最近のいずみ

Last Update:2007/3/31

パートタイムアスリートいずみ 7年目に突入!! 


■2007年3月31日(土曜日)
 新しい職場での1年が終わった。この1年間、いろいろなことをしたような 気もするが、もっといろいろと取り組めたような気がしてならない。そういう 気分になるのは、修士論文がなかなか進まず、考えているのかいないのか わからない時間が膨大にあったから。明日からは、考えているのかいないのか わからない時間をできるだけ少なくしていきたい。普通に働いている人には、 贅沢な時間と言われてしまうかもしれないが、研究をするということは、 そういう時間を過ごすことなのかもしれない。

■2007年3月30日(金曜日)


長い間お疲れ様でした
 今日は、2人の先生が退職されることになった。1人の先生は 定年だったが、もう1人の先生は、定年前の退職だった。どちらの先生も 自分が1年生の時に体育実技の授業を受け持ってもらった。10年後に、 同じ職場で働くことになるとはまったく考えもしなかった。
 特に陸上競技を担当してくれた先生は、10年前には、とても大きく見えたが、 10年ぶりの再会では、ずいぶん小さくなってしまったという印象をもったが、 実際に身長も低くなっているということだった。加齢というのはこういうこと なのかと思った。
 お二人とも明日から無職になってしまう。しかし、無職になることで、 今まで背負ってきた重荷がずいぶん軽くなるとおっしゃっていた。 今後は、体育協会などの仕事をするが、ボランティアということだった。 今後のお二人の活躍を祈念しています。

■2007年3月29日(木曜日)
 世界水泳男子200m平泳ぎは、北島選手が当然注目されているが、体育学校の 木村くんも出場している。予選を突破し、準決勝に臨み、7着でゴールした ように見えたが、結果は失格。とても残念な結果だった。次の日本選手権での 2連覇を期待したい。
 今回の世界選手権でも、次から次へと世界記録や日本記録が更新される。 陸上競技では、なかなか世界記録や日本記録は更新されない。なぜ、これほど 更新されるのだろうか?水泳のレースを見るたびに考えているが、なぜかは よくわからない。道具や施設が良くなっているのだろうか?選手の能力が 向上し続けているためなのだろうか?答えが欲しい。

■2007年3月28日(水曜日)
 昼間は気温が高く、気持ちよかったので昼休みにジョギングをした。初めの 10分くらいは、とても快適に走れたが、15分過ぎからは、呼吸もきつくなり、 20分走ったところで歩いてしまった。10分くらい休憩して、もう10分ジョッグし、 なんとか30分ジョッグ。ジョッグすら継続できず、競技どころではない状態。 普段運動をしていない人のレベルに近い。落ちるところまで落ちたのかもしれない。 さらに落ちることは、日常生活しかできないレベルということになる。さすがに そこまでは落ちることはないと考えているが、走りたいという意欲が低いので、 可能性はないとは言えない・・・

■2007年3月27日(火曜日)


興福寺五重塔
 幹部候補生学校では、先週卒業した4年生が新入生(候補生)として昨日着隊していた。 こちらの顔を見た候補生たちは、何でここにいるの?という顔をしていた。先週まで 学生服を着ていた彼らが、見慣れない自衛官の制服を着ているので、違和感があった。 幹部候補生学校内の施設も少しずつ代わり、古かったがとても立派な建物だなぁと 思っていた講堂が取り壊されていたのが残念だった。防大出身の候補生たちは、9月の中旬 には、ここを卒業する。教育予定表を見ると、訓練や教育がぎっしりと埋め込まれ、 平日はなかなか自分で体力を向上させる時間を取ることができない。運動好きな人に とってはなかなか厳しい環境だと思った。

■2007年3月26日(月曜日)


