最近のいずみ

Last Update:2011/11/30

パートタイムアスリートいずみ 12年目に突入 



■2011年11月30日(水曜日)
 国会では、首相と野党の党首討論が行われた。首相と自民党総裁の討論をニュースで見たが、お互いがお互いの質問に真っ正面から答えることなく、ずれたことを言っていて、内容に何の進展もなかった。本音を出さず建前ばかりのようで、とにかく聞いていてもどかしいことばかり。こういったはっきりしない事ばかりなので、国民は既存政党に無関心になる。そうしたことの結果が大阪の府知事選挙と市長選挙に表れたのではないかと思った。

■2011年11月29日(火曜日)


畑のホウレンソウ
 300m×4を10分休憩で2セット行った。すべてを50秒以内で走るという目標を立てて臨んだが、2セット目の2本目と3本目は51秒台となり、目標は達成できなかった。しかし、つなぎの100mジョッグが2セット目の方が早く、トータルの1500mのタイムは、2本目の方が速かった。今日は、足や腰が辛いと言うよりも呼吸が辛く、後半は走れなかった。
1週間継続して練習ができたことが、ここ数年なかったので、目標は達成できなかったが、それだけで自分にとっての進歩だったように思う。

■2011年11月28日(月曜日)
 200mほどの上り坂と100mほどの平坦な道を使ってのヒルトレーニングを7本行った。前半の上り坂は8割程度の力で余力を持って走り、平坦になるところから動きを切り替えて全力で走るという設定だった。
 腰は最初から痛みがあり、全力で走る区間も全力で走れているようには思えなかった。6本目までは、ほぼ同じタイムで全力区間を走れたが、最後の1本は、気持ちが切れてしまった。後半になるほど、腰の痛みが臀部にまで波及してきて走りづらくはなったが、なんとかすべてをこなすことができ、あきらめずに最後まで走れただけで満足だった。

■2011年11月27日(日曜日)
 左の人差し指がチクチクと痛みがあるので、指を見てみるととげが刺さっていた。自分でとげを取ろうとしたが、少し奥に入ってしまっているようで、表面から取ることはできず、表皮をほじる必要があることがわかり、自分でやるのは断念して妻に取ってもらうことにした。
 自分で取ろうとすると、どの瞬間に痛みが来るかわかるため、痛みが出るところでそれ以上踏み込めないが、人にやってもらうと、そんなことはお構いなしにやられてしまう。なんでもない小さなとげなのに、痛みは激しく、冷や汗が出てきた。妻には、「男は弱い」と言われたが、弱くても強くてもとげが取れればどうでも良かった。
 そのご、庭に植えてあるウコギの枯れた枝を折っていたときに、ウコギのとげに刺さって、右の親指に痛みが走った。とげが皮膚に入ったようには見えないが、夜になっても、何かが刺さった鈍い痛みが残っている。今日はとげと共に過ごした1日だった。

■2011年11月26日(土曜日)


卵割りに挑戦中
 久しぶりに韓国式サーキットを3セット行った。これは韓国のナショナルチームが種目を問わず行っていたサーキットトレーニングで、9種目の運動を100mの全力走でつなぎ、10種目目の1000mを走って1セットというメニュー。1セットが約20分かかるので、3セットは、約1時間動き続けることになる。
 種目間を100mの全力走でつなぐことになるが、それぞれの種目で疲労しているため、全力では走れず、妥協している自分がいることを認識しながら走ることになるためとてももどかしかった。1000mは、3本とも3分を切って走ることができたのは驚きだった。一人では絶対に走りきれないが、学生たちと集団で走ることで、可能となったタイムだと思う。学生たちのレベルが上がり、自分のレベルが下がっていることで、お互いちょうど良い強度の練習ができているのだと思う。

