正岡子規と「野球」2000.8.23


【ベースボールのはじまり】
 ベースボールはイギリスで生まれたクリケットやラウンダースを母体にして、
1840年代にアメリカ東部で誕生したスポーツであるといわれている。その後、ニッカーボッカーベースボールクラブのアレキサンダー・カートライトが競技規則を定め、それを基に様々なルール改正を経て、初期の頃からプロ・スポーツとして発展を遂げた。

【日本への伝来】
 そのベースボールが日本に伝来したのは、
1873(明治6)開成学校(東京帝国大学の前身)で数学と英語の教鞭をとったアメリカ人教師のホーレス・ウイルソンが、同校の生徒に簡単なベースボールを校庭で教授したのが始まりと伝えられている。
 この頃日本で用いられたベースボールの用具は皆舶来の物ばかりで、簡単に手に入る物ではなかったようである。数も充分には揃わなかったため「日本野球史」には素手でボールをキャッチするプレイヤーなどが描かれている。
 このような中で当時の人たちはベースボール用具の研究に精を出し、革を扱うことに長けた靴職人にボールの作成を依頼したり、剣道の防具を作る店にキャッチャーマスクの作成を依頼したりと、用具をそろえるために相当苦心したようである。

【野球用語のはじまり】
 明治
20年代中頃から同30年代中頃になると、一高(現在の東京大学)がその実力を発揮し、黄金時代を築いた。これを期にベースボールは全国へと普及していったとされているが、用具と同様、ベースボールに関する用語もまた充分に日本語に訳されているわけではなかった。
 この頃に一高選手として活躍した中馬庚(ちゅうま・かのえ)はその後大学に進んだが、各試合の審判を熱心に行っていた彼はいろいろと工夫してベースボールの術語を考えた。「投手」「一塁」「二塁」「三塁」「左翼」「右翼」「中堅」「短遮」などの文字や「安全球」「三振」「死球」などの用語を編み出してその頃の校友会誌に発表した。記事の書き方も非常に面白く

「本塁をつけば捕手、面を捨てて塁上にあり、××滑走将に五間半、球は捕手の手にあり而も××は生還す、何たる美技ぞ」

「左翼手後走五間、見事に掴めば拍手万雷の如し」

 などと名文句を連ねていた。また彼は明治28年に発行された「校友会雑誌・号外」の文中で「野球」という呼び名を紹介したと言われている。このようなことから中馬庚は「ベースボール」を「野球」という日本語に訳した最初の人物とする説もある。

【正岡子規と野球】
 実はそれよりももう少し早く「野球」という言葉を用いたといわれる人物がいる。慶応三年(
1867年)、伊予松山に生まれた俳人正岡子規その人である。
 子規がベースボールに興味をもちはじめたのは明治
18年(1885年)の頃かららしい。19年の大学予備門の寄宿舎報には「赤組は正岡常規と岩岡保作氏と交互にピッチとキャッチになられ」とあるが、これが子規のベースボール熱を伝える最初の記事であるともいわれる。
 この年
9月に大学予備門の名称が改められて第一高等中学となったが、彼はその予科第二級に進んだ。
彼のベースボールに対する熱の入れようは柴田宵曲の「評伝正岡子規」(原題「子規居士」)に次のように記されている。

「学校における居士は決して勤勉な学生ではなかった。業余の時間は雑書の雑読や寄席行に費やされたのみならず、ベースボールの練習に費やされた。この新しい競技は当時の居士の興味を刺激したものとみえて、後年一橋外の高等中学寄宿舎─大学予備門は明治十九年に高等中学校と改称された─にいた頃のことを回想して、「バット一本球一個を生命の如くに思ひ居りし時なり」といっている。居士が『松蘿玉液』の中に記したベースボールの事は、野球文献の一としてしばしば引合いに出されるが、実際球を弄んだ上からいっても、居士は日本野球史の早いところに記されるべき一人であろう。」

 そんな子規がベースボールに熱中しはじめた明治20年ころの姿を伝える回想が、「筆まかせ」の「愉快」の章には次のようにおさめられている。

「十二月廿五日のことなりけん 学校の試験もめでたく終わりければ此日を期して朝八時より美土代町自由亭に於いて一々会といふ同級生の演説会を開いたり 学校の課業の気にかゝらぬ時なれば人々皆うれしがりて会する者も三十人余ありたり 扨正午に学校の寄宿舎に帰ればはやベース、ボール大会の用意最中也 余もいつになく勇みたちて身軽のこしらへにて戦場へくり出すに いとも晴れわたりたるあたゝかき日なれば 駒の足もイヤ人の足も進みがち也 此日余ハ白軍のCatcherをつとめ菊池仙湖はpitcherの役なりしが 余の方は終にまけとなれり それにも拘わらず仙湖と余とはperfectをやりしかばうれしさも一方ならず」

 この他にも子規はベースボールに寄せる思いを数多く綴っている。当時の寄宿寮新報ではベースボールについてその解説、自身のベースボール論を展開し、また明治31年には有名な九首からなる「ベースボールの歌」という短歌を残しており、これらの作品からは子規のベースボール熱を窺い知ることができる。

【子規の用いた「野球」という言葉】
 子規は明治
21年、旅先で喀血し、翌年には医師から肺病(結核)と診断された。丁度この頃は日本においてベースボールがますます盛んになってきた時期でもある。この深刻な体の異変の直後にも子規はむしろ率先して盛んに打ち興じていたといわれる。
 このような中、子規は友人、是空にあてて書いた手紙に以下のような川柳を添えている。

恋知らぬ 猫のふり也 球あそび   能球

 明治234月「筆まかせ・写真の自賛」におさめられたこの歌はボールに向かう自らの姿を、玉を相手に夢中であそんでいる猫になぞらえている。ここで気になるのが雅号のところに「能球」と記されていることである。「能球」とは子規が戯れに号したものであり、「のーぼーる」と読ませたという。幼名の「升(のぼる)」にあてたものである。
 さらに署名について面白い事実がある。明治23年3月16日の葉書で子規は自らのことを「野球」と記している。これも同じく「野球」と書いて「のぼーる」と読ませたそうだ。
 子規が用いた「野球」という言葉は雅号あるいは署名であり、決して「ベースボール」を日本語にしたものではないとされる。はたして子規は「野球」を「やきゅう」とは読まなかったのだろうか。あるいは「ベースボール」の意で「野球」という言葉を用いなかったのだろうか。真相は明らかではない。
 しかし誰よりも早く「野球」という言葉を創りだしたのは紛れもなく子規であり、その言葉のセンスとユーモアには頭が下がる。


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