うわなべ古墳
 明日は奈良にある航空自衛隊幹部候補生学校へ行くため、本日奈良入り。 ホテルへチェックイン後、ジョギングで奈良公園へ行った。幹部候補生学校 の周辺は、巨大な前方後円墳がいくつも存在し、平城宮跡が大きく広がり、 奈良市の中心からそれほど離れていないのに多くの自然が広がっているところが とてもいい。大和西大寺駅周辺は10年前とは大きく変わっていたが、幹部候補生 学校から奈良公園周辺はまったく変わっていなかった。
 日中はとても温かく、芝生で昼寝をしたくなった。

■2007年3月25日(日曜日)
 昨年10月に大阪で受講したアスレティックトレーナー養成講習の共通科目検定 試験が神田の東京電機大学で行われた。アスレティックトレーナーだけでなく、 公認コーチなど別のコースの人たちと共通の試験だったため、いろんな年代層 の人たちが集まった。試験開始後、問題の訂正箇所の説明があったが、「早すぎて 聞き取れない」と文句をいう年配の方が何人かいた。こちらの感覚としては、 説明をした人は大声でとてもゆっくり聞こえるように話しているのではないかと思った。 話していることは、黒板にきちんと書いてあるのでそれを確認すれば何の問題もなく、 試験は開始しているし、わからなければ手を挙げればいいだけなのだが・・・ 本当にあなた達は、指導者なのかと思った。
 試験は、4択のマークシート方式で、正しいものか誤ったものを選ぶ問題が ほとんどだったが、思っていたよりも内容は高度で、大学院の授業を受けて いなければわからない問題もかなりあった。テキストを全く読んでいなかったため、 自信を持って解答できたのは、半分くらい。結果は、4月中旬以降に郵送されるらしい。

■2007年3月24日(土曜日)
 2週間ぶりにジョギングをした。ペースは歩くより速いくらいだったが、 20分を過ぎた頃から、呼吸が辛くなり、歩きたくなった。結局30分でやめた。 1週間近く寝込むと運動には大きな影響があることがわかった。箱根駅伝でも 直前にインフルエンザで寝込んでいて本戦を走ったという選手がいたが、寝込んで いた選手を走らせるということは、相当なリスクを背負うことになる。完走だけでも すごいことかもしれない。  こんな状態で、今シーズン本当に競技が続けられるのか・・・不安で不安で仕方ない。

■2007年3月23日(金曜日)


学位記授与式




中距離パート




同じ研究室の佐藤くんと
 筑波大学大学院の学位記授与式に出席した。要するに大学院の卒業式。 式は、学位記授与と優秀だった人たちの表彰だけだったが、それぞれの研究科 で代表者が1名ずつ選出され、全研究科が学位記をもらうのに、約1時間かかった。 総合大学というのは、すごい人数の大学院生を抱えている。それぞれが何らかの 新しい研究をしているのだから、修了生が2000人くらいとしても2000の研究が 行われたことになる。驚くべき数だ。
 式の中で学長は、「研究者は、現在を過去と見る力が必要である」という内容の 話をされた。研究をするには、常に自分の立ち位置を現在よりも一歩先に置か なければならない。研究者の道とは、とても険しい道のりかもしれない。これから 自分はこの道を進んでいくのだから、そういう努力をしなければならない。
 学位記授与式終了後、外では筑波大学陸上競技の中長距離部員がお祝いに 来てくれた。1年目は週に1度くらいは練習に顔を出していたが、2年目は、 1,2回しか顔を出さなかった。1年生の顔は全く知らない。それなのに、 記念品、色紙、花束を用意してくれていた。色紙には、自分のことを全く知らない 1年生までもがコメントしてくれ、なんだかすまないなぁという気分になった。
 その後、体育研究科の学位記授与式があり、実際に一人一人が学位記をもらった。 学位記をもらって初めて大学院を修了できたのだという実感が湧いてきた。 自分を助けてくれた人たち全員に感謝したい。そして、これがゴールではなく、 今からが研究者としてのスタートということなので、しっかり仕事をすることで、 助けてくれた人たちへの恩返しをしたい。
 最後に食堂で祝賀会が開かれ、希望者のみが参加した。この会では、授業を 担当された多くの先生と話すことができた。初めて話す先生もいて、新しい出会い もあった。今後もこのつながりを大切にしたい。  10年前のこの日は大学の卒業式だった。5年前は、自分の結婚式だった。そして 今日は、大学院の卒業式。3月23日は、自分には特別な日だと思えてきた。

