 ラインに乗せられて髪を切っているような感覚。これでいいのだろうか? 儲かればそれでいいのだろうか?いろいろと考えさせられる床屋だった。

■2006年8月4日(金曜日)
 学生の合宿は一昨日終了したが、2名は継続して練習をしたいという ことで、一緒にトレーニングをした。練習時間がいつもよりもたくさん とれるということで、普段、絶対にできないような練習をすることにした。 メニューは、50m, 50m,100m, 200m, 300m, 400m, 500m, 600m, 700m, 800m, 900m, 1000m。走りと走りの間には、いくつかの補強を入れた。 わざと距離を伸ばしながら走るようにして、最も避けたいと考える トレーニングを克服するという精神的な要素がかなり高かったかもしれない。 補強が途中に入るため、本数が増えるごとに動くのが辛くなり、200m以降は、 ほとんどスピードが上がらず、1000mのペースと変わらなかったが、 2人とも、最後まで、気持ちを切らすことなく走りきり、大きな達成感は あったように見えた。

■2006年8月3日(木曜日)
 胃の摘出手術を受けていたソフトバンクの王監督が退院した。胃をすべて 取ってしまったということは、食べたものは、直接腸へいくことになるの だろうか?
 監督が今回の入院の原因として日常生活で考えられることは何かという 質問に、暴飲暴食と答えていた。野球選手はかき込むように食事をする 癖があり、一般の人も今までよりも1回でも2回でも多く噛むように というコメントもあった。
 我が社では、暴飲暴食や早食いの人が多い。自分も大学1年生の時に、 風呂と飯は5分で済ませろと先輩から指導を受け、早食いの癖がつき、 よく噛まずに食事をするようになってしまった。食べ放題に行けば、 たくさん食べられるので、早食いは特だと思っていたが、最近は、 おいしく食べられるほうがうれしい。そういう考え方ができるように なったということは、自分が大人になったということなのだろうか?

■2006年8月2日(水曜日)


走りへの影響はほとんどなし
 修論実験のための予備実験をやった。自分のやろうとしている実験には、 特殊な器材が必要なため、その器材の調達に時間が掛かり、なかなか行う ことができなかった。やっと業者と調整がつき、デモンストレーション という形で借りることができ、予備実験ができた。
 実験は、携帯型の呼気ガス測定装置をつけてトラックを走ること。午前中に 800mを3本走り、午後はトレッドミル走を1本。800mは2分05秒4、 2分00秒3、2分17秒1だった。15分くらいの間隔で走ったため、 疲労はどんどん蓄積し、最後の1本は、自分がどうやって走っているか わからなかった。
 かなりの強行メニューだったが、何とかやりきり参考になるデータが 出たのではないかと思う。これを土台に本実験をうまく計画していきたい。 

■2006年8月1日(火曜日)
 今日からガソリンが値上がりした。近所のガソリンスタンドでは、レギュラー 1リットルが133円から141円になった。4年前所沢に住んでいるときは、 89円だったので、かなり値上がったように感じる。日本では33年前の石油 ショックの反省から、必死に石油を備蓄しているという。石油の供給がなくなった としても約170日分の備蓄があるらしい。
 石油は、いつか枯渇して利用できなくなるので、代替の燃料を作り出さなければ、 人類は、たぶん生きていけない。そこで、一部の地域では、サトウキビを原料とした バイオマス燃料というものを生産し利用しているという。代替エネルギーをどんどん 開発し、できるだけ石油に頼らないようにすることがこれからは必要になる。 石油の利権を争いのために戦争が起こったりするが、そのうち石油はなくなる のだから、戦争に力をつぎ込むのはやめて、新しいエネルギーを開発することに力を つぎ込んだらどうかと思う。



[昔のいずみ]