■2011年11月25日(金曜日)
 学生の課外講演と日本防衛学会の特別講演を兼ねて、「東日本大震災における自衛隊統合任務舞台指揮官として」という演題で、陸上幕僚長の講演を聴いた。
 震災直後の初動の目標はとにかく人命救助だった。72時間が命が助かる限界と言われ、実際に救助した人数のデータからも3日以降は急激に生存者が減っていた。しかし、8日目まで生存者の救出があり、最後まであきらめずに捜索した結果だということが理解できた。自衛隊には、亡くなった方を捜索する任務は与えられていないことから、指揮官たちは、柔軟に解釈をし、行方不明者の捜索と位置づけて亡くなった方たちの捜索を行った。自衛隊は約9500名の遺体を捜索し、今回の震災で亡くなった方のおよそ半分を捜索した。瓦礫の撤去についても、任務ではなかったが、行方不明者の捜索で瓦礫を撤去しなければならないということで、瓦礫もきれいに撤去でき、主要な道路の復旧につながった。自衛隊を除き、これらの仕事を組織として行う組織がなく、何とかして被災した方々のニーズに細かく対応しようとした結果、これらの仕事を成し遂げることとなった。
 世界中から届く救援物資の整理にも工夫をし、すべての物資をカタログ化し、必要な所に、必要な物が届くよう努めたそうだが、どの物資についても日本製がもっとも人気が高かったという。
 自衛官の食事は、最後まで缶飯で、温かいご飯は、すべて被災者へ回し、被災した地域の店での購買は、被災者の購買を優先できるよう、決して買わないように徹底したという。
 福島第一原発の事故に関しては、さらに爆発したときの作業員の避難のため2個師団を24時間待機をしていた。また、原発20km圏内での行方不明者捜索では、それぞれの家に入るにも持ち主を1件ずつ捜し出し、了承を得てから捜索をしたそうで、同時に瓦礫の撤去を行い、床のぞうきんがけまで行ったため、家の立ち入りを拒否していた人たちが、次々と捜索をして欲しいと言ってくるほど、自衛隊を頼りにしてくれたようだった。
 報道ではあまり語られることはない情報もあり、現場で働いた自衛官たちの苦労が伝わる内容だった。

■2011年11月24日(木曜日)
 長男が学校へ登校するようになり、三男の咳も治まってきた。自分の練習も今週からまともにできるようになり、やっと日常が戻ってきたような気がする。
 今日は、冬季練習前の、基礎体力測定をした。体の周径囲や体脂肪、体前屈、腕立て伏せ、腹筋、握力、背筋力、上体反らし、垂直跳び、パワーMAXでの無酸素パワーテストなどを行った。約2年ぶりの測定だが、4年前から不定期に測定しているので、それらの結果と比較すると、特に握力と背筋力が低下していることがわかった。また、60秒間の腕立て伏せは、以前は、60回に近いところまでできていたのに、今回は、41回。今までに見たことのない低い回数だった。垂直跳びやパワーMAXは、全く変化していないので、瞬発的なパワーについては維持できているのかもしれない。冬季練を通して、低下した項目も向上できるようにしていきたい。

■2011年11月23日(水曜日)
 800mの変化走3本を2セット。学生に引っ張ってもらって走ったが、1セット目の2本目で、いきなりペースダウンし、一人でジョギングのように走ることとなった。800mジョギングの後、2セット目は、きついながらも、速度を維持でき、速度を変化させる局面でも変化させることができ、3本とも今の自分の納得のいく走りができて驚いた。6本すべてが走れたわけではないが、先週までの状態を考えれば、いきなり進歩してしまったような感じがする。

■2011年11月22日(火曜日)
 約3週間ぶりに、きちんとした練習を再開した。メニューは、3000mの変化走を2本。1本目は、最初の1000mを3分で走り、残りの2000mは3分30秒/kmで走り、1000mジョッグの後2本目は最初の2000mを3分30秒/kmで走り、最後の1000mを3分に上げるという設定だった。腰痛が気になりながら走らなければならないため、いつ止めることになるのだろうと思いながらスタートしたが、何とか2本とも走り切れた。久しぶりに気持ちよく走れた。
 1本目がかなりきつく、最後の1周は、もがくような感じだったので、2本目を走りきるのは厳しいと思ったが、2本目は、走り始めると、とても気持ちよく、昨日の「ゾーン」には到達できないが、「ランナーズハイ」に近い状態で、このままのペースであればどこまでもはしって行けるのではないかという感覚だった。そのため、後半のペースアップも気持ちよくでき、ほぼ設定通りに走り切れ、久しぶりに気持ちの良い汗がかけ、また走りたいという気持ちになった。
 家に帰ると、800mと1500mのマスターズの日本記録とアジア記録の認定証4枚が届いていた。昨年度のものなので、忘れてしまったような記録だが、今シーズンは、これらの記録を破れなかった。来年は、これらの記録を更新できるよう、練習をやり直していきたいと思った。