■2007年3月22日(木曜日)


5000m
 関東学生春季オープン2日目。今日は、5000m、800m、3000m障害に多くの学生が 参加した。5000mに出場した岡本くんは、うまく先頭のペースに合わせ、入りの1000m を2分52秒台で通過し、その後もペースは落ちてしまったが、何とか15分を切るペースを 維持し、中盤先頭に立った。残り1000m手前くらいから、2番手に落ち、先頭には一気に 差を開かれたが、なんとか速度低下を最小にし、15分を突破する14分56秒台の 自己ベストでゴールした。防大では2人目の14分台の選手。一人目は、4年前の箱根駅伝で 関東学連選抜に入った岡本くん。同じ名字というのがおもしろい。今回自己ベストを 出した岡本くんも先輩に続き関東学連選抜に選ばれるくらいになってほしい。
 800mには、中距離パートの学生が出場したが、全員が600mまでに力尽き、ゴールまで まともに走りきれなかった。学校の数々にイベントにより、継続して冬季練習が できなかったことが、そのまま結果として出たように見えた。きちんと反省し新年度に 臨みたい。

■2007年3月21日(水曜日)


10000m競歩



1500m
 江戸川競技場で行われた関東学生春季オープンの応援に行った。うちの学生は、 10000m競歩に1名と1500mに3名が出場した。自分は、400mにエントリーしていたが、 先週寝込んでから一歩も走っておらず、ジョギングする気分にもないため棄権した。
 競歩に出場した野口くんは、日本トップクラスらしい明治大学の学生に必死について いったが、ペースを維持できず、2000m以降はペースダウンしたが、なんとか3位をキープ して45分を切る自己ベストでゴールし、今年の日本選手権の標準記録を突破した。おそらく 彼は、防大の陸上競技部で日本選手権に出る初めて選手だろう。
 1500mは、申請タイムにより、3人ともあまり良い組に入れず、2人はそれぞれの組で 独走でゴールした。一人は、関東インカレの標準記録を狙っていたので、この組み合わせは 残念だった。 

■2007年3月20日(火曜日)
 体育学校のウエイトリフティングの選手が防大へ合宿へ来ていたので、 ウエイト場へ顔を出した。合宿といっても体育学校の選手たちがトレーニングを するのではなく、彼らが、学生たちを指導するという感じだった。学生たちに とっては、日本でトップクラスの選手に指導してもらえるということなので とても幸せなことだと思う。普段は自分のことを考えていればいい選手たちに とっても、人を指導するということは、客観的に人のことを見ないといけないので、 普段とは違うトレーニングになっているような気がした。

■2007年3月19日(月曜日)
 学生は、今日から春休みとなり、多くのクラブでは春合宿が始まった。 我が陸上競技部も午前中から練習が始まると思っていたら、誰もグランドに 顔を出さなかった。なぜか合宿は午後から始まることになっていたようだ。
 水曜には試合があるので、今日は、その最終刺激だった。2月の試験期間 以降、多くの学生たちが継続した練習ができていなかったため、まともに 走れる者は少なかった。ケガをしたわけではないのに、練習が継続できないと いうのがもどかしい。ちょっとした時間でも走ろうという意欲がなければ、 この学校では、練習は継続できず、自分の目標とする結果は望めないだろう。 

■2007年3月18日(日曜日)