■2011年11月21日(月曜日)
 最近、三浦しをん著「風が強く吹いている」という小説を読んでいる。物語は、箱根駅伝を目指すほとんどが素人という大学生たちの成長を描いている。その物語の中で、「ゾーン」という言葉に強く共感を覚え、「ゾーン」という言葉を知った。
 小説では、「ゾーン」の描写として、「次元の違う境地」、「脳髄がさえ渡る」、「走る自分の姿を、もう一人の自分が俯瞰しているみたいだ」、「このまま還ってこられなくなりそうなほど、気持ちがいい」「不思議な無感覚状態」などと記述されている。
 自分も一度だけ、これらの言葉と同じような感覚に陥ったことがある。そのレースは、800mのレースで、ハイペースでありながら、長距離のペース走のような感覚で、スローモーションで自分が動いているようだった。また、自分の体の動きすべてが瞬間瞬間で把握できるほど神経がとぎすまされ、相手の動きもよく見えた。とにかく心地よかった。早く、先頭に出てスパートをしたいと思いながら、スパートをすることでこの感覚壊れてしまうように思え、この感覚を残り100mになるまで味わい、ラストスパートで当時の日本記録保持者を振り切り優勝することができた。その年の日本チャンピオンにも勝利し、今もそのレースのタイムが自己ベストとなっている。
 自分でもあの瞬間はどういう状態だったのか、言葉で表すことがとても難しかったので、この小説は、当時の自分の気分を代弁してくれいるようで、読み終えたときには、とてもさわやかな気分だった。
 この小説は、箱根駅伝へ出場してる学校や実業団の選手たちに取材をしていたようで、本の最後に、取材協力に応じてくれた団体や個人の名前が載っていた。その中に、自分の友達の名前が載っていて、最後の最後まで驚かされた。

■2011年11月20日(日曜日)


表彰式(6位は一番右)
 よこすかシーサイドマラソンの男子5kmに出場。練習では17分半くらいでしか走っていないので、どこまでタイムが上げられるか全くわからなかった。
 前半はずっと集団について楽に走ることができたが、折り返し地点で急激に疲れた。例年であれば、折り返しで反対車線へ行くよう役員からは指示されるのだが、今年は、走ってきた車線に戻るよう指示され、先頭集団の多くの選手が戸惑った。折り返す前の選手たちと同じ車線を走らなければならないのに、全くコーンなどの仕切がないため、小学生が近づいてきてぶつかりそうになった。
 3km通過が9分44秒台で、この辺りから先頭集団について行けなくなり、6番手で走った。残り1kmを切ったところで、少しスピードを上げ、順位を5位に上げ、そのままゴールできるかと思ったら、のこり50mくらいで抜き返され結局6位でのフィニッシュとなった。タイムは16分20秒だった。今まで負けたことのなかった2年前の卒業生が6秒差で3位だった。卒業生に負けたことは、ショックと同時にうれしくもあったが、4位の選手が30歳で5位の選手は自分よりも年上の38歳だったことがさらにショックなことだった。自分の腰痛や長男の入院でほとんど走っていなかったこともあるので、16分20秒であればよく走った方なのかもしれない。長男には優勝して、副賞の靴をプレゼントすると話していたのだが、約束は守れなかった。来年は、優勝できるよう故障の回復とトレーニングに励みたい。
 自分が走り終わったころ、長男の退院手続きが行われていた。自分は、走り終わって、ダウンついでに病院まで行き、退院直前の長男と話した。11日間、ほとんど食事をしていなかったが、家に帰ると、普通に食事をしていた。長男は、人間は雰囲気で食事をすることがよくわかったのではないかと思う。まずは、退院できてよかった。