恒例の帽子投げ



中距離パート
 防衛大学校第51期生の卒業式に参列。安倍総理大臣、久間防衛大臣、小泉元 総理大臣の姿も舞台上に確認できた。卒業式と陸海空自衛官の任官式が終了後、 来賓全員が退場し恒例の学生退場となった。学生の代表者の号令で、手にしていた 帽子が一斉に投げ上げられ、学生が走って退場していった。卒業式の会場が、 自分たちの頃にはなかったとても広い記念講堂で行われたためか、400以上の帽子が 投げ上げられたはずなのに、あまり迫力がなく、あっという間に終わってしまった。 4年間の中身はともあれ、こうして、総理大臣も出席する日本一の卒業式が行われると、 なんだかすごい4年間を送ってきたように感じ、卒業生にはよく頑張ったなぁと 言いたくなってしまった。
 観閲式や午餐会などが行われ、最後は、学生と職員が本館から正門まで道をつくり、 最後の見送りとなった。陸上部の卒業生を中心に、握手で送り出した。10年前は、 自分もこの場所で同じように送られたが、あまり印象がない。 職員は、本当に温かいまなざしで学生を送り出していた。今更ながら、学校職員の 温かさにふれ、すばらしい学校を卒業したものだと思った。

■2007年3月17日(土曜日)
 口を開けると痛みが残っている。薬を飲み、痛みが緩和するのを待つしかない。 午前中は、朝食後、また眠くなり、朝寝。気がつけば昼になっていた。もの凄く だらけた生活になったが、この体の具合では仕方ない。早くこのだるさから解放されたい。

■2007年3月16日(金曜日)
 相変わらず、喉と頭痛が続いていたが、なんとか出勤した。昼休みに病院へ 行ったが、先生からは、もう回復に向かっているから問題ないと言われた。 しかし、まだまだ完全回復までには時間がかかりそうだ。

■2007年3月15日(木曜日)
 起きたときは、昨日と同じ状態で、食事ができず、今日から出勤するつもりでいたが、 出勤を断念。熱は、37度台に下がり、ずいぶん楽になり、座ることも苦にならなくなった。 この5日間で、通常の1食分の食事をしたかどうか。胃袋がずいぶん小さくなっている だろう。

■2007年3月14日(水曜日)
 相変わらず体温は38度台。喉が腫れ、唇が腫れ食事が食べられない。つばを飲み込む のも痛い。しかし、何か食べ物を口にしないと薬を飲むことができないので、痛みを こらえ少しだけ食事をし、薬を飲んだ。食後、歯を磨いたところ、歯茎が削れてしまった。 削れた歯茎はもう戻らない。歯を磨いて後悔した。本当に何もできない。職場を 休んでもう3日目。明日には復帰したい。

■2007年3月13日(火曜日)
 深夜2時頃に体温を測ってみたが相変わらず40.0°という表示だった。 昨日の痛みから殆ど変化はなく、変わったことは、吐き気がなくなっただけ。本当に 熱は下がるのだろうか?と不安になったが、目を覚ます感覚が2時間おきくらいに なり、昨夜よりは眠れたため、朝には体温が38度台まで下がった。
 昨日から、ずっと家の中にいて気がついたことは、妻が1時間に2回は、大声で怒り、 子供は、それ以上の回数で泣き叫んでいることだった。これが子供が起きてから寝るまで 続いている。親子2人で家の中にいると、双方がすごいストレスだ。