■2011年11月19日(土曜日)
 長男の体温は、午前中36度台だったようだが、午後は少し上がり、37.2度。もう平熱とほとんど変わらないため、医師からは明日は退院できると言われ、ホッとした。相変わらず病院食はほとんど口にしていない。妻が家から持ってきた物はある程度食べられることから考えれば、病院の中で食事をするという雰囲気が彼の食欲をそいでいる可能性が高い。とにかくやっと出口が見えてきた。

■2011年11月18日(金曜日)
 長男の体温は、午前中は36.9度、夜は37.3度だった。医師からは、マイコプラズマ肺炎の可能性があると言われた。症状としては、高熱が10日ほど続くこともあり、激しい咳が続く。熱が下がれば、退院となるが、咳は1ヶ月ほど続く可能性があるとのことだった。
 長男は、相変わらず病院で出される食事にはほとんど手をつけない。今日は、夕食時に弁当を持ち込み、長男には、病院食を食べるように促しながら一緒に食べた。こちらが食べるように促せば、少しは食べてくれる。
 天皇陛下も11月6日から入院し、熱が続いていて、長男と似たような症状だと思っていたが、夜のニュースでは、原因は、マイコプラズマ菌ではないかという報道があった。マイコプラズマ菌は潜伏期間が2〜3週間という。三男も最近、咳をするようになってきていて、ちょっと心配になってきた。

■2011年11月17日(木曜日)
 長男の体温は、少しずつ平熱に近づいている。午前中は、36度台で始めて平熱を記録し、昼は38。0度。夜は38.4度で、体温の最高値も入院して9日にしてやっと39度台を下回った。昼間は、妻と三男が病院へ行き、三男は、病棟の外で待機していたのだが、妻が長男を連れ病棟の外に飲み物を買いに行く機会を作り、三男との面会を実現させた。ほんのわずかな時間だったようだが、三男と9日ぶりに会ったのがうれしかったようで、別れ際に泣きそうになっていたという。家族と離れ、一人で入院というのは辛くて仕方ないことなのだろう。
 仕事が終わった後に見舞いに行き、体を拭く姿を見たのだが、長男は骨と皮だけの体になり、腕がかなり細くなっていた。上腕が親指と人差し指で握れてしまうほどだった。病院で出される食事をほとんど食べていないのだから、痩せるのは当たり前なのだが、本人は、お腹がすくとも言わず、なんともないようだ。少しずつでも食べれくれればと思うばかりだ。

■2011年11月16日(水曜日)
 昼休みに長男の具合を見に行ったが、朝の体温は37.2度で、昨日点滴を取って自由に寝返りも打てるようになり、昨日までよりは寝やすくなったように見えた。テレビカードが切れ、テレビも冷蔵庫も昨日しなくなり、読む本もなくなり、一人で折り紙をして時間をつぶしていた。
 夜の面会に行ったときには、顔を赤くして、目がうつろな感じで、好きなアニメの番組を見ていた。午後の体温は39.2度。食事もほとんど摂っていなかった。食後に薬を飲み、しばらくして体温を測ったときには38.9度。少し汗をかき始めていたので、これから朝にかけて体温がまた下がってくるのかもしれない。朝は下がり夕方は上がるという繰り返しばかり。本当にもどかしい。