■2007年3月12日(月曜日)
 昨夜は、就寝後、関節痛、筋肉痛、頭痛、喉痛が重なり、ジッとしていられず、 そうかといって動くと別の部位が痛み出したりしてほとんど寝られなかった。タミルフルを 服用したことと関係があるかどうかはわからないが、突然吐きたくなることが度々起き、 トイレに駆け込んだ。昨日は朝食しか食べていなかったため、胃から出てくるモノはなく、 胃が強い痙攣を起こし、その痛みに必死に耐えるしかなかった。自分の胃がげんこつ よりも小さく収縮している感覚があり、体のどこにあるかはっきりと把握できた。
 午前中は、昨日もらった薬を服用して寝て、午後から鴨居の内科へ受診した。 受付で体温計をもらい体温を測定していたが、測定終了の音が鳴らず、ずっと待っていた。 最終的に、受付の方からその時の温度を聞かれ、体温計を見てみると40.0°となっていた。 すぐに処置室へ入り寝た状態で順番を待つこととなった。昨夜と同じように鼻の穴から 綿棒を入れられインフルエンザの検査を行い、結果は陰性。タダの風邪でも40度と いうことはあり得るので、薬を飲んで休養を取るように指導を受けた。
 インフルエンザではなかったということだけで、薬はタミフルではなくなり、 家族への負担も軽減されたような気分になりホッとした。

■2007年3月11日(日曜日)


じいちゃんと孫で植木



両親と



水族館にて
 金曜の夜から、左の喉に痛みがあり、昨日は、痛みが少し右へ広がり、 今朝からは、全体に広がっていた。6時に目が覚めたので朝練をしようと 思ったが、雨が降っていたため断念し、居間でテレビを見ているうちに 父が起きてきて、先月の千葉クロカンのビデオを見せてくれた。自分は、 スタートとゴールだけ映っていた。
 今日は、横須賀へ帰るだけだったが、父が孫を水族館へ連れて行きたいという 提案があり、水族館が横須賀へ帰る方向だったため、一緒に水族館へ行くことにした。
 水族館へついた頃から、自分の具合はどんどん悪くなってきたため、途中から 車に戻って寝ていた。具合は全く改善しなかったが、車を運転しないと横須賀へ 帰ることはできないため、我慢してハンドルを握った。
 富士川で休憩し、また運転し始めたが、御殿場あたりで限界だと感じ、足柄で 妻と運転を交代してもらった。妻は、高速道路を運転することがないので、 ずいぶん恐かったと思うが、何とか横須賀まで戻り、そのまま救急医療センターへ 行った。
 受付をした後すぐに体温を測ったが、39.3度。症状を医師に話すと、すぐに インフルエンザの検査をすることになった。鼻に綿棒を突っ込まれ、あまりの 痛さに自然と涙が出てきた。こんな検査は二度としたくない。検査の結果は陰性。 しかし、完全にインフルエンザの症状だということで今話題になっている タミフルを処方された。薬をもらう時に「自殺しないでくださいね」と言われた。 なんとも答えようがなかった。

■2007年3月10日(土曜日)


スクワットの姿勢確認
 小牧にあるゴールドフレックスへ陸上部の学生と2人で身体調整に行った。 自分は、特に上半身がリラックスできるように調整してもらったが、期待していた ほどの劇的な変化がなかった。学生は、自分よりも肩甲骨周りの柔軟性が 高く、劇的な変化を遂げ、さらに広背筋を動かすことにも成功し、自分には 意識できなかったこともあり、かなりうらやましかった。
 フォーム改善というのは、外から見ていて、どこを動かした方が良いとか、 どこの角度が悪いと指摘するものではないということを知った。どの筋肉が 働いていないか、働きが弱いかを見つけ、その筋を使えるようにすることで、 特に指示をしなくても勝手にフォームは改善されてしまう。目の前で、学生が どんどん変わっていくのが本当におもしろかった。

■2007年3月9日(金曜日)