■2011年11月15日(火曜日)
 長男は、午前中に熱が37度台まで下がった。医師から昨日の血液検査の結果を聞いたところ、いくつかの検査項目は、基準値からはずれてはいたが、高い熱が続いていた割には、際だって目立つ数値はなかったことがわかり、安心した。高い熱の割には、長男がとても穏やかで、血液検査もそれほど特徴がないため、医師もなかなか診断を下せないらしい。レントゲンを見ると、少し気管支肺炎を起こしている事がわかったようだが、肺は今のところ問題なく、考えられる原因としては2つあるとの事だった。マイコプラズマ抗体の検査では、基準値よりも高い(治ったときにもっとも高くなるらしい)こともあるので、一つは、マイコプラズマ肺炎の可能性、もう一つは、ウイルス性肺炎の可能性があるとのことで、細菌性肺炎の可能性は否定された。マイコプラズマ肺炎の可能性も考え、今日から薬の処方を変更してみることを伝えられ、いしからの説明は終わった。
 仕事が終わってから、病院へ行ってみると、長男は夕食が終わり寝ていた。看護師から体温について聞いてみたところ、また39度台になったとのことだった。薬を変更したことで、回復が早まってくれればと思う。
 長男の心配をしているうちに、三男の具合も悪くなってきた。昨日から咳をするようになり、痰も絡まっている。さらにくしゃみをすると鼻水も飛び出てくる。子供が複数いれば、順番にうつっていくものなのかもしれないが、主に看病する妻の体も心配だ。

■2011年11月14日(月曜日)
 次男は、先週1週間、マイコプラズマ肺炎の疑いで幼稚園を休んでいたが、咳が治まり、小児科でも登園が認められ、やっと今日から登園した。
 長男は、相変わらず入院中。午前中に様子を見に行ったときには、熱が38度台だったが、夕方には、39度台に上がっていた。相変わらず、点滴は腕につながれたままで、食事はほとんど食べず、水分もあまり摂取していないようだった。テレビを見るのも飽きてきたようで、ケーブルテレビが見たいと言っていた。教育テレビで小学校5,6年生の算数を見たようで、41÷2では余りが1になることを知ったと話していた。小学校2年生では割り算を理解するのも大変なのに、テレビをちょっと見ただけで理解できたというのだから、たいしたやつだと思った。解熱剤を処方されているようだが、汗をかいている様子はなく、妻が見に行ったときには、39度台の熱がありながら寒いと言っていたという。今日は、血液検査をしたそうで、結果は明日医師から聞くことができるらしい。異常がなく、熱が下がってくれることを願う。

■2011年11月13日(日曜日)
 今日も長男の面会へ行ったが、体温は40度に上がっていた。今日は体温の割には元気で、一緒にトランプやオセロをすることができた。病人を元気づけるために長男に勝たせてあげればいいのに、両方とも自分が勝ってしまった。
 昨日、本人が寝たくても寝られないことがわかったので、耳栓とアイマスクを購入して渡してあげた。医師から解熱剤を処方され、服用して30分くらいで汗が出始めたので、早速耳栓とアイマスクをつけて寝るように促した。これで、少しは休んでもらえたらと思う。

■2011年11月12日(土曜日)


テレビを見る長男
 午前中、長男の様子を見に行ったが、体温はあまり下がっていなかった。長男は、普段見られないテレビを思う存分見ていたようだが、目がとろんとして、覇気がなく弱々しかった。出された食事はほとんど食べられていないらしく、そういったことも影響しているのだろう。
 病室へは、中学生以上しか入ることができないため、妻が長男の病室へ行くときには、次男と三男を自分が見る必要があった。次男は、咳がかなり治まってきて、昨日医師から登園が認められたので妻が病室へ行っている間、次男と三男を連れて防大の開校祭へ行った。
 開校祭では、訓練展示が行われ、次男は張り切って、最前列へ行ったが、耳を塞いでいても大砲や爆竹の音がうるさく、その音に耐えられず、すぐに会場から離れた。三男も次男と同じように大きな音に驚くのではないかと思い、耳を塞いであげたが、大きな音を聞く前に、頭が動かせなかったことで泣来だしてしまった。小さな子供たちには、刺激が大きすぎた。
 病院へ戻り、妻と交替して病室へ行ったが、体温が39.9度に上昇していた。点滴を入れている影響、周りの音、部屋の電気がついていることなどから、なかなか寝ようにも寝られないようで、目がかなり赤くなっていた。とにかく休むことが大事だが、休める環境にない。早く部屋から出してあげたいと思った。