断郊競技
 3年生の断郊競技会と4年生の持続走大会があった。断郊競技というのは、 作業服に背嚢(はいのう)というリュックを背負ってチームで走る競技。距離は 約7km。背嚢の中には、毛布や穴を掘るシャベルや飯ごうが入っている。陸上部の 中長距離選手は、みんなにアピールできる競技のはずだったが、中距離の エースがチームのメンバーに背嚢を背負ってもらい、フラフラしながら走っているのが 意外だった。体調が悪かったのだろうか?
 持続走大会は1人約6kmを走る駅伝大会。4年生が卒業まで体力錬成をするように という意図があるらしく、卒業前の3月に行われている。こちらは、陸上部の長距離 のエースが圧倒的な力の差を見せつける走りをしてくれて、気持ちよかった。 校内競技会だけでなく、校外の競技会でも、こんな走りをしてくれたらなぁと思う。

■2007年3月8日(木曜日)
 レッグランジの筋肉痛がやっと落ち着き始めた。最近のクラブ活動は、 練習時間が1時間もなく、殆ど何もできない状態なので、短時間で、 高強度の運動をすることで、なんとか体に刺激を入れさせることにした。
 メニューは200mのエンドレスリレー。エンドレスといっても200mを5本。 しかし3人一組で行うので、休憩時間は60秒以内となり、相当な負荷が掛かる。 学生が5人しかいなかったため、自分も練習に加わることとなった。負けた方が、 罰ゲームをするという条件とした。2チームとも必死で、4本目までは、 殆ど差はなく競り合っていたが、5本目で力尽きる学生がいて 結局自分のチームが負けた。走り終わった後は、下肢はパンパンに張り、 動けなかった。この状況での罰ゲームはいじめに近かった。

■2007年3月7日(水曜日)
 久しぶりに国立競技場へ行った。走りに行ったわけではなく、学生のお使い。 来年度の関東学連の継続登録の手続きがあり、学生は学校から平日の外出を 許可されなかったため、自分が代わりに行くことになった。学生の自主運営で クラブ活動は成り立っていて、後期試験も終わり授業がなく、理由のある 外出なのに、それが認められないのが何とも歯がゆい。

■2007年3月6日(火曜日)
 3月で定年退官される学校職員の送別会に参加した。職員は定年が65歳。 今回定年となる世代は戦争を体験している世代だった。退官される図書館長は、 3歳の時に大阪大空襲を経験し、必死に逃げた記憶が残っているという。自分の 子供が現在3歳だが、空襲から逃れるために必死に走ることができるのだろうか?と 考えてみると、想像できない体験だと思った。来年以降退官される先生方は、戦争は、 2歳の時の体験ということになるので、たぶん覚えていないはず。そう考えると、 この3月で戦争を体験された先生方が、一気にいなくなり、4月からは、 戦争を知らない世代だけの学校になるのだなぁと思った。

■2007年3月5日(月曜日)
 学生に軽いバーベルを持たせ片足を前に出し膝を曲げるレッグランジを やらせた。相当軽いバーベルなので、何ともないだろうと思っていたが、 学生たちは、顔を歪めるほどきつそうだった。そこで、見本を見せるべく、 昨年度まではよくやっていた50kgのバーベルを担いで、やってみたところ、 10回を超えたところで、内転筋群がつりそうになり、結局学生と同じように 顔を歪めて回数をこなしきった。学生には3セットやらせたが、自分は、 その後続けられなかった。きちんとフォームが固まっていない学生たちに いきなり負荷をかけるのは間違っていた。全員が、明日以降相当な筋肉痛に なることだろう。自分については、筋力が確実に落ちてきている。 このままではまずい・・・

■2007年3月4日(日曜日)