■2011年11月11日(金曜日)
 長男の入院が3日目に入った。病室は4人部屋で、大人の病室と比べ狭く、隣のベッドが近い。お互いカーテンをしているので、顔は見えないが声は良く聞こえる。隣のベッドが大音響でテレビを見ていたら、気が散って寝ることもできない。家で静かに寝た方が、回復は早いのではないかとも思えてくる。今日は、体温が38度台まで下がったという。熱が完全に下がったところで退院となるのだが、もう一晩寝て、体温を下げ、明日退院してくれればと思う。

■2011年11月10日(木曜日)


次男と三男
 日が変わる前には、寝るために横になったが、午前1時前に起こされて、医師から入院の説明と検査結果についての説明があった。検査結果からは、脳炎や髄膜炎の可能性は低いことがわかりホッとした。その後、また横になったが、腰痛が気になるなど、なかなか寝付けなかった。
 病院の起床は6時で、6時20分頃には看護師が部屋に入ってきて、起きるしかなかった。長男は、検査後から、前腕に針を通し生理食塩水の点滴を継続しているため、寝返りを打つこともできず、あまり寝られなかったようだった。
 朝食前には、長男の着替え等を取りに家に帰り、必要な物を病院へ届けた後出勤した。昼には、小児病棟の病室が空いたようで、子供は小児病棟へ移動した。夕方妻が小児病棟へ様子を見に行ったようだが、着替えを持って行ったにもかかわらず、服装は昨日のままだったようだ。点滴をしているので、看護師の助けがないと着替えも難しいのではないかと思うが、看護師はそんなことまで気にしてくれないようだ。子供の病室なのだから、もう少し気にかけてくれてもいいのではないかと思う。 

■2011年11月9日(水曜日)
 長男が夕方発熱し、全身けいれんを起こし、救急医療センターへ受診した。小さい頃、何度か熱性けいれんを起こしたことがあるので、また熱性けいれんかと思っていた。しかし、医師からは、熱性けいれんは1〜6歳までに起こることが多く、8歳のけいれんとなると、脳炎や髄膜炎の可能性もあると言われた。帰宅して、もう一度けいれんが起きたらすぐに救急車を呼ぶように指示されたが、支払いを待ている間に、ソファーで横になっていた長男の目が細かく左右に揺れているのに気がつき、受付を通して医師に伝えてもらったところ、すぐに入院した方が良いと言われ、救急車で、別の総合病院へ移動することとなった。
 総合病院へ移動後、小児科医の診察を受け、検査する部屋へ移動しようとしたときに、長男の目がまた細かく左右に動き、立ち上がろうとする動作もぎこちなく、医師と共に、ちょっとおかしいということを確認した。検査は、脳のCT、血液検査、背中から背骨付近に針を刺し、髄液を抜き取るということをした。髄液の採取は相当な痛みだったはずなのに、長男は、泣かずによく我慢した。
 検査が終了し、病室へ入ったのは23時30分頃だった。小児病棟に空きがなかったため大人の病棟の病室を使わせたもらうこととなり、またけいれんが起こった時にすぐにナースコールができるよう、自分が付き添うことになり、ソファーをベッドにして宿泊することとなった。

■2011年11月8日(火曜日)
 復興増税の償還期間を25年にすることで与野党が合意した。復興債の主な償還財源は所得税のとのことで、所得税の増税が25年間になる。10年間の償還期間よりは、毎月の税金の負担は軽くなるので良かったと思う。しかし、25年後までとなると、25年後は、自分は62歳。実質働いている間は、ずっと増税ということになる。この先、さらに大きな地震が起きる可能性もある。特に三浦半島では、将来大きな地震が起きることが想定されている。地震の度に増税となると、恒久的な増税になってしまうのかもしれない。生活に響かない程度の増税であることを願う。

■2011年11月7日(月曜日)
 次男が、金曜の夕方から発熱や咳を繰り返している。深夜に発熱があり、なぜか、鼻血も頻繁に出る。昨夜は、鼻血が多量に出て、布団や床が血だらけになった。発熱や咳との関係はわからないが、心配なので、今日は病院へ行ってきた。次男は、病院という言葉を聞くと、注射を思い出すらしく、「ちっくんするの?」と聞いてきた。注射はしないことを伝えると安心したようで、医師の指示に従ったとのことだった。
 夜、帰宅した際に、次男に病院はどうだったか聞いたところ、「ちっくんはしなかった」、「お口開けて、お腹をもしもしした」と話してくれた。「お腹をもしもし」という表現がなんともかわいらしい。診察結果は、マイコプラズマ肺炎の可能性があるとのことだった。マイコプラズマ肺炎と言えば、3日くらい前に皇太子夫妻の長女が罹った可能性があるとの報道があった。すぐには診断できないらしく、当分は、様子を見る必要があるらしい。咳が続く限り、大好きな幼稚園は休まなければならず、家の中でおとなしくしていなければならない次男は、ちょっとかわいそうな気がした。
 今日は、37歳の誕生日。36歳の1年は、臀部、腰、アキレス腱の痛みで日常生活も辛いじきがあり、人生で体調が最も悪かった1年だった。痛みがなく、健康で過ごせる1年にしていきたい。

■2011年11月6日(日曜日)


段ボールで遊ぶ次男
 引っ越してから1度も開けていない段ボールが4つ物置に入っていて、このままでは、ずっと開かずに、場所だけをとってしまうので、整理をした。段ボールに入っていたのは、アルバムや写真。段ボール3つは、処分でき、物置は少しすっきりした。
 結婚する前までは、まめに写真をアルバムに貼り付けていたが、結婚後は、写真が、パソコンにデータとして保存することが多くなったこともあり、まったく写真をアルバムに貼らなくなってしまった。そうはいっても、子供たちの幼稚園の写真は、データではないものがたくさんある。今のうちに整理しておかないと、今後はますます整理が大変になる。段ボールに入っていたアルバムの整理はほぼできたので、次は写真整理が課題となる。すでに長男の写真は8年分たまっている。気が重い・・・

■2011年11月5日(土曜日)


ウレタンが剥がされた競技場
 明海大学の学園祭へ行った。大学の場所がある浦安は、震災で液状化現象が起こったところとして、かなり報道されていたが、8ヶ月近くが経ち、大通りは多少波打っているようには見えたが、街の機能はかなり回復しているようだった。
 学園祭は、サークル単位で、店を出しているようで、主に食べ物を扱う店と、フリーマーケットが多かった。子供たちは、フリーマーケットに並んでいた本に夢中だった。長男はポケモン、次男はウルトラマンの本が気に入り、それぞれ100円だったので購入したところ、大喜びだった。
 大学内も、液状化の被害はかなりあったようだったが、ほとんどがきれいに修復されていた。陸上競技場も大きな被害があったようで、ウレタンを全て剥がした状態になっていた。これから張り直すことになるのだと思う。陸上競技場のオールウェザー化は億単位の金額になるので、そういった金額がすぐに出せるところが、さすが私学だと思った。

■2011年11月4日(金曜日)
 ラジオで、専門学校の関係者の方が、専門学校の就職について話をしていた。その専門学校では、高卒と既に高校を卒業している人の割合が半分を占めているとのことで、既高卒では、大卒や社会人を経験してから入学してくる学生も多く、年齢が30歳以上の生徒もある程度の割合で存在するという。専門学校は、目指す職業によって、学科がはっきりと分かれているため、志がの高低にかかわらず、総合職ではなく専門職で就職をするため、就職率は高いとのことだった。
 先週、大学を卒業する学生の品質保証に大学側が苦労しているニュースがあったが、品質保証という意味では、大学よりも専門学校の方がしっかりしている結果が就職率で示されているのかもしれない。大学も次々と目新しい学部が立ち上がり、専門学校のようになってきていると感じるのだが、専門性に特化していった方が品質保証や就職率を上げるのに適していると大学側が判断した結果とも言える。我が校は、試験が入試ではなく採用試験で、入校した時点で就職となり、卒業後も保障されている。学生に甘えが生じないよう品質保証をしっかりできるように努めたい。