つくし発見!!
 朝は、子供と土浦駅近くまで散歩し、駅を行き交う電車を眺めた。電車が 通過するたびに、子供は、電車の名前を知りたがったが、殆ど利用しない電車 なので、答えることができなかった。
 散歩が終わったらすぐにチェックアウトし、横須賀へ向かった。車の中では NHKラジオでびわこ毎日マラソンの放送を聞いた。ペースメーカーが公式に 認められるようになってから、有力選手たちは、前半からレースを引っ張ることが なくなり、ある程度タイムを狙いながら、最終的に勝負をするというパターンに なってしまった。前半は大きな動きがなく、大集団で走ることが多くなり、 放送を聞いていてもあまりワクワクドキドキすることがなかった。スタートから 世界記録ペースで飛ばし、独走でゴールした中山竹通選手のような走りをする人が 見たい。
 最後まで残ったのは外国招待選手2人で、彼らの後半の強さは、日本人選手とは 大きな差があった。最後で勝負というのは、これだけの力の差があったら難しい。 ペースメーカーの存在というのは選手にとっては有り難いが、応援する側から 見ると、レースをつまらなくする存在なのかもしれない。

■2007年3月3日(土曜日)


ケーブルカー



かなり目立ちます
 つくばの下宿先の荷物を出し、次に入ってくる人が入れる状態にした。 月に1万円で、電気、水道代はタダ。風呂と洗濯機専用の建物があり、 トイレと台所もついているというすばらしい環境だった。月に1度も 泊まらないこともあったが、下宿があるだけで安心感があった。大家さんに 挨拶をしようと思っていたが、大家さんは不在だった。また改めて 挨拶に行かなければならない。
 妻と子供も一緒に来ていたので、下宿の荷物を車に積めた後は、子供が ケーブルカーに乗りたいということで、筑波山へ行った。筑波山は男体山と 女体山という2つの山から成り立ち、男体山へはケーブルカー、女体山へは ロープーウェイで山頂近くまで上ることができる。駐車場から、ケーブルカー 乗り場までは、かなりの上りがあり、途中に筑波神社があった。神社近辺の お土産屋では、つくば名物がまの油や、ガマ蛙の置物が大量に飾られていた。
 3人でケーブルカーに乗り、男体山山頂近くまで上った後は、子供と二人で 男体山の山頂へ向かった。3歳の子供にはかなり厳しい岩山だったが、 子供は必死に上り、山頂までたどり着いた。山頂へたどり着いたときの、 子供の達成感で一杯の顔がとても印象的で、こちらも大きな満足感があった。
 夜は土浦にある霞ヶ浦近くのホテルへ泊まり、夕食の場所を探しに駅前まで 出かけ、あまり見かけない真っ白なポストを発見した。そこには、 「青少年に見せたくない 見られたくない 雑誌を入れてください」と書いてあった。  こんな駅前の目立つところに置いて、わざわざそんな雑誌を持ってくる人が いるのだろうか?と思った。

■2007年3月2日(金曜日)
 日本体育協会公認アスレティックトレーナーの専門科目の試験があった。 午前10時から、75分、75分、50分、75分の4回の試験時間で合計11科目、すべて 記述式の試験だった。ただひたすら書き続けた。修士論文に集中していたため 勉強は、全くしておらず、テキストも行きの電車の中で初めて眺めた程度。 とうてい解答できる知識は持ち合わせていなかったが、大学院に在籍している 間に受験しなければならず、仕方なく受験することとなった。いくつかの科目は、 白紙で提出するかもしれないと予想していたが、今持ち合わせているすべての 知識を総動員して、すべての問題に解答した。問題によっては、今自分の おかれているトレーニング環境について、改善できる点を述べるようなテキストとは 関係のない問題もあったので助かった。結果は来月らしいが、たぶん平成19年度も 同じ科目数を受験することになるだろう。

■2007年3月1日(木曜日)
 いろいろなところで、金属が盗まれるニュースが続いている。公園の車止めや 消防署の鐘など、公共の物品がどんどん盗まれる。お墓に置いてあるモノまで 持って行くというのには驚いた。金属の値段がずいぶん高騰している のが原因だとニュースでは述べていたが、そういう問題じゃないと思う。 「モラルがない」という一言に集約されるのではないか。そのうちモラルって何? という人が増えて死語になってしまうのかもしれない。普通に考えてみれば、 おかしいことばかりが起こっている。どう考えても理解できない・・・



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