■2011年11月3日(木曜日)
 横須賀市秋季記録会1500mに出場。先月の市民大会の時にペースメーカーをお願いしていたので、うちの学生3名と3分台に挑戦するつもりでいた。しかし、ペースメーカーをお願いしていた方は、エントリーはあったものの、競技時間が9時過ぎで、朝早かったためか姿はなく、自分たちで何とかするしかなくなった。そこで、全員で目標を達成するために、自分がまず先頭に立ちペースを作り、ペースが落ちたと感じた学生が、すぐに先頭に出てペースを維持するという作戦でレースに臨んだ。
 1周目は、目安となる64秒を上回る62秒で通過でき、なかなか良いペースでレースが始まった。その後も、自分は、同じリズムで走っていたつもりだったが、ペースが落ちたようで、550m付近で学生たちが自分を抜いていった。そのまま離れてしまっては、目標を達成できないので、自分は4番手で集団に必死について行った。
 2周目の通過は2分10秒だった。かなりペースダウンしたことがわかりショックだった。1000m過ぎで、3番手の学生が、1,2番手の学生たちから離れ始めたため、自分が3番手に上がり、上位の2人を追ったが、差は少しずつ広がっていった。
 3周目の通過は3分15秒くらいだったため、その時点で、今日は、タイムを出すのは厳しいと勝手に思いこみ、あきらめの走りになってしまった。しかし、残り200mくらいで、先頭集団との差はあまり開かず、がんばれば逆に追いつけるのではないかと思い始め、少しずつスピードが上げられ、どんどん差が詰まっていった。タイムは無理だが、順位は上げたいという気持ちが強くなったおかげで、最後はスピードがしっかりと上げられたが、結局追いつくことはできず3位でフィニッシュした。トップの学生は4分00秒台、2位の学生は4分01秒台、自分は4分02秒25で、誰も目標を達成できなかった。全員が残り300mを47秒程度でしか回れていないので、仕方ない結果だが、2周目のペースダウンの影響が大きかったと思う。しかし、3分台を目指していた学生が3人ともベストを更新することができたことは大きな進歩だった。
 走っている最中に、学生のペースメーカーをできるのも、自分の力を考えると今年が最後かなぁなんて思いながら走っていた。そういう弱気なところが、そのままタイムに跳ね返ってきたのだと思う。もう一度心を入れ替え、学生たちと冬季練習に取り組んでいきたい。

■2011年11月2日(水曜日)


夜の久里浜海岸
 一昨日で、パートタイムアスリートの11年目が終了した。この1年間は、昨年から引きずっている怪我との戦いだった。陸上競技を始めて、もっとも練習のできなかった年でもあった。昨年までは、800mは、練習ができていなくても、試合ではどうにか走れ、全日本実業団の標準記録も突破できていたが、今年は、ごまかしのきかない状態に追い込まれた。800mは15年間積み上げてきた全日本実業団標準記録を突破できないだけでなく、高校時代のベストすら上回れなかった。1500mは、16年間続けてきた4分切りが達成できなかった。中距離を始めて1年目くらいのレベルにまで力が落ち、とても落ち込む一方、背負っていたものがすべてなくなり、リセットされ、楽になった気分もある。アキレス腱痛は、この1ヶ月半で、劇的に回復し、腰痛に悩まされる日々が続いている。腰痛の影響で長距離練習は厳しいので、この冬は、久しぶりに、中距離の練習に専念し、学生たちと共に、来年の春先に勝負をかけたいと思う。

■2011年11月1日(火曜日)


ホウレンソウ
 太陽光発電を始めて1年が経った。1年間のデータを振り返ってみると、売電した額が、ちょうど毎月のローンの合計とほぼ一致していた。電力使用量については、一戸建てになると団地よりも多くなると言われていたが、震災の影響で、節電を心がけたためか、この1年間と、その前年の1年間との比較では、かなり使用量が減っていた。さらに日中は、太陽光発電の電気を使用し、東京電力から電気を買う必要がなかったので、電気料金はかなり削減できた。1年経って、太陽光発電は、家計にとってはプラスで、導入して正解だったことがわかりうれしくなった。



[昔のいずみ]